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それでも、歩いてゆく  作者: 八代敬次
第1章 日常の終焉

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16/32

1:見えないステータス

            「数字の向こうにあるもの」





 黒田健吾は、約束の時間より十分ほど早く喫茶店に来ていた。


 白石区の住宅街に近い、昔ながらの小さな店である。昼の混雑がひと段落した店内には、食後のコーヒーを楽しむ会社員が二人と、窓際で文庫本を読んでいる老人が一人。低く流れるジャズと食器の触れ合う音が、外の交通音をほどよく遠ざけていた。


 結城智が入口の扉を開けると、奥の席にいた黒田が顔を上げ、軽く手を挙げた。


「結城さん。こちらです」


「どうも。早かったですね」


「私も、少し時間が空きまして」


 智は向かいの椅子に腰を下ろした。


 黒田は私服姿だった。濃紺のジャンパーに黒いズボンという目立たない服装で、昨日の交差点で見た警察官らしい緊張感は幾分和らいでいる。ただ、目元には薄い疲労の色があり、十分に休めていないことがうかがえた。


 テーブルには、すでに半分ほど減ったコーヒーが置かれている。


「お忙しいところ、すみません」


「いや、午後の現場まで少し空いてるんで。それより、黒田さんの方こそ大変でしょう」


「まあ、普段よりは慌ただしいですね」


 黒田は苦笑したが、その表情には冗談を楽しむ余裕があまりなかった。


 店員が注文を取りに来たため、智はホットコーヒーを頼む。店員がカウンターへ戻るのを待ってから、黒田は上着の内ポケットより小さな手帳を取り出した。


「最初に確認しておきたいのですが、今日は任意でお話を伺っています。答えたくないことまで、無理に話していただく必要はありません」


「分かりました」


「それと、昨日お電話で伺った内容は、現時点では限られた担当者の間でしか共有していません。ただ、今後の調査によっては、関係部署へ報告する必要が出てくるかもしれません。その点だけは、先にお伝えしておきます」


 智は頷いた。


 何でも秘密にすると安請け合いされるより、かえって信用できる説明だった。警察の仕事にも手続きがあるだろうし、黒田一人の判断で決められないことも多いはずだ。


「それじゃ、お願いします」


「ありがとうございます。まず、その文字が見え始めたときのことから、もう一度聞かせてもらえますか」


「アパートの陥没現場ですね」


「怪物に襲われたときですか」


「ええ。腕を引っかかれて、そのあと病院へ向かう途中だったと思います」


 智は右の上腕へ視線を落とした。長袖の下に残る傷跡は、今では驚くほど薄い。爪が皮膚を裂いた瞬間の痛みは鮮明なのに、身体の方は何事もなかったかのように回復しつつある。


「最初は、何かに接触したとか、適応処理を始めるとか、そんな文字でした。意味はさっぱり分からなかったですけどね」


「その後は?」


「病院で、自分の名前と年齢が出ました。あと、種族が人間だとか、適応済みだとか」


 黒田のペンが手帳の上を走る。


「数字は表示されましたか」


「年齢以外は、なかったと思います」


「レベルという表示は?」


「いや、見てませんね」


「体力や魔力はどうでしょう」


「それも、最初はなかったです」


 黒田はペン先を止め、少し考え込んだ。


 智の方は、なぜそんな項目を尋ねられるのかが気になっていた。


「ほかの人には、そういうのが見えるんですか」


「少なくとも、そう証言している人はいます。ただ、報告されている内容にはかなり差があるんです」


「差?」


「名前だけが見える人もいれば、数字がいくつも並んでいる人もいる。逆に、怪物に接触したり、異常な地下空間へ近づいたりしても、何も見えなかったという人もいます」


 智は運ばれてきたコーヒーに手を伸ばした。


 同じ現象に遭遇しても、全員に同じことが起きるわけではないらしい。それなら、自分の身に現れた表示にも、何か条件があるのだろうか。


「……選ばれてるってことですかね」


「そこまでは分かりません。ただ、現時点の報告を整理すると、怪物との接触や地下空間への接近、あるいは生命の危険にさらされた経験などが、きっかけになっている可能性はあります」


