-先輩-
市立朝日高等学校。
それが、恭子が手配してくれた俺の新しい居場所だった。
日本のトップエリートが集う傑聖高校とは違い、生徒たちのヒーローランクは軒並みCからEの低水準となっている。
校舎もどこか古びていて、外壁の塗装は剥がれかけ、最新鋭のホログラムが飛び交う街の中心部からは少し外れた場所にあった。
俺が元いた時代の学校とさほど変わらない、酷く埃っぽい雰囲気が漂っている。
ただ、どうやら進学校ではあるらしく、勉強についてけるかが唯一の懸念点である。
しかし、ここに通う生徒たちの目は一様に濁っていた。
「自分には才能がない」「どうせ社会の底辺だ」という諦観が、学校全体にどんよりとした空気として沈殿している。
そんな中、俺はEランクに偽装したリングを隠すように長袖のブレザーを羽織り、誰とも目を合わせず、授業が終われば真っ先に帰宅するという完璧な『空気』としての生活を徹底していた。
この世界で俺を知る人は誰も存在しない。
前みたいに陰口を言われることもない。
息を潜め、誰の視界にも引っかからない『空気』として過ごす毎日。
才能に期待されることもなく、失望されることもない。
それでいい。
それがいい。
それが……いいはずだった。
そんな転入して一週間が経った、ある日の放課後。
図書室で時間を潰してから帰ろうと、人気のない旧校舎の裏手を通った時のことだ。
「がはっ……!」
くぐもった痛々しい呻き声と、鈍い打撃音が響いた。
ビクッと肩を跳ねさせ、足を止める。
俺は何事だと思い、コンクリート塀の陰からそっと覗き込むと、三人の体格のいい男子生徒が一人の小柄な生徒を壁際に追い詰め、一方的に暴行を加えており、誰がどう見てもイジメの現場であった。
「おいおい久遠センパイよぉ。Eランクのゴミのくせにいつまで『ヒーロー同好会』なんて痛いことやってんだよ」
リーダー格の男が、嘲笑いながら右手を振り上げる。
その拳がうっすらと赤く発光し、小さな炎を纏っているのが見えた。
空気が焦げる嫌な臭いが漂ってくる。
微小な炎を発現させる個性らしい。
俺がいた時代のいじめと完全に違うところは、能力が使われていることだ。
考えるだけで恐ろしい…。
そして、その炎を纏った熱い拳が、壁際の生徒――久遠と呼ばれた先輩の腹に容赦なくめり込む。
「かはっ……げほっ、ごほっ……!」
久遠先輩は胃液を吐き散らしながら、崩れ落ちるように地面に這いつくばった。
ボサボサの髪の間から覗く顔は、すでに打撲と擦り傷でひどい有様だった。
しかも、彼自身の体つきは驚くほど細く、ひ弱だ。
腕や脚の線も頼りなく、喧嘩やスポーツに向いているとは到底思えない。
見ているだけで胸がムカムカする典型的なスクールカーストのいじめだ。
才能がない者同士がさらに下の者を見つけて優越感に浸る、最底辺の連鎖。
だが、今度こそ関わってはいけない。
この世界で俺は目立たないモブとして生きる、そう決めていたのだから。
以前、自分がコンビニ前で体験したあの出来事をちらりと思い返しつつ、踵を返そうとした、その時だった。
「……えへへ。ランクEのゴミでごめんね」
地面に這いつくばっていたはずの久遠先輩が、壁に血の滲んだ手をつき、細く震える足でゆっくりと立ち上がったのだ。
殴った不良たちの方が、信じられないものを見るように目を丸くしている。
「てめぇ、まだ立てんのかよ……」
「当たり前だよ……。僕は、ヒーローになる男だからね。ヒーローはこんなところじゃ絶対に倒れないんだ」
ボロボロの顔面を血で汚しながら、ひ弱な先輩は折れない真っ直ぐな瞳で、ふわりと柔らかく笑った。
――その瞬間、俺の心臓がドクンと大きく跳ねた。
彼には才能なんて欠片もない。
体格にも恵まれず、周囲の人間からは嘲笑され、文字通り殴られ、踏みにじられている。
誰からも認められない彼が「ヒーロー」を名乗ることなど、ただの痛々しい妄想でしかないはずだった。
俺ならとっくに逃げ出している絶望的な状況だ。
才能という絶対的な壁にぶつかった俺は、他人の目に怯え、スケート靴をゴミ箱に捨てて逃げ出したのだから。
なのに、この人はどうして。
どうして、他人の評価に潰されず、笑って『自分』のキャラクターを貫けるんだ?
