3:札幌の異変
崩れる街、動き出す人々
最初に動いたのは、信号待ちをしていた男の足だった。
横断歩道の途中で、男がふいに立ち止まった。
スーツ姿の中年男だった。右手にはコンビニの袋。左手にはスマートフォン。青信号が点滅し始めているというのに、男は足元を見たまま動かない。
智はフロントガラス越しに、その様子を見ていた。
何か落としたのかと思った。
だが、違った。
男の靴先から、黒い線が伸びていた。
アスファルトに入った亀裂だ。
それが、まるで見えない筆で引かれているように、横断歩道の白線を横切っていく。
「……おい」
智は思わず声を漏らした。
男も異変に気づいたらしい。スマートフォンをポケットに押し込み、足元から視線を上げた。
その瞬間、交差点の中央が沈んだ。
大きな音はしなかった。
道路がわずかにたわみ、白線の一部が周囲より低くなる。
ただ、それだけだった。
だからこそ、気づかない者もいた。
対向車線では、右折待ちの軽自動車がじりじりと前へ出ている。歩道では買い物袋を提げた女性が、信号を渡りきろうと足を速めていた。
智の視界に、青白い文字が浮かんだ。
『周辺地盤の変位を検知』
『局所的な構造崩壊の可能性』
『退避を推奨します』
「分かってる」
智はハザードランプを点けた。
すぐ後ろからクラクションが鳴る。
信号が青に変わったのだ。
智は車を動かさなかった。
代わりに窓を下ろし、交差点へ向かって怒鳴った。
「止まれ! そこ、道路が落ちるぞ!」
横断歩道の男が振り返った。
智は腕を伸ばして、道路の中央を指さす。
「戻れ! 早く!」
男は一瞬、何を言われたのか分からない顔をした。
その足元で、亀裂が開いた。
今度は音がした。
乾いた破裂音に続き、地中で巨大な板を折るような、鈍い響きが伝わってくる。
男が飛び退いた。
交差点の中央が、もう一段沈んだ。
軽自動車の運転手も異変に気づいたらしく、急ブレーキを踏んだ。車体が前のめりになり、横断歩道の手前で止まる。
だが、その後ろから進んできた配送トラックは、すぐには止まれなかった。
タイヤが鳴いた。
車体が斜めになる。
智は思わず身を乗り出した。
「危ねえ!」
トラックは軽自動車の後部をかすめ、中央分離帯に前輪を乗り上げて止まった。
金属の擦れる音。
割れるプラスチック。
そして、短い静寂。
その静寂を破ったのは、歩道にいた女の悲鳴だった。
交差点の中央に、穴が開いていた。
直径は、まだ二メートルほど。
だが、底が見えない。
割れたアスファルトの下にあるはずの土砂も、砕石も、配管も見当たらなかった。
ただ、暗闇があった。
智はそれを見て、背筋が冷たくなるのを感じた。
数日前、アパートの駐車場で見た穴。
あのときと同じだった。
違うのは、ここが交通量の多い交差点だということだけだ。
いや。
もう一つ、違っていた。
穴の縁から、白いものが見えている。
コンクリートではない。
石だ。
表面が滑らかに削られた、灰色の石材。
それが、道路の下から顔を出していた。
*
「車、下がってください! 全車後退! 交差点に入らないで!」
女性の声が響いた。
歩道の向こうから、一人の警察官が走ってきた。
四十歳前後だろうか。短く刈った髪。日に焼けた顔。制服の上着を着たその男は、交差点を一目見ただけで、近くの車へ向かって手を振った。
「エンジンを止めないで! 後ろが空いた車から順番に下がって!」
声は大きかったが、怒鳴り散らすような調子ではなかった。
人を動かすことに慣れた声だった。
男は肩の無線機に手を伸ばした。
「こちら黒田。菊水方面、交差点中央で道路陥没。車両事故あり。歩行者多数。交通規制と消防の応援を要請する」
返答を聞きながら、黒田は周囲を見回した。
その目が、智の車で止まった。
「そこの運転手さん! 動けますか!」
「動ける!」
「なら後ろへ――」
「その前に、あっちのトラックだ!」
智が指さした先では、配送トラックの運転席のドアが開いていた。
運転手が降りようとしている。
だが、前輪を乗り上げた中央分離帯のすぐ脇にも、細い亀裂が走っていた。
黒田の表情が変わった。
「降りるな!」
運転手の足が止まる。
「車内にいろ! こっちから指示する!」
黒田は亀裂の位置を確かめながら、慎重に近づいた。
智も車を路肩へ寄せた。
