4:札幌の異変
「世界で最初の魔法」
結城智がその映像を目にしたのは、翌朝のことだった。
事務所のパソコンに向かい、昨夜のうちに届いていた部品の見積回答を確認していると、画面の右下に海外ニュースの通知が現れた。普段なら気にも留めず閉じてしまうところだが、添えられた小さな画像には、どうにも見過ごせないものが映っている。
崩れた石柱が転がる薄暗い地下空間。その中央に立つ女性の右手から、青白い光が噴き出していた。
「……何だ、これ」
智はマウスを動かし、記事を開いた。
動画が始まると、地下空間の様子が少しずつ明らかになる。灰色の石壁、床に散乱する瓦礫、ライトの光が届かない奥の暗闇。撮影者は何かから逃げながらカメラを回しているらしく、映像は激しく揺れ、ときおり荒い呼吸がマイクに入っていた。
その画面の中央に、ヘルメットをかぶった若い女性がいる。
女性の前には、狼に似た灰色の獣が立ちはだかっていた。肩の高さは人間の腰ほどもあり、背中には骨とも岩ともつかない突起が並ぶ。口元から覗く牙は不自然なほど長く、四肢の関節も、智の知る動物とはどこか違っていた。
女性がフランス語らしい言葉を叫ぶ。
背後にいる誰かへ退避を促しているようにも聞こえるが、智には内容までは分からない。ただ、その切迫した声と、カメラの揺れ方から、撮影者たちが相当な危険にさらされていることだけは伝わってきた。
獣が身を沈める。
次の瞬間、床を蹴った。
女性は後ろへ下がりながら右手を突き出した。何かを投げたわけでも、隠し持っていた道具を使ったわけでもない。少なくとも、映像に映る範囲ではそう見えた。
その掌から、青白い光が噴き出したのである。
光は獣の前脚を包み、足元の床へと広がっていく。濡れたように黒かった石の表面が一瞬で白く変わり、飛びかかろうとしていた獣は足を滑らせ、横倒しになった。
周囲の人間が、その隙に負傷者を引きずって後退する。
女性自身も、何が起きたのか理解できない様子で右手を見つめていた。
そこで映像が途切れる。
智はコーヒーカップを机に置いた。
もう一度、再生する。
光が現れる直前の女性の動き。掌の向き。獣の足元が白く変わる瞬間。映像を一時停止しては戻し、気になる部分を何度も確認した。
どこかに仕掛けがあるのではないか。特殊な噴射装置を袖に隠しているのかもしれないし、映像そのものが加工されている可能性もある。
そう考える方が、よほど自然だった。
しかし、三度目の再生で智の目を引いたのは、光でも獣でもなかった。
女性の表情である。
獣が倒れた直後、彼女は自分の右手を見つめていた。助かったという安堵よりも、何が起きたのか理解できない戸惑いが強く、目には明らかな恐怖が浮かんでいる。
その顔を見たとき、智は数日前の自分を思い出した。
初めて、視界に青白い文字が浮かんだとき。
あのときも、自分の目がおかしくなったのかと思った。疲労か、何かの病気か。それとも、頭を打った影響なのか。考えられる理由をいくつも並べてみたものの、結局どれにも納得できず、今に至っている。
映像の女性も、同じなのかもしれない。
自分の身に起きたことを、本人が一番信じられない。
少なくとも、智にはそう見えた。
動画の下には、日本語に翻訳された記事が掲載されている。
フランス南部で救助活動に参加していた女性が、地下空間で未知の発光現象を起こしたという。撮影されたのは数日前で、現地当局は映像の一部について真正性を確認したものの、発光現象の原因については調査中としていた。
女性の名前は、エリーズ・モロー。三十一歳。救急救命士として働いていた人物らしい。
コメント欄には、映画の宣伝だという意見もあれば、特殊な化学薬品を使ったのではないかという推測もある。その一方で、人間が魔法を使えるようになったのだと興奮する書き込みが、かなりの数に上っていた。
