↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
それでも、歩いてゆく  作者: 八代敬次
第1章 日常の終焉

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
17/32

2:見えないステータス

            「見えているものの、その先へ」





 最初に違和感を覚えたのは、玄関ドアの蝶番だった。


 豊平区にある築三十年ほどのマンション。その三階、外廊下に面した一室で、結城智は開いたままの玄関ドアを支えながら、下側の蝶番を覗き込んでいた。


 依頼内容は、玄関ドアの開閉不良。数日前から扉の下端が枠に擦れるようになり、最近では閉めるたびに強く押し込まなければ錠が掛からないという。


 確かに、戸先側がわずかに下がっている。上側の隙間は広く、下側は狭い。蝶番の取付ビスにも緩みが見られたため、単純な建付け不良であれば、それほど難しい修理にはならないはずだった。


「建物が傾いたんでしょうかね」


 背後から、不安そうな声が聞こえてきた。


 住人は七十歳前後の男性で、灰色のカーディガンを羽織り、片手に杖を持っている。智が到着してからというもの、何度もドアの様子を確かめに来ていた。


「まだ何とも言えませんね。まずは建具の方から確認します」


「そうですか……。最近はあちこちで地面が落ちてますから、どうにも気になりまして」


「お気持ちは分かります。ただ、建物が傾いていなくても、ドアの調子が悪くなることはありますから」


 智はそう答えながら、工具箱からドライバーを取り出した。


 築三十年ともなれば、蝶番の摩耗やビスの緩みは珍しくない。重量のある鋼製ドアならなおさらで、長年の開閉によって取付部に負担が蓄積することもある。


 今回も、その程度の不具合で済めばいい。


 そう考え、上側の蝶番へドライバーを当てようとしたところで、ふと思い直した。


 ――先に、調べてみるか。


 意識を蝶番の取付部へ集中させる。


 すると、視界の端に青白い文字が現れた。


『対象:鋼製建具』


『開閉抵抗:増加』


『原因候補:蝶番取付部の変位』


「……やっぱり、そこか」


「え?」


 住人の男性が聞き返す。


「あ、いや。独り言です」


 智は軽く笑ってごまかしたものの、ドライバーを回す手は止めたままだった。


 表示された内容は、自分の見立てと一致している。しかし、だからといって、すぐに調整を始めていいとは限らない。


 昨日、シャッターの専門業者から聞いた話が頭をよぎる。


 レールに抵抗があると分かったため、そこだけを調整した。ところが、実際にはブレーキ機構にも異常があり、危うく子供に怪我をさせるところだった。


 あの失敗を、もう繰り返すわけにはいかない。


 智はドライバーを工具箱へ戻し、ドア全体を見直すことにした。


 まず、上枠と扉の隙間。続いて戸先側、下枠、蝶番側の縦枠。ドアを半開きにして、枠と扉の位置関係を確かめる。


 すると、蝶番の緩みだけでは説明しづらい箇所が見つかった。


 上枠の水平が、わずかに狂っている。


 さらに、蝶番側の縦枠と壁の取り合い部分に、細い亀裂が走っていた。


「……ん?」


 智は立ち上がり、壁へ顔を近づけた。


 亀裂は髪の毛ほどの細さで、ぱっと見ただけでは気づきにくい。だが、上枠の端から斜めに伸びるその線は、単なる仕上げ材の傷とは少し違って見えた。


「すみません。このひび、いつからあります?」


「ええと……」


 男性は眼鏡を直しながら壁を見上げた。


「前からあったと思いますよ。ずいぶん前から」


「最近、広がったような感じはありませんか」


「そこまでは、ちょっと……。普段、あまり気にしてませんでしたから」


「そうですよね」


 智は頷き、壁と枠の境目へ指を当てた。


 表面に異常な熱はなく、触れた感触も普通の壁材と変わらない。ただ、指先でなぞると、亀裂の両側にごく小さな段差があるようにも感じられる。


 気のせいかもしれない。


 だが、もし本当に下地が動いているのなら、蝶番のビスを締め直すだけでは根本的な解決にならないだろう。


 智は、もう一度意識を集中させた。


 ――ドアだけじゃなくて、枠の周りも調べられないか。


 青白い文字が浮かび上がる。