「なるほど」


 智はコーヒーを一口飲み、自分の経験を思い返した。


 怪物に引っかかれたこと。


 道路の下から吹き上がった、妙に冷たい風。


 あのとき、自分の目の前に突然現れた文字。


「……全部、心当たりがありますね」


「ええ。だからこそ、詳しくお話を伺いたかったんです」


 黒田は手帳を閉じず、智の顔を見た。


 その視線には、疑っているというより、少しでも確かな情報を得たいという切実さがあった。


     *


「結城さん。今、その表示を出すことはできますか」


 ひと通り経緯を確認したところで、黒田が尋ねた。


「たぶんできますよ」


「お願いしてもよろしいですか」


「構いませんけど……黒田さんには見えないと思いますよ」


「ええ。表示された内容を読み上げていただければ十分です」


「ああ、そういうことか」


 智は背もたれに身体を預け、目の前の空間へ意識を向けた。


 ――基本情報。


 声に出したわけではない。ただ、そう考えただけで、視界の中央に薄い青白い板が浮かび上がる。


 最初に見たときは、突然現れた文字に驚き、目を閉じたり顔を背けたりしたものだった。しかし、何度か試しているうちに、自分の意思で呼び出せることが分かってきた。


 それでも、仕組みはまるで理解できていない。


 透明な板の向こうには、黒田の顔も、テーブルも、店の壁も見えている。目の前に実物があるわけではなさそうなのに、文字だけははっきり読めるのだから、不思議というほかなかった。


『個体情報』


『結城 智』


『年齢:47』


『種族:人間』


『状態:適応済』


『固有適性:未判定』


『階位:未解放』


『称号:未取得』


 智は表示を一つずつ読み上げた。


 黒田は聞き漏らさないよう、手帳へ丁寧に書き込んでいく。


「階位という項目は、いつ頃から表示されていますか」


「昨日あたりですね。少なくとも、その前には気づきませんでした」


「称号も同じ頃ですか」


「ええ。今朝確認したときには、両方ありました」


「なるほど。表示される項目自体が増えている可能性もあるわけですね」


「そうみたいです」


 黒田はペンを置いた。


「ほかに、何か表示できそうなものはありますか」


「さあ……どうでしょうね」


 智は目の前の青白い板を見つめた。


 考えてみれば、今まで自分から積極的に操作しようとしたことは少ない。突然現れた文字を読み、必要に応じて表示を消す。それだけでも十分に奇妙だったため、それ以上のことを試そうという発想がなかったのだ。


 だが、もしこれが何らかの情報表示装置に近いものなら、見えている項目以外にも機能があるのではないか。


 仕事で扱う機械の操作盤にも、普段は表示されていない点検項目や設定画面がある。もちろん、目の前の文字が同じ仕組みで動いているとは思えないが、試してみる価値はありそうだった。