後続車が少しずつ後退し始めている。道路の中央へ向かう車は、もうなかった。
エンジンを切り、智は車外へ出た。
冷たい空気が頬に触れる。
さっきまで感じていた低い振動は消えていた。
代わりに、どこかで水の流れる音がしている。
地下の配管が破れたのかもしれない。
智は足元を見た。
アスファルトには細い亀裂が何本も走っている。
その向きが気になった。
普通の道路陥没なら、周囲へ向かって不規則に割れることが多い。
だが、ここにある亀裂は妙に整っていた。
まるで、地下に四角い空洞があり、その縁に沿って道路が割れ始めているようだった。
「……またか」
智は小さくつぶやいた。
「何が、またなんです?」
声に振り返ると、黒田が立っていた。
いつの間にかトラックの運転手は、反対側のドアから歩道へ誘導されている。軽自動車の運転手も無事らしい。
黒田は智の右腕に目を留めた。
「その腕、怪我ですか」
作業着の袖口から、まだ薄く残る傷跡が見えていた。
「数日前にな」
「どこで?」
「アパートの陥没現場だ」
黒田の目が細くなった。
「……菊水の?」
「ああ」
「怪我人を助けた作業員がいたと聞いています」
「大したことはしてない」
智がそう答えると、黒田は少しだけ眉を動かした。
「名前を聞いても?」
「結城。結城智」
「北海道警の黒田健吾です」
黒田は手帳を取り出した。
「結城さん。最初に道路の異変に気づいたのは、あなたですか」
「たぶんな」
「どうして気づいたんです?」
「横断歩道にいた人が、急に止まった。それで足元を見た」
嘘ではなかった。
ただ、全部でもなかった。
智の目の前には、今も半透明の文字が浮かんでいる。
『周辺空間の変動を観測中』
『変動原因:不明』
黒田は智の顔をじっと見た。
「そうですか」
その声には、疑いとも納得ともつかない響きがあった。
「危険を知らせてくれたのは助かりました。ただ、これ以上は近づかないでください」
「ああ」
黒田は無線機に向かって何かを伝え、交差点の反対側へ走っていった。
智はその背中を見送った。
話し方も、周囲を見る目も、現場を知っている人間のものだった。
ただ一つ気になったのは、黒田が穴そのものを見たときの反応だった。
驚いていなかった。
まるで、同じものを既に何度も見ているようだった。
*
消防車のサイレンが近づいてきたのは、それから数分後だった。
赤い車体が交差点の手前で止まり、隊員たちが次々に降りてくる。
「歩道側、立ち入り規制! 車両はこれ以上近づけないで!」
先頭に立った女性隊員が、鋭く指示を飛ばした。
ヘルメットの下から覗く目は、まっすぐ穴へ向いている。
年齢は三十代半ばほど。
小柄というほどではないが、周囲の男性隊員に比べれば細身だった。
それでも、動きには迷いがない。
「高瀬! 北側の路面を確認しろ!」
「了解!」
女性隊員――高瀬美咲は、別の隊員とともに交差点の外周を回った。
棒状の器具で路面を確かめ、亀裂の位置を指示している。
智は、彼女の判断に感心した。
穴の中を覗き込もうとしない。
まず、どこまで地面が信用できるかを調べている。
当たり前のことのようで、こういう場面では難しい。
人は穴があれば、その中を見たくなる。
智自身、今もそうだった。
高瀬が路面の亀裂を確認しながら、智の近くへ来た。
「すみません。ここから先は危険です。もう少し離れてください」
「ああ。分かった」
智は二歩下がった。
だが、高瀬は立ち去らなかった。
彼の作業着を見ている。
「建設関係の方ですか?」
「建具屋だよ。修理が専門だけどな」
「このあたりの建物、詳しいですか?」
「詳しいってほどじゃない。仕事でよく来るくらいだ」
高瀬は交差点の北側を指さした。
「あそこの古い雑居ビル、地下室があるか分かります?」
智は建物を見た。
四階建ての古い鉄筋コンクリート造。
一階には閉まったままの飲食店。二階以上は事務所らしい。
入口脇に、地下へ続く階段のようなものは見当たらない。
「いや、分からん。ただ……」
「ただ?」
「裏に搬入口がある。地下じゃなくて、半地下の倉庫があるかもしれない」
高瀬はすぐに無線で伝えた。
「北側建物、半地下倉庫の可能性あり。管理者への確認をお願いします」
そして智に向き直った。
「ありがとうございます」
