4:見えないステータス
「見えない境界線」
その朝、札幌市営地下鉄の東西線が、一部区間で運転を見合わせた。
異常が見つかったのは、始発前に行われた設備点検の最中だったという。線路に隣接する設備区画で壁の一部が変形しているのを職員が発見し、安全確認のため、周辺区間の運行を停止する措置が取られたらしい。
智がそのニュースを知ったのは、自宅で朝食を取っているときだった。
テレビには、シャッターの下りた駅の入口が映っている。案内板の前では通勤客が足を止め、スマートフォンを確認したり、電話をかけたりしていた。いつも利用している路線が突然止まったのだから、困惑するのも無理はない。
画面の下には、赤い帯で運転見合わせの情報が流れていた。
『札幌市営地下鉄東西線 一部区間で運転見合わせ』
「……また地下か」
智は味噌汁の椀を持ったまま、テレビへ目を向けた。
ここ数日、地下に関係する異常の報道を聞かない日はない。
道路の陥没、建物の床下に生じた空洞、地下設備の変形。場所も規模も違うが、いずれも従来の地盤沈下や設備の老朽化だけでは説明しきれない部分があるらしい。
自分自身、そうした異常を何度も目にしている。
しかも、そのたびに、普通の建築材料とは思えない灰色の石材や、説明のつかない構造物が現れていた。
『札幌市交通局によりますと、異常が確認されたのは線路脇の設備区画で、現在、専門業者による調査が進められています。運転再開の見通しは立っていません』
アナウンサーの説明に合わせ、映像が切り替わった。
駅構内の通路。
黄色い規制テープ。
作業服を着た職員たちが、壁の一部を慎重に確認している。
その奥に、灰色のものが一瞬だけ映った。
智は箸を止めた。
コンクリートとは違う、鈍い色合い。表面に細い線が走っていたようにも見える。
だが、カメラはすぐに別の場所へ切り替わってしまった。
「……今の、何だ?」
もう一度見ようとしたところで、映像は駅前の混雑へ戻っている。
気のせいかもしれない。
最近は灰色の石材を見る機会が多すぎて、似たようなものまで同じに見えてしまうのだろう。
智はそう考え、残っていた味噌汁を飲み干した。
そのとき、テーブルの上で携帯電話が震えた。
母の和子からだった。
『地下鉄止まってるって。仕事で地下に入らないでね』
智は思わず笑った。
母にしてみれば、地下で何か起きているというだけで、息子の仕事まで心配になるらしい。建具屋が地下へ入る機会は確かにあるが、危険な場所へ好き好んで行くわけではない。
『分かってる。気をつけるよ』
返信すると、すぐに既読がついた。
続けて、もう一通届く。
『日曜日、誠が来るって言ってたから、お昼ご飯作って待ってるね』
智は画面を見ながら、週末の予定を思い出した。
父の正一から頼まれていた、物置の戸の修理である。建付けが悪くなっているらしく、開け閉めのたびに引っかかるという話だった。
以前から見に行く約束をしていたのに、仕事が立て込んで延び延びになっている。
今度こそ、きちんと直しておかなければならない。
『了解。昼前に行く。物置の戸も見ておくよ』
送信すると、母から笑顔の絵文字が返ってきた。
その何でもないやり取りに、智は少し肩の力が抜けるのを感じた。
世の中がどれほど騒がしくなっても、実家では父が物置の戸に文句を言い、母は昼食の献立を考え、兄の誠は家族を連れて顔を出す。
そういう日常が、まだ確かに残っている。
智は食器を流し台へ運び、仕事着に着替えた。
テレビでは、地下鉄の運転見合わせについて、引き続き詳しい情報が伝えられていた。
その音声を背中で聞きながら、智は玄関の鍵を手に取った。
今日も仕事がある。
まずは、それを片づけなければならなかった。
*
午前十時を少し過ぎた頃、智は白石区の事務所で見積書を作成していた。
パソコンの画面には、アルミサッシの交換工事に関する内訳が並んでいる。材料費、施工費、運搬費、諸経費。いつものように数量と単価を確認し、仕入先から届いた見積りと照らし合わせていた。
数字そのものは見慣れたものばかりだが、最近は納期の回答が不安定になっている。
物流の遅れに加え、各地で起きている異常の影響なのか、一部のメーカーでは部品の出荷を調整しているらしい。
昨日まで当たり前に手に入ったものが、明日も同じように届くとは限らない。
そんな状況になりつつあることを、智は仕事を通じて実感していた。
見積書の金額を確認していると、携帯電話が鳴った。
画面には、黒田健吾の名前が表示されている。
「はい、結城です」
『おはようございます。黒田です』
「おはようございます」
『突然すみません。今、お仕事中ですか』
「見積書を作ってました。少しなら大丈夫ですよ」
『ありがとうございます』
黒田の声は、いつもより硬かった。
何か新しい情報でも入ったのだろうか。
『実は、昨日お話ししたステータスの件で、少し進展がありまして』
智は電卓を置き、椅子に座り直した。
