-謎の少女-
***
時刻は深夜二時。
玄関の重い扉を開けると、真冬の冷たい空気が淀んで、肺の底に溜まっていた空気をチクチクと刺激した。
すれ違う誰かに顔を見られるのが恐ろしくて、俺はパーカーのフードを深く被り、視界の端を遮るようにしてうつむきながら歩いた。
静まり返った住宅街は、まるで世界に自分一人しか取り残されていないかのよう世界だった。
時間がこのまま止まればいいのに……。
そんな他愛もない妄想をしているうちに、最寄りのコンビニへと着いた。
コンビニでは、適当な弁当とゼリー飲料をいくつかエコバッグに放り込んだ。
店員の気怠げな声と、自動ドアの無機質な電子音だけが今の俺と社会とを繋ぐ唯一の接点だった。
そして、買い物を済ませ逃げるように店を出て、家路を急いでいたその時だった。
「ちょっと、やめてください!」
静寂を切り裂くような、女性の甲高い声が響いた。
ビクッと肩が跳ね、反射的に足が止まる。
嫌な予感を抱えながら息を殺して声のした方へ視線をやると、電灯の薄暗い光の下、スーツ姿の若い女性がガラの悪い男に壁際へと追いやられているのが見えた。
男はひどく酔っているようで、千鳥足になりながらも執拗に女性の腕を掴み、無理やり暗がりへ連れ込もうとしている。
(絶対に関わってはいけない。)
頭の中で、理性が激しく警鐘を鳴らした。
なぜなら、ただでさえ暴力沙汰を起こして停学中の身だ。
これ以上トラブルを起こせば、今度こそ両親は俺という存在を完全に切り捨てるだろう。
マスコミの格好の餌食になり、またあの忌まわしいカメラのフラッシュを浴びることになる。
引き返そう。
見なかったことにしよう。
そう思って踵を返しかけた瞬間、女性の絶望に満ちた悲痛な顔が、不意に俺の視界に焼き付いた。
その目は以前教室で向けられた、俺を「化け物」として見るかのようなクラスメイトの目と重なった。
「――っ」
ここで逃げることも当然できる。
だが、果たしてそれでいいのか。
ここで本当に逃げてしまったら、それこそ俺は本当に救いようのない人間になってしまうのではないか。
そんな葛藤を繰り返しているうちに、俺の身体は思わず動き出していた。
「――っ、おい!」
自分でも驚くほど震えており、情けない裏返った声だった。
男が忌々しげに動きを止め、こちらを振り向く。
アルコールとタバコの入り混じった不快な臭いが、数メートル離れた俺の鼻腔まで届いた。
「あぁ? なんだてめぇ、ガキは引っ込んでろ!」
「彼女、嫌がってます……離さないと警察呼びますよ……」
ポケットの中でスマホを握りしめながら、必死にハッタリをかます。
だが、男の顔には怯えではなく、どす黒い怒りが浮かび上がった。
女性の腕を乱暴に振り払うと、ドスドスと重い足音を立ててこちらへ向かってくる。
「舐めんなよクソガキが!」
男の右手が上着のポケットに突っ込まれ、次に引き抜かれた時――そこには、街灯の光を反射してギラリと光る『ナイフ』が握られていた。
嘘だろ。
一瞬で全身の毛穴が開き、心臓が早鐘のように打ち鳴らされる。
逃げなきゃ。
そう頭では分かっているのに、あまりにも事態が突然すぎて足がアスファルトに縫い付けられたように全く動かない。
『恐怖の前で、本当に人は動けなくなるんだな……』
そんな、精一杯の冷静を装うかのような思考が俺の中で巡る。
だが、事態が収まることはない。
逆上した男が獣のような雄叫びを上げ、俺に向けてナイフを振り被る。
(このままだと死ぬっ――!)
この時、なぜ俺がそのような行動を取ったのか、理由は今でもわからない。
だが、本能が死を悟り、ギュッと目を閉じて俺は両腕を前に突き出していた。
防衛本能なのだろうか。
それとも恐怖からなのだろうか。
そして同時に、幼い頃から俺の中に澱みのように溜まり続けていた「親の幻影」と「世間の期待」という名の冷たい重圧。
無数の「見えない視線」によって加速され、肥大化しきっていた俺のどうしようもない自己嫌悪と孤独を思い出す。
それらすべての精神的負荷が、俺の命の危機に呼応して、俺の遺伝子の奥底に眠っていた致命的なバグをどうやら引き起こした。
パキンッ……!!!
