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それでも、歩いてゆく  作者: 八代敬次
第1章 日常の終焉

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18/32

3:見えないステータス

            「力を測るものさし」





翌朝、智は目覚まし時計が鳴る十五分ほど前に目を覚ました。


 窓の外はまだ薄暗く、隣家の屋根には昨夜の雨が残っている。十月も半ばを過ぎた札幌の朝は日に日に冷え込みを増しており、布団から出るには少しばかり気合いが必要な季節になっていた。


 智は枕元の時計を確かめ、もう一度眠ろうかと考えたものの、結局そのまま右手を持ち上げた。


 指の付け根には、長年の仕事で硬くなった皮膚。人差し指の爪には、昨日の作業でついた小さな傷が残っている。掌を開いても、握り込んでも、特に変わった感覚はない。


 昨日、倉庫の駐車場で新しい能力を手に入れたはずなのに、身体そのものは以前と何も変わらないようだった。


「……夢じゃないよな」


 誰に聞かせるでもなく呟き、智は意識を集中させた。


 ――《解析》。


 視界に青白い文字が現れる。


『解析《アナライズ》』


『使用可能』


 どうやら、夢ではなかったらしい。


 智は少しだけ笑い、枕元の目覚まし時計へ目を向けた。


 古い電子式の時計で、購入したのがいつだったかも覚えていない。目覚ましとしては十分に役立っているものの、最近は液晶の表示が少し薄くなっているような気もする。


 ――この時計を解析する。


『対象:電子式目覚まし時計』


『動作状態:正常』


『電源:乾電池』


『電池残量:低下傾向』


「……へえ」


 智は時計を手に取り、裏蓋を開けた。


 中には単三電池が二本。液漏れや端子の腐食は見られず、外観から残量を判断することはできない。


 試しに引き出しから新しい電池を取り出し、交換してみる。


 再び時計へ意識を向けると、今度は別の表示が現れた。


『電源状態:良好』


「なるほど。こりゃ便利だ」


 時計を元の位置へ戻し、智は思わず感心した。


 仕事で使う電動工具のバッテリーや、現場の設備に組み込まれた電源装置。そうしたものの状態が簡単に分かるのであれば、点検の手間をかなり減らせるかもしれない。


 もっとも、昨日のように無理をして頭痛を起こしていては、便利どころの話ではない。


 使いどころを考える必要がありそうだった。


 智は今度、自分の右手へ視線を落とした。


 ――自分の状態を解析する。


『対象:結城 智』


『個体情報の参照が可能です』


 続いて、見慣れた青白い板が開く。


『個体情報』


『結城 智』


『年齢:47』


『種族:人間』


『状態:適応済』


『固有適性:解析系統』


『固有能力:解析《アナライズ》』


『階位:未解放』


『称号:未取得』


 昨日までと大きな違いはない。ただ、固有能力の欄には、はっきりと《解析》の名前が記されていた。


 智は試しに文字へ指を伸ばしてみた。


 当然ながら、指先は何の抵抗もなく通り抜ける。


 目の前に板が浮かんでいるように見えても、実際にそこへ何かが存在しているわけではないらしい。


 それなのに、文字は視線を動かしても読み取れる。目を閉じれば消えるが、意識を向ければ再び現れる。


 視覚の問題なのか、それとも脳の中へ直接情報が送られているのか。