 智は意識を集中させる。


 ――詳しく。


 何も変わらない。


 ――詳細情報。


 やはり反応はなかった。


 少し考え、別の言葉を試す。


 ――ステータス。


 その瞬間、青白い板の輪郭がかすかに揺らいだ。


「……お?」


 思わず声が漏れる。


『個体状態の詳細表示を要求しました』


『現在の適応段階では、一部情報のみ閲覧可能です』


 文字が切り替わり、これまで見たことのない項目が現れた。


『身体能力:基礎値』


『感覚能力:基礎値』


『精神適応:進行中』


『魔力適応:未完了』


『技能情報:一部閲覧可能』


『経験蓄積:記録中』


 智は思わず背筋を伸ばした。


 新しい情報が出てきたこと自体にも驚いたが、それ以上に、ただ言葉を変えただけで表示が切り替わったことが気になった。


 つまり、この仕組みは、こちらの意図をある程度理解しているらしい。


「結城さん?」


 黒田が身を乗り出す。


「何か出ましたか」


「ああ。増えましたよ。今まで見たことのない項目が」


「どんな内容です?」


 智は表示を読み上げた。


 身体能力、感覚能力、精神適応、魔力適応。さらに技能情報と経験蓄積。


 黒田は一つずつ書き留めていたが、「魔力適応」という言葉が出たところで、その手が一瞬止まった。


「……魔力、ですか」


「そう書いてありますね」


「具体的な数値は?」


「いや、出てません。基礎値とか、進行中とか、そういう表現だけです」


「レベルについては?」


「今のところ、見当たらないですね」


 黒田は手帳へ視線を落とし、しばらく考え込んだ。


 智には、その沈黙の意味がよく分からなかった。


「そんなに珍しいんですか」


「少なくとも、私が把握している報告の中では、ここまで適応状況が細かく表示されたという話は聞いていません。ただし、私が知っている情報も限られていますから、これが特別な事例なのかどうかは判断できません」


「そうですか……」


 智は改めて表示を眺めた。


 身体能力。


 感覚能力。


 魔力適応。


 経験蓄積。


 どれも、自分自身のことを示しているはずなのに、どこか機械の点検表を読んでいるような気分になる。


 人間の身体や経験が、こうして項目ごとに整理され、何らかの基準で評価されている。


 考えてみれば、ずいぶん奇妙な話だった。


「……黒田さん」


「はい」


「これ、誰が作ったんでしょうね」


「何を、ですか」


「この表示ですよ」


 智は自分の目の前を指さした。


「名前や年齢だけなら、まだ分かります。いや、それだって十分おかしいんですけどね。でも、魔力だの経験だの、こっちが知らないことまで勝手に調べて、記録してるわけでしょう」


