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それでも、歩いてゆく  作者: 八代敬次
第1章 日常の終焉

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1:初めての地下世界

            「落ちた先の世界」




怪物の腕が振り下ろされた瞬間、結城智は、自分の判断が甘かったことを思い知った。


 横へ跳べば避けられる。そう考えていたのだ。相手の注意を自分に向けさせ、その隙に、倒れている男性を警察官が助ける。頭の中では、そこまでの動きがひと続きになっていた。


 しかし、怪物の肩が沈んだと気づいたときには、灰色の腕がすでに目の前へ迫っていた。


 速さが違う。


 人間が拳を振り下ろす動きとは、まるで違った。長い腕が肩からしなり、鋭い爪を備えた手が、予想していた位置よりもずっと低いところへ伸びてくる。


「――っ!」


 智は反射的に鋼管を持ち上げた。


 耳障りな金属音が響き、両腕に凄まじい衝撃が走る。握っていた鋼管が跳ね上がり、右手のひらが焼けるように痛んだ。


 防いだのではない。


 怪物の爪が鋼管に当たり、振り下ろされる軌道がわずかに逸れただけだった。それでも、そのわずかな差がなければ、智の頭か首はまともに切り裂かれていただろう。


 爪の先端が左肩をかすめた。


 作業着の生地が裂け、遅れて熱い痛みが走る。


「ぐっ……!」


 智は踏ん張ろうとしたが、足元には先ほど割れた窓ガラスが散乱していた。靴底が破片を踏んで滑り、身体が横へ傾く。


 右肘から舗装路に叩きつけられた。


 肺の空気が一気に押し出され、声も出ない。鋼管が手を離れ、甲高い音を立てて転がっていった。


 起き上がろうとして、右手に力が入らないことに気づいた。


 指先が痺れている。


 握ろうとしても、思うように閉じない。


 左肩からは、作業着の内側を伝って温かいものが流れていた。


 智は顔を上げた。


 怪物が、すぐそこに立っていた。


 犬を思わせる大きな顎。その奥には不揃いな歯が並び、黄色い目が倒れた智を見下ろしている。濡れた岩のような灰色の皮膚は、肩から背中にかけて盛り上がり、硬い突起が不規則に並んでいた。