「ふざけんな! 才能なしの勘違い野郎が! その腐った根性、燃やし尽くしてやるよ!」
己の常識を否定されたような恐怖と苛立ちからか、逆上したリーダー格の男が今度は顔面を狙って炎の拳を大きく振りかぶった。
さっきの打撃とは比べ物にならない。
先輩のひ弱な体にはもう、それを避ける体力も残っていない。
ダメだ、死ぬ。
そう思った瞬間。
他人の目から逃げ隠れることだけを望んでいたはずの俺の体は、無意識のうちにコンクリート塀の陰から一歩を踏み出していた。
「――そこまでにしておけよ」
低く冷ややかな自分の声が、旧校舎の裏手に響き渡った。
炎の拳を振り下ろそうとしていた不良も、血まみれの久遠先輩も、驚いたようにこちらに視線を向ける。
「あぁ? なんだてめぇ。見ねえ顔だな。引っ込んでろ、火傷したくねえならよ!」
俺はまた同じことを繰り返すのかもしれない、でも、彼の言葉を聞いて思わず身体が動きだした。
「……火傷ね」
そして、俺は深くため息をついた。
俺は長袖のブレザーのポケットに両手を突っ込んだまま、ゆっくりと彼らに近づいていく。
こんな中でも、極力目立つことはしたくない。
そして俺は、ポケットの中で能力をほんのわずかだけ相手に視認されないレベルで足元の地面に向けて解放した。
ただ、冷気を出せば空中の水分が凍って白い煙が立ち、能力を使ったことがバレてしまう。
だから俺は冷気の放出先を極限まで絞り込み、大気の温度は一切変えずに男の足裏と接しているコンクリートの表面だけを狙い撃ちした。
ピキッ……。
「ん? なんだ、急に寒く……うおっ!?」
リーダー格の男が急にバランスを崩して大げさにすっ転んだ。
後頭部を強打し、情けない悲鳴を上げる。
無理もない。
俺が死角で放った冷気が、男の足元のコンクリートの表面だけを目に見えない薄さで一瞬にして『摩擦係数ゼロの絶対零度のスケートリンク』に変えたのだから。
「いってぇな! おい、何したてめぇ!」
「何もしてないだろ。ポケットから手も出してない。あんたが勝手に滑って転んだだけだ」
俺は無表情のまま、淡々と嘘をついた。
「それより、そろそろ見回りの教師が来る時間だぞ。俺、さっき職員室の前を通ってきたから」
「チッ……! 覚えてろよ、ゴミ共が!」
得体の知れない寒気と、教師が来るというハッタリに気圧されたのか。
不良たちは捨て台詞を吐きながら、慌てた様子で旧校舎の裏から逃げ去っていった。
嵐が過ぎ去ったような静寂の中、俺は小さく息を吐き出し、へたり込んでいる先輩に向き直った。
「先輩、大丈夫ですか?」
「よ、よくわからないけど、ありがとう!いやー、助かったよ。僕は二年生でヒーロー同好会の会長をやっている久遠レイ」
血まみれでボロボロのくせに、久遠レイと名乗ったひ弱な先輩はとても柔らかく、そして明るい笑顔で親指を立ててみせた。
「最近転入してきた一年生の田中結城です。なんであんなボコボコにされて笑ってられるんですか。バカなんですか」
「失礼だなぁ。ヒーローはいつだってピンチの時ほど笑うものなんだよ? それに、あの子たちは僕の『キャラ』を馬鹿にしたからね。一歩も引くわけにはいかなかったんだ」
『キャラ』とはこの先輩の目指す理想のヒーロー像なのだろうか。
そして、先輩はフラフラと立ち上がりながらジャージの土をパンパンと払った。
その横顔には、才能がないことへの卑屈さなど微塵もなく、ただ純粋な『己の在り方』への絶対的な自信だけが満ちていた。
俺がその眩しさに少し目を伏せようとした、まさにその時だった。
『――怪我がなくて良かった。君も、そして彼も』
ふわりと。
春の微風のように穏やかで、けれど逆らうことのできない絶対的な静謐さを孕んだ声が旧校舎の裏手に響いた。
弾かれたように振り返ると、そこにはいつの間にか一人の少年が立っていた。
足音も、気配すらも全くなかった。
漆黒を基調とし、銀色の装飾が施された洗練された制服。
それは間違いなく、日本のトップエリート校『傑聖高校』の生徒の証だった。
彼が纏う空気は、この埃っぽい朝日高校の路地裏には決定的に不釣り合いだった。
「傑聖高校の……生徒?」
この数分で情報量があまりにも多すぎないか……。
そんなこと思いつつ、警戒して身構える俺に対し、少年は敵意をまったく感じさせない、柔らかく優しい微笑みを浮かべた。
「驚かせてしまってごめんね。僕は傑聖高校一年の黒桐和真」
黒桐和真。
彼は俺たちにゆっくりと近づきながらレイ先輩に向かって深々と、そして丁寧にお辞儀をした。
「実は今日、傑聖高校のとある先輩からの使いでやってきたんだ。市立朝日高校のヒーロー同好会に僕たちとの『模擬戦』をお願いできないかと思って」
和真は制服のポケットから、高級な和紙で作られた一通の封筒を取り出し、両手でレイ先輩に差し出した。
左手首で鈍く光る彼のステータスリングの表示が見えた瞬間、俺の背筋に冷たい汗が伝った。
――【ランクA+】。
俺と同じA+、正真正銘のトップオブトップなのだろう。
それがこんな穏やかな顔をして、どうしてこんな辺境の一般校に、しかも弱小の同好会に自ら模擬戦を持ちかけてくるのだ?
