1:見えないステータス
「数字の向こうにあるもの」
黒田健吾は、約束の時間より十分ほど早く喫茶店に来ていた。
白石区の住宅街に近い、昔ながらの小さな店である。昼の混雑がひと段落した店内には、食後のコーヒーを楽しむ会社員が二人と、窓際で文庫本を読んでいる老人が一人。低く流れるジャズと食器の触れ合う音が、外の交通音をほどよく遠ざけていた。
結城智が入口の扉を開けると、奥の席にいた黒田が顔を上げ、軽く手を挙げた。
「結城さん。こちらです」
「どうも。早かったですね」
「私も、少し時間が空きまして」
智は向かいの椅子に腰を下ろした。
黒田は私服姿だった。濃紺のジャンパーに黒いズボンという目立たない服装で、昨日の交差点で見た警察官らしい緊張感は幾分和らいでいる。ただ、目元には薄い疲労の色があり、十分に休めていないことがうかがえた。
テーブルには、すでに半分ほど減ったコーヒーが置かれている。
「お忙しいところ、すみません」
「いや、午後の現場まで少し空いてるんで。それより、黒田さんの方こそ大変でしょう」
「まあ、普段よりは慌ただしいですね」
黒田は苦笑したが、その表情には冗談を楽しむ余裕があまりなかった。
店員が注文を取りに来たため、智はホットコーヒーを頼む。店員がカウンターへ戻るのを待ってから、黒田は上着の内ポケットより小さな手帳を取り出した。
「最初に確認しておきたいのですが、今日は任意でお話を伺っています。答えたくないことまで、無理に話していただく必要はありません」
「分かりました」
「それと、昨日お電話で伺った内容は、現時点では限られた担当者の間でしか共有していません。ただ、今後の調査によっては、関係部署へ報告する必要が出てくるかもしれません。その点だけは、先にお伝えしておきます」
智は頷いた。
何でも秘密にすると安請け合いされるより、かえって信用できる説明だった。警察の仕事にも手続きがあるだろうし、黒田一人の判断で決められないことも多いはずだ。
「それじゃ、お願いします」
「ありがとうございます。まず、その文字が見え始めたときのことから、もう一度聞かせてもらえますか」
「アパートの陥没現場ですね」
「怪物に襲われたときですか」
「ええ。腕を引っかかれて、そのあと病院へ向かう途中だったと思います」
智は右の上腕へ視線を落とした。長袖の下に残る傷跡は、今では驚くほど薄い。爪が皮膚を裂いた瞬間の痛みは鮮明なのに、身体の方は何事もなかったかのように回復しつつある。
「最初は、何かに接触したとか、適応処理を始めるとか、そんな文字でした。意味はさっぱり分からなかったですけどね」
「その後は?」
「病院で、自分の名前と年齢が出ました。あと、種族が人間だとか、適応済みだとか」
黒田のペンが手帳の上を走る。
「数字は表示されましたか」
「年齢以外は、なかったと思います」
「レベルという表示は?」
「いや、見てませんね」
「体力や魔力はどうでしょう」
「それも、最初はなかったです」
黒田はペン先を止め、少し考え込んだ。
智の方は、なぜそんな項目を尋ねられるのかが気になっていた。
「ほかの人には、そういうのが見えるんですか」
「少なくとも、そう証言している人はいます。ただ、報告されている内容にはかなり差があるんです」
「差?」
「名前だけが見える人もいれば、数字がいくつも並んでいる人もいる。逆に、怪物に接触したり、異常な地下空間へ近づいたりしても、何も見えなかったという人もいます」
智は運ばれてきたコーヒーに手を伸ばした。
同じ現象に遭遇しても、全員に同じことが起きるわけではないらしい。それなら、自分の身に現れた表示にも、何か条件があるのだろうか。
「……選ばれてるってことですかね」
「そこまでは分かりません。ただ、現時点の報告を整理すると、怪物との接触や地下空間への接近、あるいは生命の危険にさらされた経験などが、きっかけになっている可能性はあります」
「なるほど」
智はコーヒーを一口飲み、自分の経験を思い返した。
怪物に引っかかれたこと。
道路の下から吹き上がった、妙に冷たい風。
あのとき、自分の目の前に突然現れた文字。
「……全部、心当たりがありますね」
「ええ。だからこそ、詳しくお話を伺いたかったんです」
黒田は手帳を閉じず、智の顔を見た。
その視線には、疑っているというより、少しでも確かな情報を得たいという切実さがあった。
*
「結城さん。今、その表示を出すことはできますか」
ひと通り経緯を確認したところで、黒田が尋ねた。
