3:見えないステータス
「力を測るものさし」
翌朝、智は目覚まし時計が鳴る十五分ほど前に目を覚ました。
窓の外はまだ薄暗く、隣家の屋根には昨夜の雨が残っている。十月も半ばを過ぎた札幌の朝は日に日に冷え込みを増しており、布団から出るには少しばかり気合いが必要な季節になっていた。
智は枕元の時計を確かめ、もう一度眠ろうかと考えたものの、結局そのまま右手を持ち上げた。
指の付け根には、長年の仕事で硬くなった皮膚。人差し指の爪には、昨日の作業でついた小さな傷が残っている。掌を開いても、握り込んでも、特に変わった感覚はない。
昨日、倉庫の駐車場で新しい能力を手に入れたはずなのに、身体そのものは以前と何も変わらないようだった。
「……夢じゃないよな」
誰に聞かせるでもなく呟き、智は意識を集中させた。
――《解析》。
視界に青白い文字が現れる。
『解析』
『使用可能』
どうやら、夢ではなかったらしい。
智は少しだけ笑い、枕元の目覚まし時計へ目を向けた。
古い電子式の時計で、購入したのがいつだったかも覚えていない。目覚ましとしては十分に役立っているものの、最近は液晶の表示が少し薄くなっているような気もする。
――この時計を解析する。
『対象:電子式目覚まし時計』
『動作状態:正常』
『電源:乾電池』
『電池残量:低下傾向』
「……へえ」
智は時計を手に取り、裏蓋を開けた。
中には単三電池が二本。液漏れや端子の腐食は見られず、外観から残量を判断することはできない。
試しに引き出しから新しい電池を取り出し、交換してみる。
再び時計へ意識を向けると、今度は別の表示が現れた。
『電源状態:良好』
「なるほど。こりゃ便利だ」
時計を元の位置へ戻し、智は思わず感心した。
仕事で使う電動工具のバッテリーや、現場の設備に組み込まれた電源装置。そうしたものの状態が簡単に分かるのであれば、点検の手間をかなり減らせるかもしれない。
もっとも、昨日のように無理をして頭痛を起こしていては、便利どころの話ではない。
使いどころを考える必要がありそうだった。
智は今度、自分の右手へ視線を落とした。
――自分の状態を解析する。
『対象:結城 智』
『個体情報の参照が可能です』
続いて、見慣れた青白い板が開く。
『個体情報』
『結城 智』
『年齢:47』
『種族:人間』
『状態:適応済』
『固有適性:解析系統』
『固有能力:解析』
『階位:未解放』
『称号:未取得』
昨日までと大きな違いはない。ただ、固有能力の欄には、はっきりと《解析》の名前が記されていた。
智は試しに文字へ指を伸ばしてみた。
当然ながら、指先は何の抵抗もなく通り抜ける。
目の前に板が浮かんでいるように見えても、実際にそこへ何かが存在しているわけではないらしい。
それなのに、文字は視線を動かしても読み取れる。目を閉じれば消えるが、意識を向ければ再び現れる。
視覚の問題なのか、それとも脳の中へ直接情報が送られているのか。
考え始めれば疑問は尽きなかった。
「……変な世の中になったもんだ」
智は表示を消し、布団から起き上がった。
能力を手に入れたからといって、朝食が勝手に出来上がるわけではない。腹も減れば、洗濯物も溜まるし、仕事の予定も待っている。
冷たい床へ足を下ろし、智は台所へ向かった。
まずは湯を沸かし、冷蔵庫の中身を確かめる。
世界がどれほど変わろうと、朝の支度だけは相変わらず面倒だった。
*
事務所へ着くと、修司から写真が届いていた。
先日、建材店で見せられた銀色の金属片である。
添付されていたのは三枚。表面、破断面、それから定規を添えて大きさが分かるように撮影したものだった。
表面に刻まれた細い線は、写真で見ても妙に整っている。傷や装飾の類いには見えず、何らかの規則に従って配置されているようだった。
続けて、短いメッセージが届いている。
『例の金属、持ち主が警察に届けた。検査してもらうらしい』
智はひとまず安心した。
あの破片が何なのかは分からないが、少なくとも普通の建築材料ではなさそうだった。無理に手元で調べるより、専門機関へ渡した方がいい。