「魔法、ねえ……」
智は椅子の背にもたれ、右手を持ち上げてみる。
掌を開き、指先へ意識を集中させたところで、当然ながら何も起きない。
「……そりゃそうか」
自分で言って、少し笑った。
四十七歳にもなって、パソコンの前で手から光が出ないか試している。数日前までなら、そんなことをしている自分など想像もできなかっただろう。
だが、笑って済ませられる状況でもない。
札幌の道路に現れた不可解な亀裂。地下から姿を現した灰色の石材。そして、人間とは思えない怪物。
自分の目にだけ見える文字まで含めれば、説明のつかないことが、すでにいくつも起きている。
それがフランスでも起きているのだとすれば、問題は札幌だけではない。
智は画面に映る女性の手を、もう一度見つめた。
そのとき、事務所の電話が鳴った。
*
「おう、修司か」
『生きてたか』
受話器の向こうから聞こえてきたのは、佐伯修司の声だった。
昔から付き合いのある男で、建築金物や資材のことで何かと世話になっている。仕事上の関係は長いが、今では用事がなくても電話をかけてくる間柄だ。
「朝から何だよ。勝手に人を死んだことにするな」
『昨日の菊水の陥没だよ。お前、あそこにいたんだって?』
「……誰から聞いた」
『建材屋の田島さん。現場の写真に、お前の車が写ってたらしいぞ』
智は眉をひそめた。あの騒ぎの中で、車まで見られていたとは思わなかった。
「よく分かったな」
『お前の車、助手席側のドアだけ色が微妙に違うだろ。あれ、結構目立つぞ』
「直す暇がないんだよ」
『直す仕事してるくせに、自分の車は直さねえんだからな』
修司が笑ったので、智もつられて口元を緩める。
助手席側のドアは、数年前に中古部品へ交換したものだった。色番号は合っていたはずだが、元の塗装と日焼け具合が違い、明るい場所で見ると微妙な差が分かる。
気になっていないわけではないものの、走行に支障はなく、仕事が立て込むたびに後回しになっていた。
『それより、今日の昼前、時間あるか』
「何かあったのか」
『ちょっと見てほしいものがあるんだよ。電話じゃ説明しづらくてな』
修司の声から、先ほどまでの冗談めいた調子が薄れる。
「仕事か?」
『仕事といえば仕事なんだけどな。変な金具を持ち込まれたんだ』
「変な金具?」
『見た目は鉄みたいなんだけど、磁石がつかない。重さも妙なんだよ』
「アルミかステンレスじゃないのか」
『それくらい俺でも分かるって。お前、一応俺の仕事を何だと思ってるんだ』
智は苦笑しながら椅子に座り直した。
「どこから持ってきたんだ、その金具」
『持ち込んだ本人もよく分かってないらしい。昨日、陥没現場の近くで拾ったって言ってた』
その言葉を聞いた瞬間、智の視線がパソコンの画面へ戻る。
そこには、青白い光を放つ女性の姿が映ったままだった。
「……分かった。昼前に寄る」
『助かる。コーヒーくらい出すわ』
「この前もそう言って、インスタントだったぞ」
『贅沢言うな。豆から挽いたって、お前には違いが分からんだろ』
「失礼なやつだな」
修司の笑い声を最後に、通話が切れた。
智は受話器を置き、しばらく机の上を見つめる。
陥没現場で拾われた、材質の分からない金属片。
偶然かもしれない。
ただ、今の札幌では、その偶然を簡単に見過ごす気にはなれなかった。
智はパソコンのニュース画面を閉じ、午前中に済ませるべき発注処理へ戻った。どれだけ世界がおかしくなっても、注文した部品が届かなければ仕事は進まない。請求書も支払いも、今のところはいつも通りである。
そんな当たり前のことが、妙に不思議に感じられた。
*
昼前、智は白石区にある修司の建材店へ向かった。