「ほ、本当!? やったぁ! 傑聖の方から僕たちをご指名してくれるなんて!」
「うん。来週の日曜、傑聖高校の量子シミュレーター・アリーナにお招きするよ。でも、1つ条件があって……」
喜びに沸き立つレイ先輩の言葉を、和真は静かに遮った。
そして、その優しげな漆黒の瞳を――真っ直ぐに『俺』へと向けた。
心臓が嫌な音を立てた。
和真は俺から絶対に視線を逸らさず、ふわりと微笑んだ。
「条件としては君、田中結城くんも参戦すること。さっきの君の能力操作、素晴らしくて惚れ惚れしちゃったよ。本当のランクはどうなんだろうね……?」
どうやらバレているらしい。
ランクEに偽装していることも、俺が強大な力を持っていることも。
大気の温度を変えずに路面だけを凍らせるという精密なコントロールすらも、この男の底知れない瞳はすべてを見透かしているのだろう。
「僕は、本気の君と戦ってみたいなぁ。結城くんが模擬戦に参戦してくれるなら、僕たち傑聖高校は全力で歓迎するよ」
それだけ言うと和真は「来週、楽しみにしているね」ともう一度優しく微笑み、足元の影にふわりと沈み込むようにして、文字通り音もなく姿を消した。
影移動の能力。
規格外の手数だ。
夕暮れの旧校舎裏に取り残されたのは、真っ白な封筒を握りしめたレイ先輩と、頭を抱えたくなる衝動に駆られている俺だけだった。
「……先輩。俺、帰っていいですか。模擬戦なんて絶対に出ませんからね」
「ま、待って待って! 結城くん、お願い! この通りだよ!」
踵を返そうとした俺の背中にレイ先輩が勢いよく、今にも泣き出しそうな必死さで頭を下げてきた。
「俺は目立たずに、誰の記憶にも残らないモブとして生きたいんです。傑聖高校なんかと関わったら平穏な生活が――」
「一生のお願いだよ! 僕は……僕はどうしても、あの舞台に立ってみたいんだ!」
柔らかく笑っていた先輩の声が初めて震えていた。
足を止め、振り返る。
ボロボロの顔で頭を下げる先輩の細い拳は、ズボンをきつく握りしめて白くなっていた。
「……僕はね昔、本当に何の取り柄もなくて、体も弱くていつもいじめられて、誰からも期待されないゴミだった。自分の人生なんかとっくに諦めてたんだ」
ぽつり、ぽつりと先輩が過去を語り出す。
「でも、ある日……テレビでヒーローが戦う姿を見たんだ。その人は笑っていた。どんなに絶望的な状況でも自分の『キャラ』を信じ抜いて、みんなを助けていた。何の取り柄のない僕でもあんな風になりたいって、心の底から思っちゃったんだよ」
それは、能力至上主義のこの社会において、力を持たない者にとってあまりにも無謀で滑稽な夢だっただろう。
「ランクEの僕がヒーローになりたいなんて言ったら、親にも教師にも当然笑われた。でも、僕は証明したいんだ。自分らしさがなくて才能がなくても、体が弱くても、自分が自分を信じ抜けば誰だってヒーローになれるってことを」
レイ先輩は顔を上げ、俺を真っ直ぐに見つめた。
「よく分からないけど、君に何か情があるのは分かってる。でも、君がいなきゃあの人は僕たちの挑戦を受けてくれない。自分勝手な夢だけど、どうしても挑戦してみたい。結城くん、君の力を僕に貸してくれないかな」
その泥臭くて、必死で、どうしようもなく真っ直ぐな瞳は。
才能がないと見捨てられ、他人の目に怯え、本当は誰かに助けてほしかった過去の俺自身と痛いほどに重なって見えた。
……クソッ。
「……勝つことは保証しませんよ。ただ参加するだけです。俺は目立ちたくないんで」
「結城くん……!」
俺がため息まじりにそう言うと、レイ先輩は顔をくしゃくしゃにして笑い、俺の手を両手でぎゅっと握りしめた。
「うんっ! ありがとう、結城くん!」
「痛い痛い、先輩血がついてますって……はぁ。最高に面倒くさいことになったな……」
夕日が沈みゆく空を見上げながら、俺は今日何度目か分からないため息をついた。
こうして俺は、無謀な夢に一人で牙を剥くひ弱な先輩の夢を守るため、自ら平穏を捨て、傑聖高校との模擬戦に足を踏み入れることになってしまったのだ。




