-自分らしさ-
戸惑う俺を、突如現れた謎の彼女はへたり込んだ腕から力強く引き上げてくれた。
そんな、立ち上がった俺に対して、彼女は何故か照れくさそうにしていた。
「ずっと、会いたかったよ……」
このよくわからない街並みもだが、それよりも彼女の言葉の意味がわからない。
なぜなら、俺は彼女のことを知らないのだ。
「えーと……ごめん……昔どこかで会ったことあるっけ?」
有名人の親ということもあって、昔から軽い挨拶など人と顔を合わせる機会は確かに多かった。
多分、その時に出会った1人なのかと疑問に思いながら彼女に問いかけた。
「そ、そうだよね!わかるはずないよね……とりあえず今の言葉は忘れて!」
彼女の反応からして、どうやら俺は彼女と面識があるらしい。
結果的に彼女を傷つけることになってしまったようだ。
そして、彼女は少ししょんぼりしながら俺に対して言葉を続けた。
「と、とりあえずここじゃあれだから私の家に一旦行きましょう、ついてきて」
ふと見ると、確かにここは道のど真ん中となっており、俺は明らかな通行の邪魔となっていた。
また、この場所がどこかもわからないので、俺は彼女の言葉にこくりと頷き、とりあえず彼女についていくことにした。
空を走る光のチューブと壁面で乱舞する極彩色のホログラムを見上げる暇さえ与えず、彼女は迷路のような路地を慣れた足取りで抜けていく。
すれ違う人々が左手首につけている銀色のリングは、その人の脈拍や感情に合わせてチカチカと微弱な光を放っていた。
街のゲートや自動販売機のようなものに近づくたび、そのリングをかざして認証を行っている。
すべてがシステムによって管理された冷徹な社会構造なのか。
そんな、確証もない考察をしているうちに、とある高層マンションへと行き着いた。
ここが彼女の住処なのだろうか。
しかし、その建造物は俺の想像の範疇を超える、天をも突き抜けるかのような大きさとなっていた。
「で、でかすぎんだろ……」
そんな俺の驚嘆に、彼女は自然な笑みを浮かべていた。
果たして、俺がおかしいのだろうか…。
そして、そんな高層マンション内の彼女の住む一室へと案内された。
「温かいお茶でいいかな。お……、結城くん」
白を基調とした無機質だが生活感のある部屋。
マグカップを差し出しながら、彼女は少しだけ照れくさそうに俺の名前を呼んだ。
「ああ……ありがとう」
「そういえば、自己紹介がまだだったね。私の名前は御門恭子。ひとまずここは警察もマスコミも来ない安全な場所だから安心して」
彼女はどうやら、俺に起きたことを把握しているらしい。
あれだけネットで話題になっていればそれも当然か。
そして、俺は得体の知れない彼女に対して、本来警戒すべきなのかもしれないが、なぜか彼女が纏う空気にはどこかすべてを包み込むような深い慈愛があった。
俺自身初対面のはずなのに、彼女への警戒心が不思議と解けていく。
だが、安堵している場合ではない。
俺はマグカップをテーブルに置き、単刀直入に尋ねた。
「ここはどこなんだ?さっきの景色……どう見ても俺の知っている日本じゃない。それに、俺はさっきまで自分の部屋にいたはずだ」
「そうだね、順番に説明しなきゃだよね」
恭子は対面のソファに座り、真っ直ぐに俺の目を見た。
「結論から言うと、ここはあなたがいた時代から『八十年後』の日本なの」
「……は?」
「信じられないかもしれないけど、私の『時間超越』の能力を使ってあなたをここに連れてきたの。少し無理をしたから、命を削るような大技で何度も使える力じゃないんだけど…。でも、あなたのその『氷の力』の暴走で警察に追われることも、ネットで特定されて石を投げられることもこの時代では絶対に起きない」
彼女は急に何を言っているんだ?
八十年後?
タイムスリップ?