幹線道路から少し入った場所にあるその店は、表にアルミサッシの見本や建築金物を並べ、奥に倉庫と作業場を備えている。智が独立する前から付き合いがあり、特殊な金具が必要になったときや、古い建具の部品が見つからないときには、まず修司に相談することが多かった。
駐車場へ車を入れると、裏口から修司が顔を出した。
「おう、来たか」
「物は?」
「お前、挨拶くらいしろよ」
「さっき電話でしただろ」
「そういう問題じゃねえって」
修司は呆れたように笑い、智を倉庫の奥へ案内する。
作業台には黒い布が敷かれ、その中央に小さな金属片が置かれていた。長さは五センチほどで、薄い板のような形をしている。片側は不規則に欠け、鈍い銀色の表面には、細かな直線と曲線が複雑に組み合わさった模様が刻まれていた。
智は作業台の前で足を止める。
「……これか」
「ああ。持ってみろ」
手を伸ばしかけた智は、途中で動きを止めた。
「素手で触っていいのか?」
「一応、手袋を使ってくれ。俺もそうしてる」
修司から薄い作業手袋を受け取り、智は金属片を慎重に持ち上げる。
最初に感じたのは、見た目と重さの違いだった。鉄の塊を持つつもりで指に力を入れたため、予想より軽いことに少し驚く。アルミほど軽いわけではないが、少なくとも、普段扱っている鋼材とは感触が違っていた。
さらに妙なのは、表面の冷たさである。
手袋越しにも、持ち上げた瞬間はひやりとした感触が伝わってきた。しかし、ほんの数秒でその冷たさが薄れ、まるで手の温度に馴染んだかのように感じられる。
「どうだ?」
「変わった金属だな。切削した跡も見当たらないし、表面処理もよく分からん」
「だろ? それで、こっちを見てほしいんだ」
修司は欠けた部分を指さした。
智は金属片を蛍光灯へかざし、破断面を観察する。
通常、金属が割れたり引き裂かれたりすれば、その断面には材質や破壊の仕方に応じた凹凸が残る。ところが、この金属片の断面には、表面に刻まれているものとよく似た模様が続いていた。
単に表面へ彫刻したものではない。
内部にも、同じような構造がある。
そう考える方が自然だった。
「……これ、表面の模様じゃないな」
「そうなんだよ。俺もそこが気になってさ」
修司が身を乗り出す。
「鋳物にしても、こんな細かい模様が断面まで続くもんかね」
「普通は考えにくいな。ただ、これだけじゃ製法までは分からん」
智は金属片をもう少し近づけた。
そのとき、表面の模様に、どこか見覚えがあることに気づく。
昨日、陥没した道路の下に見えた灰色の石材。
そこに刻まれていた線と、よく似ている。
完全に一致しているわけではないが、直線と曲線のつながり方には、共通する規則があるように思えた。
智は金属片を持つ手を止めた。
そして、その構造をもう少し詳しく知りたいと意識を集中させる。
視界の端に、青白い文字が浮かんだ。
『対象:金属状物質』
『既知の金属分類との照合:不一致』
『内部構造:解析不能』
『微弱なエネルギー反応を検出』
智は思わず息を止める。
やはり、普通の金属ではないらしい。
しかし、何の材質なのかは分からない。内部構造が解析できないということは、少なくとも現在の自分が得られる情報には限界があるのだろう。
続いて、新しい文字が表示された。
『追加情報の取得には、適性の解放が必要です』
そこで表示は止まった。
「おい、智」
修司の声で、意識が現実へ戻る。
「聞いてるか?」
「ああ、悪い」
「何か分かった?」
智は金属片を作業台へ戻し、手袋を外した。
「普通の建築金物じゃないな。少なくとも、俺が今まで扱った材質には心当たりがない」
「それは俺も同じだ。だから呼んだんだけどな」
「拾った人は、まだいるのか?」
「もう帰ったよ。名前と連絡先は聞いてある」
「これ、勝手に持ってきて大丈夫なのか」