 黒田は黙って耳を傾けている。


「普通、こういう仕組みって、誰かが作らなきゃ存在しませんよね」


 その言葉を口にした途端、智は自分で少し怖くなった。


 誰かが作った。


 もし本当にそうなら、その誰かは何者なのだろう。


 そして、何のために人間の情報を集めているのか。


 黒田はすぐには答えず、しばらく考えてから口を開いた。


「少なくとも、何らかの規則に従って動いているようには見えます。ただ、それが人工的に作られたものなのか、別の原理による現象なのか、現段階では何とも言えません」


「……そうですよね」


 智は表示を消した。


 青白い板が視界から消えると、テーブルの木目やコーヒーカップの白さが、妙にはっきり感じられた。


 実際には何も変わっていない。


 ただ、目の前に文字があるかないか。


 それだけの違いなのに、世界の見え方まで変わってしまったような気がする。


     *


「もう一つ、確認してもよろしいでしょうか」


 黒田が手帳のページをめくった。


「結城さんは、物の状態が分かるとおっしゃっていましたね」


「ああ。材質とか、壊れている場所とかですね。ただ、何でも分かるわけじゃありませんけど」


「例えば、このカップでも?」


 黒田は自分のコーヒーカップを少し持ち上げた。


 白い陶器製で、取っ手の根元に薄い染みがある。長く使われているらしく、縁の一部には細かな擦れ跡が見えた。


「やってみましょうか」


 智はカップへ視線を向け、意識を集中させる。


 ――このカップを調べる。


 青白い文字が浮かんだ。


『対象:陶器製容器』


『構造状態:概ね正常』


『表面に微細な摩耗を確認』


「……陶器製容器。構造は概ね正常で、表面に細かい摩耗があるそうです」


 黒田はカップを裏返すように眺めた。


「なるほど。では、こちらはどうでしょう」


 今度は腕時計を外し、テーブルに置いた。


 黒い文字盤の、少し古い時計だった。金属製のベルトには細かな傷があり、長年使い込まれていることが分かる。


 智は時計へ意識を向ける。


『対象:機械式腕時計』


『内部機構:作動中』


『一部部品に摩耗傾向』


『推奨:定期整備』


 表示を読み上げると、黒田は驚いたように眉を上げた。


「本当に、そう出たんですか」


「ああ。そろそろ整備した方がいいみたいですよ」


「実は、最近少し遅れるんです。十年以上使っていますが、一度も整備に出したことがなくて」


「そりゃ、一度見てもらった方がいいですね」


 二人は顔を見合わせ、思わず笑った。


 怪物や地下空間について話していたときとは違い、古い腕時計の不調なら、智にも馴染みのある話だった。


「……便利ですね」


 黒田が言う。


「まあ、仕事には使えそうです」


 智も笑ったが、その表情はすぐに引き締まった。


「ただ、これには厄介なところもあるんです」


「といいますと?」


「昨日、シャッターの修理で失敗しました」


 智は、前日に起きた出来事を説明した。


 動きの悪いシャッターを調べた際、レールの抵抗に問題があると分かり、そこを調整したこと。しかし、実際にはブレーキ機構にも異常があり、危うく子供に怪我をさせるところだったこと。