 数日前、道路の陥没現場で遭遇した怪物とよく似ている。


 ただし、目の前の個体はひと回り大きく、腕も太かった。


 智は唾を飲み込もうとしたが、喉が乾ききっていた。


 視界に文字が浮かぶ。


『身体損傷を検出』


『左肩部:裂傷』


『右上肢:打撲』


『危険度:高』


「……見りゃ、分かる」


 息を絞り出すように呟いた。


 表示された情報は正確なのかもしれない。だが、痛みを和らげてくれるわけでも、怪物を遠ざけてくれるわけでもなかった。


 怪物が再び腕を持ち上げた。


 逃げなければならない。


 頭では分かっているのに、身体が追いつかない。


「伏せて!」


 男の声が飛んだ。


 続けて、銃声が二発。


 怪物の首の付け根から灰色の液体が散り、巨体がわずかにのけぞった。


 致命傷には見えなかったが、振り下ろそうとしていた腕が止まる。


「結城さん! 動けますか!」


 黒田だった。


 拳銃を構えたまま、怪物との距離を測っている。


「……なんとか!」


「こちらへ! 早く!」


 智は左手を地面につき、身体を起こした。


 肩に鋭い痛みが走る。


 思わず歯を食いしばったが、ここで倒れたままでいるわけにはいかなかった。


 怪物の向こう側では、別の警察官が、転倒した男性を抱えるようにして後退させていた。


 先ほどの飲食店にいた客ではない。


 騒ぎを見て足を止め、怪物が現れたことで逃げ遅れた通行人らしかった。


 男性は自分の足を動かしている。


 少なくとも、生きている。


 智はそれを確認し、胸の奥に張りついていたものが少しだけ緩むのを感じた。


 無茶をしたことは分かっている。


 だが、飛び出した意味がまったくなかったわけではない。


 そう思った直後、怪物が低く唸った。


「結城さん、早く!」


 黒田の声に押され、智は立ち上がった。


 ところが、怪物は銃弾を受けても倒れなかった。首を振り、肩を震わせると、何事もなかったかのように智へ向き直る。


 撃たれた場所からは灰色の液体が流れている。


 傷は確かにある。


 それでも、動きに大きな衰えは見られなかった。


 痛みを感じていないのか。


 それとも、痛みを無視できるほど興奮しているのか。


 智には分からなかった。


 怪物が踏み込む。


 智はとっさに建物の外壁へ身体を寄せた。


 長い腕が横から振り抜かれ、爪が壁面を引っかく。仕上げ材が砕け、白い粉が飛び散った。


 その光景を見た瞬間、智の頭に一つの考えが浮かんだ。


 腕が長い。


 力も強い。


 ならば、狭い場所では自由に振り回せないのではないか。


 建物の出入口付近へ誘い込めば、動きを制限できるかもしれない。


 だが、そこまで考えたところで、智は自分の判断にぞっとした。


 また、同じことをしようとしている。


 菊水の現場で、シャッターの異常を読み違えたときと同じだった。


 少し分かった気になると、その先を勝手に決めつける。


 あのときは、子どもを危険にさらしかけた。


 今回は、自分の命がかかっている。


 智は奥歯を噛んだ。


 確かめてもいないことを、当てにするな。


 まず、逃げる。


 そのために使えるものだけを使え。


 修理の仕事でも同じだった。


 故障の原因を決めつけ、確認を省けば、かえって大きな事故につながる。目の前にある事実と、自分の推測を混同してはいけない。


 智は外壁に沿って走り出した。


 左肩が痛む。


 右手は痺れたままだ。


 それでも、脚は動いた。


 背後から重い足音が迫ってくる。


 怪物が追ってきている。