『対象範囲を拡張しますか』


 智は目を細めた。


 これまで、調べたい対象を意識すると、その材質や状態が表示されることはあった。しかし、対象範囲を広げるかどうか尋ねられたのは初めてだった。


 ――拡張する。


『対象範囲を拡張しました』


 次の瞬間、淡い青白い線がドア枠の輪郭に沿って現れた。


 それは寸法線のように枠の四辺をなぞり、やがて壁の一部へと広がっていく。智には、目に見えない図面が実際の建物へ重ねられているように感じられた。


『建具取付部:局所変位』


『周辺下地:微小な変形を検出』


『変形原因:特定不能』


 智はしばらく表示を見つめた。


 やはり、蝶番だけの問題ではないらしい。


 枠を支える下地にも、何らかの変形が生じている。


 ただし、その原因までは分からない。経年劣化によるものか、建物の動きによるものか。それとも、最近各地で起きている異変と関係があるのか。


 今の段階で判断できる材料は、あまりにも少なかった。


「……なるほどな」


 智は小さく呟き、青白い表示を消した。


 便利ではある。


 しかし、便利だからこそ、気をつけなければならない。


 見えた情報に頼りすぎれば、また昨日と同じ失敗をするかもしれないのだから。


「すみません。これ、建具の調整だけで終わらせない方がいいと思います」


 智が振り返ると、男性の表情が強張った。


「えっ、そんなに悪いんですか」


「今すぐ危険だと決まったわけではありません。ただ、枠の周りにも動いた跡があるんです」


 智は壁の亀裂を指さした。


「ドアが下がっている原因が、蝶番だけとは限らないんですよ。管理会社に連絡して、建物側も確認してもらった方が安心です」


「……建物そのものが悪いかもしれないと?」


「可能性の一つですね。ただ、これだけで建物が傾いているとは言えません。まずは、きちんと調べてもらいましょう」


 男性は不安そうに壁を見上げた。


 智はその様子を見ながら、言葉を続ける。


「ドアについては、今の状態でも安全に閉まるよう応急調整します。ただし、枠の変形が進めば、また不具合が出るかもしれません。その点は管理会社にも報告しておきます」


 男性はしばらく考えたあと、ゆっくり頷いた。


「……分かりました。お願いします」


「はい。では、作業を始めますね」


 智は工具箱を引き寄せた。


 まずは、現実に測れるところから。


 隙間を確認し、水平を見て、必要な箇所だけを調整する。


 青白い表示が何を教えてくれようと、最後に責任を持って判断するのは自分なのだ。


     *


 作業を終えた頃には、廊下の窓から柔らかな日差しが差し込んでいた。


 智は管理会社へ電話を入れ、建具の状態と枠周辺の変形について報告した。撮影した写真も数枚送り、建物側の調査が必要と思われることを伝えておく。


 応急調整後のドアは、以前よりずっと軽く閉まるようになった。錠も無理なく掛かり、開閉時の擦れ音もほとんど消えている。


 ただし、枠の変形が進めば、再び不具合が起きる可能性は残る。


 智はその点を作業報告書へ書き添えた。


「助かりました」


 住人の男性が玄関先で頭を下げる。


「いえ。根本的には、まだ原因がはっきりしてませんから。管理会社から連絡があったら、一度きちんと見てもらってください」


「ええ、そうします。それでも、ドアが閉まらないのは困りますからね」


 男性はそう言って、少し笑った。


「家内が生きてた頃は、こういうのは全部、私が直してたんですがね」


 智は工具箱の留め具を閉める手を止めた。


「そうでしたか」


「もう手が利かなくなりまして」


 男性は杖を持っていない方の手を持ち上げ、指をゆっくり曲げてみせた。関節は少し変形しており、思うように動かせない様子だった。


「歳を取ると、できないことが増えますな」


 智は何と答えるべきか迷った。


 慰めの言葉なら、いくつか思いつく。


 まだまだお若いですよ、とか。


 無理をしないでください、とか。


 けれど、どれもこの人には軽く聞こえる気がした。


「……直せるものは、呼んでくれれば直しますよ」


 そう言うと、男性は顔を上げた。


 そして、声を立てて笑った。


「ははは。そうですな。専門家に頼めばいい」


「ええ。無理に自分で直して、余計悪くなることもありますから」