しかし、普段なら鼻で笑い飛ばすような戯言だが、よく思い返すと先ほど見た街の異常な光景と何より自分の手から氷の槍が出たという現実が、彼女の言葉の信憑性を高めた。
恭子は、そんな言葉を失う俺に優しく語りかけるように続けた。
「結城くん。あなたがいた時代から約三十年後……つまり今から五十年前ね。この世界に、一つの劇的な変化が起きたの。それは、あなたみたいな特殊な能力を使える人間が世界各地で次々に出現したの。そして、人間の遺伝子に眠っていた未知の力『個性因子』の存在が世界中に発表されたわ」
「個性、因子……?」
一体、何が何だかもうわからない。
「私も歴史で習ったくらいで詳しくはわからないけど、約一千年前に『大神』っていう存在が十三人の人間に始祖の力、簡単にいうと能力を授けたの。その力を持つ者たちの血脈や繋がりを通じて人々の間に広がっていって……今ではこの世界の八割の人間が『個性因子』という能力を発生させるための器を持っているの。そして、その広がった個性因子による能力の発症が環境の変化なのか何なのか、約五十年前に突如として具現化し始めたということね」
脳の処理が追いつかないなりに、辛うじてだが彼女の言葉を噛み砕いた。
「つまり、俺があの夜に使った氷の力も……その『個性因子』ってやつが原因なのか?」
「そうよ」
あっさりと肯定され、俺は混乱した。
「でも、待ってくれ。その話だと能力が世界中で広まったのは俺がいた時代の三十年後なんだろ? だったら、どうして俺はあの時代で、俺だけがあんなバケモノみたいな力を発動してしまったんだよ……」
思い出すだけで手が震える。
人を刺し貫いた氷の感触。
悲鳴。
俺に向けられた、汚物を見るような無数の視線。
俺はただのフィギュアスケートの才能がない出来損ないだ。
特別な人間なんかじゃない。
なのに、どうして俺だけがあんな呪いを背負わされなければならなかったのか。
取り乱す俺に対し、恭子は深く痛ましそうに目を伏せた。
「そう、本来はあの時代で能力を使えた人間はほとんどいない。でも、運命が残酷な形で重なってしまったのよ。あなたがたった一人、誰よりも早く力を発症してしまったのには……三つの理由があるわ」
恭子は指を立てて、一つずつ区切るように言った。
「一つ目。それは、あなたがこの世界に十三人しか存在しない特別な力『始祖の力』の一つである【氷】の継承者として選ばれてしまったことね」
「始祖……十三人……?」
「これは先ほど言った個性の始まり、源流となっている極めて巨大で特別な能力となっているの。個性因子を持つものからそれぞれの時代で十三人選ばれると言われているわ。幸運か不運にも、あなたはその一つである【氷】の適合者として選ばれてしまった。それ故に、他の人より能力を発動させるポテンシャルが異常に高かったといことね」
今の俺にとって、彼女の話はあまりにもスケールが大きく理解が追い付かないが、とりあえず耳を傾ける。
「そして二つ目の理由……これが発症の時期を狂わせた最大の原因。それは、あなたが常軌を逸した大衆の重圧と視線を浴びてしまったことね」
その瞬間、両親の顔が脳裏にフラッシュバックした。
「この世界で能力を発現させるための最大の鍵はね、何よりもまず『自分らしさ』……つまり、自己の強烈なキャラクターへの思い込みが重要なの」
恭子は自分の胸元にそっと手を当てた。
「この世界では、自分がどうありたいか。自分はどういう人間なのか。その強烈な自己認識と個性因子の組み合わせによって能力が具現化するの。そして、それは大衆の目を浴びている人ほど形成しやすいなんて解明されているわ」
「大衆からの……目?」
「そう。大衆の大量の視線と共通認識は、本人の『自分らしさ』の思い込みを異常な速度で加速させる。自分はどういう存在なのか。あなたの場合は『出来損ない』というイメージかしらね。だから、インフルエンサーなんか著名人ほど個性の発症がしやすいなんて言われているわ」
そこで、恭子の言葉の意味が俺の中でカチリと音を立てて繋がった。