 智は振り返らず、建物の角を目指した。


 そのとき、建物の奥から鈍い音が響いた。


 ――ゴン。


 腹の底にまで伝わってくるような、重い音だった。


 智は足を緩めかけた。


 あの扉だ。


 一階の階段室。


 何もなかった壁に突然現れた、灰色の扉。


 その向こうから聞こえていた音と、よく似ていた。


 だが、今は確かめている余裕などない。


「結城さん!」


 別の方向から声がした。


 高瀬美咲だった。


 防火服姿の彼女が、建物の脇からこちらへ走ってくる。


「こっちです! 道路を渡って!」


 智は頷いた。


 横断歩道の向こうには消防車が停まり、その周囲では隊員たちが一般人を遠ざけている。警察官が車両の進入を止め、規制線もさらに広げられようとしていた。


 あと十数メートル。


 そこまで行けば、少なくとも一人で怪物と向き合わずに済む。


 智は息を切らしながら走った。


 左肩の傷が動くたびに引きつり、右手の感覚は相変わらず鈍い。それでも足を止めるわけにはいかなかった。


 背後で、石を叩き割るような音が響いた。


 続いて、誰かの悲鳴。


 智は思わず振り返った。


 怪物が建物の入口付近で立ち止まっていた。


 こちらを追ってきたはずの個体が、突然、足を止めている。


 頭を傾け、建物の奥を見つめていた。


 黄色い目が、わずかに揺れる。


 まるで、何かの気配を探っているようだった。


「……なんだ?」


 智が呟いた直後、建物の内側から、ひときわ大きな衝撃音が響いた。


 ガラスが割れ、入口の奥から灰色の粉塵が吹き出す。


 怪物が一歩後ずさった。


 智は目を疑った。


 銃を向けられてもほとんど怯まなかった怪物が、明らかに何かを警戒している。


 あの扉の向こうに、さらに別の何かがいるのだろうか。


 だが、それを確かめる術はなかった。


「結城さん! 止まらないで!」


 高瀬の声が飛んだ。


 智は我に返り、再び走り出した。


 そのときだった。


 足元が揺れた。


 最初は、重い車が近くを通ったのかと思った。


 しかし、揺れは一度で収まらなかった。


 舗装路の下から、何かが押し上げてくるような感覚がある。


 智は思わず足を止めた。


 靴の先をかすめるように、細い亀裂が走った。


 それは建物の方から伸び、智の足元を通り過ぎて、道路の中央へ向かって広がっていく。


「地面が――!」


 叫び終わる前に、舗装が沈んだ。


 膝が折れ、身体が前につんのめる。


 智は咄嗟に近くの街路樹へ手を伸ばした。


 左手の指先が幹に触れる。


 しかし、掴めなかった。


 足元のアスファルトが大きく割れ、黒い隙間が口を開けた。


 冷たい空気が吹き上がる。


 智は、そのまま落ちた。


     *


 ほんの一瞬、空が見えた。


 消防車。


 建物。


 駆け寄ろうとする高瀬。


 そして、こちらへ手を伸ばす黒田の姿。


 そのすべてが、急速に遠ざかっていく。


「――くそっ!」


 落下しながら、智は必死に腕を伸ばした。


 何かに掴まろうとしたが、指先が触れるのは崩れ落ちる土砂と、冷たい石の欠片だけだった。


 左肩に激痛が走る。


 右手はまだ痺れている。


 この高さから落ちれば、ただでは済まない。


 智は反射的に《アナライズ》を使おうとした。


 だが、何を調べればいいのか分からなかった。


 周囲の壁か。


 落下している空間か。


 足元に見え始めた暗い斜面か。


 迷っている間にも、身体は落ち続ける。


 智は歯を食いしばり、視界に入った岩壁へ意識を集中させた。


 ――解析!