 考え始めれば疑問は尽きなかった。


「……変な世の中になったもんだ」


 智は表示を消し、布団から起き上がった。


 能力を手に入れたからといって、朝食が勝手に出来上がるわけではない。腹も減れば、洗濯物も溜まるし、仕事の予定も待っている。


 冷たい床へ足を下ろし、智は台所へ向かった。


 まずは湯を沸かし、冷蔵庫の中身を確かめる。


 世界がどれほど変わろうと、朝の支度だけは相変わらず面倒だった。


     *


 事務所へ着くと、修司から写真が届いていた。


 先日、建材店で見せられた銀色の金属片である。


 添付されていたのは三枚。表面、破断面、それから定規を添えて大きさが分かるように撮影したものだった。


 表面に刻まれた細い線は、写真で見ても妙に整っている。傷や装飾の類いには見えず、何らかの規則に従って配置されているようだった。


 続けて、短いメッセージが届いている。


『例の金属、持ち主が警察に届けた。検査してもらうらしい』


 智はひとまず安心した。


 あの破片が何なのかは分からないが、少なくとも普通の建築材料ではなさそうだった。無理に手元で調べるより、専門機関へ渡した方がいい。


『それがいい。結果が分かったら教えてくれ』


 そう返信してから、智は椅子に腰を下ろした。


 パソコンを起動し、メールを確認する。


 見積依頼が二件。


 部品の納期回答が一件。


 それから、件名に見慣れない言葉が入ったメールが一通あった。


『地下空間における建築設備の緊急点検協力について』


 差出人は、以前から取引のある設備管理会社だった。


 札幌市内で地下構造物に関する異常が相次いでいるため、建具、シャッター、防火戸などの点検に協力できる業者を探しているという。


 智は本文を読み進めながら、眉を寄せた。


 地下空間。


 異常箇所。


 避難経路。


 どれも設備管理の仕事では珍しくない言葉だが、今は以前と同じ意味には聞こえない。


 道路の下から現れた、見覚えのない灰色の石材。


 倉庫の床下に見えた、四角い構造物。


 そして、世界各地で報告されている地下の異変。


 そうした出来事を知ってしまった今では、単なる設備点検の依頼として片づけることは難しかった。


 智は電話を手に取り、担当者へ連絡した。


『結城さん、お世話になっております』


「メール見ました。地下の点検って、具体的にはどこまでやるんですか」


『今のところ、建物内の防火戸や避難経路の確認が中心です。地下の異常箇所そのものへ入っていただく予定はありません』


「それなら協力できると思います。ただ、立ち入り規制が出ている場所には入りませんよ」


『もちろんです。そこは徹底します』


「あと、現場によっては建具だけじゃなく、建物側の確認が必要になると思います。その場合は、こちらだけで判断しませんから」


『承知しています。必要に応じて、建築士や設備担当者にも入ってもらう予定です』


 智は少し安心した。


 少なくとも、何が起きているのか分からない場所へ、無理に作業員を送り込むつもりではないらしい。


「分かりました。日程が決まったら連絡ください」


『ありがとうございます。助かります』


 電話を切り、予定表へ仮の印をつける。


 仕事は増えていた。


 街のあちこちで異常が起きているというのに、修理や点検の依頼は途切れない。むしろ、今まで当たり前に使えていた設備が使えなくなることで、建具屋の出番は増えているようだった。


