5:見えないステータス
「扉の向こうにいるもの」
防火戸が閉まってからも、智はしばらくその場を離れられなかった。
一階の共用廊下には、飲食店から漂う油の匂いが残っている。天井の照明はいつも通りに点灯し、エレベーターの階数表示も正常だった。つい先ほどまで、建物の設備を点検していた人間にとっては、どれも見慣れた光景である。
だが、背後の防火戸を一枚隔てた向こう側には、図面に存在しない灰色の扉がある。
しかも、その奥からは、何かが内側を叩くような音が聞こえていた。
「結城さん……」
管理会社の担当者が、携帯電話を握ったまま立っていた。四十代半ばほどの男で、先ほどまでは設備の不具合について落ち着いて説明していたのに、今は明らかに顔色が悪い。
「今の、何だったんでしょう」
「分かりません」
智は正直に答えた。
「ただ、あの扉には近づかない方がいい。それだけは確かです」
「でも、昨日までは壁だったんですよ。あそこは」
「ええ」
「私、何度も通ってますから。あんな扉、絶対にありませんでした」
担当者は自分に言い聞かせるように繰り返した。
智にも、その気持ちは分かる。
建築に関わる仕事をしていれば、図面にないものが見つかること自体は珍しくない。古い建物なら、改修の際に塞がれた開口部や、記録に残っていない配管スペースが出てくることもある。
しかし、今回はそういう話ではなかった。
ほんの数十分前まで、ただの壁だった場所に扉が現れたのである。
しかも、その扉には、道路の陥没現場や倉庫の床下で見たものと似た模様が刻まれていた。
偶然で片づけるには、共通点が多すぎた。
「まず、建物の人を外へ出しましょう」
智は言った。
「ここ、五階まで事務所が入ってましたよね」
「はい。一階に飲食店が二軒、二階から五階までは事務所です」
「各階に連絡できますか」
「できます。ただ……」
担当者は携帯電話を握り直した。
「何て説明すればいいんでしょう。壁から変な扉が出てきたなんて言っても、信じてもらえないですよね」
「建物内で異常が見つかったので、安全確認のため一時避難してください。それでいいと思います」
「原因は?」
「調査中です。今は、分からないことを無理に説明する必要はありません」
智は言葉を選びながら続けた。
「嘘をつく必要はないです。ただ、理由を詳しく説明するのに時間を使うより、先に人を出しましょう」
担当者は頷き、電話をかけ始めた。
智はその間に、防火戸の状態を確認した。
鋼板製の扉は確実に閉鎖しており、ラッチも掛かっている。蝶番や枠に目立った変形はなく、ドアクローザーにも異常は見られなかった。
通常の火災であれば、この防火戸は煙や炎の拡大を遅らせる役割を果たす。
だが、向こう側にいるものが何なのか分からない以上、この扉がどこまで役に立つかは判断できない。
智は意識を集中させた。
――この防火戸を解析する。
『対象:防火戸』
『閉鎖状態:正常』
『機械的異常:なし』
続けて、解析する範囲を枠の周辺だけに絞った。
――周囲の状態を確認。
『局所解析を開始』
『周辺構造:軽微な振動を検出』
『振動源:特定不能』
智は表示を見つめた。
振動。
それが先ほどの灰色の扉から伝わっているのか、それとも建物そのものに異常が起きているのかは分からない。
もう少し範囲を広げれば、何か分かるかもしれなかった。
しかし、智はそこで解析をやめた。
昨日、白石区の倉庫で経験した頭痛を思い出したからである。
あのときは、地下に伸びる未知の構造を詳しく調べようとして、解析負荷が限界を超えた。視界が白くなり、立っているのもつらいほどの痛みに襲われたのだ。
今ここで同じ状態になれば、避難の手伝いさえできなくなる。
必要なのは、扉の正体を突き止めることではない。
まず、建物の人間を安全な場所へ出すことだった。
「結城さん、上の階には連絡できました」