「たぶんできますよ」
「お願いしてもよろしいですか」
「構いませんけど……黒田さんには見えないと思いますよ」
「ええ。表示された内容を読み上げていただければ十分です」
「ああ、そういうことか」
智は背もたれに身体を預け、目の前の空間へ意識を向けた。
――基本情報。
声に出したわけではない。ただ、そう考えただけで、視界の中央に薄い青白い板が浮かび上がる。
最初に見たときは、突然現れた文字に驚き、目を閉じたり顔を背けたりしたものだった。しかし、何度か試しているうちに、自分の意思で呼び出せることが分かってきた。
それでも、仕組みはまるで理解できていない。
透明な板の向こうには、黒田の顔も、テーブルも、店の壁も見えている。目の前に実物があるわけではなさそうなのに、文字だけははっきり読めるのだから、不思議というほかなかった。
『個体情報』
『結城 智』
『年齢:47』
『種族:人間』
『状態:適応済』
『固有適性:未判定』
『階位:未解放』
『称号:未取得』
智は表示を一つずつ読み上げた。
黒田は聞き漏らさないよう、手帳へ丁寧に書き込んでいく。
「階位という項目は、いつ頃から表示されていますか」
「昨日あたりですね。少なくとも、その前には気づきませんでした」
「称号も同じ頃ですか」
「ええ。今朝確認したときには、両方ありました」
「なるほど。表示される項目自体が増えている可能性もあるわけですね」
「そうみたいです」
黒田はペンを置いた。
「ほかに、何か表示できそうなものはありますか」
「さあ……どうでしょうね」
智は目の前の青白い板を見つめた。
考えてみれば、今まで自分から積極的に操作しようとしたことは少ない。突然現れた文字を読み、必要に応じて表示を消す。それだけでも十分に奇妙だったため、それ以上のことを試そうという発想がなかったのだ。
だが、もしこれが何らかの情報表示装置に近いものなら、見えている項目以外にも機能があるのではないか。
仕事で扱う機械の操作盤にも、普段は表示されていない点検項目や設定画面がある。もちろん、目の前の文字が同じ仕組みで動いているとは思えないが、試してみる価値はありそうだった。
智は意識を集中させる。
――詳しく。
何も変わらない。
――詳細情報。
やはり反応はなかった。
少し考え、別の言葉を試す。
――ステータス。
その瞬間、青白い板の輪郭がかすかに揺らいだ。
「……お?」
思わず声が漏れる。
『個体状態の詳細表示を要求しました』
『現在の適応段階では、一部情報のみ閲覧可能です』
文字が切り替わり、これまで見たことのない項目が現れた。
『身体能力:基礎値』
『感覚能力:基礎値』
『精神適応:進行中』
『魔力適応:未完了』
『技能情報:一部閲覧可能』
『経験蓄積:記録中』
智は思わず背筋を伸ばした。
新しい情報が出てきたこと自体にも驚いたが、それ以上に、ただ言葉を変えただけで表示が切り替わったことが気になった。
つまり、この仕組みは、こちらの意図をある程度理解しているらしい。
「結城さん?」
黒田が身を乗り出す。
「何か出ましたか」
「ああ。増えましたよ。今まで見たことのない項目が」
「どんな内容です?」
智は表示を読み上げた。
身体能力、感覚能力、精神適応、魔力適応。さらに技能情報と経験蓄積。
黒田は一つずつ書き留めていたが、「魔力適応」という言葉が出たところで、その手が一瞬止まった。
「……魔力、ですか」
「そう書いてありますね」
「具体的な数値は?」
「いや、出てません。基礎値とか、進行中とか、そういう表現だけです」
「レベルについては?」
「今のところ、見当たらないですね」
黒田は手帳へ視線を落とし、しばらく考え込んだ。
智には、その沈黙の意味がよく分からなかった。
「そんなに珍しいんですか」
「少なくとも、私が把握している報告の中では、ここまで適応状況が細かく表示されたという話は聞いていません。ただし、私が知っている情報も限られていますから、これが特別な事例なのかどうかは判断できません」
「そうですか……」
智は改めて表示を眺めた。
身体能力。
感覚能力。
魔力適応。
経験蓄積。
どれも、自分自身のことを示しているはずなのに、どこか機械の点検表を読んでいるような気分になる。
人間の身体や経験が、こうして項目ごとに整理され、何らかの基準で評価されている。
考えてみれば、ずいぶん奇妙な話だった。
「……黒田さん」
「はい」
「これ、誰が作ったんでしょうね」