俺は両親の付属物として、常に大量の視線を浴びていた。
大衆が期待する「才能ある息子」というイメージ。
それに応えられなかった俺に向けられた「失望」。
その周囲からの勝手な眼差しが、俺の中の『才能のない出来損ない』という自己認識を病的なまでに加速させ、肥大化させていたのだ。
「そして最後の三つ目。それはあなたが……ひどく恐れ、周囲の世界を強く『拒絶』したことよ」
恭子の瞳が痛みを堪えるように揺れた。
「世間から『出来損ない』と思われ、そんな自分に絶望し、それを全力で拒み、自分の殻に引きこもろうとした。その激しい葛藤と他者の眼差しから自己を守ろうとする強烈な防衛本能が、不運な形にも個性因子と強く反応してしまい、本来ならあり得ない時代に能力を誰よりも早く覚醒させてしまったわ。外界との関わりを遮断し、すべてを凍りつかせる『氷』として……」
静かな部屋に、恭子の言葉だけが響き渡った。
俺が人を傷つけたのは、俺が生まれついてのバケモノだったからじゃない。
他人の期待という暴力に潰されそうになった俺の心が、無意識のうちに自分を守ろうとして生み出した悲しい『防衛本能』ということだったのだろう。
「だから結城くん。あなたは決してバケモノなんかじゃない」
恭子は俺の震える手を、両手でそっと包み込んだ。
その手は驚くほど温かかった。
「ただ、誰よりも早く力に目覚めてしまっただけなのよ。この時代でなら、誰もあなたを化け物だなんて呼ばないわ」
その温もりに、俺は思わず泣き出しそうになるのを必死に堪えた。
ずっと、誰かにそう言ってほしかったのかもしれない。
両親でも、世間でもなく、ただ俺という人間を肯定してくれる言葉を。
だが、安堵の余韻に浸る間もなく、恭子は自らの左手首にはめられた銀色のブレスレット――先ほどから微かに発光している端末を指差した。
「今、この世界ではそんな能力を持つ者たちが『ヒーロー』として国に統括され、社会の頂点に君臨しているわ。そして、そのシステムを維持するために、全市民にこの『ステータスリング』の装着が義務付けられているの」
「ステータスリング……さっき外を歩いていた人たちが着けてたやつか」
「ええ。これによって、個性因子を含めた各人の能力、ヒーローとしての強さが常に数値化され、可視化されているのよ。」
恭子が端末を操作すると、空中に青白いホログラムのウィンドウが浮かび上がった。
そこには、レーダーチャートのようなグラフと無数の数値が羅列されている。
それは、俺がいた時代の狂ったネット社会や、才能で人間を序列化するスポーツの世界をより洗練させ、巨大な構造的格差社会として完成させただけの残酷なシステムに思えた。
「結城くんのリングもすでに用意してあるわ」
恭子がテーブルの上に、真新しい銀色のリングを置いた。
戸惑いながらも言われるがままに左手首にはめると、チクッとした生体認証の微かな痛みの後に、俺の目の前にもホログラムの画面が展開された。
『測定完了:田中結城 ヒーローランク【A+】』
「ランクA+……」
「ええ。とんでもない数値よ。……やっぱりね」
恭子はどこか誇らしげに微笑んだ。
だが、俺の心は急速に冷え切っていった。
この世界ではどうやら、上からS~Eのランク分けがされているらしい。
さきほど街中で見たアルファベットの表示は、これを表していたのだろう。
そして、俺は上から2番目のA+。
どうやら俺には「才能」があるらしい。
また、あの『期待』の目が俺に向けられるのか。
見えない階級の檻に閉じ込められ、他人の欲望を満たすための記号として消費される日々が始まるのか。
「ちなみに、恭子のランクは何なんだ?」
「私? 私のランクはS。世界で八人しかいない規格外のカテゴリーなんて言われているわ」
俺とは違い、彼女は誇らしげに微笑む。
「S……世界で八人……」
目の前にいるこの優しげな少女が、どうやらこの世界の頂点に立つ一人らしい。