『それがいい。結果が分かったら教えてくれ』
そう返信してから、智は椅子に腰を下ろした。
パソコンを起動し、メールを確認する。
見積依頼が二件。
部品の納期回答が一件。
それから、件名に見慣れない言葉が入ったメールが一通あった。
『地下空間における建築設備の緊急点検協力について』
差出人は、以前から取引のある設備管理会社だった。
札幌市内で地下構造物に関する異常が相次いでいるため、建具、シャッター、防火戸などの点検に協力できる業者を探しているという。
智は本文を読み進めながら、眉を寄せた。
地下空間。
異常箇所。
避難経路。
どれも設備管理の仕事では珍しくない言葉だが、今は以前と同じ意味には聞こえない。
道路の下から現れた、見覚えのない灰色の石材。
倉庫の床下に見えた、四角い構造物。
そして、世界各地で報告されている地下の異変。
そうした出来事を知ってしまった今では、単なる設備点検の依頼として片づけることは難しかった。
智は電話を手に取り、担当者へ連絡した。
『結城さん、お世話になっております』
「メール見ました。地下の点検って、具体的にはどこまでやるんですか」
『今のところ、建物内の防火戸や避難経路の確認が中心です。地下の異常箇所そのものへ入っていただく予定はありません』
「それなら協力できると思います。ただ、立ち入り規制が出ている場所には入りませんよ」
『もちろんです。そこは徹底します』
「あと、現場によっては建具だけじゃなく、建物側の確認が必要になると思います。その場合は、こちらだけで判断しませんから」
『承知しています。必要に応じて、建築士や設備担当者にも入ってもらう予定です』
智は少し安心した。
少なくとも、何が起きているのか分からない場所へ、無理に作業員を送り込むつもりではないらしい。
「分かりました。日程が決まったら連絡ください」
『ありがとうございます。助かります』
電話を切り、予定表へ仮の印をつける。
仕事は増えていた。
街のあちこちで異常が起きているというのに、修理や点検の依頼は途切れない。むしろ、今まで当たり前に使えていた設備が使えなくなることで、建具屋の出番は増えているようだった。
智は画面を見つめながら、少しだけ笑った。
世界が変わり始めても、壊れたものを直す人間は必要なのだ。
そのことが、今は妙に嬉しかった。
*
昼前、黒田から電話が入った。
『結城さん。今、お時間ありますか』
「少しなら大丈夫ですよ」
『昨日のお話について、一つ確認したいことがありまして』
「何でしょう」
『解析のような現象についてです』
智は椅子に座り直した。
「……何か分かったんですか」
『正式な結論ではありません。ただ、似たような証言が各地で集まり始めています』
黒田の声は、昨日の喫茶店で話していたときよりも少し慎重だった。
『例えば、北海道内でも、目の前に数字が浮かぶと話している人がいます』
「数字?」
『ええ。本人の説明では、体力や筋力のような項目が並んでいるそうです』
智は自分の表示を思い出した。
身体能力、感覚能力、精神適応。
項目の名前は似ているものの、自分の画面には具体的な数字が現れていない。
「俺のとは違いますね」
『そうですね。ただ、同じ仕組みの別の段階である可能性もあります』
「その人、何か特別なことをしたんですか」
『地下の穴に近づいた経験があるそうです。ただ、それが直接の原因かどうかは分かっていません』
「なるほど……」
智は机の上に置いたメモ帳を引き寄せた。
黒田の話を聞きながら、気になった言葉を書き留めていく。
『国外の事例も増えています。特に韓国では、能力を使えると主張する人々の間で、共通した表示があるという報道が出ています』
「共通した表示?」
『レベル、という言葉です』
智はペンを止めた。
「……ゲームの?」
『そうです。私も最初は耳を疑いました』
「そりゃそうでしょうね」
『ただ、地下空間で未知の生物と遭遇したあと、表示されていた数字が変化したという証言もあるようです』
「数字が変化……」
智の脳裏に、あの怪物の姿が浮かんだ。
灰色の皮膚。
犬に似た顎。