「本人も気にしてた。警察に届けた方がいいんじゃないかって」
「届けた方がいいと思う。陥没現場の近くで拾ったなら、なおさらだ」
修司は少し残念そうに金属片を見下ろした。
「やっぱりそうか。もう少し調べてみたかったんだけどな」
「調べるにしても、まず出どころをはっきりさせた方がいい。何が付着してるかも分からないし」
「それもそうだな」
智は作業台の金属片を見つめる。
気になっているのは、材質だけではなかった。
昨日の道路の下にあった石材と、似た模様が刻まれている。
それが偶然なのかどうか、確かめたかった。
「修司、写真撮っていいか?」
「いいけど、何で?」
「昨日、似たような模様を見たんだ」
修司の表情が変わる。
「……どこで」
「道路の下だ。陥没したところに、灰色の石みたいなものがあっただろ」
「ああ、ニュースでもやってたな」
「そこに、これと似た線が刻まれてた」
修司は金属片へ視線を落とした。
先ほどまでの好奇心に満ちた顔から、笑みが消えている。
「なあ、智」
「何だ」
「これさ……本当に、地球のものなのか?」
智は答えなかった。
地球のものではない。
そんなことを、簡単に口にできるはずがない。
しかし、絶対に違うとも言い切れなかった。
智はスマートフォンを取り出し、金属片を何枚か撮影する。模様が分かるように角度を変え、欠けた断面も記録した。
修司はその間、黙っていた。
写真を撮り終えると、智はスマートフォンをしまう。
「とにかく、警察へ届けよう。今はそれが先だ」
「ああ。そうする」
修司は頷いたものの、どこか納得しきれない表情を浮かべていた。
その気持ちは、智にも分かる。
目の前にある小さな金属片は、何も語らない。
だが、それがどこから来たものなのかを考え始めると、今まで当たり前だと思っていた世界の輪郭が、少しずつ曖昧になっていく気がした。
*
その日の午後、智は古い事務所ビルのドアクローザー交換に向かった。
四階建ての建物で、外壁には年数相応の汚れが目立つものの、共用部分は比較的きれいに管理されている。交換するのは廊下のスチールドアに取り付けられたドアクローザーで、長年の使用によって油が抜け、閉まる速度を調整できなくなっていた。
作業自体は難しくない。
既存の金具を外し、取付穴の状態を確認してから新しい本体を固定する。アームの角度を合わせ、閉鎖速度とラッチング動作を調整すれば、あとは何度か開閉して問題がないことを確かめるだけだ。
智は最後の調整ネジを回し、ドアを大きく開けてから手を離した。
ドアはゆっくり閉まり、最後の数センチでわずかに速度を上げて、静かに枠へ収まる。
「よし、こんなもんだな」
「結城さん、ちょっといいですか」
声をかけてきたのは、設備担当者の三浦拓海だった。二十五歳くらいの若い男で、作業着の胸には名前が刺繍されている。
「どうした?」
「そのドアなんですけど、昨日から勝手に動くことがあるんですよ」
智はドアへ目を向けた。
「ドアクローザーが付いてるから、閉まるのは普通だぞ」
「いや、そうじゃなくて。誰も通ってないのに、勝手に開いたり閉まったりするんです」
三浦は困ったように笑った。
智はもう一度ドアを開け、動きを確認する。
蝶番に異常はなく、枠の歪みも見当たらない。床との隙間は適切で、ドアが自重で開くような傾きもない。電動装置は付いていないため、人が押すか、風圧などの外力が働かなければ開くはずがなかった。
「風じゃないのか?」
「俺も最初はそう思ったんです。でも、夜は窓も全部閉まってますし、空調も止まってるんですよ」
「今は普通に動いてるな」
「そうなんですよ。俺が見に来ると、いつも普通で」
三浦は頭をかいたあと、思い出したように顔を上げる。
「でも、監視カメラには映ってるんです。見ます?」
「見せてもらえるか」