「結城くん。私はね、日本の将来有望なヒーロー志望が集まる『傑聖高校』に通っているの。ここは入りたくても選ばれたものしか入学できないと言われる、才能の原石の集まり。私はあなたにもここに入学して欲しいと思っているの。あなたのそのランクA+の力があれば、間違いなくトップクラスになれる。過去のトラウマなんて吹き飛ばせるくらい、堂々と、自分らしく生きられる場所となっているわ」
彼女の言葉は、純粋な善意と期待に満ちていた。
八十年前の孤独な俺を救い出し、輝かしい舞台を用意してくれた恩人。
普通なら泣いて喜ぶところだろう。
だが。
「……断る」
俺の口から出たのは、低く、冷たい拒絶の声だった。
恭子がわずかに目を丸くする。
「えっ……?」
「俺は、もう誰の期待も背負いたくない」
「結城、くん……?」
「能力が評価される? 自分らしさが力になる? そんなの、俺がいた世界と何一つ変わらないじゃないか! 結局、みんな俺の中身じゃなくて、俺にくっついてる『飾り』しか見ないんだろ!」
感情が制御できず、声が荒らげた。
左手首にはめたばかりのリングが、心拍数の上昇を感知して微かに赤く明滅する。
「俺は人を殺しかけたんだぞ……この力で。ヒーローなんて冗談じゃない。俺はもう、誰の目にも止まらない、誰からも評価されない、ただの『モブ』でいい。頼むからこの世界では平穏な生活を送らせてくれ」
息を切らして俯く俺に、恭子は怒るでもなく、ただ悲しそうに目を細めた。
そして、ふわりと俺の頭に手を乗せた。
「そうだよね……ごめんね。辛かったよね」
その優しさが痛かった。
「わかったわ。結城くんがそう望むなら、無理にとは言わない。あなたの人生は、あなたのものだから」
恭子は自身のステータスリングの画面を操作し始めた。
「傑聖高校への入学の話は忘れて。でも、その代わりになんだけど、この家から通える範囲にあるごく普通の……本当に何の特徴もない、地元の一般高校の手続きをしておくわね。リングのランクも、私の権限で最低の「Eランク」に改ざんしとくわ。その方が結城くんも暮らしやすいでしょ?」
「……いいのか? そんな俺なんかを助けて、わざわざ未来に連れてきたのに」
「いいの。私があなたに望むのは、あなたが無理をしてヒーローになることじゃない。この世界で、あなたが『本当の自分らしさ』を見つけてくれることだけだから」
そう言って笑う恭子の瞳の奥に、ほんのわずかな寂しさと、何かを確信しているような強い意志が見えた気がしたが、その時の俺は深く考える余裕もなかった。
こうして俺は、八十年後の未来という異常な状況に放り込まれながらも、自らの意志で表舞台から降りることを選んだ。
リングの数値を隠し、社会構造の底辺に紛れ込み、誰の記憶にも残らない「モブ」としての高校生活。
これだ。
誰にも期待されず、誰にも怯えなくていい。
この圧倒的な平穏こそが、俺の望んでいたものだった。
この世界で、俺はやり直すんだ。
「……でも、その前に一つだけ結城くんにやっておいてほしいことがあるの」
俺が安堵の息を吐き出した矢先、リングの偽装作業を終えた恭子が、ふと真剣なトーンで告げてきた。
「やっておいてほしいこと?」
「うん。能力のコントロール練習」
その言葉を聞いた瞬間、俺の体温がスッと下がるのを感じた。
無意識のうちに、右手首を左手で強く握りしめる。
脳裏にフラッシュバックするのは、深夜のコンビニ前。
俺の右手から放たれた鋭い氷の槍が、男の腹部を深々と貫き、生暖かい血がアスファルトに広がっていくあの忌まわしい光景だ。
「断る。俺は二度とこの力は使わない」
「でも結城くん、個性因子は感情と強く結びついているの。一度発現した力は、使い方を覚えて制御しないとまた何か強いストレスを感じた時に無意識に暴走してしまうかもしれないわ」
「……っ」
かなり痛いところを突かれた。
確かに、あの夜も恐怖と自己嫌悪の爆発によって、俺の意志とは無関係に力が暴発したのだ。
この未来の世界で「モブ」として平穏に暮らすためには、皮肉なことに、この呪われた力を完全に飼い慣らす必要があるということか。
