政策転換闘争篇(反撃の狼煙)
教宣部長の滝口悟は、会計の鹿島雄一と一緒に、電話番と事故対応要員として組合の事務所に詰めていた。他の組合幹部は署名集めに東奔西走していた。
昨日は、浜町にある安岡春鳥炭砿の石炭埠頭に、石炭専用船が石炭を積み込むために入港していたおり、滝口は全日本海上交通運輸労働組合の船員に署名用紙を届けに行っていた。
執行部から話は聞いてる、俺たちとしても国内炭海上輸送が無くなれば、コールセンターからの中継以外の仕事がないので、協力は惜しまない。しかし、敵は難物である。敵は、国内炭の泣き所と言うべき価格の高さを攻めてくるであろうことは、素人目でもわかる。炭鉱労が、経済的優位性だけでは語れない国内炭の優位性を示せなければ、改革と言う熱病にかかっている国民は、燃料資源庁のプロパガンダに乗っかるだろう。船室で船長に言われたことを、思い出す。
経済的優位性は、国内炭には無いと言っても過言ではない。国内炭の半値以下で海外炭が買えるのに、好き好んで国内炭を買うものは居ない。国策的に買わせているに過ぎない。海外炭の輸入が途絶するようなことが無ければ、国内炭が有って良かったと言われるようなことは決してないだろう。石油と違って、石炭は産出国が偏在すると言うことが無いので、石油危機の様な石炭危機が起こることは、限りなく低いだろう。
船長は、敵は難物と言ったが、難物どころか難攻不落の要塞に陣取る無敵将軍だ。石炭危機が起きても、国民が一年間に消費する石炭を用立てられない国内炭鉱に価値を見出すものがいるだろうか、否だろう。政策転換闘争は、政策転換が目的ではなく、自分たちを納得させる儀式や手続きではないかと思えてきた。
ふと時計を見ると、正午を指し示していた。昼飯を食ってる時に、電話をかけてくるとしたら、余程のことが起きた時だろうから、一人詰めていれば十分だろう。
「鹿島、交代飯にするべ」
交代で飯を食うべと、鹿島に言う。
「滝口、お前、先に行って来い。俺は、遅飯になれてるから」
鹿島は、滝口に先に食って来いと言う。
「お先に失礼します」
滝口は、組合事務所を出て、集中監視室、鉱職員ロッカー、坑口浴場、安全灯室、坑口食堂、事務室がある総合事務棟に向かう。坑口食堂では、事務員や坑内外職の上席者以上は昼食、先番入坑の二番方の鉱職員は朝食をとっていた。
券売機で、ラーメン・カレーセット、チャーシュー、ゆで卵の食券を買い、坑口食堂のおばちゃんに渡す。
「おばちゃん、ゆで卵は半割りにして、ラーメンとカレーに入れてくれ」
滝口が、食堂のおばちゃんに、そう頼む。
「いつものね」
「そう、いつもの」
滝口が、そう答えると、食堂のおばちゃんは、意を決したように聞いてくる。
「滝ちゃん、本当のところは如何なの?」
食堂のおばちゃんは、少し暈しながら、ヤマの将来を尋ねてくる。大船に乗ったつもりで居ろと言いたいところだが、何処のヤマも綱渡り状態なのは、ヤマで働いていれば言わず知れたことで、下手な嘘はつけない。
「おばちゃんが年金貰うまでは、大丈夫さ。うちは、どこかのヤマと違って、堅実にやってるから!」
八次政策は乗り切れる自信があるが、問題は、ポスト八次政策だ。ポスト八次政策と言えば聞こえはいいが、実態は国内炭皆殺し政策で、政策が終了すれば、存続も閉山も出来ない進退窮まる代物だ。これをひっくり返せなければ、ヤマの将来は、お先真っ暗になる。現政策下での閉山は有り得ないが、ポスト八次政策の終了間際に、滑り込み閉山をする可能性は否定できない。
奥で調理を担当している女性が、おばちゃんに出来上がったよと声をかけると、ラーメン・カレーセットをお盆に載せ、引渡しカンターに運んでくる。
「はい、おまち」
おばちゃんは、それだけ言って、次の客の食券を受け取りに行く。おばちゃんは、察したのだろう。