「それは、耳が痛い」


 男性は笑いながら玄関ドアへ手を伸ばし、ゆっくり開けてみせた。


 以前のような重さはなく、扉は滑らかに動く。手を離すとドアクローザーが働き、最後は小さな音を立てて錠が掛かった。


 カチリ。


 その音を聞いた男性は、満足そうに頷いた。


「これだけでも、ずいぶん安心します」


「それならよかったです」


 智は軽く頭を下げ、廊下を歩き出した。


 エレベーターを待つ間、先ほどの青白い表示が頭に浮かぶ。


 対象範囲の拡張。


 今までは、調べたい物を一つずつ意識していた。それが、今回はドア枠だけでなく、周囲の下地にまで広がった。


 自分が知らないだけで、まだ使える機能があるのかもしれない。


 智は右手を開き、基本情報を呼び出した。


『個体情報』


『結城 智』


『年齢:47』


『種族:人間』


『状態:適応済』


『固有適性:解析系統』


『階位:未解放』


『称号:未取得』


 昨日とは違い、固有適性の欄が更新されている。


 解析系統。


 その文字を見つめながら、智は詳細を確かめようとした。


 ――解析系統について、もう少し詳しく。


『固有適性の詳細情報は、一部制限されています』


 ――どうすれば見られる?


 返答はなかった。


「……都合の悪いことは教えないんだな」


 思わず苦笑が漏れる。


 こちらの問いかけに反応することはあっても、何でも答えてくれるわけではないらしい。


 そもそも、これは会話をする相手ではなく、何らかの条件に応じて情報を表示する仕組みなのだろう。そう考えた方が、少なくとも今のところは自然だった。


 エレベーターが到着し、扉が開く。


 智は表示を消すと、工具箱を持って乗り込んだ。


     *


 午後の現場は、白石区にある資材倉庫だった。


 依頼はアルミサッシの点検。ところが、到着してみると、建物の前には見慣れない車が二台停まっていた。


 一台は白いワンボックスカー。もう一台は、測量機器を積んだ小型トラックである。


 智が車を降りると、倉庫の入口から作業服姿の男が出てきた。


「結城さんですか?」


「はい」


「田島です。佐伯さんからお話は伺ってます」


 五十代半ばほどの男だった。日に焼けた顔に太い眉が印象的で、差し出された手を握ると、長年現場で働いてきた人間特有の硬さがあった。


「サッシの不具合って聞いてますが」


「ああ、それもあるんですがね」


 田島は建物を振り返り、少し困ったような顔をした。


「先に、ちょっと見てもらいたいものがありまして」


 智は嫌な予感がした。


 この数日、似たような言葉を何度も聞いている。


「……何です?」


「床です」


 やっぱりか。


 智は心の中で呟いた。


 田島に案内され、倉庫の中へ入る。


 広い空間には、アルミ型材やガラスを納めた木箱、金物の入った段ボールが整然と積まれていた。フォークリフトが通れるよう通路も確保されており、普段はかなり効率よく管理されている倉庫なのだろう。


 しかし、その奥の一角だけは様子が違っていた。


 二人の作業員が床にしゃがみ込み、測量機器を使って何かを確認している。周囲には黄色いテープが張られ、立ち入りを制限するためのカラーコーンも置かれていた。


 智はテープの手前で足を止めた。


 床に亀裂が走っている。


 幅は数ミリ程度。通常なら、すぐに大きな問題とは判断しないかもしれない。


 だが、その形が異様だった。


 ほぼ正方形。


 一辺が三メートルほどの範囲を、亀裂が囲むように伸びている。しかも、四隅の角度が妙に正確で、まるで最初から線を引いてあったかのようだった。


「……これは」


 智が呟くと、田島は苦い顔で頷いた。


「変でしょう」


「いつ見つけたんです?」


「昨日の夕方です。フォークリフトの運転手が気づきましてね。最初は床の目地かと思ったんですが、こんなところに目地を切った覚えはないんですよ」


「図面は確認しました?」


「ええ。施工図も見ましたが、該当するものはありませんでした」


 智は亀裂の形を追った。


 普通、コンクリートのひび割れは、荷重や乾燥収縮、下地の状態などによって生じる。もちろん直線的に割れることもあるが、これほど整った四角形となると、何らかの構造的な要因を疑いたくなる。