「でもここじゃ無理だ。また俺が暴走して、お前やこの部屋を凍らせてしまったら……」
「大丈夫だよ」
怯える俺の右手を、恭子は両手で優しく、そして力強く包み込んだ。
彼女の手は、やはり驚くほど温かかった。
「私がいるでしょ? 私はランクS。もし結城くんの力が暴走しそうになっても、私の『時間』の能力で一瞬にして空間を静止させて、安全に止めてあげるから」
恭子は春の陽だまりのように柔らかく微笑んだ。
その底知れない安心感と、俺という存在を微塵も恐れていない真っ直ぐな瞳に気圧され、俺は観念して深いため息をついた。
「……わかった、何からやればいいだ?」
「まずは、自分のイメージを形にすること。結城くんの力は【氷】。ただ冷気を出すだけじゃなくて、温度を奪い、対象を凍結させること。目を閉じて、一番身近で一番よく知っている『氷』を思い出してみて」
言われるがままに目を閉じ、右手に意識を集中させる。
一番よく知っている氷。
それは間違いなく、幼い頃から何万回と転び、這いつくばってきたあのスケートリンクだ。
苦い記憶が蘇る。
両親の滑らかなスケーティングに憧れ、いくら血を吐くような努力をしても俺には空中で体を制御する才能がなかった。
だが――。
(氷の冷たさは、誰よりも知っている)
エッジが氷を削る時の、あの微かな抵抗。
極限まで磨き上げられた製氷直後のリンクの摩擦が完全にゼロになる滑らかな表面。
空気が冷え切り、吐く息が白く染まる時の肌を刺すような温度の変化。
ジャンプの才能はなかった。
観客を魅了するカリスマ性もなかった。
だが、あの冷酷で美しい『氷』という物質そのものの性質を、俺の細胞は誰よりも克明に正確に記憶していたのだ。
「……温度を、奪う」
俺は目を開け、右手の指先に極限まで意識を絞り込んだ。
無差別に冷気を放出するのではない。
周囲の空気中にある微小な水分だけをターゲットにし、その分子の運動エネルギーのみをピンポイントで奪い去るイメージ。
ピキッ……。
静かな部屋に、微かな音が鳴った。
俺の指先の数センチ先の空中でキラキラと輝く氷の粒子が生まれ、それが結合し、一枚の薄いガラスのような『見えない氷の膜』を形成した。
それは、部屋の温度を一切下げることなく、ただ指定した空間の水分だけを絶対零度で凍結させた、極めて高度な精密制御の結果だった。
「……すごい」
恭子が息を呑む気配がした。
「結城くん……あなた、本当に初めてなの? 今の、ただ冷気を出すより何百倍も難しい分子レベルの温度操作だよ。傑聖のトップクラスでもここまで精密な出力調整は簡単にはできないわ」
「正直、俺も驚いてる…」
俺は空中に浮かぶ薄い氷の膜に触れた。
冷たい。
だが、あの夜に生み出した人を殺すための鋭く禍々しい槍とは違う。
薄く、透明で、周囲の景色と同化するような静かな氷。
そして、俺はその見えない氷を見つめながら、心の中で一つの誓いを立てた。
俺は、この力を絶対に『誰かを傷つける武器』としては使わない。
大衆の目を惹きつけるような派手な魔法として見せびらかすこともしない。
ただ、自分を隠し、誰かの死角からこっそりと事象をコントロールする――俺というモブにふさわしい透明な『裏方の力』としてだけ行使する。
才能という見えない階級から逃げ出した俺には、それがお似合いだ。
右手を握り込むと、空中の氷の膜はパチンと音を立てて消滅し、ただの空気へと戻っていった。
「結城くん、すごく綺麗な氷だったよ」
恭子が嬉しそうにパチパチと拍手をしている。
そんな彼女の無邪気な笑顔を見ながら、俺は「これで誰にもバレずにモブとして生きていくんだ」と一人で納得していた。
――だが、この時の俺はまだ知る由もなかった。
恭子が手配してくれたその「何の特徴もない普通の高校」で、才能という残酷なシステムの壁に何度血まみれになっても頭突きをかまし続ける、一人の馬鹿げた先輩と運命的な出会いを果たすことになるなんて。




