5:札幌の異変
「日常の向こう側」
その夜、結城智は夕食を済ませ、台所で食器を洗っていた。
窓の外はすっかり暗くなっている。水道の蛇口を閉めると、冷蔵庫の低い運転音が聞こえてきた。昼間の出来事を考えないようにしていたつもりだったが、静かになると、どうしてもあの事務所ビルのことが頭に浮かぶ。
誰もいない廊下で、勝手に開くドア。床下から響く、規則的な金属音。
あれが単なる設備の不具合だったなら、どれほど気が楽だろう。
智は洗い終えた皿を水切りかごへ置き、タオルで手を拭いた。ちょうどそのとき、食卓に置いていたスマートフォンが震え始める。
画面に表示されていたのは、兄の結城誠という名前だった。
「もしもし」
『おう。生きてるか』
「何だよ、兄貴まで」
思わず苦笑が漏れる。今朝、修司からも似たようなことを言われたばかりである。
『直樹から聞いたぞ。お前、また道路が落ちたところにいたんだって?』
「またって何だよ」
『この前は怪物に引っかかれて、今度は道路だろ。次は何だ、隕石でも落ちてくるのか』
「勘弁してくれ。そんなもんまで降ってきたら、さすがに仕事どころじゃない」
受話口の向こうで、誠が小さく笑った。
五十一歳になる誠は、三人兄弟の長男である。昔から口数が多い方ではないが、必要なことは遠慮なく言う性格だった。智や弟の直樹が何かをしでかしても、頭ごなしに怒鳴りつけることは少なく、まず事情を聞こうとする。
もっとも、だからといって甘い兄だったわけでもない。
小学生の頃、智が友人と喧嘩をして帰ったことがある。相手を殴った右手の拳が赤く腫れていたのを見て、誠はしばらく黙っていた。
そして、怪我の具合を確かめたあと、こう言ったのだ。
『お前の手は、そんなことに使うためについてるんじゃない』
そのときは説教の意味がよく分からず、ただ気まずい思いをした記憶がある。しかし、大人になって道具を扱う仕事に就いてからは、何かの拍子にその言葉を思い出すことがあった。
『母さんからも電話があったぞ』
兄の声に、智は意識を戻した。
「俺も話したよ。心配してたな」
『そりゃするだろ。ニュースで札幌の映像が流れるたびに、お前が映ってないか探してるらしいぞ』
「大げさだなあ」
『大げさで済めばいいんだけどな』
誠の声が少し低くなる。
『……腕はどうなんだ』
「もう大丈夫だよ。仕事も普通にできてる」
『病院には行ったのか』
「ああ、行った」
『医者は何て?』
「しばらく経過を見ろってさ」
嘘ではない。ただ、医者が首をかしげるほど傷の治りが早かったことまでは話していなかった。
智は無意識に右の上腕へ手を当てる。
怪物の爪が食い込んだときの痛みは、今でもはっきり覚えている。あれほどの傷が、数日でほとんど分からなくなるなど、普通なら考えられない。実際、病院でも明確な説明は得られなかった。
『無理するなよ』
「ああ」
『お前の「ああ」は信用ならん』
「母さんにも同じこと言われたぞ」
『そりゃそうだろ。家族なんだから、考えることは似るさ』
智は椅子を引き、食卓に腰を下ろした。
家族からすれば、自分は昔から危なっかしい人間に見えているのかもしれない。本人としては、そんなつもりはないのだが、気になったことを確かめずにいられない性分なのは否定できなかった。
『それでな、智。今度の日曜、時間あるか』
「仕事が入らなきゃな。何かあった?」
『父さんがお前に見てほしいものがあるらしい』
「何を?」
『物置の戸だ。閉まらなくなったって』
智は思わず笑った。
「そんなの兄貴でも直せるだろ」
『それがな、俺が触ったら余計ひどくなった』
「何やってんだよ」
『知らん。ネジを締めたら戸が傾いた』
「……締める場所を間違えたんだろ。建具ってのは、適当にネジを締めりゃ直るもんじゃないんだぞ」
『だからお前を呼んでるんだ。専門家に任せるのが一番だろ』
少しも悪びれない兄の声に、智はとうとう吹き出した。