人間より長い腕と、鋭い爪。
銃弾を受けても簡単には倒れなかった、あの異様な生命力。
「……怪物を倒したら、レベルが上がるってことですか」
『そういう話もあります。ただし、現時点では確認が取れていません。遭遇しただけなのか、実際に戦ったのか、証言にも食い違いがあります』
「まあ、そうでしょうね」
智は椅子の背もたれへ身体を預けた。
ゲームなら、敵を倒して経験値を得るのは当たり前の仕組みだ。
しかし、現実に現れた怪物を相手に、そんなことを試そうとは思えない。
自分は一度、あの爪に引っかかれている。
傷が治ったからといって、次も助かる保証などないのだから。
『それと、もう一つ』
黒田が言葉を続けた。
「何でしょう」
『階位という言葉を、結城さんは以前おっしゃっていましたね』
「ああ。俺の表示には、未解放って出てます」
『海外の証言にも、似たような項目があるそうです』
智は思わず身を乗り出した。
「本当ですか」
『はい。ただ、翻訳の違いもありますから、同じ意味で使われているのかは分かりません』
「……そうですか」
『現時点では、複数の地域で共通する仕組みが現れている可能性がある、としか言えませんね』
智は窓の外へ目を向けた。
事務所の前を配送トラックが通り過ぎ、近くの交差点では自転車に乗った学生が信号待ちをしている。
見慣れた札幌の風景だった。
それなのに、今こうして警察官と話している内容は、少し前なら冗談としか思えないものばかりである。
人間の身体に数字が付く。
未知の生物と戦うことで、その数字が変化する。
さらには、階位というものまで存在するらしい。
「黒田さん」
『はい』
「これ、そのうち免許証みたいになるんですかね」
『免許証?』
「レベルとか階位とか。持ってないと仕事ができないとか、そういうの」
電話の向こうで、黒田が少し考え込む気配がした。
『……制度として扱われる可能性は、ないとは言い切れませんね。もちろん、今の段階では何も決まっていませんが』
「嫌ですねえ」
『どうしてです?』
「俺、もう四十七ですよ。今さら新しい資格試験でも始まったら、覚えるのが大変だ」
黒田が笑った。
『結城さんなら、案外すぐ覚えそうですけどね』
「買いかぶりすぎです。建具のことならともかく、魔法の試験なんて出されたらお手上げですよ」
『私も同じです』
二人は少し笑った。
だが、電話を切ったあとも、智の胸には小さな引っかかりが残っていた。
レベル。
階位。
称号。
もし本当に、そんなものが人間に与えられるのなら。
誰が、その基準を決めるのだろう。
そして、その数字が高い人間と低い人間では、何が違うというのか。
智はメモ帳へ目を落とした。
書き留めた言葉は、どれも見慣れないものばかりだった。
それでも、これから先、嫌でも覚えなければならなくなるのかもしれない。
*
午後、智は白石区の小さな工場へ向かった。
依頼は、搬入口のスチールドアが閉まりにくいというものだった。
工場の中では金属加工の機械が規則正しい音を立てており、切削油と鉄粉の匂いが漂っている。作業台には加工途中の部品が並び、奥では数人の従業員が黙々と仕事を続けていた。
案内してくれたのは、四十代ほどの作業主任だった。
「最近、ここのドアが急に重くなりましてね」
男がドアを押すと、途中で動きが鈍くなり、戸先が枠へ擦れる音が聞こえた。
智はまず蝶番を確認した。
ビスに目立った緩みはない。取付部にも大きな損傷は見当たらず、枠の歪みも目視では判断できない程度だった。
ドアを何度かゆっくり動かし、抵抗が生じる位置を確かめる。
どうやら、戸先側の下部が枠に接触しているらしい。
智は一度手を止めた。
昨日なら、ここで迷わず広い範囲を解析していたかもしれない。
しかし、あの頭痛を経験した今では、無理に情報を増やすことが正しいとは思えなかった。
まず、自分の目で確かめる。
必要なところだけを調べる。
そう決めてから、智は意識を集中させた。
――このドアの、接触している部分を解析する。
『対象:鋼製建具』
『開閉抵抗:増加』
『原因候補:戸先側の接触』
表示は、自分の見立てと一致していた。