「役に立つか分からんぞ」
「可能性が一つ減るだけでも助かります」
そう言って、高瀬は小さく笑った。
その笑顔は一瞬だった。
すぐに彼女は隊員の顔に戻り、交差点へ向かって歩き出した。
智はその背中を見ながら、胸の奥で何かが引っかかるのを感じた。
黒田も、高瀬も。
この数日で、自分と同じようなものを見てきたのだろう。
それでも彼らは、目の前の仕事をしている。
逃げ出したくなるような光景を前にしても。
智は自分の手を見た。
傷は、もうほとんど塞がっている。
あの怪物につけられた傷が。
たった数日で。
普通ではない。
だが、だからといって何ができるのか。
答えは、まだなかった。
*
携帯電話が震えた。
画面には、見慣れた名前が表示されていた。
結城直樹。
三つ下の弟だった。
「もしもし」
『兄貴、今どこ?』
開口一番、それだった。
「菊水のあたりだ」
『え、マジで? 今、そっちで道路が落ちたって聞いたけど』
「目の前で落ちた」
『はあ!?』
電話の向こうで何かがぶつかる音がした。
『ちょっと待って。兄貴、怪我してない?』
「してない」
『本当に?』
「してないって」
『いや、兄貴さ、そういうとき平気な顔して無茶するだろ』
「お前に言われたくない」
『俺はちゃんと逃げるもん』
「昔、川に落ちたとき誰が引っ張り上げた」
『何十年前の話してんの!』
智は思わず笑った。
交差点では、消防隊員たちが忙しく動き回っている。
その光景を見ながら弟と昔話をしていることが、妙におかしかった。
『でさ、真面目な話なんだけど』
直樹の声が少し低くなった。
『うちの配送、今日だけで三件止まった。道路が通れないだけじゃなくて、倉庫の床が割れたって話もある』
「倉庫?」
『石狩の方。荷物を運び出そうとしたら、床下に変な空洞が見つかったらしい』
智は笑うのをやめた。
『あと、これ変な話なんだけどさ』
「何だ」
『荷物の中に、見たことない石が混じってたんだって』
「石?」
『青っぽく光るやつ。誰も積んだ覚えがないって』
智は交差点の穴へ目を向けた。
灰色の石材が、崩れた道路の下に覗いている。
「それ、どこにある」
『今は会社の倉庫。なんか気味悪いから触るなって言われてる』
「触るなよ」
『分かってるって。兄貴こそ、変なところに首突っ込むなよ』
「……ああ」
『それと、母さんに電話しといて』
「何で」
『ニュース見て心配してた。兄貴、また現場にいるんじゃないかって』
智は空を見上げた。
灰色の雲が、ゆっくり流れている。
「分かった。あとで電話する」
『絶対だぞ』
「ああ」
電話が切れた。
智はしばらく画面を見ていた。
直樹は昔から、よくしゃべる。
自分とは正反対だった。
だが、こういうときに真っ先に電話をかけてくるのも、昔から変わらない。
智は電話をポケットにしまった。
そのときだった。
交差点の向こうから、低い声が聞こえた。
「……何だ、あれ」
誰かが言った。
智が顔を上げる。
消防隊員の一人が、穴の縁を指さしていた。
灰色の石材。
その表面に、細い線が浮かび上がっている。
最初は傷かと思った。
だが、違った。
線は規則正しく曲がり、重なり、幾何学的な模様を描いていた。
まるで、誰かが石に文字を刻んだようだった。
智の視界に、青白い文字が現れた。
『対象を検出』
『構造解析を開始します』
『材質:不明』
『年代:判定不能』
『――』
表示が止まった。
智は眉をひそめた。
これまで、金属部品や工具を見たときには、多少なりとも情報が出ていた。
だが、今回は違う。
何も分からない。
その代わりに、新しい一行が浮かんだ。
『既知の物質体系との照合に失敗しました』
智は息を止めた。
知らない物質。
それが、札幌の道路の下にある。
しかも、明らかに人工物の形をしている。
黒田が高瀬に何かを伝え、二人が穴の縁から離れた。
直後、穴の奥で音がした。
石を石で擦るような、低い音。
続いて、何か重いものが動く気配。
消防隊員たちが身構える。
智も無意識に足を引いた。
だが、そこから何かが飛び出してくることはなかった。
代わりに、穴の奥から冷たい風が吹き上がった。
地上の秋風とは違う。
湿り気を帯びた、土と古い石の匂いがする風だった。
智はその匂いを知っていた。