父の正一は七十六歳。長年建築関係の仕事をしてきた人間で、多少の修理なら自分で済ませてしまう。そんな父がわざわざ智を呼ぶということは、戸の傷みがそれなりに進んでいるのかもしれない。
あるいは、ただ息子たちに顔を見せてほしいだけなのか。
最近は、そんなことも考えるようになっていた。
「分かった。日曜、昼前には顔出すよ。戸の状態を見て、必要なら部品も交換する」
『助かる。母さんには俺から伝えとく』
「昼飯、用意してくれるかな」
『もうそのつもりらしいぞ。お前が来るなら、何か作るって言ってた』
「そりゃ楽しみだ」
智は笑った。
母の和子は七十三歳になるが、今でも家族が集まるとなれば、人数以上の料理を用意しようとする。食べきれないと言っても、帰りには必ず何かを持たされるのが常だった。
そんな日曜の光景を思い浮かべていると、ここ数日の異変が少し遠いものに感じられた。
しかし、誠の話はそれで終わらなかった。
『それとな、智』
「何だ?」
『最近、変なことが多いだろ』
智は返事を控えた。
『俺には何が起きてるのか分からん。ニュースを見ても、正直さっぱりだ。怪物だの、地下に変なものが出てきただの……昔なら笑い話で済んだようなことが、毎日のように報道されてる』
「……俺も分からんよ」
『そうか』
誠は少し間を置いた。
『なら、分からんうちは無茶するな。仕事なら仕方ないこともあるだろうけど、仕事じゃないなら、危ない場所へわざわざ近づく必要はない』
昼間の事務所ビルが頭に浮かぶ。
地下二階へ続く階段。図面にない空洞。そして、床の下から響いてきた音。
正直なところ、今でも確かめてみたい気持ちはある。
あの亀裂の下に何があるのか。札幌の道路で見た石材と、本当に同じものなのか。
だが、知りたいという気持ちだけで近づいていい場所ではないことも、分かっているつもりだった。
『お前、昔から気になったら確かめないと気が済まないからな』
「……よく覚えてるな」
『兄貴だからな』
誠は、何でもないことのように言った。
その短い一言が、妙に胸に残る。
智は食卓に置いた自分の右手を見つめた。今では傷跡もほとんど目立たないが、あの怪物に襲われたとき、ほんの少しでも動きが遅れていたらどうなっていたか。
考えたくもない。
「……分かったよ、兄貴。気をつける」
『おう。日曜、待ってるぞ』
「ああ。またな」
通話が切れたあとも、智はしばらくスマートフォンを手にしたままだった。
日曜には実家へ行く。
父の物置の戸を直し、母の作った昼飯を食べ、兄とくだらない話をする。
ほんの数日前までなら、特別なことでも何でもなかった予定である。
けれど今は、その何でもない一日を、無事に迎えられることが少しばかり大切に思えた。
*
翌朝、札幌の街は冷たい雨に包まれていた。
智はいつもより少し早く家を出た。昨日、作業を中断した事務所ビルの管理会社から連絡があり、ドアクローザー交換の完了確認に立ち会うことになっていたのである。
地下で起きている異変については、消防と建物管理者が調査に入っているらしい。詳しい状況までは知らされていないが、建物の一部が立ち入り禁止になったという話だった。
雨に濡れた道路を走り、現場へ到着すると、入口の近くに見慣れた作業着姿が見えた。
「結城さん!」
三浦拓海だった。
雨で濡れた前髪を手で払いながら、小走りで近づいてくる。
「おはようございます。すみません、雨の中」
「おはよう。こっちは仕事だからな。それより、地下はどうなった?」
三浦の表情が曇る。
「まだ詳しいことは分かってないんですけど……地下二階の床、昨日より亀裂が増えてるらしいです」
「増えてる?」
「はい。昨日の調査で確認した範囲より、さらに広がってるみたいで」
智は建物を見上げた。
外壁には目立った異常がなく、窓も柱も、外から見る限りではいつも通りである。だが、地下の状態が悪化しているなら、地上部分に異常が見えないからといって安心はできない。
「立ち入り禁止にしたのか?」