「床は沈んでます?」


「今のところ、目立った段差はありません。ただ……」


 田島は測量器を指さした。


「朝から何度か測ってるんです。どうも、少しずつ動いてるらしくて」


「動いてる?」


「ええ。まだ大きな変化ではないんですが、測量屋さんも気にしてます」


 智は亀裂の内側へ目を向けた。


 そこには何の変哲もないコンクリートの床が広がっている。


 ただ、昨日の交差点で見た亀裂と、形がよく似ていた。


 整いすぎた線。


 その下から現れた、灰色の石材。


 そして、地面の奥へ続く暗い空間。


 智は無意識に息を整えた。


 ――この床を調べる。


 青白い文字が現れる。


『対象:床構造』


『表層材:コンクリート』


『局所的な変位を検出』


『下部構造:不明』


 智は眉を寄せた。


 表面の状態は分かる。


 だが、問題はその下だ。


 ――範囲を拡張する。


『対象範囲を拡張しました』


 淡い青白い線が亀裂に沿って伸び始めた。


 やがて、その内側に薄い輪郭が浮かび上がる。


 智は思わず一歩下がった。


 コンクリートの下に、別の構造物がある。


 四角い輪郭を持ち、さらに地下へ向かって続いている。


 それは、井戸のようにも見えた。


 しかし、普通の井戸とは違う。輪郭があまりにも整っており、しかも深さが分からない。


『地下構造物を検出』


『材質:不明』


『深度:測定不能』


『既知の建築構造との照合:不一致』


 智は表示を見つめたまま、しばらく動けなかった。


 昨日の交差点で見たものと、よく似ている。


 ただし、今回はまだ床が崩れていない。


 それが幸運なのか、それとも崩れる前の段階に過ぎないのかは、分からなかった。


「結城さん?」


 田島が声をかける。


「どうしました?」


 智は顔を上げた。


「……ここ、立ち入り禁止にした方がいいですね」


「やっぱり?」


「ああ。下に空洞か、何か別の構造物がある可能性があります。少なくとも、普通の床のひび割れとして扱わない方がいい」


 田島の表情が険しくなった。


「測量屋さんも、似たようなことを言ってました」


「なら、なおさらです」


 智は周囲を見回した。


 亀裂の近くには、重量のありそうな資材の木箱が積まれている。床が動いている可能性がある以上、その上をフォークリフトで走らせるのは避けた方がいいだろう。


「この辺りの荷物、動かせますか」


「動かせますけど……」


「無理に近づかない方がいいですね。別の経路から安全に動かせるものだけにして、危ない場所の荷物は専門の人に判断してもらった方がいいです」


 田島は頷いた。


「分かりました。すぐ手配します」


 智はもう一度、亀裂へ視線を戻した。


 青白い輪郭が、まだ見えている。


 その中心に、小さな点があった。


 ――何だ、あれ。


 意識を向けると、表示が切り替わる。


『未知のエネルギー反応を検出』


『反応強度:微弱』


『解析精度:不足』


 智は眉をひそめた。


 未知のエネルギー。


 修司の店で見た金属片にも、似たような表示が出ていた。


 あの鈍い銀色の破片。


 表面から内部まで続いていた、不思議な模様。


 昨日の道路の下に現れた石材とも、どこか共通するものがあった。


 偶然なのだろうか。


 それとも、すべて同じ何かに関係しているのか。


 智は無意識に、もう一度問いかけた。


 ――もっと詳しく。


『追加解析を実行しますか』


 智は一瞬迷った。


 これまでとは違い、明確に実行するかどうかを尋ねられている。


 何か理由があるのかもしれない。


 だが、目の前にあるものの正体を少しでも知りたいという気持ちが、その疑問を上回った。


 ――実行する。


 次の瞬間、青白い線が一斉に濃くなった。


 床の輪郭。


 亀裂の位置。


 地下へ伸びる四角い構造。


 それらが透明な図面のように重なり、次々と新しい線を生み出していく。


 智は目を見開いた。


 見えている。


 確かに、何かが見えている。


 しかし、それが何を意味するのか理解する前に、こめかみへ鋭い痛みが走った。


「……っ!」


 思わず額を押さえる。


 視界が一瞬、白くなった。


 頭の奥を細い針で突かれたような痛みが広がり、足元がわずかに揺れる。


 青白い線は乱れ、互いに重なり合い、やがて意味の分からない光の塊へ変わっていった。


『解析負荷が許容範囲を超過』


『処理を中断します』


 表示が消えた。


 智は膝に手をつき、ゆっくり息を吐いた。


「結城さん!」


 田島が駆け寄ってくる。


「大丈夫ですか!」


「ああ……ちょっと、立ちくらみが」


「顔色、悪いですよ。無理しないでください」


「すみません。少し休ませてもらえますか」


「もちろんです」


 田島は近くの作業員へ声をかけ、椅子を持ってこさせた。


 智はそこへ腰を下ろし、額に浮かんだ汗を手の甲で拭った。


 痛みは少しずつ和らいでいたが、頭の奥にはまだ鈍い違和感が残っている。


 さっきの感覚は、普通の頭痛とは違った。