『対象:周辺構造』


『空間境界:検出』


『構造:不明』


『座標情報:取得不能』


 頭の奥に鋭い痛みが走った。


 続けて何かを読み取ろうとしたが、表示は不安定に揺れるばかりだった。


 肝心なことは、何一つ分からない。


「役に立たねえな……!」


 智が吐き捨てた直後、背中に衝撃が走った。


 何かにぶつかった。


 硬い岩盤ではなかった。


 崩れかけた土砂の斜面に身体が落ち、その一部が衝撃を吸収したらしい。


 それでも、息が止まるほどの衝撃だった。


 視界が暗くなる。


 身体が転がった。


 肩、背中、腰。


 何度も地面に打ちつけられながら、斜面を滑り落ちていく。


 最後に足が岩へぶつかり、ようやく止まった。


 智は動けなかった。


 口の中に砂の味が広がっている。


 耳鳴りがした。


 呼吸をしようとすると、胸の奥が痛んだ。


 どれくらい経ったのか分からない。


 十秒か。


 一分か。


 もっと長い時間だったのかもしれない。


 ただ、意識は残っていた。


 智はゆっくりと目を開いた。


 暗かった。


 しかし、真っ暗ではない。


 どこかから、淡い青白い光が差している。


 天井は見えなかった。


 頭上には、巨大な岩の裂け目のような空間が広がっている。


 智は身体を起こそうとした。


「……いってえ……」


 思わず声が漏れた。


 左肩の作業着は裂け、血が滲んでいる。


 右手のひらは赤く腫れ、指を動かすたびに鈍い痛みが走った。


 脚は動く。


 足首にも痛みはあるが、骨が折れているような感覚はない。


 運がよかった。


 それ以外に説明がつかなかった。


 智はしばらく、その場で呼吸を整えた。


 立ち上がる前に、周囲を確かめる。


 仕事中、狭い天井裏や床下へ潜ることは何度もあった。


 暗い場所で慌てて動けば、釘を踏むことも、配管に頭をぶつけることもある。


 今いる場所は、それとは比べものにならないほど危険だった。


 まず、足元。


 次に、頭上。


 それから、逃げ道。


 智は自分に言い聞かせるように、ゆっくり視線を動かした。


 足元は、細かな砂と砕けた石が混じった斜面だった。


 そこを転がり落ちてきたらしい。


 斜面の上は暗く、どこまで続いているのか分からない。


 頭上を見上げても、落ちてきた穴は見つからなかった。


 そして、正面。


 岩壁の向こうに、青白い光が揺れていた。


 光源は、壁面に広がる苔のようなものだった。


 細かな粒が無数に集まり、呼吸するように明滅している。


 智は眉をひそめた。


「……なんだ、ここ」


 声が、遠くまで響いた。


 反響が一度では終わらない。


 右から、左から、少し遅れて戻ってくる。


 かなり広い空間だ。


 智は恐る恐る立ち上がった。


 足元の砂が崩れ、膝が揺れた。


 近くの岩に手をついて身体を支える。


 その岩は、妙に滑らかだった。


 自然に割れた石とは違う。


 表面には、細い溝が規則正しく刻まれている。


 智は息を止めた。


 見覚えがあった。


 札幌の道路陥没現場で見た、灰色の石。


 材料を扱う知人に見せてもらった、模様のある金属片。


 そして、あの五階建ての建物に突然現れた扉。


 まったく同じ模様かどうかは分からない。


 だが、何かが似ている。


 智は指先を伸ばしかけ、思いとどまった。


 触れたところで、安全だとは限らない。


 まずは見る。


 必要なら、調べる。


 そう決めたはずだった。


 智は岩の表面へ意識を集中させた。


 ――解析。


『対象:岩石状構造物』


『人工構造物の可能性』


『材質:不明』


『表面加工:あり』


『製造方法:解析不能』


 智は黙って文字を見つめた。


 人工構造物。


 可能性。


 解析不能。


 どれも、断定を避けた言葉だった。


 だが、自然の洞窟に見えるこの場所に、誰かが加工したような石がある。


 それだけは分かった。


 智は壁から手を離した。


 ここが地下何メートルなのか。


 札幌の真下なのか。


 そもそも、あの道路の穴とつながっているのか。


 何一つ分からない。


 スマートフォンを取り出そうとして、智は腰のポケットに手を伸ばした。


 あった。


 画面を点ける。


 ひびは入っていない。


 時刻は表示されている。


 しかし、通信の表示は圏外だった。


「……まあ、そうだよな」


 智は乾いた笑いを漏らした。


 電話はつながらない。


 上へ戻る道も見えない。


 救助が来る保証もない。


 それでも、今すぐ歩き出す気にはなれなかった。


 どこへ向かうべきか分からないまま進めば、戻れなくなる。


 智は足元の砂に目を落とした。


 自分が滑り落ちてきた跡が残っている。


 それを見失わないよう、周囲の形を頭に入れた。


 大きな岩。


 青く光る壁。


 斜面の下にある、二つに割れた石柱のようなもの。


 目印になる。


 智はスマートフォンで周囲を撮影した。


 画面には、青白い光に照らされた岩肌が映っていた。


 写真は撮れる。


 少なくとも、今のところは。


 そのときだった。


 遠くで、小さな音がした。