「地下二階は全面封鎖です。地下一階も、必要な設備点検以外は入れないことになりました」
「それがいい。無理に使い続けるより、原因を調べる方が先だ」
三浦は頷いたものの、何か言いかけて口を閉じた。
「どうした?」
「……結城さんに、見てもらいたい写真があるんです」
「写真?」
「昨日、地下の調査に入った人が撮ったものです。管理会社には報告済みなんですけど、俺、どうにも気になって」
三浦はスマートフォンを取り出し、画面を智へ向けた。
薄暗い地下室の床に、複数の亀裂が走っている。照明が十分ではないため細部は見えづらいが、床面の一部が沈み込み、表面の仕上げ材が剥がれていることは分かった。
ただ、智の目を引いたのは亀裂の大きさではない。
その形だった。
直線と直角が、一定の間隔で組み合わされている。
通常、床のひび割れは下地の状態や荷重のかかり方によって不規則に広がるものだ。もちろん、目地や構造上の弱い部分に沿って直線的に割れることもある。しかし、写真の亀裂は、それだけでは説明しづらいほど整った形をしていた。
まるで、床の下に巨大な四角い構造物があり、その輪郭に沿って表面が割れているように見える。
「……これ、昨日の交差点と似てるな」
「え?」
「ああ、いや。こっちの話だ」
智は写真を拡大した。
亀裂の奥に、灰色のものが覗いている。
コンクリートの破断面とは、少し質感が違う。少なくとも写真で見る限り、昨日の道路の下に現れた石材とよく似ていた。
「調査した人も、変だって言ってました」
「何が?」
「床下に空洞があるらしいんです。でも、建築図面には何もないんですよ。配管用のスペースでもないし、昔の地下室ってわけでもなさそうで」
智は画面から目を離せなかった。
図面にない空洞。
そこから現れる灰色の石材。
さらに、一定の規則に従っているような亀裂。
昨日の交差点でも、似たような光景を目にしている。
そして、黒田という警察官から聞いた話では、こうした異変は札幌だけに限らないという。
東京でも、大阪でも、海外でも。
地面の下から、説明のつかない構造物が見つかっている。
智は写真を見つめながら、別の疑問を抱いていた。
これらは本当に、最近になって現れたものなのだろうか。
もちろん、そう考えるのが自然なのかもしれない。昨日まで何もなかった場所に、突然、見知らぬ石材が現れたのだから。
だが、もし違ったら。
最初から地面の下に存在していたものが、何らかの理由で姿を見せ始めただけだとしたら。
その可能性を考えた瞬間、背筋に冷たいものが走った。
「結城さん?」
三浦の声に、智は顔を上げる。
「何か分かります?」
「……いや。分からん」
それは本当だった。
建築の仕事を長く続けてきたからといって、地面の下に現れた未知の構造物の正体まで分かるわけではない。
ただ、今までの経験が通用しないものを見ていることだけは、嫌というほど理解できた。
「写真は管理会社に渡してあるんだな?」
「はい。調査した人が直接報告してます」
「なら、今はそっちの判断を待とう。三浦さんも、地下へ入れって言われたら安全確認が済んでるか確かめた方がいい」
「分かりました」
智はスマートフォンを返し、建物の入口へ向かった。
雨はまだ降り続いている。
濡れた舗装に映る建物の輪郭は、足元の水たまりでゆっくり揺れていた。
*
ドアクローザーの確認は、十分ほどで終わった。
開閉速度、ラッチのかかり具合、取付金具の緩み。いずれも問題はなく、管理会社の担当者にも動作を確認してもらえた。
智は作業完了を報告し、工具箱を片づける。
「結城さん、ありがとうございました」
三浦が頭を下げた。
「ああ。地下の件、くれぐれも気をつけろよ」
「はい。……あの、結城さん」
「何だ?」
「ちょっと変なこと、聞いてもいいですか」
「内容によるな」
冗談めかして答えると、三浦は少し笑った。しかし、その笑みは長く続かず、周囲を確かめるように視線を動かしてから、声を落とした。
