-出来損ない-
氷は美しく、そして残酷なまでに人間を分かつものだ。
少なくとも、俺は物心ついた頃から、その冷たい現実を肌で感じながら育ってきた。
田中結城、十六歳。
世間一般の物差しで測れば、俺は間違いなく『恵まれた環境』に生まれた、幸運な人間なのだろう。
両親は共に、世界大会の表彰台に何度も上った元フィギュアスケート選手だ。
彼らが氷上で舞う姿は、一瞬にして数万人の観客の息を呑ませ、国境を越えて世界中を熱狂の渦に巻き込んだ。
滑らかなスケーティング、重力を一切感じさせない高難度のジャンプ、そして観客の視線を惹きつけて離さない圧倒的な表現力。
二人はまさに、氷という冷酷な世界に愛された一握りの天才だった。
引退した今でも、二人は数多くのメディアから引っ張りだこのスターだ。
テレビをつければ綺麗にメイクアップされ、絵に描いたような笑顔でトーク番組に出演している彼らの姿がある。
華やかな衣装に身を包み、司会者のジョークに上品に笑う両親。
だが、ブラウン管の向こう側で消費されているのは両親の『実体』ではない。
彼らの爽やかな笑顔、気の利いた発言、そして何より『才能に溢れた完璧な家族』という実体のないイメージが大衆の娯楽として心地よく消費され続けているのだ。
世間は、自分たちの理想を投影するための「美しい記号」を求めており、両親はそれを見事に演じ切っていた。
当然、そんな二人の間に生まれた俺に向けられる視線には、常に『期待』という名の分厚いフィルターが掛かっていた。
「さぁ、結城くん。パパとママみたいに、背筋をピンと伸ばして」
「さすが、あの二人のお子さんね。立っているだけで骨格からして違うわ」
「きっと将来有望だ。日本のスケート界の未来を背負って立つ、途轍もない存在になるよ」
スケート靴を履いて初めてリンクに立った三歳の頃から、どこへ行っても、誰と会っても、大人たちが口にする言葉は決まっていた。
彼らの瞳に映っているのは、目の前で不器用に立っている『田中結城』という一人の等身大の子供ではない。偉大な両親の姿を無意識のうちに重ね合わせ、いずれ発現するであろう才能の『幻影』を見ていたのだ。
つまるところ、彼らにとって俺という人間は、両親という巨大なブランドを補強するための一つの付属物に過ぎないのだろう。
そして、そんな俺自身も幼い頃は疑っていなかった。
いつか両親のように氷の上を自由に飛び回り、数万人のスポットライトを浴びる日が必ず来るのだと無邪気に信じて疑わなかった。
だが、遺伝子というやつはどこまでも残酷で不平等な構造的システムだった。
俺には、氷の上で羽のように軽く舞う才能も、人々を無条件に魅了してやまないカリスマ性も、何一つ備わっていなかったのだ。
「……っ、痛っ」
硬く冷たい氷の上に、無様に身体を打ちつける。
鈍い痛みが腰から背中へと抜け、リンクの天井を覆う無機質な蛍光灯の光がチカチカと視界を刺した。冷気が体操着越しに肌を刺し、自分の無力さを嘲笑っているように感じた。
「はははっ……」
そんな、誤魔化すかのような精一杯の乾いた笑い。
俺が小学校高学年になる頃には、決定的な『差』は誰の目にも明らかになっていた。
俺は結局、跳べなかったのだ。
どれだけ血を吐くような練習を繰り返しても、どれだけ両親の過去の映像をテープが擦り切れるほど見返しても、空中で体をコントロールするあの特有の感覚が、どうしても掴めなかった。
同じリンクで練習している同世代の選手たちが、二回転、三回転と当たり前のように軽やかに跳んでいく横で、俺は何度も何度も、無様に氷へ這いつくばった。
「違う、結城! 踏み込みのタイミングが遅い! どうして何度言っても分からないんだ!」
コーチの怒声が静まり返ったリンクに反響する。
かつては俺の些細な成長を手放しで喜んでいた大人たちの声には、いつしか苛立ちが混じるようになっていた。
そしてその苛立ちは、次第に『落胆』へと変わり、やがて静かな『諦め』へと変わっていった。
「……あの子、また転んだわよ」
「やっぱり、才能は遺伝しなかったのかしらね。親が偉大すぎると子供は可哀想ね」
リンクの観覧席から聞こえてくる保護者たちのヒソヒソ話。