 智は画面を見つめながら、少しだけ笑った。


 世界が変わり始めても、壊れたものを直す人間は必要なのだ。


 そのことが、今は妙に嬉しかった。


     *


 昼前、黒田から電話が入った。


『結城さん。今、お時間ありますか』


「少しなら大丈夫ですよ」


『昨日のお話について、一つ確認したいことがありまして』


「何でしょう」


『解析のような現象についてです』


 智は椅子に座り直した。


「……何か分かったんですか」


『正式な結論ではありません。ただ、似たような証言が各地で集まり始めています』


 黒田の声は、昨日の喫茶店で話していたときよりも少し慎重だった。


『例えば、北海道内でも、目の前に数字が浮かぶと話している人がいます』


「数字?」


『ええ。本人の説明では、体力や筋力のような項目が並んでいるそうです』


 智は自分の表示を思い出した。


 身体能力、感覚能力、精神適応。


 項目の名前は似ているものの、自分の画面には具体的な数字が現れていない。


「俺のとは違いますね」


『そうですね。ただ、同じ仕組みの別の段階である可能性もあります』


「その人、何か特別なことをしたんですか」


『地下の穴に近づいた経験があるそうです。ただ、それが直接の原因かどうかは分かっていません』


「なるほど……」


 智は机の上に置いたメモ帳を引き寄せた。


 黒田の話を聞きながら、気になった言葉を書き留めていく。


『国外の事例も増えています。特に韓国では、能力を使えると主張する人々の間で、共通した表示があるという報道が出ています』


「共通した表示?」


『レベル、という言葉です』


 智はペンを止めた。


「……ゲームの?」


『そうです。私も最初は耳を疑いました』


「そりゃそうでしょうね」


『ただ、地下空間で未知の生物と遭遇したあと、表示されていた数字が変化したという証言もあるようです』


「数字が変化……」


 智の脳裏に、あの怪物の姿が浮かんだ。


 灰色の皮膚。


 犬に似た顎。


 人間より長い腕と、鋭い爪。


 銃弾を受けても簡単には倒れなかった、あの異様な生命力。


「……怪物を倒したら、レベルが上がるってことですか」


『そういう話もあります。ただし、現時点では確認が取れていません。遭遇しただけなのか、実際に戦ったのか、証言にも食い違いがあります』


「まあ、そうでしょうね」


 智は椅子の背もたれへ身体を預けた。


 ゲームなら、敵を倒して経験値を得るのは当たり前の仕組みだ。


 しかし、現実に現れた怪物を相手に、そんなことを試そうとは思えない。


 自分は一度、あの爪に引っかかれている。


 傷が治ったからといって、次も助かる保証などないのだから。


『それと、もう一つ』


 黒田が言葉を続けた。


「何でしょう」


『階位という言葉を、結城さんは以前おっしゃっていましたね』


「ああ。俺の表示には、未解放って出てます」


『海外の証言にも、似たような項目があるそうです』


 智は思わず身を乗り出した。


「本当ですか」


『はい。ただ、翻訳の違いもありますから、同じ意味で使われているのかは分かりません』


「……そうですか」


『現時点では、複数の地域で共通する仕組みが現れている可能性がある、としか言えませんね』


 智は窓の外へ目を向けた。


 事務所の前を配送トラックが通り過ぎ、近くの交差点では自転車に乗った学生が信号待ちをしている。


 見慣れた札幌の風景だった。


 それなのに、今こうして警察官と話している内容は、少し前なら冗談としか思えないものばかりである。


 人間の身体に数字が付く。


 未知の生物と戦うことで、その数字が変化する。


 さらには、階位というものまで存在するらしい。


「黒田さん」


『はい』


「これ、そのうち免許証みたいになるんですかね」


『免許証?』


「レベルとか階位とか。持ってないと仕事ができないとか、そういうの」


 電話の向こうで、黒田が少し考え込む気配がした。


『……制度として扱われる可能性は、ないとは言い切れませんね。もちろん、今の段階では何も決まっていませんが』


「嫌ですねえ」


『どうしてです?』


「俺、もう四十七ですよ。今さら新しい資格試験でも始まったら、覚えるのが大変だ」


 黒田が笑った。


『結城さんなら、案外すぐ覚えそうですけどね』


「買いかぶりすぎです。建具のことならともかく、魔法の試験なんて出されたらお手上げですよ」


『私も同じです』


 二人は少し笑った。


 だが、電話を切ったあとも、智の胸には小さな引っかかりが残っていた。


 レベル。


 階位。


 称号。


 もし本当に、そんなものが人間に与えられるのなら。


 誰が、その基準を決めるのだろう。


 そして、その数字が高い人間と低い人間では、何が違うというのか。


 智はメモ帳へ目を落とした。


 書き留めた言葉は、どれも見慣れないものばかりだった。


 それでも、これから先、嫌でも覚えなければならなくなるのかもしれない。


     *


 午後、智は白石区の小さな工場へ向かった。


 依頼は、搬入口のスチールドアが閉まりにくいというものだった。


 工場の中では金属加工の機械が規則正しい音を立てており、切削油と鉄粉の匂いが漂っている。作業台には加工途中の部品が並び、奥では数人の従業員が黙々と仕事を続けていた。