「何を、ですか」
「この表示ですよ」
智は自分の目の前を指さした。
「名前や年齢だけなら、まだ分かります。いや、それだって十分おかしいんですけどね。でも、魔力だの経験だの、こっちが知らないことまで勝手に調べて、記録してるわけでしょう」
黒田は黙って耳を傾けている。
「普通、こういう仕組みって、誰かが作らなきゃ存在しませんよね」
その言葉を口にした途端、智は自分で少し怖くなった。
誰かが作った。
もし本当にそうなら、その誰かは何者なのだろう。
そして、何のために人間の情報を集めているのか。
黒田はすぐには答えず、しばらく考えてから口を開いた。
「少なくとも、何らかの規則に従って動いているようには見えます。ただ、それが人工的に作られたものなのか、別の原理による現象なのか、現段階では何とも言えません」
「……そうですよね」
智は表示を消した。
青白い板が視界から消えると、テーブルの木目やコーヒーカップの白さが、妙にはっきり感じられた。
実際には何も変わっていない。
ただ、目の前に文字があるかないか。
それだけの違いなのに、世界の見え方まで変わってしまったような気がする。
*
「もう一つ、確認してもよろしいでしょうか」
黒田が手帳のページをめくった。
「結城さんは、物の状態が分かるとおっしゃっていましたね」
「ああ。材質とか、壊れている場所とかですね。ただ、何でも分かるわけじゃありませんけど」
「例えば、このカップでも?」
黒田は自分のコーヒーカップを少し持ち上げた。
白い陶器製で、取っ手の根元に薄い染みがある。長く使われているらしく、縁の一部には細かな擦れ跡が見えた。
「やってみましょうか」
智はカップへ視線を向け、意識を集中させる。
――このカップを調べる。
青白い文字が浮かんだ。
『対象:陶器製容器』
『構造状態:概ね正常』
『表面に微細な摩耗を確認』
「……陶器製容器。構造は概ね正常で、表面に細かい摩耗があるそうです」
黒田はカップを裏返すように眺めた。
「なるほど。では、こちらはどうでしょう」
今度は腕時計を外し、テーブルに置いた。
黒い文字盤の、少し古い時計だった。金属製のベルトには細かな傷があり、長年使い込まれていることが分かる。
智は時計へ意識を向ける。
『対象:機械式腕時計』
『内部機構:作動中』
『一部部品に摩耗傾向』
『推奨:定期整備』
表示を読み上げると、黒田は驚いたように眉を上げた。
「本当に、そう出たんですか」
「ああ。そろそろ整備した方がいいみたいですよ」
「実は、最近少し遅れるんです。十年以上使っていますが、一度も整備に出したことがなくて」
「そりゃ、一度見てもらった方がいいですね」
二人は顔を見合わせ、思わず笑った。
怪物や地下空間について話していたときとは違い、古い腕時計の不調なら、智にも馴染みのある話だった。
「……便利ですね」
黒田が言う。
「まあ、仕事には使えそうです」
智も笑ったが、その表情はすぐに引き締まった。
「ただ、これには厄介なところもあるんです」
「といいますと?」
「昨日、シャッターの修理で失敗しました」
智は、前日に起きた出来事を説明した。
動きの悪いシャッターを調べた際、レールの抵抗に問題があると分かり、そこを調整したこと。しかし、実際にはブレーキ機構にも異常があり、危うく子供に怪我をさせるところだったこと。
黒田は途中で口を挟まず、最後まで聞いていた。
「表示された内容そのものは、間違ってなかったんです。でも、表示されなかった部分まで正常だと思い込んでしまった」
智はカップを置いた。
「機械の点検でも同じなんですけど、一か所悪いところが見つかったからって、それが全部とは限らないでしょう。そんな当たり前のことを、忘れてました」
黒田はしばらく考えた。
「つまり、その表示が示す情報は正しくても、それだけで十分とは限らない」
「ああ。そういうことです」
「……重要な話ですね」
黒田は手帳へ書き込んだ。
智は窓の外に目を向ける。
朝から降っていた雨は、いつの間にか上がっていた。濡れた道路を車が走り、歩道には傘を畳んだ人々の姿がある。
いつもと変わらない札幌の風景。
けれど、世界のどこかでは手から青白い光を生み出す人間が現れ、目の前に数字が見えるという人間も増えている。
そして、自分には物の状態が分かる。
その変化が便利なものなのか、危険なものなのか。
今のところ、どちらとも言い切れなかった。
「黒田さん」
「はい」
「これ、いつか普通になるんですかね」