智はさらに、範囲を絞って問いかける。
――ドア枠の周囲だけ、もう少し詳しく。
『局所解析を開始』
淡い青白い線が、枠の輪郭に沿って現れる。
昨日のように視界全体へ広がることはなく、調べたい部分だけをなぞるように表示が重なった。
『取付部の変位:軽微』
『戸先側下部に接触』
『推奨:建具調整』
智はゆっくり息を吐いた。
頭痛はない。
視界も安定している。
どうやら、解析する範囲を限定すれば、身体への負担を抑えられるらしい。
「……なるほど」
作業主任が覗き込んだ。
「何か分かりました?」
「ああ。枠そのものは大きく動いていないようです。建具側の調整で直せそうですね」
「それなら助かります」
「ただ、実際に動かして確認しながら調整します。少し時間をください」
「ええ、お願いします」
智は工具箱を開き、必要な工具を取り出した。
蝶番の位置をわずかに調整し、ドアをゆっくり閉めてみる。
まだ少し擦れる。
もう一度、隙間を確認する。
今度は戸先側の位置を細かく調整し、開閉を繰り返した。
やがて、ドアは抵抗なく動くようになった。
「おお、軽くなった」
作業主任が嬉しそうに声を上げた。
「助かりました。これ、毎回押し込むのが大変だったんですよ」
「しばらく様子を見てください。もしまた擦れるようなら、枠の方も詳しく調べた方がいいかもしれません」
「分かりました」
智は最後にもう一度、ドアを開閉した。
錠の掛かり具合も問題ない。
これなら、ひとまず安心して使ってもらえそうだった。
工具を片づけながら、智は先ほどの解析を思い返した。
広い範囲を無理に調べたときは、頭の奥を突かれるような痛みに襲われた。
しかし、今回は何も起きていない。
必要な部分だけを、必要な深さで調べる。
それが、この能力の使い方なのかもしれなかった。
智は作業主任へ背を向け、工具箱の留め具を閉めた。
そのあと、試しに自分の解析能力の状態を確認してみる。
――《解析》の使用状態を確認。
『解析』
『使用負荷:軽微』
『局所解析の安定性が向上しました』
智は目を細めた。
やはり、そういうことらしい。
仕事で使う工具も同じだった。
大きな力をかければいいわけではない。
適切な場所へ、適切な力を加える。
それを間違えれば、工具も材料も傷めてしまう。
「……使い方ってのは、あるもんだな」
智は小さく笑った。
新しい能力だからといって、何もかもが未知というわけではないのかもしれない。
長年の仕事で身につけた感覚が、意外なところで役に立ちそうだった。
*
工場を出ると、空は夕方の色に変わり始めていた。
智は車に乗り込み、エンジンをかける前に携帯電話を確認した。
画面には、ニュース速報が届いている。
『国内で初めて、能力保有者の共通項目を確認か』
智は記事を開いた。
大学の研究グループが、複数の能力保有者を対象に聞き取り調査を行ったという。
報告された内容には、いくつかの共通点があった。
名前。
種族。
身体能力。
魔力。
技能。
そして、レベル。
研究者たちは、こうした表示を便宜的に「ステータス表示」と呼び始めているらしい。
智は画面を見つめた。
ステータス。
やはり、ゲームを連想させる言葉だった。
しかし、今や研究者までその言葉を使い始めている。
少し前なら笑い話で済んだものが、現実の調査対象になっているのだ。
記事の最後には、こんな一文があった。
『能力の発現条件や数値の意味は不明であり、現時点で個人の優劣を判断する指標として用いるべきではない』
智は、その文章をもう一度読んだ。
個人の優劣。
そんな問題が、もう出始めているのか。
窓の外では、工場の従業員たちが仕事を終え、駐車場へ向かって歩いている。
年配の男性。
若い女性。
外国人らしい作業員。
皆、それぞれの生活を持ち、仕事を終えたあとの時間へ戻っていくところだった。
もし、その一人ひとりに数字が付いたら。
数字が高い者と、低い者。
能力がある者と、ない者。
人間は、そんなもので簡単に分けられてしまうのだろうか。
智は携帯電話を置き、しばらく考え込んだ。