真冬の湖面が凍りつくような、甲高く澄んだ音が周囲に響き渡った。
同時に俺の体温が急激に奪われ、突き出した手のひらから爆発的な『何か』が放出される感覚があった。
周囲の空気が一気に氷点下まで下がり、アスファルトの上に真っ白な霜が猛スピードで走り抜ける。
「……が、ぁ……?」
気が付くと、先ほどまで俺に殺意を向けた男の間の抜けた声が降ってきた。
一体どうなったんだ……?
そんな不思議に思った俺は恐る恐る目を開けると、自分の身に起きている現象を瞬時に理解することができず、思わず息を呑んだ。
なんと、俺の右手から半透明の巨大な『氷の槍』が伸びていたのだ。
まるで、空気中の水分が一瞬にして凍りついたかのように鋭く、禍々しい造形をした氷の刃。
そして――その切っ先は、男の腹部を深々と貫いていた。
「あ……あ……」
わからない。
だが、俺が生み出したであろう氷の槍が、ボロボロと崩れ落ちる。
支えを失った男の体がドサリと地面に崩れ落ち、アスファルトの上にどす黒い血溜まりが急速に広がっていった。
生暖かい血から、異様な冷気による白い湯気が立ち上る。
気づいたら、俺は自分の震える両手を見つめていた。
何だこれは。
手品か? 幻覚か?
いや違う。
一瞬だけ、時が止まったような錯覚。
俺の手から放たれたものは、紛れもなく俺自身の内側から湧き出た力だった。
「ひっ……! ぁ、ああああああああっ!!!」
そんな深夜の沈黙を切り裂いたのは、俺が助けようとしたはずの女性の悲鳴だった。
彼女は、腹から血を流す男と、そして『俺』を交互に見比べ、腰を抜かして後退っていく。
その目は、恩人を前にした安堵などではない。
正体不明の『化け物』に対する、純粋な恐怖と絶対的な拒絶だった。
日常という現実の枠組みを破壊された、人間の根源的な怯え。
また、俺はやってしまったのだろか……。
「違う……俺は、ただ……」
必至に弁解しようと伸ばした手を、女性は悲鳴を上げて避けようとした。
その瞬間、俺は完全に理解した。
両親は美しい氷の上で舞い、世界中の人々から愛された。
それなのに、俺は自分の手で氷を生み出し、人を傷つける『化け物』になってしまったのだ。
こんなよくわからない人間離れした残酷な力を持つ俺を、一体誰が受け入れてくれるというのか。
気が付くと、遠くからパトカーのサイレンの音が聞こえ始めた。
幻聴か現実かもわからないその音と、女性の叫び声が頭の中で反響する。
手から抜け落ちたエコバッグの中身が散乱するのも構わず、俺は自分の犯した罪と、得体の知れない自らの力から逃げるように思わず、狂ったように夜の闇へと走り出していた。
そして、あの事件から三日が過ぎた。
俺は一歩も部屋から出ず、ただ暗闇の中でスマホの画面を見つめ続けていた。
『――続いてのニュースです。先日未明、市内の住宅街において発生した猟奇的な傷害事件ですが、被害者の男性は腹部を激しく損傷し、現在も意識不明の重体が続いています』
『現場には、特殊な冷却装置を用いたとしか思えない巨大な氷の残骸が残されており、警察は凶器の特定を急ぐとともに――』
ニュースキャスターの無機質な声が、イヤホン越しに脳内をガンガンと殴りつけてくる。
被害者は一命を取り留めたらしい。
だが、事態が好転したわけではなかった。
あの夜、俺が自分の手で生み出してしまった非現実的な現象は瞬く間に「猟奇的なオカルト事件」として世間の好奇心を煽り、炎上していた。
『現場から逃走した少年の特徴、あの元メダリストの息子じゃね?』
『あー、高校で暴力沙汰起こして引きこもってる奴だろ。親の顔が見てみたいわ』
『てか凶器なに? 氷って意味わかんなくない? サイコパスじゃん』
ネットの特定班の動きは恐ろしいほど早かった。
俺の過去、停学の事実、両親の輝かしい経歴。
そのすべてが丸裸にされ、見えない群衆からの石礫となって容赦なく飛んでくる。
彼らにとって、俺の人生の背景などどうでもいい。
ただ、消費しやすい『悪』という記号として俺をラベリングし、正義を振りかざして叩いているだけだ。
文字の羅列が鋭い刃となって俺の心を切り刻んでいく。
違う、俺はただ、あの人を助けたかっただけなんだ。