「結城さん、最近……何か見えたりしません?」
智の手が止まる。
「……何が?」
「いや、俺の話じゃないんですけど。知り合いに、変なものが見えるって言い出した人がいて」
三浦は言葉を選ぶように続けた。
「透明な板みたいなものが目の前に浮かんで、そこに文字が書いてあるって言うんです」
智は工具箱の取っ手を握り直した。
透明な板。
目の前に浮かぶ文字。
それだけなら、偶然似た表現を使った可能性もある。しかし、ここ数日の出来事を考えると、簡単には聞き流せなかった。
「……どんな文字だって?」
「名前とか、年齢とか。あと、数字がいくつか並んでるらしいです」
胸の奥が、わずかに跳ねた。
自分が見ているものと、よく似ている。
智は表情を変えないようにしながら、三浦の話を聞いた。
「その人、病院には行ったのか?」
「行ったらしいです。でも、検査では異常なしって言われたみたいで。本人は本当に見えてるって言い張ってるんですけど、周りは誰も信じなくて」
「……そうか」
三浦は智の顔を覗き込んだ。
「やっぱり、変ですよね」
智は少し考えた。
数日前までの自分なら、疲れているんじゃないか、病院でもう一度診てもらった方がいいんじゃないか、と答えていたかもしれない。
しかし、今は違う。
少なくとも、自分自身が同じようなものを見ている。
「変な話ではあるな。でも、本人が本当に見えてるなら、頭から否定するのも違うかもしれん」
三浦は目を丸くした。
「結城さん、信じるんですか?」
「信じるっていうか……最近は、説明のつかないことが多すぎるだろ。昨日だって、誰もいないのにドアが動いたんだから」
「ああ……確かに」
「何が起きてるのか分からないうちは、決めつけない方がいいと思うぞ」
三浦はしばらく考え込んだあと、ゆっくり頷いた。
「そうですね。本人にも、あんまり無理するなって伝えておきます」
「ああ。それがいい」
智は工具箱を持ち上げ、三浦と別れた。
駐車場へ向かいながら、視界の端を意識する。
今は何も表示されていない。
だが、自分の情報を確かめたいと思うと、見慣れ始めた半透明の表示が静かに現れた。
『個体情報』
『結城 智』
『年齢:47』
『種族:人間』
『状態:適応済』
『固有適性:未判定』
そこまでは、以前から見ていた内容だった。
しかし、その下に、見覚えのない項目が二つ増えている。
『階位:未解放』
『称号:未取得』
智は足を止めた。
階位。
称号。
どちらも、普段の生活ではほとんど使わない言葉である。若い頃に少し遊んだロールプレイングゲームを思い出したが、だからといって、この表示をゲームと同じものだと考える気にはなれなかった。
画面の中なら、敵を倒して経験を積み、強くなればそれで済む。
しかし、現実には怪我をする人間がいて、命を落としかけた人間もいる。
数日前、自分の腕を引き裂いた怪物の爪を、智はまだ覚えていた。あの痛みも、恐怖も、数字に置き換えられるようなものではない。
それに、階位が未解放で称号が未取得ということは、いずれ何らかの条件によって変化する可能性があるのだろう。
その条件が何なのか。
変化した結果、何が起きるのか。
表示を見ているだけでは、何一つ分からなかった。
「……趣味の悪い冗談だな」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からない。
智は表示を閉じ、車へ向かった。
*
昼過ぎ、智は白石区の事務所へ戻った。
雨は朝より弱まっていたが、空は相変わらず暗い。窓ガラスには細かな水滴が残り、向かいの建物の輪郭が少しぼやけて見える。
机の上には、未処理の見積書が二件。発注確認が必要な部品が三件。それに加えて、昨日のシャッター事故について、専門業者から折り返しの連絡が入っていた。
智は椅子に座ると、まずシャッター業者へ電話をかけた。
先方の説明によれば、ブレーキ機構の摩耗がかなり進んでおり、巻取り部分にも異常が見つかったという。レールの抵抗を調整しただけでは、根本的な解決にならなかったらしい。