彼らは同情しているような顔を作りながら、その実、絶対的な才能を持った「天才の血族」が地に堕ちていく様をどこか楽しむように消費していた。
完璧な物語が崩壊していく過程すらも、彼らにとっては極上のエンターテインメントなのだろう。
そうだ、俺は両親の劣化コピーですらない。
ただ、綺麗な氷の上に落ちた、拭い去るべき『泥』だ。
中学生になる頃、そんな俺は静かにスケート靴をゴミ箱に捨てた。
両親は「無理しなくていいのよ。結城には結城の道があるんだから」と優しく微笑んでくれたが、その瞳の奥には、わずかな安堵と、隠しきれない失望の色が揺れていたのを俺は見逃さなかった。
彼らもまた、無意識のうちに『完璧な家族』という世間向けのイメージが、出来損ないの息子のせいで崩れることを恐れていたのだ。
スケートを辞めてくれたことで俺は「才能のない息子」から「別の道を歩む息子」という一時的な体裁を保つことができた。
こうして俺は、偉大な両親の『付属物』としての価値すら完全に失ってしまったのだ。
才能という見えない階級社会からこぼれ落ち、何の特徴もない、空っぽの人間になった。
……そう、大人しく誰の目にも止まらないモブとして生きていればよかったのだ。
他人の期待さえ背負わなければ、これ以上傷つくこともない。
周囲の景色と同化し、誰の記憶にも残らない透明な存在になればいい。
だが、俺の中にドロドロと蓄積されていた得体の知れない劣等感と、他者の眼差しへの異常なまでの恐怖は、高校入学直後、最悪の形で爆発することになる。
俺が高校に入学してすぐの昼休み。
突然、教室の片隅で息を潜めるように座っていた俺に対して、クラスの中心グループにいる男子生徒がヘラヘラと笑いながら心無い一言を言い放った。
「お前さ、親の七光りどころかただの泥じゃん」
そいつの目には、明らかな嘲笑が浮かんでいた。
俺を『田中結城』という一人の人間としてではなく、『失敗した有名人の息子』という無料のコンテンツとして見下し、手軽な優越感に浸る目。
もちろん心のどこかでそう思われていると十分理解していたつもりだった。
――だが、直接それを言われると感じ方はまた異なるのだ。
そして、俺の中で張り詰めていた糸が突然プツンと切れた。
気がついたときには、俺はそいつを床に引き倒し、我を忘れて拳を振り下ろしていた。
何度も、何度も。
硬い骨を砕く感触が、手の甲に伝わってくる。
周囲の生徒たちが悲鳴を上げて後ずさる中、俺の頭の中は異常なほどクリアだった。
ただ、この見下すような「目」を潰さなければいけないという強迫観念だけが支配していた。
「やめろ!」「誰か先生を!」という周囲の悲鳴で我に返ったときには、相手の顔は痛々しく血に染まり、俺の拳は赤く濡れていた。
周囲を見渡すと、全員が俺を「化け物」かのような見る目をして怯えきっていた。
そう、俺は取り返しのつかないことをやってしまったのだ。
「なにやってんだよ、俺……」
当然ながら、俺は無期限の停学処分となった。
両親はそんな俺の失態のせいで、テレビカメラの前で深く頭を下げ、その様子はワイドショーで面白おかしく取り上げられた。
『完璧な家族の崩壊』という見出しがネットを踊った。
俺は親の顔に泥を塗った、正真正銘の『出来損ない』に昇格してしまったのだ。
それ以降、俺は遮光カーテンを固く閉ざした薄暗い部屋で暮らす引きこもりとなった。
自分自身なんてものはどこにもない。
俺は空っぽなんだ。
そんな自問自答を繰り返す生活。
スマホの画面をぼんやりとスクロールしても、流れてくるのは他人のキラキラした虚構の日常か、自分に向けられた見えない無数の悪意だけ。
「……息苦しいな」
ぽつりと漏らした声は、淀んだ部屋の空気に溶けて消えた。
そんな幾日が経過したある日、ふと自分の腹が減っていることに気づく。
そういえば最近、ろくに何も食べていなかった。
俺は仕方なく重い体をベッドから引き剥がし、人目を避けるように深くパーカーのフードを被って、深夜のコンビニへと向かった。
――そして、この数十分後に俺の運命が決定的に狂い始めることになるとは、もちろん知る由もなかった。