しかし、画面に向かっての叫びは、喉がひゅっと鳴っただけで声が出なかった。
今さら誰が俺の言葉になんて耳を貸すのだろうか。
震える両手を目の前にかざす。
あの夜、確かにこの手から氷が飛び出した。
両親は美しい氷の上で舞い、世界中から愛された。
それなのに、俺は自分の手で氷を生み出し、人を傷つける『化け物』になってしまったのだ。
こんな人間離れした狂った力を誰が信じ受け入れてくれるというのか。
ふと、薄いドアの向こうのリビングから父親の怒声と母親の金切り声が聞こえてきた。
連日、両親のスマホや自宅の電話には、マスコミやスポンサーからの着信が鳴り止まないらしい。
世間が長年消費してきた『完璧な家族』のイメージは、俺という出来損ないの泥によって完全に崩壊したのだ。
俺のせいで二人の人生まで終わろうとしている。
もう、俺の居場所はこの世界のどこにもないのだろう――。
「もう、どこかへ逃げ出したい……」
そんな弱った言葉を吐きながら、ベッドの上で膝を抱え、きつく目を閉じる。
息が詰まる。
暗い海の底に沈んでいくように意識が泥のように濁っていくのを感じた。
いっそこのまま消えてしまいたい。
俺はこの世に必要ない存在なんだ。
そして、誰の記憶からも田中結城という存在そのものを消し去ってしまいたい――。
『――やっと、見つけた』
そんな、救いのない思考を巡らせている中、ふと耳元で鈴を転がすような、凛としたとある少女の声が響いた。
俺は突然のことに驚き、ビクッと肩を震わせ、顔を上げる。
だが、鍵をかけた薄暗い自室には、当然俺以外の誰もいるはずがない。
空耳なのか…?
そう思った次の瞬間だった。
ぐにゃり、と。
視界の端が、飴細工のように不自然に歪んだ。
「え……?」
立ち上がろうとした足から、突如として重力が消失した。
足元のフローリングが底なしの沼に変わったかのように、体が真っ逆さまに落ちていく。
「な、なんだっ……!?」
声を出そうにも、喉が麻痺したように動かない。
空間がねじ曲がり、光の渦が猛烈なスピードで逆流していく。
物理法則も、常識のすべてが崩壊していく感覚の中で、意識が強制的にシャットダウンされようとしていた。
最後に感じたのは、闇の底へ落ちていく俺の腕を誰かが優しく力強く引き上げるような不思議な温もりだった。
……。
…………。
まぶたの裏を刺す、チカチカとした強烈な光で目が覚めた。
「……っ、痛ぇ」
アスファルトに似た、しかしもっと滑らかで硬い地面に倒れ伏していた体を起こす。
ひんやりとした空気が頬を撫でたが、それは真冬の刺すような寒さではなく、徹底的に空調管理されたような無機質な冷たさだった。
ここはどこだ。
ぼんやりとする頭で周囲を見渡した俺は、その光景に思わず声が漏れた。
「なんだよ……これ……」
そこは、俺の見慣れた日本の住宅街ではなかった。
空を覆うように張り巡らされた透明なチューブの中を、流星のような光の塊が凄まじい速度で行き交っている。
見上げるほど高い摩天楼の壁面には、立体的なホログラムの巨大な広告が宙に浮き、極彩色の光を放っていた。
だが、それ以上に異様だったのは、行き交う人々の姿だ。
彼らは皆、統一されたような洗練された衣服を身に纏い、その左手首には一様に銀色のリングを光らせている。
そして、そのリングから1つのアルファベットが表示されており、俺にとってはあまりにも異彩を放っている代物となっていた。
「なんなんだよ、これ……」
映画のセットか何かなのか、それとも俺の頭が完全におかしくなった幻覚なのか。
呆然と呟く俺の視界を遮るように不意に、一つの影が落ちた。
「おはよう」
顔を覗き込んできたのは、俺と同じ年頃の少女だった。
光の乱舞する無機質な街の景色の中で、彼女だけが鮮やかな色彩を持っていた。
風に揺れる髪。
どこか懐かしさを感じさせる大きな瞳が、戸惑う俺を真っ直ぐに捉え、嬉しそうに細められている。
「ずっと、会いたかったよ……」
よく見ると、彼女は微笑みと微かな涙を浮かべていた。
ここから、俺の『平穏』からは程遠い新しい人生が強制的に幕を開けることになったのだった。