二人は廊下の奥にある管理室へ向かった。
室内には監視用のモニターが四台並び、机の上には点検記録や設備図面が積まれている。三浦は操作用の椅子へ座ると、昨夜の録画映像を呼び出した。
画面に映ったのは、誰もいない廊下だった。
天井の照明が一つだけ点いており、その奥に、智が先ほど修理したドアが見える。
「ここです。午前二時十三分」
三浦が再生速度を通常に戻した。
数秒後、ドアが動く。
ゆっくりと内側へ開き、四十センチほどのところで止まる。廊下には誰もおらず、ドアの向こう側にも人影は見えない。
その状態が数秒続いたあと、ドアは何事もなかったように閉まった。
智はモニターへ顔を近づける。
「……ほかにもあるのか」
「二時四十七分と、三時五分にも同じことが起きてます」
三浦が次の映像を再生した。
今度はドアが開く直前、廊下の照明がわずかに明滅する。画面全体が一瞬だけ暗くなり、その直後にドアが動き始めた。
「停電か?」
「いや、電圧は正常だったみたいです」
「空調は?」
「夜間は停止してます」
智は腕を組んだ。
建物内の圧力差でドアが動くことはある。排気設備の運転状況や外気の流入によって、思いがけない力がかかる場合も珍しくない。
ただ、この映像では、ドアが開く直前に照明まで変化している。
両者に関係があるとは限らないが、気にはなった。
智は画面の中のドアへ意識を集中させる。
何が動かしているのか。
少しでも手掛かりが欲しかった。
視界に青白い文字が浮かんだ。
『対象:映像内の扉』
『変位:検出』
『外力の発生源:不明』
『周辺空間の局所的変動:推定』
智は眉をひそめる。
空間の変動。
昨日の陥没現場で見た現象と、どこか似ている。
ただし、映像を通して得られた情報に、どれほどの精度があるのかは分からなかった。画面に映っていない場所で何が起きたのかまでは、読み取れていない。
「三浦さん、このビル、地下室ある?」
「ありますよ。地下二階まで」
「何に使ってるんだ?」
「地下一階が機械室で、二階が倉庫です」
智はモニターから目を離した。
「地下二階で、最近何か変わったことはないか?」
三浦の表情が曇る。
「……あります」
「何だ?」
「昨日から、変な音がするんです。金属を叩くような音なんですけど、機械は全部止めてる時間で」
「見に行ったのか」
「一回だけです」
三浦は少し言いづらそうに口を閉じた。
「何かあった?」
「床に、線ができてました」
「線?」
「細い亀裂みたいなものです。でも、妙に真っすぐで……普通のひび割れとは違う感じでした」
智の脳裏に、昨日の交差点が浮かぶ。
不自然なほど整った亀裂。
その下から現れた、灰色の石材。
そして、修司の店で見た金属片の模様。
智は椅子の背へ手を置き、少し考えた。
「今から見られるか?」
三浦は頷きかけたが、すぐに首を横へ振る。
「管理会社から、地下二階には入るなって言われてるんです」
「なら、入らない方がいい」
智は迷わず答えた。
三浦は意外そうな顔をした。
「気にならないんですか?」
「気にはなるさ」
「じゃあ――」
「気になるからって、危ないところに入る必要はないだろ」
智はモニターを指さした。
「映像が残ってるなら、それを管理会社へ渡して、建物の安全確認を頼んだ方がいい。亀裂の写真もあるなら一緒に送る。必要なら消防にも相談した方がいいな」
三浦はしばらく智を見ていたが、やがて小さく笑った。
「結城さんって、もっと無茶する人かと思ってました」
「何でだよ」
「佐伯さんから聞いたんです。陥没現場で人を助けたって」
智は顔をしかめる。
「……修司のやつ、余計なことを」
「でも、そうですよね。まず安全確認ですよね」
「ああ。建物は、見た目が普通でも中で何が起きてるか分からんからな」