 無理に何かを詰め込まれたような、考える余裕そのものを奪われるような痛み。


 智は右手を見つめた。


 指先が、わずかに震えている。


 便利なものだと思っていた。


 だが、使い方を間違えれば、自分の身体にも負担がかかるらしい。


「……タダじゃないってことか」


 誰にも聞こえないほどの声で、智は呟いた。


     *


 しばらく休んでいると、頭痛は少しずつ治まってきた。


 田島が紙コップに水を入れて持ってきてくれる。


「無理しないでくださいよ。顔色、まだあまりよくないですから」


「すみません。ありがとうございます」


「いやいや、こっちこそ。変なもの見せちゃって」


 田島は苦笑した。


「最近、どこもこんな話ばっかりですね」


「そうですね」


「うちの若いのなんか、昨日からスマホで変な動画ばっかり見てますよ」


「魔法のやつですか」


「そうそう。フランスで氷が出たとか、韓国で剣が光ったとか。ゲームじゃあるまいし」


 智は少し笑った。


「本当だったら、どうします?」


「どうもしませんよ」


 田島は即答した。


「俺は魔法より、明日の納品の方が心配です」


 智は思わず声を立てて笑った。


「そりゃそうだ」


「だってそうでしょう。魔法が使えたって、サッシが勝手に現場へ届くわけじゃない」


「確かに」


「納期が遅れりゃ怒られるし、寸法が違えば返品です。世の中がどう変わろうと、そこは変わりませんよ」


 田島は肩をすくめた。


 その言葉が、智には妙に頼もしく聞こえた。


 世界中で怪物が現れ、地下には見知らぬ構造物が広がり始めている。それでも、明日の納品を心配する人間がいて、今日の仕事を片づけようとする人間がいる。


 当たり前のことかもしれない。


 だが、その当たり前が、今は少しありがたかった。


 智は紙コップの水を飲み干した。


 冷たい水が喉を通る感覚に、ようやく身体が落ち着いてきた気がする。


「……サッシの方、見ましょうか」


 智が立ち上がると、田島は少し心配そうな顔をした。


「もう大丈夫ですか?」


「ああ。無理はしません。ちょっと頭を使いすぎただけみたいです」


「頭を?」


「いや、こっちの話です」


 智は苦笑し、工具箱を持ち直した。


 今度は、青白い表示を呼び出さなかった。


 まず、自分の目で見る。


 手で触れる。


 必要なら寸法を測り、道具を使って確かめる。


 それで分からないことがあれば、初めて別の方法を考える。


 長年続けてきた仕事のやり方を、急に変える必要はない。


 むしろ、今まで以上に大切にしなければならないのだろう。


     *


 サッシの点検は、思ったより時間がかかった。


 倉庫の北側にある大型の引き違い窓。戸車の摩耗とレールの歪みが重なり、開閉時に大きな抵抗が生じていた。


 智は建具を慎重に動かしながら、戸車の状態とレールの変形を確認した。部分的な調整では改善が難しく、部品の交換が必要と判断して寸法を測る。


 作業を終えた頃には、外が少し暗くなり始めていた。


 田島へ報告を済ませ、必要な部品の手配について説明する。


「分かりました。じゃあ、部品が入ったらまたお願いします」


「ええ。入荷したら連絡します」


「今日はありがとうございました。床の件も、助かりました」


「いや、あれは俺にも分かりません。ただ、危ない可能性がある以上、無理しない方がいいですよ」


「そうですね。測量屋さんとも相談して、専門の調査を入れることにします」


 智は頷いた。


 それを聞いて、少し安心した。


 自分にできることは限られている。


 それでも、危険を知らせることはできた。


 今は、それで十分だと思いたかった。


 車へ戻り、運転席に座る。


 エンジンをかける前に、智はしばらく目を閉じた。


 頭痛はほとんど消えている。


 だが、先ほど見えた地下構造の輪郭が、頭から離れなかった。


 四角い空間。


 深く伸びる構造。


 未知のエネルギー。


 そして、解析負荷。


 自分が見ているものは、いったい何なのだろう。


 智はゆっくり息を吐き、基本情報を呼び出した。


『個体情報』


『結城 智』


『年齢:47』


『種族:人間』


『状態:適応済』


『固有適性:解析系統』


『階位:未解放』


『称号:未取得』


 智は表示を見つめた。


 ――解析系統について、詳しく。


 文字が一瞬揺れ、新しい項目が現れる。


『解析系統』


『対象の構造・状態・性質に関する情報を取得する適性』


『取得可能な情報は、適応段階および処理能力に依存します』


 智は思わず身を乗り出した。


 初めて、まともな説明が出た。


 これまで何となく使っていたものに、ようやく意味らしいものが与えられた気がする。


 ――処理能力って何だ。


『個体の情報処理許容量』


『許容量を超える解析は、身体および精神に負荷を与える可能性があります』


 智は額に手を当てた。


 さっきの頭痛。


 あれが、負荷ということか。


 ――使いすぎるとどうなる?