智は受話器を握ったまま、目を閉じた。
「……そうか」
『結城さん、よく気づきましたね。あのまま使い続けてたら危なかったですよ』
「いや、俺が見落としたんだ」
『え?』
「最初にレールだけ触った。動きが悪い原因をそこだと決めつけて、ブレーキまで確認しなかったんだよ」
電話の向こうで、相手が少し黙った。
『……そうでしたか』
「ああ。店の人にも謝ってある。今後は同じことをしないようにするよ」
『でも、怪我人が出なくてよかったですね』
「本当にな」
智は静かに答えた。
電話を切ったあと、机の上のメモ用紙を一枚引き寄せる。
そこへ、短く書き込んだ。
――シャッター点検時、ブレーキ・巻取り機構を先に確認。
書いてしまえば、当たり前のことだった。
だが、当たり前のことほど、慣れた頃に抜け落ちる。
長く仕事をしていると、過去の経験から原因を推測できる場面が増えてくる。それ自体は悪いことではないし、限られた時間で効率よく修理するには必要な能力でもある。
しかし、経験があるからこそ、最初に思いついた原因へ意識が偏ることもあるのだ。
昨日の自分が、まさにそうだった。
智はペンを置き、メモを見つめた。
原因を一つ見つけたからといって、それで全部とは限らない。
そんな基本的なことを、今さら思い知らされるとは。
苦笑しながらメモを机の端へ置いた、そのとき。
視界に青白い文字が現れた。
『行動履歴を更新しました』
『自己修正行動を確認』
『技能習熟に微弱な変化を検出』
智は眉を寄せた。
また、記録されている。
自分の行動が。
失敗も、反省も。
何を基準に評価されているのかは分からないが、少なくとも、この表示は怪物との戦闘だけを対象にしているわけではないらしい。
仕事の中で考えたことまで、何らかの形で記録されている。
「……見られてるみたいで、落ち着かんな」
智は椅子の背にもたれた。
もちろん、誰かが本当に見ていると決まったわけではない。だが、自分の知らない仕組みに行動を記録されているという事実は、決して気持ちのいいものではなかった。
しばらく表示を眺めていたが、それ以上の情報は現れない。
智は意識を切り替え、机の上の見積書へ手を伸ばした。
その直後、スマートフォンが鳴った。
画面には、登録していない番号が表示されている。
智は一瞬迷ったものの、仕事の電話かもしれないと思い、通話を開始した。
「はい、結城です」
『結城智さんのお電話でよろしいでしょうか』
落ち着いた、低い男性の声だった。
「そうですが」
『北海道警察の黒田です。昨日、菊水の交差点でお話しした』
「ああ、黒田さん」
智は姿勢を正した。
昨日の陥没現場で対応していた警察官である。現場の状況を確認し、周囲の人間から話を聞いていた姿が印象に残っていた。
『突然すみません。少し確認したいことがありまして』
「何でしょう」
『昨日、あなたが道路の陥没に気づいたときのことです』
智は机の上のメモを裏返した。
「はい」
『あの場所に、以前から異常があると知っていましたか』
「いや、知らなかったです」
『では、道路が沈み始める前に、何か変わったものを見たり、聞いたりしましたか』
智は答えかけて、言葉を止めた。
道路に亀裂が入る前。
あのとき、自分は何を見たのか。
青白い文字。
空間の異常を知らせる、説明のつかない表示。
それを話すべきなのだろうか。
相手は警察官である。怪物の存在が公になり、世界中で異変が起きている今なら、頭から否定されることはないかもしれない。
しかし、だからといって、自分でも理解できていないものを簡単に説明できるわけではなかった。
「……道路に亀裂が入るのが見えました」
『それより前は?』
「横断歩道にいた人が立ち止まったんです。それで、何かおかしいと思って」
電話の向こうで、紙をめくるような音がした。
『分かりました』
黒田は淡々と答えたが、電話を切る様子はない。