 黒田は途中で口を挟まず、最後まで聞いていた。


「表示された内容そのものは、間違ってなかったんです。でも、表示されなかった部分まで正常だと思い込んでしまった」


 智はカップを置いた。


「機械の点検でも同じなんですけど、一か所悪いところが見つかったからって、それが全部とは限らないでしょう。そんな当たり前のことを、忘れてました」


 黒田はしばらく考えた。


「つまり、その表示が示す情報は正しくても、それだけで十分とは限らない」


「ああ。そういうことです」


「……重要な話ですね」


 黒田は手帳へ書き込んだ。


 智は窓の外に目を向ける。


 朝から降っていた雨は、いつの間にか上がっていた。濡れた道路を車が走り、歩道には傘を畳んだ人々の姿がある。


 いつもと変わらない札幌の風景。


 けれど、世界のどこかでは手から青白い光を生み出す人間が現れ、目の前に数字が見えるという人間も増えている。


 そして、自分には物の状態が分かる。


 その変化が便利なものなのか、危険なものなのか。


 今のところ、どちらとも言い切れなかった。


「黒田さん」


「はい」


「これ、いつか普通になるんですかね」


 黒田は少し考えた。


「……分かりません」


「そうですか」


「ただ、普通というものは、案外簡単に変わるのかもしれませんね」


 智は黒田を見た。


 黒田は窓の外へ視線を向けたまま、言葉を続ける。


「昨日まで当たり前だったことが、今日は通用しない。警察の仕事でも、そういうことはあります。もっとも、今回の変化は、今まで経験したものとは比べものになりませんが」


「……でしょうね」


「それでも、人が困っているときに助けることまで、変わる必要はないと思っています」


 智はしばらく黙っていた。


 黒田がなぜ警察官になったのか、どんな現場を経験してきたのかは知らない。しかし、その言葉には、単なる建前ではない重みが感じられた。


「……そうですね」


 智は小さく頷き、残っていたコーヒーを飲み干した。


     *


 喫茶店を出ると、雲の切れ間から薄い日差しが差していた。


 雨上がりの空気には、濡れたアスファルトと土の匂いが混じっている。通りを走る車が水たまりを踏むたび、小さな水音が歩道まで届いた。


 黒田は店の前で足を止めた。


「今日はありがとうございました。お話を伺えて、非常に参考になりました」


「こちらこそ。少しすっきりしましたよ」


「そう言っていただけるなら、よかったです」


 黒田は名刺を差し出した。


「何か変わったことがあれば、こちらへ直接連絡してください。すぐに対応できるとは限りませんが、できるだけ確認します」


「分かりました」


 智は名刺を受け取り、財布へしまおうとした。


 そのとき、黒田がふと思い出したように口を開いた。


「そういえば、結城さん」


「何です?」


「先ほどの表示について、もう一つだけ」


「はい」


「ほかの人間を調べることはできますか」


 智は思わず顔を上げた。


「……人間を?」


「ええ。物の状態が分かるのであれば、人の状態についても何か分かるのではないかと思いまして」


 智は黒田を見つめた。


 今まで、その発想はなかった。


 工具、金属、建具、機械。


 調べてきたのは、仕事に関係するものばかりである。


 人間を調べようと思ったことは、一度もなかった。


 それに、たとえ調べられるとしても、本人の知らない情報まで見えてしまう可能性がある。


「……やってみてもいいんですか」


「もちろんです。私自身のことですから、構いません」


 黒田は少し姿勢を正した。


 智は一度息を整え、その顔へ意識を向ける。


 ――黒田さんの状態を調べる。


 最初は何も起こらなかった。


 時計やカップを調べたときとは、反応が違う。


 対象を認識できていないのか、それとも、人間に対しては別の条件があるのだろうか。


 智は考え直し、もう一度だけ意識を集中させた。


 ――目の前の人間の、基本的な状態を確認する。


 視界の端で、青白い光がかすかに揺らいだ。


『対象を認識しました』


『対象種別:人間』


『個体情報へのアクセスを要求』


 智は息を止めた。


 続いて、文字が現れる。


『他個体の詳細情報は制限されています』


『現在の適応段階では、基本情報のみ参照可能です』


 その下に、新しい表示が加わった。


『対象:黒田 健吾』


『種族:人間』


『状態:正常』


『適応反応:微弱』


 智は思わず目を細めた。


 黒田の名前が出ている。


 しかも、適応反応という項目まである。


 名前については、すでに本人から聞いている。しかし、今はその名前が、目の前の表示にも確かに記されていた。


「……見えました」


 智が言うと、黒田の表情が引き締まった。


「何が分かりましたか」


「黒田さんの名前と、状態です。あと……適応反応っていう項目もあります」


「名前まで?」


「ああ。黒田健吾って、ちゃんと出てます」


 智は表示内容を一つずつ読み上げた。


 黒田はしばらく黙っていたが、やがて自分の手へ視線を落とした。


「……適応反応が微弱、ですか」


「そう書いてあります」


「私自身には、今のところ何も見えていません」


「そうなんですか」


「ええ。怪物を見たことはありますし、異常な地下空間にも近づいています。それでも、結城さんのような表示は一度も」