『負荷の程度により、一時的な機能低下が発生する場合があります』


 智は眉をひそめた。


 ――もっとひどい場合は?


 返答はなかった。


「……そこは教えてくれないのか」


 しばらく待っていると、表示の下に小さな文字が現れた。


『現在の適応段階では、詳細情報を開示できません』


 智は背もたれに身体を預けた。


 どうやら、この仕組みには段階があるらしい。


 何かを経験し、条件を満たすと、新しい情報が見えるようになる。


 まるで、ゲームのように。


 しかし、ここは現実だ。


 失敗すれば怪我をするし、誰かを巻き込むこともある。


 自分の身体にどんな影響が出るのか分からない以上、面白半分に使い続けるわけにはいかなかった。


 智は窓の外へ目を向けた。


 倉庫の入口では、田島が作業員たちに指示を出している。


 床の亀裂から離れた場所へ、資材を移動させているらしい。フォークリフトは問題の区域へ近づかず、作業員たちも慎重に動いていた。


 智はその姿を見ながら、少しだけ安心した。


 少なくとも、危険を伝えたことは無駄ではなかった。


 そのとき、視界の中央に新しい表示が現れた。


『解析系統の適応進行を確認』


『固有能力の解放条件を達成しました』


 智は背筋を伸ばした。


 文字がゆっくりと切り替わる。


『固有能力を解放しますか』


 その下に、二つの選択肢が並んだ。


『はい』


『いいえ』


 智はしばらく、その文字を見つめていた。


 今まで、自分の意思とは関係なく、さまざまな情報が現れていた。


 だが、今回は違う。


 選ぶことができる。


 受け入れるか。


 拒むか。


 智は右手を見た。


 傷跡の消えた掌。


 怪物に引っかかれた腕。


 頭痛の残るこめかみ。


 そして、今日出会った人たちの顔を思い出す。


 玄関ドアが閉まらず困っていた老人。


 倉庫の床を心配していた田島。


 昨日の交差点で、人々を誘導していた黒田と高瀬。


 自分に何かができるなら。


 それが、誰かの役に立つなら。


 智はゆっくり息を吐いた。


 ――はい。


 青白い板が、静かに光を強めた。


『固有能力の解放を開始します』


 文字が一行ずつ現れる。


『適性:解析系統』


『個体識別:完了』


『情報処理領域:接続』


『固有能力を確定しました』


 そして、最後に。


『固有能力――解析《アナライズ》』


 智はその名前を見つめた。


 アナライズ。


 聞き慣れない響きだった。


 だが、不思議と意味は分かった。


 調べること。


 読み解くこと。


 目の前にあるものを、知ろうとすること。


「……解析、ね」


 智は小さく呟いた。


 表示が変わる。


『解析《アナライズ》を取得しました』


『対象の構造・状態・性質に関する情報取得が可能です』


『解析深度は、使用者の適応段階に応じて変化します』


『過負荷に注意してください』


 智はしばらく黙っていた。


 それから、少しだけ笑った。


「最後の一行が、一番大事だな」


 表示は何も答えなかった。


 智はエンジンをかけた。


 ヘッドライトが、薄暗くなり始めた駐車場を照らす。


 倉庫の奥では、作業員たちがまだ動いている。


 智はゆっくり車を発進させた。


 自分の中で、何かが変わった。


 それは分かる。


 だが、明日から何をすればいいのかは、まだ分からない。


 ただ一つ。


 この力を、何のために使うのか。


 それだけは、自分で決めたいと思った。


 車は夕暮れの札幌へ走り出した。


 バックミラーの中で、倉庫の建物が少しずつ小さくなっていく。


 その床下に眠るものの正体を、智はまだ知らない。


 そして、自分が手に入れた《解析》が、いつか物の構造だけでなく、人の魂や世界そのものにまで届く力になることも。


 今は、まだ。






評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。