数日前、アパートの駐車場に開いた穴から吹き上がってきたものと、同じ匂いだ。
黒田がこちらへ歩いてきた。
「結城さん」
「何だ」
「さっき、穴の中に何か見えましたか」
智は首を横に振った。
「石が見えただけだ」
「……そうですか」
黒田は少し考え、それから言った。
「実は、同じような石が、ほかの現場でも見つかっているんです」
智は黒田を見た。
「どこで?」
「札幌だけじゃありません」
黒田は声を落とした。
「東京でも。大阪でも。海外でも」
遠くで、またサイレンが鳴った。
黒田は続けた。
「それも、どうやら全部、同じ構造らしい」
智は穴を見た。
道路の下に覗く、灰色の石。
その表面に刻まれた、見知らぬ模様。
自分が見ているものが何なのか、まだ分からない。
ただ一つ、はっきりしていることがあった。
これは、札幌だけの問題ではない。
そして、おそらく。
地面の下にあるものは、人間が思っているよりも、ずっと大きい。
*
規制線が張られ、一般車両の通行が完全に止められた頃、智はようやく車に戻った。
エンジンをかける。
時計は、もう午後二時を過ぎていた。
次の仕事先へ向かうには、かなり遠回りをしなければならない。
智は取引先へ電話を入れ、事情を説明した。
相手はニュースを見ていたらしく、今日は無理しなくていいと言ってくれた。
「すみません。明日、改めて連絡します」
電話を切る。
それから、少し迷って、母親の番号を押した。
三回目の呼び出しでつながった。
『智?』
「ああ、俺」
『あんた、今どこにいるの』
「仕事中だよ」
『ニュースで菊水の道路が落ちたって――』
「大丈夫。俺は怪我してない」
母親は何か言いかけて、黙った。
電話の向こうで、テレビの音がしている。
しばらくして、小さなため息が聞こえた。
『……そう。ならいいけど』
「父さんは?」
『さっきまで庭の片づけしてた。今はテレビ見てるわ』
「元気ならいい」
『あんたも、たまには顔出しなさいよ』
「ああ」
『その「ああ」は信用できないんだから』
智は苦笑した。
「近いうちに行くよ」
『ご飯、食べてる?』
「食べてる」
『ちゃんと?』
「ちゃんと」
『またコンビニばっかりじゃないでしょうね』
「……まあ、そこそこ」
『ほら、やっぱり』
母親の声が少し明るくなった。
智はその声を聞いて、胸の奥が緩むのを感じた。
街はおかしなことになっている。
地面の下から、知らないものが現れている。
自分の身体にも、説明のつかない変化が起きている。
それでも、母親は変わらず、飯を食べているかと聞いてくる。
智はそれが、少しありがたかった。
「じゃあ、また電話する」
『気をつけて帰りなさいよ』
「ああ」
通話が終わった。
智はしばらくハンドルに手を置いたまま、動かなかった。
フロントガラスの向こうでは、警察官が車を誘導している。
消防隊員たちは、まだ穴の周囲で作業を続けていた。
その中に、高瀬の姿が見えた。
彼女は膝をつき、何かを確認している。
少し離れた場所では、黒田が無線で連絡を取っていた。
それぞれが、それぞれの仕事をしている。
智も、いつもならそうだった。
壊れた扉を直し、動かなくなったシャッターを調べ、依頼が終われば次の現場へ向かう。
今日も、そのはずだった。
智は自分の右手を見た。
掌に残っていた擦り傷は、ほとんど見えなくなっている。
青白い文字が、静かに浮かんだ。
『周辺異常の観測を終了します』
『取得情報を保存しました』
智はそれを眺めた。
そして、心の中で問いかけた。
――お前は、何なんだ。
返事はなかった。
ただ、表示の一番下に、これまで見たことのない項目が一瞬だけ現れた。
『階位情報:未解放』
次の瞬間、その文字は消えた。
智は目を細めた。
「……階位?」
意味は分からない。
だが、今は追いかけても仕方がない。
智はシートベルトを締めた。
車をゆっくり発進させる。
バックミラーの中で、規制線に囲まれた交差点が遠ざかっていく。
灰色の石は、もう見えなかった。
それでも、あの穴の下には、何かがある。
智はそう確信していた。
そして、もう一つ。
自分はきっと、またあの暗闇を見ることになる。
望んでいるのか、望んでいないのか。
それは、まだ分からなかった。
ただ、ハンドルを握る手に、いつもより少しだけ力が入っていた。