「何か分かったんですか」
『国内で、複数の人間に共通した形式の表示が確認されたそうです。まだ聞き取り段階ですが、名前、種族、レベル、身体能力、魔力、それから技能や称号といった項目が報告されています』
「俺の表示と似てますね」
『そうですね。ただ、結城さんの場合は、まだ閲覧できない項目がいくつかあるようですが』
「ああ。レベルなんかは、聞いても教えてくれません」
『その点も含めて、個人差があるようです』
黒田は一度言葉を切った。
『それで、もう一つ気になる情報がありまして』
「何でしょう」
『階位に関係すると思われる表示です』
智は机の上のメモ帳を引き寄せた。
「階位ですか」
『はい。国内外の報告で、鉄級と銅級という名称が確認されています』
「……鉄と銅?」
思わず聞き返してしまった。
鉄も銅も、智にとっては馴染みの深い材料である。
しかし、人間に付けられる等級の名前として聞くと、どうにも妙な感じがした。
『今のところ、私たちが把握しているのは、その二つだけです』
「それで、何が違うんです?」
『詳しいことは分かっていません。ただ、銅級と表示された人の方が、身体能力などの数値が高い傾向にあるそうです』
「じゃあ、銅の方が上なんですかね」
『その可能性があります。もっとも、報告数が少ないので断定はできません』
智は腕を組んだ。
「鉄より銅が上っていうのも、材料屋からすると妙な感じですね」
『そうなんですか?』
「硬さだけなら、普通は鉄の方が上でしょう。まあ、用途が違うんで、単純にどっちが優秀とも言えませんけど」
電話の向こうで、黒田が小さく笑った。
『結城さんらしい見方ですね』
「仕事柄、どうしてもそっちで考えちゃうんですよ」
智も笑ったが、すぐに気になることが浮かんだ。
「でも、黒田さん。それって、レベルとは別なんですよね?」
『今のところ、別の項目として報告されています』
「じゃあ、レベルが高ければ銅級になる、って単純な話でもないのかな」
『そこが、まだ分かっていません。レベルと階位が同じ基準で変化するのか、それとも別の条件があるのか。現時点では判断できないそうです』
「なるほど……」
智はメモ帳に二つの言葉を書き込んだ。
鉄級。
銅級。
その横へ、小さく「階位?」と付け足す。
電話で聞いただけの情報だ。確定した事実として扱うには、まだ早いだろう。
智はペンを動かしながら考えた。
レベルという数字がある。
そのほかに階位がある。
さらに、自分の表示には称号という項目まで存在している。
もし、それぞれが違う意味を持つのだとしたら、人間の何を測っているのだろう。
「……黒田さん」
『はい』
「その等級って、誰が決めてるんです?」
電話の向こうで、黒田が黙った。
しばらくして、低い声が返ってくる。
『それが、分からないんです』
智はペンを止めた。
『少なくとも、現在の行政機関が作った制度ではありません。世界各地で似たような表示が、ほぼ同じ時期に現れています。言語は違っても、内容には共通点があるようです』
「……でしょうね」
『何らかの共通した仕組みが存在する可能性は高いと考えられています。ただ、その仕組みを誰が、何のために動かしているのかについては、何も分かっていません』
智は窓の外へ目を向けた。
曇り空の下を、配送トラックが走っていく。
向かいの建物では、作業員が脚立を立て、外壁の看板を交換していた。
いつも通りの札幌だった。
だが、その街のどこかで、人間に見えない等級が付き始めている。
本人の意思とは関係なく。
誰が決めたのかも分からない基準によって。
「……妙な世の中になりましたね」
『本当に』
黒田は短く答えた。
その声には、警察官としての慎重さだけでなく、一人の人間としての戸惑いも滲んでいるようだった。
電話を切る前に、黒田が付け加えた。
『結城さん。何か新しい表示が出たら、また教えていただけますか』
「ええ。分かった範囲でよければ」
『助かります。ただし、無理に能力を使って調べようとはしないでください』
「分かってます。前に頭痛でひどい目に遭いましたから」
『そうでしたね。くれぐれもお気をつけて』
「黒田さんも」
通話が終わると、事務所にはパソコンのファンが回る小さな音だけが残った。
*
智はしばらく、メモ帳を眺めていた。
鉄級。
銅級。
たった二つの名称なのに、そこから考えられることは山ほどある。
何をすれば階位が付くのか。
どうすれば変わるのか。
レベルとの違いは何なのか。
そして、階位が付くことに、そもそもどんな意味があるのか。
智は右手を開いた。
――基本情報。
青白い板が現れる。
『個体情報』
『結城 智』
『年齢:47』
『種族:人間』
『状態:適応済』
『固有適性:解析系統』
『固有能力:解析』
『階位:未解放』
『称号:未取得』
表示内容は、昨日と変わっていなかった。
智はまず、階位の欄へ意識を向ける。
――階位って、何だ?