 案内してくれたのは、四十代ほどの作業主任だった。


「最近、ここのドアが急に重くなりましてね」


 男がドアを押すと、途中で動きが鈍くなり、戸先が枠へ擦れる音が聞こえた。


 智はまず蝶番を確認した。


 ビスに目立った緩みはない。取付部にも大きな損傷は見当たらず、枠の歪みも目視では判断できない程度だった。


 ドアを何度かゆっくり動かし、抵抗が生じる位置を確かめる。


 どうやら、戸先側の下部が枠に接触しているらしい。


 智は一度手を止めた。


 昨日なら、ここで迷わず広い範囲を解析していたかもしれない。


 しかし、あの頭痛を経験した今では、無理に情報を増やすことが正しいとは思えなかった。


 まず、自分の目で確かめる。


 必要なところだけを調べる。


 そう決めてから、智は意識を集中させた。


 ――このドアの、接触している部分を解析する。


『対象:鋼製建具』


『開閉抵抗:増加』


『原因候補:戸先側の接触』


 表示は、自分の見立てと一致していた。


 智はさらに、範囲を絞って問いかける。


 ――ドア枠の周囲だけ、もう少し詳しく。


『局所解析を開始』


 淡い青白い線が、枠の輪郭に沿って現れる。


 昨日のように視界全体へ広がることはなく、調べたい部分だけをなぞるように表示が重なった。


『取付部の変位:軽微』


『戸先側下部に接触』


『推奨:建具調整』


 智はゆっくり息を吐いた。


 頭痛はない。


 視界も安定している。


 どうやら、解析する範囲を限定すれば、身体への負担を抑えられるらしい。


「……なるほど」


 作業主任が覗き込んだ。


「何か分かりました?」


「ああ。枠そのものは大きく動いていないようです。建具側の調整で直せそうですね」


「それなら助かります」


「ただ、実際に動かして確認しながら調整します。少し時間をください」


「ええ、お願いします」


 智は工具箱を開き、必要な工具を取り出した。


 蝶番の位置をわずかに調整し、ドアをゆっくり閉めてみる。


 まだ少し擦れる。


 もう一度、隙間を確認する。


 今度は戸先側の位置を細かく調整し、開閉を繰り返した。


 やがて、ドアは抵抗なく動くようになった。


「おお、軽くなった」


 作業主任が嬉しそうに声を上げた。


「助かりました。これ、毎回押し込むのが大変だったんですよ」


「しばらく様子を見てください。もしまた擦れるようなら、枠の方も詳しく調べた方がいいかもしれません」


「分かりました」


 智は最後にもう一度、ドアを開閉した。


 錠の掛かり具合も問題ない。


 これなら、ひとまず安心して使ってもらえそうだった。


 工具を片づけながら、智は先ほどの解析を思い返した。


 広い範囲を無理に調べたときは、頭の奥を突かれるような痛みに襲われた。


 しかし、今回は何も起きていない。


 必要な部分だけを、必要な深さで調べる。


 それが、この能力の使い方なのかもしれなかった。


 智は作業主任へ背を向け、工具箱の留め具を閉めた。


 そのあと、試しに自分の解析能力の状態を確認してみる。


 ――《解析》の使用状態を確認。


『解析《アナライズ》』


『使用負荷:軽微』


『局所解析の安定性が向上しました』


 智は目を細めた。


 やはり、そういうことらしい。


 仕事で使う工具も同じだった。


 大きな力をかければいいわけではない。


 適切な場所へ、適切な力を加える。


 それを間違えれば、工具も材料も傷めてしまう。


「……使い方ってのは、あるもんだな」


 智は小さく笑った。


 新しい能力だからといって、何もかもが未知というわけではないのかもしれない。


 長年の仕事で身につけた感覚が、意外なところで役に立ちそうだった。


     *


 工場を出ると、空は夕方の色に変わり始めていた。


 智は車に乗り込み、エンジンをかける前に携帯電話を確認した。


 画面には、ニュース速報が届いている。


『国内で初めて、能力保有者の共通項目を確認か』


 智は記事を開いた。


 大学の研究グループが、複数の能力保有者を対象に聞き取り調査を行ったという。


 報告された内容には、いくつかの共通点があった。


 名前。


 種族。


 身体能力。


 魔力。


 技能。


 そして、レベル。


 研究者たちは、こうした表示を便宜的に「ステータス表示」と呼び始めているらしい。


 智は画面を見つめた。


 ステータス。


 やはり、ゲームを連想させる言葉だった。


 しかし、今や研究者までその言葉を使い始めている。


 少し前なら笑い話で済んだものが、現実の調査対象になっているのだ。


 記事の最後には、こんな一文があった。


『能力の発現条件や数値の意味は不明であり、現時点で個人の優劣を判断する指標として用いるべきではない』


 智は、その文章をもう一度読んだ。


 個人の優劣。


 そんな問題が、もう出始めているのか。


 窓の外では、工場の従業員たちが仕事を終え、駐車場へ向かって歩いている。