仕事の世界にも、資格や経験年数、技術の差はある。
それ自体が悪いわけではない。
危険な作業を任せるなら、相応の知識と技術を持つ人間でなければ困る。現場では、できることとできないことを正しく判断する必要があるからだ。
だが、それは人間そのものの値打ちとは違う。
資格を持っていなくても、丁寧に仕事をする人間はいる。
腕がよくても、約束を守らない人間だっている。
数字で測れるものと、測れないもの。
その区別まで失われてしまうとしたら、ずいぶん窮屈な世の中になるだろう。
智は右手を開き、基本情報を呼び出した。
『個体情報』
『結城 智』
『年齢:47』
『種族:人間』
『状態:適応済』
『固有適性:解析系統』
『固有能力:解析』
『階位:未解放』
『称号:未取得』
相変わらず、階位は未解放。
称号も未取得のままである。
智は少し考え、別の項目を呼び出そうとした。
――レベル情報。
しばらく待ってみる。
しかし、表示に変化はなかった。
――レベルを確認する。
今度は、青白い板の下に小さな文字が現れた。
『レベル情報へのアクセス権限がありません』
「……アクセス権限?」
智は眉をひそめた。
まるで、誰かが管理している情報へ接続しようとして、拒否されたかのような言い回しだった。
――どうすれば見られる?
『現在の適応段階では開示できません』
また、それだ。
「……融通が利かんな」
智は小さくため息をついた。
何かを尋ねるたびに、適応段階が足りないと言われる。
こちらとしては、その適応段階をどうすれば上げられるのか知りたいのだが、肝心なところは教えてくれない。
もっとも、昨日まで存在すら知らなかった仕組みに、文句を言っても仕方がない。
そう考えて表示を閉じようとしたとき、青白い板の下に細い線が一本現れた。
智は手を止めた。
線はゆっくりと伸び、その先に小さな文字が浮かび上がる。
『階位情報の解放準備中』
『称号付与機構:待機状態』
智はしばらく、その文字を見つめていた。
階位。
称号。
レベルとは別に、そうした仕組みも存在するらしい。
しかし、それぞれが何を意味し、どんな条件で変化するのかは分からない。
称号付与という言葉にも、妙な引っかかりがあった。
何かの基準で、人間に名前を与える。
その基準は、誰が決めるのだろう。
何をすれば、評価されるのだろう。
そして、その評価にどんな意味があるのか。
智は窓の外へ目を向けた。
夕暮れの工場。
帰宅する人々。
いつも通りの札幌。
その風景の向こう側で、目に見えないものさしが、少しずつ形を持ち始めている。
智は表示を消し、ハンドルを握った。
「……人間の値打ちまで、決められちゃたまらんな」
独り言に答える者はいない。
ただ、今まで何度も見てきた青白い文字のことを思うと、何となく落ち着かなかった。
あの仕組みは、人間の身体を調べ、経験を記録し、何らかの条件で能力を与える。
それなら、行動や考え方まで記録していても不思議ではない。
そう考えたところで、智は首を横に振った。
分からないことを、いくら考えても仕方がない。
今の自分にできるのは、目の前の仕事をきちんとこなし、分かったことを一つずつ確かめていくことだけだ。
智はエンジンをかけ、ゆっくり車を発進させた。
夕暮れの道路には、帰宅を急ぐ車が増え始めている。
信号待ちの列に加わりながら、智はふと、今日修理したドアのことを思い出した。
開きにくかった扉が、軽く動くようになった。
依頼主は喜んでくれた。
それだけのことだ。
けれど、今の智には、その当たり前の出来事が、何より確かなものに思えた。
数字が何を示そうと、階位がどう変わろうと、自分の仕事の価値まで決められるわけではない。
少なくとも、そうであってほしかった。
車は夕暮れの札幌を走っていく。
その間にも、智の知らないところでは、彼自身の行動に関する記録が少しずつ積み重ねられていた。
『判断傾向を記録しました』
その文字が智の視界に現れることはなかった。
ただ、何らかの仕組みが、彼の選択を記録している。
何のために。
どこへ向かって。
その答えは、まだ示されていなかった。