担当者が電話を切った。
「各社に避難を始めてもらっています」
「分かりました。一階の店は、俺も声をかけます」
「消防と警察にも連絡します」
「お願いします。地下のない建物に、突然、正体不明の扉が現れたことは、きちんと伝えてください」
担当者は緊張した表情で頷いた。
智は工具箱を持ち直し、共用廊下を歩き出した。
*
一階の飲食店では、遅い昼食を取っている客がまだ何人か残っていた。
最初に入ったのは、定食を中心に出している小さな店だった。
カウンターの奥では店主が鍋を動かし、客席には作業服姿の男性が二人と、年配の男性が一人座っている。
智が事情を説明すると、店主は眉をひそめた。
「火事じゃないんですよね?」
「火事ではありません。ただ、建物の設備に異常が見つかっています。安全確認が終わるまで、いったん外へ出てもらいたいんです」
「ガス漏れですか?」
「それも確認されていません。消防と警察には連絡しています」
店主は厨房を振り返った。
「じゃあ、火を止めて出ればいいんですね」
「お願いします。従業員の方も全員で」
「分かりました」
店主はすぐに調理を中断し、厨房の従業員へ声をかけた。
智は客席を見回した。
窓際の席にいた年配の男性が、杖を頼りに立ち上がろうとしている。しかし、椅子の脚に杖の先が引っかかり、うまく身体を起こせないようだった。
「ああ、ちょっと……」
智は近づいて、椅子を引いた。
「慌てなくていいですよ」
杖を拾い、男性の手へ戻す。
「外まで一緒に行きましょう」
「何だい、そんなに危ないのかい」
「危ないかどうかを、これから調べるんです」
男性は智の顔を見た。
「じゃあ、危なくないかもしれないんだな」
「そうですね」
「だったら、飯を食ってからでも……」
「それは、外に出てから考えましょう」
男性は少し不満そうな顔をしたが、やがて笑った。
「うまいこと言うねえ」
智も口元を緩めた。
無理に急がせれば、転倒するかもしれない。
かといって、のんびりしている余裕があるとも思えなかった。
智は男性の歩幅に合わせながら、店の出口へ向かった。
ガラス扉を抜けると、午後の札幌の街が広がっていた。
車が走り、信号が変わり、歩行者が横断歩道を渡っている。
何も知らなければ、普段と変わらない風景だった。
男性を店主に託したところで、智はもう一軒の飲食店へ向かった。
こちらは小さな洋食店で、店内には客が三人、厨房に従業員が二人いた。店主へ事情を説明すると、最初は困惑したものの、すぐに客へ声をかけてくれた。
智は出入口付近で避難の様子を確認した。
上階からも人が降りてきている。
スーツ姿の会社員。
作業着の男性。
資料の入った鞄を抱えた女性。
誰もが戸惑った表情をしていたが、今のところ混乱は起きていない。
そのとき、管理会社の担当者が早足で近づいてきた。
「結城さん!」
「どうしました」
「四階の会社から連絡がありまして。階段の防火戸が、また勝手に閉まったそうです」
智は眉をひそめた。
「四階も?」
「はい。三階でも同じことが起きたと」
「扉は開きますか」
「押せば開くそうです」
「なら、避難は続けてもらってください。ただ、扉を開けた先の安全を確認してから通るように。エレベーターは使わない方がいいですね」
「分かりました」
担当者はすぐに電話をかけ直した。
智は建物の奥へ視線を向けた。
地下階のない建物。
その一階の壁に現れた扉。
そして、上階で勝手に閉まる防火戸。
偶然とは思えなかった。
だが、何がどうつながっているのかは分からない。
建物全体を《解析》すれば、何か手がかりを得られるかもしれない。
そんな考えが一瞬浮かんだが、智は首を横に振った。
昨日の倉庫で、すでに自分の限界を知っている。
無理をして意識を失えば、誰の役にも立てない。
「……今は、できることだけだ」