黒田は少し考えた。
「……分かりません」
「そうですか」
「ただ、普通というものは、案外簡単に変わるのかもしれませんね」
智は黒田を見た。
黒田は窓の外へ視線を向けたまま、言葉を続ける。
「昨日まで当たり前だったことが、今日は通用しない。警察の仕事でも、そういうことはあります。もっとも、今回の変化は、今まで経験したものとは比べものになりませんが」
「……でしょうね」
「それでも、人が困っているときに助けることまで、変わる必要はないと思っています」
智はしばらく黙っていた。
黒田がなぜ警察官になったのか、どんな現場を経験してきたのかは知らない。しかし、その言葉には、単なる建前ではない重みが感じられた。
「……そうですね」
智は小さく頷き、残っていたコーヒーを飲み干した。
*
喫茶店を出ると、雲の切れ間から薄い日差しが差していた。
雨上がりの空気には、濡れたアスファルトと土の匂いが混じっている。通りを走る車が水たまりを踏むたび、小さな水音が歩道まで届いた。
黒田は店の前で足を止めた。
「今日はありがとうございました。お話を伺えて、非常に参考になりました」
「こちらこそ。少しすっきりしましたよ」
「そう言っていただけるなら、よかったです」
黒田は名刺を差し出した。
「何か変わったことがあれば、こちらへ直接連絡してください。すぐに対応できるとは限りませんが、できるだけ確認します」
「分かりました」
智は名刺を受け取り、財布へしまおうとした。
そのとき、黒田がふと思い出したように口を開いた。
「そういえば、結城さん」
「何です?」
「先ほどの表示について、もう一つだけ」
「はい」
「ほかの人間を調べることはできますか」
智は思わず顔を上げた。
「……人間を?」
「ええ。物の状態が分かるのであれば、人の状態についても何か分かるのではないかと思いまして」
智は黒田を見つめた。
今まで、その発想はなかった。
工具、金属、建具、機械。
調べてきたのは、仕事に関係するものばかりである。
人間を調べようと思ったことは、一度もなかった。
それに、たとえ調べられるとしても、本人の知らない情報まで見えてしまう可能性がある。
「……やってみてもいいんですか」
「もちろんです。私自身のことですから、構いません」
黒田は少し姿勢を正した。
智は一度息を整え、その顔へ意識を向ける。
――黒田さんの状態を調べる。
最初は何も起こらなかった。
時計やカップを調べたときとは、反応が違う。
対象を認識できていないのか、それとも、人間に対しては別の条件があるのだろうか。
智は考え直し、もう一度だけ意識を集中させた。
――目の前の人間の、基本的な状態を確認する。
視界の端で、青白い光がかすかに揺らいだ。
『対象を認識しました』
『対象種別:人間』
『個体情報へのアクセスを要求』
智は息を止めた。
続いて、文字が現れる。
『他個体の詳細情報は制限されています』
『現在の適応段階では、基本情報のみ参照可能です』
その下に、新しい表示が加わった。
『対象:黒田 健吾』
『種族:人間』
『状態:正常』
『適応反応:微弱』
智は思わず目を細めた。
黒田の名前が出ている。
しかも、適応反応という項目まである。
名前については、すでに本人から聞いている。しかし、今はその名前が、目の前の表示にも確かに記されていた。
「……見えました」
智が言うと、黒田の表情が引き締まった。
「何が分かりましたか」
「黒田さんの名前と、状態です。あと……適応反応っていう項目もあります」
「名前まで?」
「ああ。黒田健吾って、ちゃんと出てます」
智は表示内容を一つずつ読み上げた。
黒田はしばらく黙っていたが、やがて自分の手へ視線を落とした。
「……適応反応が微弱、ですか」
「そう書いてあります」
「私自身には、今のところ何も見えていません」
「そうなんですか」
「ええ。怪物を見たことはありますし、異常な地下空間にも近づいています。それでも、結城さんのような表示は一度も」
智は黒田を見た。
同じような経験をしていても、表示が現れる人間と、そうでない人間がいる。
その違いが何なのかは分からない。
しかし、黒田の身体にも何らかの反応が起きているのだとしたら、今は何も見えなくても、いずれ変化が現れる可能性はあるのかもしれなかった。
「結城さん」
黒田が慎重に口を開いた。
「これは、今までのお話とは少し違いますね」
「……そうですね」