しばらく待ってみる。
だが、表示に変化はない。
――階位の情報を確認する。
今度は、青白い板の下に新しい文字が現れた。
『階位情報』
『階位は、個体の成長段階および所定の到達条件に応じて認定されます』
『現在の階位:未解放』
智は眉を寄せた。
成長段階。
到達条件。
言葉としては理解できるが、具体的に何をすればいいのかまでは分からない。
――鉄級になる条件は?
『現在の適応段階では開示できません』
「……やっぱり、そこは教えてくれないか」
智は苦笑した。
続いて、称号の欄へ意識を向ける。
――称号は、階位と違うのか?
少し間を置いて、表示が切り替わった。
『称号情報』
『称号は、個体の行動履歴および特定条件の達成に応じて付与されます』
『現在の称号:未取得』
智は文字を読み返した。
階位は、成長段階と到達条件。
称号は、行動履歴と特定条件。
似ているようで、説明が少し違う。
――階位が上がれば、称号も付くのか?
『階位と称号は、独立した情報項目です』
「……ほう」
ようやく、一つ分かった。
レベルと階位と称号。
少なくとも、階位と称号は別の仕組みらしい。
智はメモ帳を開き、先ほどの「鉄級」「銅級」の下へ書き足した。
階位と称号は別。
さらに、もう一行。
階位=成長段階・到達条件。称号=行動履歴・特定条件。
ただし、これも表示された説明をそのまま書き留めただけである。実際にどう違うのかは、まだ分からない。
智はもう一度、青白い板へ目を向けた。
――階位はいくつある?
『上位階位情報:閲覧条件未達成』
――その条件は?
『現在の適応段階では開示できません』
「……徹底してるな」
智は思わず笑った。
何かを教えてくれるようで、肝心なところは必ず伏せられる。
まるで、説明書の一部だけを渡され、残りのページには鍵を掛けられているようだった。
しかも、その鍵の開け方まで教えてくれない。
智は表示を消し、メモ帳の端へ最後の一行を書き込んだ。
誰が決めている?
ペン先を止め、その文字を見つめる。
もし、この仕組みが人間の成長や行動を記録しているのなら、誰かがその基準を定めたはずだ。
もちろん、人間が作ったものとは限らない。
今の世界では、そう考えなければ説明できないことが増えすぎていた。
それでも、智には引っかかるものがあった。
知らないうちに自分の情報が記録され、知らない基準で分類されていく。
しかも、その内容を本人が自由に確認できるわけではない。
「……何様なんだろうな」
小さく呟いてから、智は自分で苦笑した。
相手が誰なのかも分からないのに、文句だけは出てくる。
だが、それも無理のないことだろう。
四十七年間、自分の身体は自分のものだと思って生きてきた。
それが突然、見知らぬ仕組みに管理され始めたように感じるのだから。
智はメモ帳を閉じ、見積書の作成へ戻った。
考えても答えが出ないことは、ひとまず置いておく。
午後には現場が入っている。
仕事を片づけるには、そちらの方が先だった。
*
午後、智は中央区にある五階建ての事務所ビルへ向かった。
一階には二軒の飲食店が入り、二階から五階までは小さな会社の事務所になっている。築年数はそれなりに経っているものの、外観はよく手入れされており、特に変わったところは見当たらなかった。