小さく呟き、智は避難してくる人々を迎えに向かった。
*
消防車が到着したのは、それから十分ほど後だった。
続いてパトカーが二台到着し、建物の前には規制線が設けられた。歩道の一部が封鎖され、近くを通りかかった人々が足を止めて様子を窺っている。
智は管理会社の担当者と一緒に、避難した人数を確認していた。
「二階、六人。三階、四人……」
担当者が各社からの報告を見ながら数える。
「四階は?」
「七人です。全員出ています」
「五階は?」
「二人。こちらも確認できました」
智は頷いた。
一階の飲食店の従業員と客も、全員外へ出ている。
少なくとも、管理会社が把握している範囲では、建物内に人は残っていなかった。
「よかった……」
担当者が、ようやく大きく息を吐いた。
そのとき、消防車から降りてきた女性が智に気づいた。
「結城さん?」
智は顔を上げた。
「ああ、高瀬さん」
高瀬美咲だった。
先日の道路陥没現場で、避難誘導を行っていた消防隊員である。
ヘルメットの下の表情は引き締まっており、周囲の状況を確認する目に迷いはなかった。
「またお会いしましたね」
「できれば、こういう場所では会いたくなかったですけどね」
智が言うと、高瀬はわずかに口元を緩めた。
「私もです」
だが、すぐに表情を戻す。
「状況を教えてください」
智は、最初から順を追って説明した。
防火戸の点検に来たこと。
設備そのものには大きな異常が見つからなかったこと。
一階の階段室で、地下階のない建物には存在するはずのない灰色の扉を発見したこと。
扉の周囲には見慣れない石材が使われ、表面に幾何学的な模様が現れたこと。
そして、その奥から何かが叩くような音が聞こえたこと。
高瀬は途中で遮らず、最後まで聞いていた。
「扉は開けていないんですね」
「はい」
「中を覗いた人もいませんか」
「少なくとも、俺と管理会社の担当者は見ていません」
高瀬は頷いた。
「それで正解です」
智は少し肩の力を抜いた。
「そうですか」
「最近、似たような異常の通報が増えています。正体の分からない場所へ、装備もなく入るのは危険です」
高瀬は建物を見上げた。
「今回は一般の方が大勢いましたから、早めに避難を始めてもらえて助かりました」
「……ええ」
智は規制線の外に集まった人々へ目を向けた。
先ほどの飲食店の店主が、杖をついた男性に温かいお茶を渡している。
若い会社員は、携帯電話で家族に連絡していた。
誰もが不安そうだったが、少なくとも怪我をした様子はない。
今は、それで十分だと思いたかった。
高瀬は手帳を閉じ、消防隊員たちの方へ向かった。
「結城さんは、規制線の外で待機してください。必要があれば、またお話を伺います」
「分かりました」
智は頷き、指示された場所へ移動した。
消防隊は建物内部を確認するため、装備と連絡体制を整え始めていた。
その様子を見ながら、智は改めて考えた。
あの灰色の扉の向こうには、何があるのだろう。
人間が入れる場所なのか。
それとも、そもそも人間のために作られたものではないのか。
分からないことばかりだった。
だが、一つだけ確かなことがある。
あの扉は、普通の建築物ではない。
智はそう感じていた。
*
しばらくすると、黒田健吾がやってきた。
「結城さん」
「……黒田さんまで」
智は思わず苦笑した。
「今日は知ってる人がよく来ますね」
「できれば、仕事以外でお会いしたいところです」
黒田も苦笑したが、すぐに表情を戻した。
「高瀬さんから概要は聞きました。少し確認させてください」
「はい」
「扉が現れたのは、一階の階段室の突き当たりですね」
「そうです。地下へ続く階段はありません」
「建築図面にも地下階はない?」
「担当者がそう言ってます。エレベーターにも地下階の表示はありませんでした」
黒田は手帳へ書き込みながら頷いた。