『もう一つ、聞いてもいいですか』
「何でしょう」
『あなたは数日前のアパートの現場でも、早い段階で異常に気づいていますね』
「……たまたまですよ」
『そうかもしれません』
黒田の声は穏やかだった。
『ただ、似たような現場に二度も居合わせる人は、そう多くありません。責めているわけではないんです。むしろ、あなたの行動で助かった人がいることも承知しています』
「……はい」
『だからこそ、何か気づいたことがあれば教えてほしいんです』
智は返事をせず、続きを待った。
『最近、全国で似たような事例が増えています。道路の陥没だけではありません。建物の地下、倉庫、地下鉄の設備区画……さまざまな場所で、説明のつかない異変が報告されています』
智は机の上の見積書を見つめた。
昨日の事務所ビルも、その一つなのだろうか。
『中には、現場にいた人間同士で、見たものの証言が食い違う事例もあるんです』
「……食い違う?」
『ある人には、ただの暗闇に見える。別の人には、石の階段が見える。そんな報告があります』
智は受話器を握り直した。
石の階段。
その言葉には、聞き覚えがあった。
『さらに、そこに文字のようなものが見えたと言う人もいます』
心臓が、一度だけ強く打った。
智は窓の外へ目を向けた。
雨に濡れた道路を、車が走っている。向かいの建物の入口では、傘を畳んだ男が靴の水を払っていた。
何も変わらない、いつもの街の風景。
その中で、黒田の言葉だけが妙にはっきりと耳に残った。
「……文字?」
『はい』
黒田の声が少し低くなる。
『結城さん。あなたには、何か見えていませんか』
智は答えなかった。
つい先ほど、三浦からも似たような話を聞いたばかりだった。
透明な板。
名前や年齢。
目の前に浮かぶ文字。
自分だけの異常だと思っていたものが、どうやらそうではないらしい。
しかし、ほかにも同じものを見ている人間がいるからといって、それを誰にでも話していいとは限らなかった。
智はしばらく考えたあと、静かに口を開いた。
「……黒田さん」
『はい』
「一つ、聞いてもいいですか」
『どうぞ』
「もし、俺に何か見えていたとして……それを話したら、どうなるんです?」
電話の向こうが静かになった。
黒田はすぐには答えなかった。
軽々しく安心させる言葉を口にしないところが、かえって信用できるようにも思える。
やがて、黒田が言った。
『正直に言えば、私にも分かりません』
智は目を閉じた。
『ただ、今は分からないことが多すぎます。だから、少しでも情報が欲しいんです』
「……そうですか」
『結城さん。あなたが何を見ているにせよ、それが危険なものかどうかも、まだ分かっていません。もちろん、話していただいた内容をどう扱うかについては、慎重であるべきだと思っています』
智は受話器を耳に当てたまま、机の上を見つめた。
黒田の言葉を、全面的に信用していいのかは分からない。
警察官だからといって、何でも知っているわけではないだろうし、黒田個人の判断だけで済まないこともあるはずだ。
それでも、今の自分には、情報が少なすぎた。
何も知らないまま、一人で考え続けることにも限界がある。
智はゆっくり息を吐いた。
「……名前と年齢が、見えます」
電話の向こうで、黒田が息を呑む気配がした。
「自分の名前と、年齢です。目の前に、文字が浮かぶんですよ。最初は怪物に襲われたあとでした」
『……続けてください』
「それから、物を見ていると、たまに材質とか状態が分かることがあるんです。ただ、いつでも何でも分かるわけじゃないし、間違うこともあります」
智は机の端に置いたメモへ目を向けた。
シャッター点検の注意書き。
昨日の失敗を思い出す。
「……便利なだけのものじゃないみたいです。分かったつもりになって、危ない判断をすることもある」
黒田はしばらく黙っていた。
智も、それ以上は急いで話さなかった。
窓の外では、弱まっていた雨が再び強くなり始めている。