依頼は、防火戸の動作不良である。
管理会社の担当者と建物の入口で合流すると、智はまず状況を確認した。
「最近、防火戸が勝手に閉まることがあるんです」
担当者は四十代半ばほどの男性で、手には設備点検の記録を挟んだバインダーを持っていた。
「勝手に?」
「はい。火災報知器は鳴っていないんですが、気がつくと閉まっていることがありまして」
「何階ですか」
「一階の階段室が一番多いですね。三階と四階でも、一度ずつ確認されています」
「なるほど」
智はメモを取りながら、建物の内部へ目を向けた。
一階の共用廊下には、飲食店から漂ってくる料理の匂いが混じっている。奥にはエレベーターと階段室があり、非常口を示す緑色の案内灯が点灯していた。
担当者に案内され、智は階段室へ入った。
問題の防火戸は、共用廊下と階段室を隔てる位置に設けられている。
通常は開放保持装置によって開いた状態を保ち、火災時には感知器などと連動して閉鎖する仕組みだった。
智は工具箱を置き、まず外観を確認した。
扉の変形はない。
蝶番にも目立った緩みは見当たらず、ドアクローザーの動きも正常だった。
次に、保持装置と連動設備を調べる。
配線の接続状態。
電源。
保持部の摩耗。
確認できる範囲では、どれも大きな異常はない。
「閉まったのは、いつ頃ですか」
「昨日は午前十一時頃と、午後三時過ぎです。ほかの日も、だいたい日中ですね」
「閉まるところを見た人は?」
「何人かいます。ただ、急に保持が外れて、普通に閉まったように見えたそうです」
「警報は鳴らなかったんですよね」
「はい。管理盤にも火災信号の記録は残っていません」
智は防火戸をもう一度動かした。
開放位置まで戻すと、保持装置が確実に作動する。
軽く力を加えても、簡単には外れない。
単純な機械的不良とは考えにくかった。
智は少し迷ったあと、扉へ意識を集中させた。
――この防火戸を解析する。
『対象:防火戸設備』
『機械的状態:正常』
『電気系統:正常』
『保持装置:作動中』
表示された内容は、目視と動作確認の結果に一致していた。
少なくとも、今この瞬間に明確な故障が起きているわけではないらしい。
だが、それならなぜ勝手に閉まるのか。
智は階段室を見回した。
コンクリートの壁。
天井の非常灯。
上階へ続く階段。
床に貼られた避難経路の案内表示。
特に変わったところはない。
それでも、何かが引っかかっていた。
以前、別の事務所ビルで、誰も触れていない扉が勝手に開いたことがある。
その建物では、地下から規則正しい音が聞こえ、床下に説明のつかない構造物が存在していた。
今回も同じだとは限らない。
しかし、ここ数日の出来事を考えると、単なる設備故障と決めつけるのは危険だった。
智はゆっくり息を吐いた。
――防火戸の周囲だけを解析する。
『局所解析を開始』
青白い線が、扉の周囲へ淡く広がった。
壁。
床。
天井。
智は解析する範囲を慎重に限定した。
昨日の倉庫で経験した頭痛を、繰り返すつもりはない。
『周辺構造:概ね正常』
『微弱な空間変動を検出』
智は目を細めた。
空間変動。
また、その言葉だった。
――発生している方向は?