「扉の材質は?」
「表面は金属みたいに見えました。ただ、枠の周りが石なんです」
「石?」
「灰色の、妙に滑らかな石です。普通の建築材料とは違う感じでした」
黒田のペンが止まった。
「……模様はありましたか」
「ありました」
智は頷いた。
「細い線が浮かび上がって、幾何学的な模様になりました」
「以前、道路の下で見たものと似ていますか」
「ええ。それと、知り合いに見せてもらった金属片にも、似たような模様がありました」
黒田は顔を上げた。
「金属片ですか?」
「はい。建築資材を扱っている知人が持ってきたもので、表面に妙な模様が刻まれていたんです」
「その金属片は、今どこに?」
「警察に届けたと聞いています。俺が預かったわけじゃないので、詳しいことまでは分かりませんが」
黒田は手帳に何かを書き込んだ。
「分かりました。確認してみます」
「何か関係があるんでしょうか」
「まだ何とも言えません。ただ、同じような模様が複数の場所で見つかっているなら、調べる必要があります」
智は頷いた。
修司が見せてくれた金属片。
白石区の倉庫の床下。
そして、この建物の壁に現れた扉。
どれも、普通の建築物とは思えないものだった。
「……あの扉も、今回だけの話じゃない気がするんですよ」
智がそう言うと、黒田は少し迷ったあと、声を落とした。
「似たような扉が、ほかの場所でも確認されています」
「札幌で?」
「道内にもあります。道外にも」
「全部、地下ですか」
「いえ。建物の壁や、岩盤の中から現れたという報告もあります」
智は建物を見上げた。
五階建ての、どこにでもある事務所ビル。
その壁の向こうに、昨日まで存在しなかった扉がある。
「……あれ、どこにつながってるんですかね」
黒田は首を横に振った。
「まだ分かりません」
そのとき、黒田の無線が鳴った。
短い報告が入る。
黒田の表情が変わった。
「……了解しました。現場を確認します」
無線を切り、智を見た。
「建物内で変化があったようです。結城さんは、ここから動かないでください」
「分かりました」
黒田は消防隊員のいる方へ向かった。
智は、その背中を見送った。
*
五分ほど経った頃だった。
建物の入口から、消防隊員たちが戻ってきた。
高瀬も一緒だった。
彼女は無線で何かを報告しながら、周囲の隊員に指示を出している。
智は少し離れた場所から声をかけた。
「高瀬さん」
高瀬が振り返った。
「結城さん。規制線の外にいてください」
「何があったんです?」
高瀬は一瞬、迷った。
だが、智が最初の発見者であることを思い出したのか、短く答えた。
「扉の周囲で、急激な温度低下が起きています」
「温度低下?」
「はい。外気温より、かなり低い」
智は、あの扉の前で感じた冷たい空気を思い出した。
「それと……」
高瀬は言葉を切った。
「扉の位置が変わっています」
「位置?」
「最初に撮影した写真と比べて、扉が壁から少し手前へ出てきています」
智は目を見開いた。
「……壁から?」
「はい」
高瀬は建物を振り返った。
「まるで、向こう側から押し出されているように」
智は何も言えなかった。
そのときだった。
ゴンッ。
低い音が、建物の奥から響いた。
外にいても、はっきり聞こえた。
周囲にいた人々が、一斉に振り返る。
続けて、もう一度。
ゴンッ。
一階の窓ガラスが、かすかに震えた。
高瀬が無線を取った。
「建物内部で衝撃音を確認。隊員は一旦、入口まで後退してください」
智は建物を見つめた。
あの音だ。
扉の向こうから聞こえていたものと、同じだった。
智は意識を集中させた。
――建物の一階、異常が起きている場所を解析する。
『対象:未知の空間接続』
『接続状態:不安定』
『周辺環境への影響:拡大傾向』
智は息を止めた。
さらに情報を得ようとしたが、表示はそこで止まった。
――生体反応は?