「あなたの表示は、自分自身だけでなく、ほかの人間の情報まで取得できる。しかも、本人が認識していない状態についても、何らかの情報を示している」
智は頷いた。
黒田は言葉を選びながら続ける。
「その能力が、どこまで及ぶのか。今は誰にも分かりません」
智は青白い表示を見つめた。
黒田の名前。
状態。
適応反応。
本人が知らない情報が、当たり前のように並んでいる。
もし、もっと詳しく調べられるようになったら。
身体の状態だけでなく、本人が隠しておきたいことまで分かってしまうのだろうか。
そこまで考えたところで、智は嫌な気分になった。
人のことを、勝手に覗き見しているような気がしたのだ。
智は表示を消した。
「……あんまり気分のいいもんじゃないですね」
黒田が少し意外そうな顔をする。
「どうしてです?」
「本人が知らないことまで、勝手に見えるんで」
智は少し考え、言葉を続けた。
「今回は黒田さんがいいって言ってくれたから調べましたけど、そうじゃなかったら……何か、違う気がするんですよ」
黒田はしばらく智を見ていた。
やがて、ゆっくり頷く。
「……その感覚は、大事にした方がいいと思います」
「そうですかね」
「ええ。できることと、やっていいことは、必ずしも同じではありませんから」
智はその言葉を聞き、少しだけ肩の力を抜いた。
新しい能力があると分かれば、何ができるのか試したくなる。
しかし、それを使う相手もまた人間なのだ。
工具や機械を調べるのとは、話が違う。
「じゃあ、俺はそろそろ仕事に戻ります」
「はい。今日はありがとうございました」
「こちらこそ。また何か分かったら連絡します」
二人はそこで別れた。
黒田は店の前に残り、智は少し離れた駐車場へ向かう。
歩きながら、右手を開いた。
掌には、もう傷跡がほとんど残っていない。
その手を見つめていると、視界に青白い文字が浮かんだ。
『情報取得の精度が向上しました』
『個体解析の基礎条件を達成』
『固有適性の判定を開始します』
智は足を止めた。
今まで何度か表示されてきた、適性という言葉。
その判定が、ようやく始まるらしい。
文字がゆっくり切り替わる。
『判定中……』
しばらく待つと、最後に一行が加わった。
『固有適性:解析系統』
智はしばらく、その文字を見つめた。
「……解析、か」
初めて、自分の身に起きていることに、名前らしいものが付いた。
もちろん、それだけで何かが分かったわけではない。
解析系統とは何なのか。
どこまで情報を調べられるのか。
その能力を使い続けることで、身体に何か影響はないのか。
疑問はいくらでもある。
それでも、ただ不可解だった現象に、少しだけ輪郭が生まれたような気がした。
智は表示を閉じ、車のドアを開けた。
運転席に座ると、ダッシュボードの上に置いた小さなメモ帳が目に入る。
午後は豊平区のマンションで玄関ドアの調整。そのあと、白石区の倉庫でアルミサッシの点検が入っていた。
いつも通りの仕事である。
しかし、今日はその予定が、少しだけ頼もしく思えた。
分からないことがどれほど増えても、目の前には自分の手で直せるものがある。
ドアが閉まらなければ原因を調べ、金具が傷んでいれば交換する。使う人が困らないよう、最後まで確認する。
それは、四十七年間生きてきた智が、長い時間をかけて身につけてきた仕事だった。
「……まあ、まずは仕事だな」
エンジンをかけ、ゆっくり車を発進させる。
雨上がりの札幌には、雲の切れ間から薄い日差しが差し込んでいた。
交差点で信号が赤に変わり、智はブレーキを踏む。
歩道を渡っていく人々の姿を眺めながら、ふと考えた。
あの中にも、自分と同じような文字を見ている人間がいるのだろうか。
あるいは、黒田のように、まだ何も見えていないだけの人間も。
そんなことを考えていると、視界の隅に青白い表示が一瞬だけ現れた。
『解析系統の適性を確認』
『固有能力の解放準備に移行します』
智が内容を確かめようとしたときには、すでに文字は消えていた。
「……また何か出たか?」
独り言を漏らし、しばらく待ってみる。
しかし、表示は戻ってこない。
やがて信号が青に変わり、後続車が動き始めたため、智もアクセルを踏んだ。
今はまだ、何ができるようになるのか分からない。
それでも、少しずつ何かが変わっていることだけは確かだった。
智は前方へ視線を戻す。
濡れた道路の先には、いつもと変わらない札幌の街が続いている。
その景色が、いつまで今のままでいられるのか。
答えを知る者は、まだ誰もいなかった。