 年配の男性。


 若い女性。


 外国人らしい作業員。


 皆、それぞれの生活を持ち、仕事を終えたあとの時間へ戻っていくところだった。


 もし、その一人ひとりに数字が付いたら。


 数字が高い者と、低い者。


 能力がある者と、ない者。


 人間は、そんなもので簡単に分けられてしまうのだろうか。


 智は携帯電話を置き、しばらく考え込んだ。


 仕事の世界にも、資格や経験年数、技術の差はある。


 それ自体が悪いわけではない。


 危険な作業を任せるなら、相応の知識と技術を持つ人間でなければ困る。現場では、できることとできないことを正しく判断する必要があるからだ。


 だが、それは人間そのものの値打ちとは違う。


 資格を持っていなくても、丁寧に仕事をする人間はいる。


 腕がよくても、約束を守らない人間だっている。


 数字で測れるものと、測れないもの。


 その区別まで失われてしまうとしたら、ずいぶん窮屈な世の中になるだろう。


 智は右手を開き、基本情報を呼び出した。


『個体情報』


『結城 智』


『年齢:47』


『種族:人間』


『状態:適応済』


『固有適性:解析系統』


『固有能力:解析《アナライズ》』


『階位:未解放』


『称号:未取得』


 相変わらず、階位は未解放。


 称号も未取得のままである。


 智は少し考え、別の項目を呼び出そうとした。


 ――レベル情報。


 しばらく待ってみる。


 しかし、表示に変化はなかった。


 ――レベルを確認する。


 今度は、青白い板の下に小さな文字が現れた。


『レベル情報へのアクセス権限がありません』


「……アクセス権限?」


 智は眉をひそめた。


 まるで、誰かが管理している情報へ接続しようとして、拒否されたかのような言い回しだった。


 ――どうすれば見られる?


『現在の適応段階では開示できません』


 また、それだ。


「……融通が利かんな」


 智は小さくため息をついた。


 何かを尋ねるたびに、適応段階が足りないと言われる。


 こちらとしては、その適応段階をどうすれば上げられるのか知りたいのだが、肝心なところは教えてくれない。


 もっとも、昨日まで存在すら知らなかった仕組みに、文句を言っても仕方がない。


 そう考えて表示を閉じようとしたとき、青白い板の下に細い線が一本現れた。


 智は手を止めた。


 線はゆっくりと伸び、その先に小さな文字が浮かび上がる。


『階位情報の解放準備中』


『称号付与機構:待機状態』


 智はしばらく、その文字を見つめていた。


 階位。


 称号。


 レベルとは別に、そうした仕組みも存在するらしい。


 しかし、それぞれが何を意味し、どんな条件で変化するのかは分からない。


 称号付与という言葉にも、妙な引っかかりがあった。


 何かの基準で、人間に名前を与える。


 その基準は、誰が決めるのだろう。


 何をすれば、評価されるのだろう。


 そして、その評価にどんな意味があるのか。


 智は窓の外へ目を向けた。


 夕暮れの工場。


 帰宅する人々。


 いつも通りの札幌。


 その風景の向こう側で、目に見えないものさしが、少しずつ形を持ち始めている。


 智は表示を消し、ハンドルを握った。


「……人間の値打ちまで、決められちゃたまらんな」


 独り言に答える者はいない。


 ただ、今まで何度も見てきた青白い文字のことを思うと、何となく落ち着かなかった。


 あの仕組みは、人間の身体を調べ、経験を記録し、何らかの条件で能力を与える。


 それなら、行動や考え方まで記録していても不思議ではない。


 そう考えたところで、智は首を横に振った。


 分からないことを、いくら考えても仕方がない。


 今の自分にできるのは、目の前の仕事をきちんとこなし、分かったことを一つずつ確かめていくことだけだ。


 智はエンジンをかけ、ゆっくり車を発進させた。


 夕暮れの道路には、帰宅を急ぐ車が増え始めている。


 信号待ちの列に加わりながら、智はふと、今日修理したドアのことを思い出した。


 開きにくかった扉が、軽く動くようになった。


 依頼主は喜んでくれた。


 それだけのことだ。


 けれど、今の智には、その当たり前の出来事が、何より確かなものに思えた。


 数字が何を示そうと、階位がどう変わろうと、自分の仕事の価値まで決められるわけではない。


 少なくとも、そうであってほしかった。


 車は夕暮れの札幌を走っていく。


 その間にも、智の知らないところでは、彼自身の行動に関する記録が少しずつ積み重ねられていた。


『判断傾向を記録しました』


 その文字が智の視界に現れることはなかった。


 ただ、何らかの仕組みが、彼の選択を記録している。


 何のために。


 どこへ向かって。


 その答えは、まだ示されていなかった。







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