 カリ。


 カリカリ。


 何かが硬いものを引っかいている。


 智は顔を上げた。


 光る苔の向こう。


 岩と岩の隙間に、暗い通路が続いている。


 音は、そこから聞こえた。


 智は息を潜めた。


 しばらくすると、音が止んだ。


 静寂。


 水滴の落ちる音さえ聞こえない。


 やがて、通路の奥で何かが動いた。


 小さな影だった。


 地面を這うように進み、青白い光の中へ姿を現す。


 智は目を細めた。


 最初は、岩の欠片が転がっているのかと思った。


 だが違った。


 それには脚があった。


 六本。


 いや、もっと多いかもしれない。


 拳ほどの大きさの黒い身体を、細い脚が支えている。


 背中は石のようにごつごつしていた。


 小さな生き物は、立ち止まって周囲を探るように触角を動かした。


 智は動かなかった。


 こちらに気づいているのか。


 分からない。


 生き物はしばらく地面を探り、砂の中から何かを拾い上げた。


 小さな白い欠片。


 それを顎のような器官で挟み、通路の奥へ引きずっていく。


 智はようやく息を吐いた。


「……虫、か?」


 その姿が通路へ消えかけたところで、智は対象を絞って《アナライズ》を使った。


『対象:未分類生物』


『体長:約九センチメートル』


『外皮:硬質』


『移動方式:多脚歩行』


『攻撃性:判定不能』


『詳細情報:解析不能』


 九センチ。


 思っていたより大きい。


 智は目を細めた。


 虫にしては大きすぎる。


 それに、背中の質感は、さっき触れた岩によく似ていた。


 生き物はそのまま通路の奥へ消えていった。


 智は追わなかった。


 小さいからといって、安全とは限らない。


 むしろ、あれが普通に歩き回っている場所なら、ほかにも何かいると考えた方がいい。


 智は壁に背を預けた。


 少し休もう。


 痛みが落ち着いたら、戻る方法を探す。


 そう考えたとき、ふと、母の声を思い出した。


 日曜日は昼前に来てね。


 父さんの物置の扉、お願いね。


 昼ご飯も作っておくから。


 何気なく交わした約束だった。


 古くなった物置の扉を直す。


 家族で昼飯を食べる。


 兄の誠も来るらしい。


 ほんの数日前まで、それが当たり前の週末の予定だった。


 智はスマートフォンの画面を見つめた。


 圏外。


 それでも、母からのメッセージは残っている。


 智は親指で画面をなぞりかけ、やめた。


 返事を書いても、届かない。


 今は、ここから出ることを考えなければならない。


「……帰らなきゃな」


 誰に聞かせるでもなく、呟いた。


 そのとき。


 遠くで、低い音が響いた。


 最初は風の音かと思った。


 だが、風ではない。


 喉の奥で唸るような、湿った音。


 智の身体が強張った。


 聞き覚えがある。


 あの怪物だ。


 犬に似た顎を持つ、灰色の人型の怪物。


 さっきまで、札幌の路上で襲いかかってきたものと、よく似た声だった。


 音は一度だけでは終わらなかった。


 少し間を置いて、別の方向からも聞こえた。


 低い唸り。


 さらに遠くから、短く応じるような声。


 智はゆっくり立ち上がった。


 背中を伝う汗が、冷たかった。


 一匹ではない。


 少なくとも、複数いる。


 しかも、どこにいるのか分からない。


 智は周囲を見回した。


 青白い苔。


 滑らかな岩壁。


 暗い通路。


 そして、頭上の見えない天井。


 札幌の街は、どこにもなかった。


 そのとき、視界の中央に、これまでとは違う表示が現れた。


『未知領域への進入を確認』


『周辺環境の識別を開始』


 智は眉をひそめた。


「……未知領域?」


 文字が一度消えた。


 次に現れた表示を見て、智は息を止めた。


『領域種別:地下迷宮』


『階層情報:取得不能』


『現在位置:特定不能』


 地下迷宮。


 テレビのニュースで何度も聞いた言葉だった。


 世界各地に現れた、正体不明の地下空間。


 階段の先に広がる、異常な場所。


 そこへ入った人間の中には、戻ってこない者もいるという。


 智はしばらく、文字を見つめていた。


 自分が今、どこにいるのか。


 その答えが、ようやく一つだけ示された。


 だが、どうやって帰ればいいのかは、何も分からない。


 遠くで、また怪物の唸り声が響いた。


 今度は、さっきより近い。


 智はスマートフォンの画面を消した。


 光が消えると、青白い苔の明滅がいっそう鮮明になった。


 その光の向こうに、暗い通路が口を開けている。


 智は痛む左肩を押さえ、ゆっくり息を吸った。


 怖くないわけがない。


 むしろ、怖くてたまらなかった。


 けれど、ここで座り込んでいても、誰かが迎えに来るとは限らない。


 帰る道を探さなければならない。


 自分の足で。


 智は壁に刻まれた模様を、もう一度だけ見た。


 そして、足元を確かめながら、最初の一歩を踏み出した。


 その先に何が待っているのか。


 まだ、何も知らなかった。




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