『推定方向:下方』
智は足元へ視線を落とした。
この建物には、地下階がないと聞いている。
一階の階段室も、上階へ続く階段があるだけで、それより下へ降りる構造にはなっていなかった。
「この建物、地下はありませんよね」
智が尋ねると、担当者は頷いた。
「ええ。地下はありません。一階が最下階です」
「昔、地下室があったとか、そういう話も?」
「聞いたことはないですね。図面にも載っていません」
「そうですか……」
智は一度、解析の表示を消した。
下方からの空間変動。
それが何を意味するのか、今の自分には判断できない。
地盤の問題かもしれないし、最近各地で起きている異常と関係しているのかもしれない。
いずれにしても、防火戸の不具合だけを見て終わりにするのは危険だろう。
智は担当者へ向き直った。
「機械的には、今のところ大きな異常は見当たりません。ただ、周囲の建物側も確認した方がいいかもしれません」
「建物側、ですか?」
「ええ。防火戸が正常でも、周辺に何か変化があれば、影響を受けることはありますから」
担当者は少し不安そうな顔をした。
「最近、あちこちで変なことが起きてますしね……」
「そうですね。念のため、管理会社の方でも調査を考えた方がいいと思います」
智がそう答えたときだった。
階段室の奥で、何かが視界に引っかかった。
智は言葉を止めた。
一階の階段室。
上階へ向かう階段の脇。
共用廊下とは反対側にある、突き当たりの壁。
そこに、扉があった。
智は目を疑った。
先ほど、設備を確認するために階段室へ入ったとき、あの場所はただのコンクリート壁だったはずだ。
少なくとも、扉があるとは認識していない。
それなのに、今ははっきりと見えている。
灰色の扉。
周囲を縁取る、石のような枠。
そして、建物のほかの部分とは明らかに異なる、妙に整った表面。
「……あれは?」
智の声に、担当者が振り返った。
「え?」
次の瞬間、男の表情が変わった。
「……何ですか、あれ」
二人はしばらく、その場から動けなかった。
扉は、階段の先にあるわけではない。
地下へ続く階段が現れたわけでもなかった。
ただ、一階の突き当たりにあったはずの壁が、いつの間にか扉へ変わっていたのである。
しかも、その扉は建物の構造とまったく調和していなかった。
一般的な鋼製建具とは違う、鈍い灰色の表面。
金属とも石ともつかない質感。
周囲には、細い線が規則正しく刻まれている。
智は工具箱を床へ置いた。
「ここ、前から扉がありました?」
担当者は首を横に振った。
「ありません。絶対にありませんよ」
声が少し上ずっていた。
「ここは、ただの壁だったはずです。点検でも何度も通ってますから」
智は頷いた。
自分も、先ほどまではそう認識していた。
しかし、今は目の前に扉がある。
見間違いでは済まされない。
智は慎重に近づいた。
近くで見ると、扉の周囲にある灰色の石材には、見覚えのある模様が刻まれていた。
道路の陥没現場。
倉庫の床下。
修司が見せてくれた銀色の金属片。
それぞれの場所で目にした線と、どこか似ている。
完全に同じ形ではない。
だが、無関係とも思えなかった。
智は扉の前で足を止めた。
表面には、取っ手らしいものが見当たらない。
鍵穴のような小さなくぼみはあるものの、通常のシリンダー錠とは形が違っていた。
扉の厚さも、材質も、見ただけでは判断できない。
智は意識を集中させた。
――この扉を解析する。
『対象:不明』
『材質:照合不能』
『構造:既知の建築様式に該当なし』
『空間接続:異常』
智は息を止めた。
最後の一行。
空間接続。
今まで見たことのない言葉だった。
――どういう意味だ?
『対象は、通常の空間構造と一致しません』
智は眉をひそめた。
扉の向こう側が、普通の空間ではない。
そういう意味なのだろうか。
――扉の向こうは?
少し間があった。
『接続先:判定不能』
智はゆっくり息を吐いた。
分からない。
ただ、危険なものだということだけは、何となく理解できた。
担当者が、扉へ手を伸ばそうとしていた。
「待ってください」
智はすぐに声をかけた。
男の手が止まる。
「触らない方がいい」
「え?」
「何があるか分かりません」
担当者は戸惑った顔をした。
「でも、これ……」
「管理会社へ連絡してください。警察にも」
智の声は、自分で思ったより強くなっていた。
担当者は一瞬驚いたようだったが、すぐに頷いた。
「……分かりました」
携帯電話を取り出し、連絡先を探し始める。
智は扉を見つめたまま、一歩下がった。
灰色の表面。
静かな階段室。
何の音もしない。
だが、近くに立っていると、空気がわずかに冷たく感じられた。
換気設備の風とは違う。
扉の周囲から、細い冷気が流れてきているようだった。
智は足元を確かめた。
床にひび割れはない。
周囲の壁にも、目立った変形は見られなかった。
それなのに、そこだけが建物とは別の場所へつながっているような、奇妙な感覚があった。
智はもう一度、扉を見た。
――この扉は、どこにつながっている?