開いている席に座り、ラーメンをすする。ひどく味気ない。ポスト八次の内容を知って以来、何を食っても味気ないのだ。しかし、味気なくても体は貪欲に食事を欲する。食事が、作業はでなくなる日は来るのだろうか……
食器を返却カウンターの棚に置くと足早に、組合事務所に向かう。事務所に戻ると、鹿島と電話番を交代する。
滝口が、食後の眠気でうとうとしていると、黒電話のけたたましいベルに叩き起こされた。慌てて受話器を取り、応答するのだが、不意打ちを喰らい間抜けな声で、もしもしと言ってしまった。
「もしもし、安岡春鳥炭砿労働組合事務所ですが。どなた様ですか?」
そう応答すると、受話器からどこかで聞いたことがあるような声がする。それも、ごく最近聞いたことがあるような気がするのだが、思い出せない。受話器の向こう側にいる人物が、松島だと名乗ると、誰なのか思い出す。駅前で署名集めをしていた時に、声をかけてきた松島武志だ。
「松島さん、何か御用ですか?」
滝口が用件を尋ねると、松島は、来週の月曜日、組合の幹部を引き連れて、市役所に来るようにと言う。その際、鉱業所の幹部職員も一緒に来るようにと言う。要領を得ないので理由を尋ねる。
「来週の月曜日、市役所で何があるんですか?」
理由を尋ねられた松島は、反撃の狼煙を上げる用意をすると言う。反撃の狼煙を上げる用意の意味するところが、判然としない。まさか、市役所を巻き込んで署名を集めるとでもいうのか?市役所を巻き込んで署名を集めるのは、反撃の狼煙と言えるのだろうか、組合員の親戚に協力を仰ぐ現状の戦術と五十歩百歩ではないだろうか……
反撃の狼煙の詳細は分からないが、とりあえず当日必要な物はないかと尋ねる。
「当日必要な物は、ありますか?用意可能なものは用意しますが」
必要な物は、炭鉱労で入手してあるポスト八次政策の叩き台、閉山した場合の安岡春鳥炭砿に直接関係がある失業者がどれだけ出るか、あと何年掘れる石炭があるかの資料だと言う。ポスト八次政策の叩き台、閉山した場合の直接関係のある失業者の人数に関する資料は組合で用意できる。しかし、あと何年石炭が掘れるかについての資料は鉱業所の中枢の人間、鉱業所長、炭鉱長、生産部長の三人の机の鍵付き引き出し、資料室の耐火金庫に保管されている代物で、組合に渡されているのは概略版でしかない。概略版ではなく、生産計画を練るのに使えるレベルの物が必要となれば、おいそれと用意できない。
「松島さん、あと何年掘れる石炭があるかの資料は、組合には概略版しかないんですよ。生産計画を練るのに使うレベルの物は、鉱業所の中枢の人間の手元に……」
組合で持ってくるのは概略版でも良い、生産計画を練られるレベルの物は、ある人物が声をかければ、会社の方から持ってくるだろと言う。会社に有無を言わせずに、取扱注意の極秘資料を持って来させられる人物とは、いったい誰なのだろう。
「来週の月曜日、市役所に言われた物をもって向かいます。時間は、何時ですか?」
市役所に何時までに向かえばいいのかと言うことを、言われておらず、松島に確かめると、追って知らせると言う。ある人物との調整に手間取っているからだと言う。松島が、よろしく頼んだぞと言うと、電話はチンと切れた。
電話が切れたのと同時に、坑口食堂に昼食を食べに行っていた鹿島が帰ってきた。組合事務所を出るときには無かった走り書きのメモが電話の近くにあるのを見て、何かあったのかと滝口に尋ねる。
「滝口、俺が飯食ってる間に、何かあったのか?」
鹿島が戻ってきて居ることに気付かなかった滝口は、驚きながら答える。
「あっ、鹿島さん、戻ってたんですか。いや一寸電話がありまして」