やがて、黒田が静かに口を開いた。
『結城さん』
「はい」
『あなたと同じようなことを話している人が、ほかにもいます』
智は目を上げた。
『ただし、あなたのように物の状態まで分かるという話は、私は初めて聞きました』
「……そうですか」
『ええ。ですから、もう少し詳しくお話を伺いたいんです』
黒田は一拍置いた。
『一度、直接お会いできませんか。警察署へ来ていただく必要はありません。場所はこちらで調整します』
智はすぐには返事をしなかった。
断ることもできる。
今まで通り、何も知らないふりを続けることも。
だが、それで自分の身に起きている変化が消えるわけではない。むしろ、分からないまま一人で抱え込む方が、今後は危険になるかもしれなかった。
それに、黒田の話が本当なら、同じような現象を経験している人間が、すでにほかにもいる。
その人たちが何を見て、何を知っているのか。
智自身も、確かめたいと思っていた。
「……分かりました」
『ありがとうございます』
「ただ、一つだけ」
『何でしょう』
「俺も、何が起きてるのか知りたいんです。話をするだけじゃなくて、分かる範囲で構わないから、そっちの情報も教えてもらえませんか」
黒田は少し間を置いた。
『……お約束できる範囲には限りがありますが、可能な限りお話しします』
「それなら、お願いします」
『日程が決まりましたら、改めてご連絡します』
「ああ。よろしくお願いします」
電話が切れた。
智はスマートフォンを机に置き、しばらく椅子に座ったままだった。
自分の身に起きていることを、初めて他人に打ち明けた。
その事実が、思っていた以上に重く感じられる。
話してよかったのか。
黒田は信用できるのか。
今後、何か面倒なことに巻き込まれるのではないか。
考え始めれば、不安はいくらでも浮かんでくる。
しかし、不思議と後悔はなかった。
少なくとも、自分だけが異常なのではないと分かったのだから。
智は窓の外を見た。
雨に濡れた札幌の街を、車が走っている。歩道では傘を差した人々が足早に行き交い、向かいの建物では、いつも通り仕事が続けられているのだろう。
そのどこかに、自分と同じものを見ている人間がいる。
そして、世界のどこかには、手から青白い光を生み出す人間まで現れている。
智は右手を開いた。
怪物に引き裂かれたはずの上腕には、もうほとんど傷跡が残っていない。自分の身体でさえ、数日前とは違うものになりつつある。
そのとき、視界に半透明の文字が現れた。
『適応状態:安定』
『個体情報の更新準備が整いました』
智は目を細めた。
更新。
昨日から、何度か見かけている言葉だった。
何が変わるのかを確かめようと表示を見つめていると、さらに一行が加わる。
『階位情報の解放条件を確認』
そこで表示は止まった。
智はしばらく待ったが、続きは現れない。
「……また途中か」
小さく苦笑する。
階位とは何なのか。どうすれば解放されるのか。確認されたという条件が、具体的に何を指しているのか。
相変わらず、肝心なことは分からないままである。
智は表示を閉じ、机の上の見積書を手に取った。
分からないことは山ほどある。
だが、今日中に返事をしなければならない仕事もあるのだ。
智はペンを持ち、見積書の数字を確認し始めた。
窓の外では、雨が静かに降り続いている。
街を行き交う人々の姿も、道路を走る車も、昨日までと大きく変わったようには見えなかった。
それでも智は、もう以前と同じ気持ちでその景色を眺めることができない。
世界が変わり始めている。
そして、その変化は遠い国のニュースや地下の暗闇だけでなく、自分自身の内側にまで及んでいるのだ。
智は見積書へ視線を戻した。
今はまだ、目の前の仕事を片づけるしかない。
日曜には、父の物置の戸を直しに行く約束もある。
その当たり前の日常を守るために、これから何を知り、何を選ばなければならないのか。
答えは、まだ見つからなかった。