三浦は頷き、管理会社へ連絡するための資料をまとめ始めた。
智も工具箱を持ち上げる。
そのときだった。
コツン。
管理室のドアから、小さな音がした。
二人は同時に振り返る。
ドアは閉まっている。曇りガラスの向こうに人影はなく、廊下から足音も聞こえない。
「……誰か来たんですかね」
三浦がそう言った直後、もう一度音がした。
コツン。
今度は、智にもはっきり分かった。
ドアの金属製ノブが、わずかに動いている。
右へ回り、途中で止まり、ゆっくり元の位置へ戻る。
誰かが外から操作しているようにも見える。
しかし、ガラスの向こうには誰もいない。
三浦が息を呑んだ。
「……今の、見ました?」
「ああ」
智は工具箱を床へ置いた。
反射的にドアへ近づこうとしたが、途中で足を止める。
つい先ほど、監視映像で見たばかりだった。
誰もいない廊下で、勝手に開くドア。
それと同じことが、今、目の前で起きている。
智はドアノブの動きを観察する。
再び、ほんの少しだけ回る。
その動きに合わせて、床から微かな振動が伝わってきた。
智はしゃがみ、床へ手を当てる。
振動は短く、不規則だった。配管の振動にも似ていたが、方向までは分からない。
智は床の下に意識を向けた。
原因を確かめるため、《アナライズ》を使う。
『対象:床下構造』
『局所的な空間変動:検出』
『変動方向:地下側』
『発生源:特定不能』
智はゆっくり立ち上がった。
地下から何かが起きている。
それ以上のことは分からないが、少なくとも、この部屋に留まって確かめる必要はなかった。
「三浦さん」
「は、はい」
「この部屋、ほかに出口あるか?」
「奥に非常口があります」
「そっちから出よう。今はドアに近づかない方がいい」
三浦は一瞬、何か言いたそうにした。しかし、智の表情を見ると、それ以上は聞かずに頷いた。
二人は管理室の奥へ向かう。
背後で、再び音がした。
今度はドアではなかった。
床の下からだった。
コツン、コツン、コツン。
一定の間隔を置いて、三回。
金属のような硬いものが、下から何かを叩いている。
三浦が足を止めかけた。
「……今の、地下からですよね」
「聞こえた。けど、確かめるのは後だ」
智は非常口の扉を押し開ける。
冷たい外気が流れ込んできた。
二人はそのまま建物の外へ出た。
*
外へ出ると、三浦は大きく息を吐き、壁に手をついた。
冷たい空気の中でも、額には薄く汗が浮かんでいる。
「……何なんですかね、あれ」
「分からん」
智は正直に答えた。
分からないことを、分かったように説明するつもりはない。少なくとも、今までの建物の不具合とは明らかに違う。だからといって、怪物がいるとか、地下に別の世界がつながっているとか、そんなことまで断定できる材料もなかった。
「でも、しばらく地下には近づかない方がいい。管理会社に連絡して、状況を確認してもらおう」
「はい。消防にも相談してみます」
三浦は携帯電話を取り出した。
智は建物を見上げる。
外から見れば、何の変哲もない事務所ビルだった。規則正しく並んだ窓、壁面の換気口、入口に掲げられたテナントの名前。長い年月をかけて少しずつ古びながらも、人々の仕事場として使われ続けてきた建物である。
その地下で、何かが変わり始めている。
だが、建物の外を歩く人々には、まだその異変が見えていない。
通りでは車が走り、信号が変わり、買い物袋を提げた女性が歩道を横切っていく。少し離れた場所からは工事の音も聞こえ、街は普段と変わらない午後を続けていた。
智は、朝のニュース映像を思い出す。
フランスの地下で青白い光を生み出した女性。修司の店に持ち込まれた、材質不明の金属片。そして、このビルで勝手に動くドアと、地下から響く奇妙な音。
一つ一つは、まったく別の出来事に見える。