滝口は、この前の駅前での署名活動中に、組合で保安部長を張っていた松島に出会い、その松島から電話があったことから話し始めた。退職して、体が自由だから手伝うと、署名活動の時に言われたこと。今しがた電話がかかってきて、組合幹部、鉱業所の幹部職員を引き連れて、来週の月曜日に市役所に来るように言われたこと。さらに、市役所に来るときに、炭鉱労で入手したポスト八次政策の叩き台、安岡春鳥炭砿が閉山した時の失業する人数とあと何年掘れる石炭があるかの資料を持って来るようにと言わたことを伝える。
滝口から話を聞き終えた滝口は煙草に火を点け、二、三度吸うと、灰皿に煙草を置き、ため息をつく。
「松島め、簡単に言ってくれる。だいたい、市役所に集めて何をする気だ?ポスト八次政策の叩き台、閉山時に失業する人数とあと何年掘れる石炭があるのかの資料なんて、誰彼構わず見せたり、何処にでも出せるような代物じゃないぞ」
鹿島の言うとおりだ。ポスト八次政策の叩き台、安岡春鳥炭砿が閉山した時に失業する人数、あと何年掘れる石炭があるかの資料を、誰彼構わず見せたり、何処にでも出していいわけがない。しかし、松島は、会社に影響力を行使することが出来得る人物と接触中であると言う。組合で保安部長を張っていたとはいえ、会社に影響力を行使することが出来得る人物と縁を結ぶことが容易に出来るだろうか?炭鉱労の中央執行部に居たのなら、国会議員に縁があるだろうが……
「鹿島さん、松島さんて、どんな人なんですか?なんか、会社に圧力をかけられる人物と縁があるようなことを……」
滝口は、松島に関する疑問を、鹿島に尋ねる。尋ねられた鹿島は、滝口の世代は知らないことを思い出し、説明しないと駄目だなと、話始める。
「松島は、脅しと賺しのプロ、黒幕、影の執行委員長にして、炭鉱労の統一候補の大谷敏春の後見人」
滝口に松島のことを、ざっくりと説明している最中に鹿島は、松島が仄めかした人物が誰なのか、一人思い当たる人物が思い浮かんだ。会社に圧力をかけられるような人物で、松島が電話一つでとまでは言えないが、動かせるような大物は大谷敏春以外には居ない。市役所には大谷敏春がほぼ間違いなく来る。残りは、釧路市内の政財界の要職者だろう。
大谷敏春を動かし、市役所に組合と鉱業所幹部を集め、資料を持って来させるのなら、松島は、間違いなく何かを企んでいる。
「滝口、松島は、ほかに何か言ってなかったか?」
「反撃の狼煙を上げる準備をすると言ってました」
滝口の話を聞いて、得心がいった。松島は、大谷敏春を担ぎ出して、市民総動員の政策転換闘争をするつもりなのだろう。
今までも、市議会等で決議案を採択するなりの行動を要請してはいたが、市民総動員と言えるような行動をしていたかと言えば、否だろう。
石炭政策の動向は、炭鉱が無ければ食い扶持を失う市町村にとっては全市民的問題だが、釧路の場合は炭鉱に負んぶに抱っことまでは言えないが故に、関係産業に従事している市民の問題に過ぎないといわれたら、返す言葉が無い。松島は、炭鉱の存廃は全市民的問題だと提起し、市民総動員の運動を焚き付けるつもりなのだろう。
「滝口、資料を用意して置け。石炭があと何年掘れるかは、松島が担ぎ出す人間が一睨みすれば、会社が揃えてくるから、任せておけ。執行委員長達が帰ってきたら、忙しくなるぞ」
ヤマを残すために、松島の計略に乗ろうではないか。炭鉱労と炭鉱を失えば二進も三進も行かなくなる地方自治体を適当にあしらっておけば済むと思っている燃料資源庁、通商産業省に痛撃を喰らわし、動揺させ、政策をひっくり返せれば大金星だ。炭鉱労が、攻勢に出る最後の機会だ。この攻勢が頓挫すれば、炭鉱労が再度反撃に出られる組織力、資金力は、もうない。泣こうが喚こうが、これっきり。