『接続先:判定不能』
やはり、同じ答えだった。
それ以上、無理に解析する気にはなれなかった。
今は情報を増やすことより、ここから離れる方が先だ。
智が担当者へ声をかけようとした、その瞬間だった。
カチリ。
小さな音がした。
智は動きを止めた。
扉の中央付近にある、鍵穴のようなくぼみ。
その奥で、何かが動いたようだった。
続いて、灰色の表面に細い線が浮かび上がる。
青白い解析表示ではない。
石の内側から滲むような、鈍い灰色の光だった。
線はゆっくりと広がり、互いに交差しながら幾何学的な模様を描いていく。
智は思わず目を見開いた。
その形には、見覚えがあった。
道路の下に現れた石材。
倉庫の床下に見えた構造物。
修司が持ってきた金属片。
それらに刻まれていた模様と、どこか共通するものがある。
偶然ではない。
智は、そう感じた。
だが、それが何を意味するのかまでは分からなかった。
扉の表面を見つめながら、智は再び《解析》を使おうとした。
――この模様を解析する。
『対象:未知の構造体』
『表面構造:一部検出』
『内部構造:解析不能』
智は眉をひそめた。
さらに詳しく調べようかと考えたが、昨日の頭痛を思い出し、思いとどまった。
今は無理をする場面ではない。
そのとき、表示の下に新しい一行が現れた。
『対象内部に、生体反応を検出』
智は身体を硬くした。
生体反応。
扉の向こうに、何かがいる。
その意味を理解した瞬間、背筋に冷たいものが走った。
智は無意識に、右手を握りしめた。
以前、交差点で見た怪物の姿が頭をよぎる。
灰色の皮膚。
黄色い目。
長い腕。
人間を簡単に傷つける、あの爪。
もし、あれと同じものが扉の向こうにいるのだとしたら。
ここは、あまりにも危険だった。
ゴン。
突然、低い音が響いた。
智は息を止めた。
扉の奥からだった。
続けて、もう一度。
ゴン。
まるで、向こう側から何かが叩いているような音だった。
担当者が電話を持ったまま振り返る。
「……結城さん」
声が震えていた。
「今の、何ですか」
智はすぐには答えなかった。
扉を見つめたまま、ゆっくり後ずさる。
そして、できるだけ落ち着いた声で言った。
「……ここから離れましょう」
担当者が頷いた。
智は工具箱を拾い上げ、男を先に行かせた。
二人は扉に背を向け、一階の共用廊下へ続く防火戸に向かった。
背後で、もう一度音がした。
ゴン。
今度は、先ほどより大きかった。
智は振り返らなかった。
ただ、視界の端に浮かんだ文字だけが、はっきりと見えていた。
『空間接続状態:不安定』
『接続先の開放が進行しています』
智は防火戸を押し開け、担当者とともに廊下へ出た。
背後で扉が閉まり、ラッチの掛かる乾いた音が響く。
共用廊下には、飲食店から漂う料理の匂いが残っていた。
ガラス越しには、いつもの札幌の街が見えている。
歩道を行き交う人々。
信号待ちの車。
何事もないように流れていく午後の時間。
だが、そのすぐ後ろでは。
今まで存在しなかった扉が、静かに開こうとしていた。
智は工具箱を握り直した。
管理会社への連絡を続けている担当者を見ながら、次に何をすべきか考える。
警察へ連絡する。
建物の人間を避難させる。
そして、何よりも、あの扉には近づかない。
そう決めた直後だった。
階段室の向こうから、重いものが擦れるような音が聞こえた。
ゴリ……。
智は顔を上げた。
防火戸の向こう側。
あの灰色の扉がある方向からだった。
音は、しばらく続いた。
やがて、静かになった。
智はその場で耳を澄ませた。
何も聞こえない。
だが、安心することはできなかった。
むしろ、音が止まったことの方が不気味だった。
智は担当者へ目を向けた。
「……早く、人を外へ出しましょう」
男は青ざめた顔で頷いた。
そして、携帯電話を握り直し、建物内の関係者へ連絡を取り始めた。
智は廊下の先を見た。
出口までは、そう遠くない。
しかし、その距離が今は妙に長く感じられた。
建物の中にいる人間は、まだ何も知らない。
いつも通りに仕事をし、食事を取り、午後の時間を過ごしている。
そのすぐ近くに、何がいるのかも分からない扉が現れたことなど、想像もしていないだろう。
智は一度だけ、背後の防火戸へ視線を向けた。
金属製の扉は、何事もなかったように閉まっている。
だが、その向こう側にあるものは、もう普通の建築設備ではなかった。
見えない境界線。
その言葉が、智の頭に浮かんだ。
今まで、人間が当たり前だと思っていた世界。
そして、その向こう側にある、まだ名前も知らない何か。
その二つを隔てていた境界が、少しずつ崩れ始めている。
智は工具箱を持ち直し、出口へ向かって歩き出した。
まずは、人を外へ出す。
それが、今の自分にできることだった。