『対象内部:生体反応を検出』
『反応数:複数』
『詳細情報:解析不能』
複数。
智はその二文字を見つめた。
最初に扉を解析したときは、何かがいることしか分からなかった。
だが、今は違う。
扉の向こうには、複数の生き物がいる。
それが人間なのか、あの怪物なのかまでは分からない。
しかし、危険であることは十分に想像できた。
「高瀬さん!」
智は声を上げた。
高瀬が振り返る。
「中に、何かいます!」
「何ですって?」
「扉の向こうです。生き物みたいな反応が、複数あります!」
高瀬の表情が変わった。
智の能力について、詳しく知っているわけではない。
だが、彼女はその言葉を無視しなかった。
すぐに無線で報告する。
「未知の生体反応が複数存在する可能性あり。内部への接近を中止してください」
智は建物を見つめた。
その瞬間だった。
ゴゴゴッ。
低い振動が、足元を伝わってきた。
歩道の縁石が、小さく震える。
建物の一階部分から、鈍い音が響いた。
ガンッ。
何かが、内側から壁を叩いたような音だった。
智は歯を食いしばった。
道路の下。
倉庫の床。
そして、この建物。
同じような灰色の石。
同じような幾何学的な模様。
その奥には、何があるのか。
智は知りたかった。
だが、今は知ることよりも、逃げることが先だった。
「下がってください!」
高瀬が叫んだ。
消防隊員たちが、人々をさらに遠ざける。
智も近くにいた男性へ声をかけた。
「もう少し離れましょう!」
男性が頷き、歩き出す。
そのとき。
建物の一階の窓ガラスに、細い亀裂が走った。
ピシッ。
続けて、もう一本。
ピシピシッ。
智は息を止めた。
亀裂は、窓の中央から外側へ広がっていく。
まるで、内側から強い圧力が掛かっているようだった。
そして。
ガシャアンッ!
ガラスが外へ弾け飛んだ。
人々の悲鳴が上がる。
智は反射的に腕で顔を庇った。
破片が歩道へ散らばる。
幸い、規制線の内側に人はいなかった。
だが、建物の中から、灰色の粉塵が吹き出してきた。
智は目を細めた。
粉塵の向こうで、何かが動いている。
低い姿勢。
長い腕。
灰色の皮膚。
そして、暗がりの中で光る、黄色い目。
智は息を止めた。
あの怪物だ。
先日、道路の陥没現場で見たものと、よく似ている。
だが、少し違う。
肩が大きい。
腕が太い。
背中には、石のような突起が並んでいる。
怪物は、ゆっくりと建物の外へ姿を現した。
その後ろで、もう一つの影が動く。
さらに、もう一つ。
智は唇を噛んだ。
消防隊員たちが身構える。
警察官が拳銃を抜いた。
高瀬が叫ぶ。
「全員、下がって!」
智は周囲を見回した。
避難する人々。
走る警察官。
消防隊員たち。
そして、建物の入口から現れる怪物。
智は最も近い怪物へ意識を集中させた。
――あいつを解析する。
『対象:未分類生物』
『身体構造:人間型に類似』
『筋力:高』
『外皮強度:高』
『弱点候補:頸部、関節部』
『詳細情報:解析不能』
智は息を吐いた。
頸部。
関節部。
少なくとも、弱点らしいものはある。
しかし、それが実際に有効かどうかは分からない。
相手は、生きている。
しかも、人間を襲うかもしれない。
智は右手を握りしめた。
そのとき、怪物が大きく口を開いた。
鋭い歯が並んでいる。
喉の奥から、低い唸り声が響いた。
そして。
怪物が、地面を蹴った。
速い。
智は目を見開いた。
怪物は、警察官の一人へ向かって突進した。
警察官が拳銃を構える。
銃声が響いた。
パンッ!
怪物の肩から、灰色の液体が飛び散る。
だが、止まらない。
もう一発。
パンッ!
怪物の動きが、わずかに鈍った。
それでも、前へ進む。
智は歯を食いしばった。
このままでは、間に合わない。
警察官の背後には、転んだ男性がいた。
逃げ遅れたのだ。
怪物は、その男性へ視線を向けた。
智は身体が動くのを感じた。
考えるより先だった。
工具箱を地面に置き、近くにあった工事用の長い鉄パイプを掴む。
重い。
だが、持てないほどではない。
智は走った。
「こっちだ!」
叫ぶ。
怪物の黄色い目が、智へ向いた。
智は鉄パイプを両手で握りしめた。
右腕の傷跡が、かすかに疼いた気がした。
恐怖はあった。
当然だ。
四十七歳の、ただの修理屋だ。
怪物と戦う訓練など、受けたこともない。
それでも、目の前で人が襲われるのを、黙って見ていることはできなかった。
智は足を踏み込んだ。
怪物が腕を振り上げる。
鋭い爪が、午後の光を受けて鈍く光った。
智は鉄パイプを構えた。
そして、怪物の腕が振り下ろされた。