鹿島が不意に窓の外をするとザーザーと音を立てて横殴りの雨が降っていた。これは不味いと思った。横殴りの雨の中では、署名活動は不可能だ。横殴りの雨の中でもなくとも、雨降りの中で立ち止まって署名に協力するものは少ないだろう。
執行委員長たちが、濡れ鼠で泡食って帰ってくるな。風呂は、坑口浴場の頼めばどうにかなるが、着替えばかりは始末に困る。クリーニングに頼んでアイロンでも借りてくるか、勿論アイロンで如何にか出来ればの話だが。そんなことを考えていると、組合事務所前に車が飛び込んできた。署名活動のために市中に繰り出していた面々が乗っていった車だ。
車から降りると、飛び込むように事務所に入ってきた。開口一番、風呂が沸いてるか、坑口浴場に聞いてくれと、皆口をそろえて言う。濡れ具合を見ると、アイロンで乾かせるか乾かせないかの境界線上と言うところだった。
坑口浴場に電話をすると、風呂は沸いているから、直ぐにでも入れる。濡れてるなら早く入りに来い、風邪ひくぞと心配される始末だった。脱衣場に雨で濡れた服を回収しに行くついでに、クリーニングにアイロンを借りようと声をかけると、アイロンで乾かしておくから、置いてきなと言われたので、任せることにした。
引き続き滝口が電話番をしていると、黒電話のベルが鳴った。受話器からは、数刻前に聞いた声がする。松島の声だ。
「もしもし、安岡春鳥炭砿労働組合の滝口です。松島さん、どうしました?」
来週の月曜日、市役所に何時までに向かえば良いかは追って知らせると言っていたが、その時間が決まったのだろうか?
調整がついた。時間は、月曜日の午後一時。場所は市長室の隣の会議室。受付に、大谷晴敏との会合の参加者だと言えば、話が通じる。今晩にでも、執行委員長には電話をすると言う。松島はそれだけ言うと、電話は切れた。電話が切れるのとほぼ同時に、執行委員長達が坑口浴場から帰ってきた。
「委員長、組合の元保安部長の松島さんから電話がありまして……」
滝口が、委員長にそう伝えると、委員長の顔色が変わった。
「松島は、なんて言ってるんだ」
委員長の声は、上擦っていた。松島のことを知っている組合の幹部は、松島が計略を巡らしていると知るや、緊張が走った。
「来週の月曜日、市長室の隣の会議室に、午後一時までに来て欲しいそうです。例の叩き台、組合で承知している範囲の閉山時に失業する人数、あと何年掘れる石炭があるかの資料を持って来るようにと……」
委員長は、滝口から松島の要請もとい、要求を聞いて、簡単に言ってくれるなと言うような顔をする。影の執行委員長の渾名は伊達じゃない。市長室の隣の会議室に来いと言うことは、大谷敏春を担ぎ出しているのは間違いないだろう。
「大谷敏春が来るのは、間違いなさそうだが、他に誰が来るんだ?」
大谷敏春だけを呼んでいるとは考え難い。あと呼んでいるとしたら、鉱業所の幹部、本店の幹部だろう。しかし、松島はそれだけの人間しか呼ばないなんてことは、少し考えられない。
「鉱業所の幹部以外は、何も聞いていないです。今晩、執行委員長のところに電話をすると言ってました」
鉱業所の幹部以外のことは、何も聞いていない、松島が今晩電話をすると言っていると言う話からして、詳細はその電話で知らせてくるのだろう。松島が動き出したからには、今以上に忙しくなるのは間違いない。組合の可能性と限界、市民の可能性と限界を知ったであろう松島が、どんな計略を練っているのだろうか。
「松島が、何を企んでいるか次第で、来週からは今以上に忙しくなるぞ!松島の企みに乗って泣くか笑うかは、神仏のみぞだが、松島の企みに乗らなかったら、ジリ貧なのは言うまでもないだろう。無駄に期待したり、無駄に悲観したりせずに、来週の月曜日まで署名活動だ」
松島、お前が出馬しても、引っ繰り返せる保証はないぞ。しかし、炭鉱労の知恵だけでは肉薄すら難しいだろう。肉薄できれば、あるいは……