 智は黒田を見た。


 同じような経験をしていても、表示が現れる人間と、そうでない人間がいる。


 その違いが何なのかは分からない。


 しかし、黒田の身体にも何らかの反応が起きているのだとしたら、今は何も見えなくても、いずれ変化が現れる可能性はあるのかもしれなかった。


「結城さん」


 黒田が慎重に口を開いた。


「これは、今までのお話とは少し違いますね」


「……そうですね」


「あなたの表示は、自分自身だけでなく、ほかの人間の情報まで取得できる。しかも、本人が認識していない状態についても、何らかの情報を示している」


 智は頷いた。


 黒田は言葉を選びながら続ける。


「その能力が、どこまで及ぶのか。今は誰にも分かりません」


 智は青白い表示を見つめた。


 黒田の名前。


 状態。


 適応反応。


 本人が知らない情報が、当たり前のように並んでいる。


 もし、もっと詳しく調べられるようになったら。


 身体の状態だけでなく、本人が隠しておきたいことまで分かってしまうのだろうか。


 そこまで考えたところで、智は嫌な気分になった。


 人のことを、勝手に覗き見しているような気がしたのだ。


 智は表示を消した。


「……あんまり気分のいいもんじゃないですね」


 黒田が少し意外そうな顔をする。


「どうしてです?」


「本人が知らないことまで、勝手に見えるんで」


 智は少し考え、言葉を続けた。


「今回は黒田さんがいいって言ってくれたから調べましたけど、そうじゃなかったら……何か、違う気がするんですよ」


 黒田はしばらく智を見ていた。


 やがて、ゆっくり頷く。


「……その感覚は、大事にした方がいいと思います」


「そうですかね」


「ええ。できることと、やっていいことは、必ずしも同じではありませんから」


 智はその言葉を聞き、少しだけ肩の力を抜いた。


 新しい能力があると分かれば、何ができるのか試したくなる。


 しかし、それを使う相手もまた人間なのだ。


 工具や機械を調べるのとは、話が違う。


「じゃあ、俺はそろそろ仕事に戻ります」


「はい。今日はありがとうございました」


「こちらこそ。また何か分かったら連絡します」


 二人はそこで別れた。


 黒田は店の前に残り、智は少し離れた駐車場へ向かう。


 歩きながら、右手を開いた。


 掌には、もう傷跡がほとんど残っていない。


 その手を見つめていると、視界に青白い文字が浮かんだ。


『情報取得の精度が向上しました』


『個体解析の基礎条件を達成』


『固有適性の判定を開始します』


 智は足を止めた。


 今まで何度か表示されてきた、適性という言葉。


 その判定が、ようやく始まるらしい。


 文字がゆっくり切り替わる。


『判定中……』


 しばらく待つと、最後に一行が加わった。


『固有適性:解析系統』


 智はしばらく、その文字を見つめた。


「……解析、か」


 初めて、自分の身に起きていることに、名前らしいものが付いた。


 もちろん、それだけで何かが分かったわけではない。


 解析系統とは何なのか。


 どこまで情報を調べられるのか。


 その能力を使い続けることで、身体に何か影響はないのか。


 疑問はいくらでもある。


 それでも、ただ不可解だった現象に、少しだけ輪郭が生まれたような気がした。


 智は表示を閉じ、車のドアを開けた。


 運転席に座ると、ダッシュボードの上に置いた小さなメモ帳が目に入る。


 午後は豊平区のマンションで玄関ドアの調整。そのあと、白石区の倉庫でアルミサッシの点検が入っていた。


 いつも通りの仕事である。


 しかし、今日はその予定が、少しだけ頼もしく思えた。


 分からないことがどれほど増えても、目の前には自分の手で直せるものがある。


 ドアが閉まらなければ原因を調べ、金具が傷んでいれば交換する。使う人が困らないよう、最後まで確認する。


 それは、四十七年間生きてきた智が、長い時間をかけて身につけてきた仕事だった。


「……まあ、まずは仕事だな」


 エンジンをかけ、ゆっくり車を発進させる。


 雨上がりの札幌には、雲の切れ間から薄い日差しが差し込んでいた。


 交差点で信号が赤に変わり、智はブレーキを踏む。


 歩道を渡っていく人々の姿を眺めながら、ふと考えた。


 あの中にも、自分と同じような文字を見ている人間がいるのだろうか。


 あるいは、黒田のように、まだ何も見えていないだけの人間も。


 そんなことを考えていると、視界の隅に青白い表示が一瞬だけ現れた。


『解析系統の適性を確認』


『固有能力の解放準備に移行します』


 智が内容を確かめようとしたときには、すでに文字は消えていた。


「……また何か出たか?」


 独り言を漏らし、しばらく待ってみる。


 しかし、表示は戻ってこない。


 やがて信号が青に変わり、後続車が動き始めたため、智もアクセルを踏んだ。


 今はまだ、何ができるようになるのか分からない。


 それでも、少しずつ何かが変わっていることだけは確かだった。


 智は前方へ視線を戻す。


 濡れた道路の先には、いつもと変わらない札幌の街が続いている。


 その景色が、いつまで今のままでいられるのか。


 答えを知る者は、まだ誰もいなかった。






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