しかし、どれも地下という場所に関わっていた。
それが単なる偶然なのか、何か共通した原因があるのか。今の智には判断できなかったが、少なくとも、これまでの常識だけで考えていては見落とすものがありそうだった。
そのとき、ポケットの中でスマートフォンが震えた。
画面にはニュース速報が表示されている。
『韓国の地下調査隊、未知の能力を持つ隊員の存在を公表』
智は記事を開いた。
そこには、剣のようなものを手にした若い男性の写真が掲載されていた。刃の周囲には淡い光がまとわりついており、説明文には、現地の研究者がこの現象を「魔力」と仮称した、と書かれている。
「……魔力、か」
今朝のフランスの映像に続き、今度は韓国だった。
人間が何らかの未知の力を使う。
そんな話が、世界各地から報告され始めている。
智は写真を拡大し、男性の手元を見た。
剣の形状そのものは珍しいものではなかったが、刃の周囲に見える光は、照明の反射とは少し違うように思える。
もっとも、写真だけで本物かどうかを判断することはできない。
智は記事を閉じた。
その直後、視界に半透明の文字が浮かんだ。
『外部環境の変化を確認』
『適応処理を継続します』
『個体情報の更新条件を満たしつつあります』
智は思わず立ち止まる。
「……更新?」
文字はしばらく表示されたあと、静かに薄れていった。
智は待った。
だが、続きは現れない。
何が更新されるのか、いつ更新されるのか。それを示す情報は何もなかった。
「……もう少し説明してくれてもいいだろ」
小さく呟くと、近くにいた三浦が顔を上げる。
「え?」
「ああ、いや。何でもない」
三浦は不思議そうな顔をしたが、すぐに電話へ意識を戻した。
智はスマートフォンをポケットにしまい、工具箱を持ち直す。
「じゃあ、三浦さん。ドアの調整は終わってるから、管理会社への連絡を頼むな」
「あ、はい。ありがとうございます」
「地下の件、何か分かったら教えてくれ」
「分かりました。結城さんも気をつけてください」
「ああ。そっちもな」
智は駐車場へ向かった。
歩きながら、何となく右手を開いてみる。
掌には、いつもと変わらない皺があるだけだった。
それでも、今朝の女性の映像を見てからというもの、自分の身体のどこかにも、まだ知らない何かが隠されているような気がしていた。
魔法。
そんな言葉を現実のものとして考える日が来るとは、思ってもいなかった。
智は車の前で立ち止まり、もう一度だけ自分の手を見つめる。
その瞬間、視界の端に青白い文字が浮かんだ。
『適性判定まで――』
表示が途中で乱れた。
文字の輪郭が崩れ、次の瞬間には何も残っていない。
「……何だってんだ」
智は眉を寄せたまま、しばらく立ち尽くす。
適性判定。
更新条件。
それらが何を意味するのか、今はまだ分からない。
ただ一つ確かなのは、自分の身にも何らかの変化が起きつつあるらしい、ということだった。
遠くで救急車のサイレンが鳴った。
見上げると、札幌の空は薄い雲に覆われている。雨が降り出しそうな気配はない。それなのに、街の向こうから低い雷鳴のような音が響き、智は思わず空を見回した。
周囲の人々も何人か足を止めていたが、音は一度きりで、それ以上は続かない。
やがて、車が動き出し、人々も再び歩き始めた。
何事もなかったかのように。
智は車のドアを開け、運転席へ乗り込む。
エンジンをかけると、聞き慣れた振動が身体に伝わってきた。ダッシュボードの時計も、燃料計も、いつも通りに動いている。
この車も、道路も、街も、昨日までと同じもののはずだった。
だが、智にはもう、すべてが同じだとは思えない。
世界はまだ、日常の形を保っている。
その内側で何かが変わり始めていることに、人々が気づかないまま。
智はゆっくりと車を発進させた。




