-抑圧-
和真との決戦の時刻である正午が迫る中、御門恭子は旧校舎の片隅で、静かに目を閉じていた。
彼女の脳裏に浮かぶのは、いつも決まって「二年前の冬」の記憶だ。
暖房の効いた部屋の中で、車椅子に座る年老いた祖父――田中結城は、氷の張ったスケートリンクのテレビ中継を、いつも泣きそうな瞳で見つめていた。
『おじいちゃん、スケート好きなの?』
幼かった恭子がそう尋ねると、祖父は力なく微笑み、自身のひび割れた手をそっと撫でた。
『ああ。でもね、私には才能がなかったんだ。親が偉大すぎたせいで、俺は綺麗な氷の上に落ちた、拭い去るべき泥に過ぎなかったからね』
祖父は、かつて自分が周囲の過剰な期待に応えられず、スケート靴をゴミ箱に捨てて逃げ出したのだと、ポツリポツリと語ってくれた。
そして、高校生になったある冬の夜、自分の恐ろしい力のせいで人を傷つけてしまったのだと。
この世界における『個性』の発症には、強烈な「自分らしさの思い込み」が必要不可欠だ。
祖父の【氷】の能力が、本来の歴史より何十年も早く、あんなにも悲劇的な形で暴走してしまった理由。それは、大衆が押し付ける『完璧な家族』という期待と、それに応えられない『出来損ない』という自己嫌悪が、彼の心を極限まで追い詰めたからだった。
他人の視線に怯え、自分を傷つける世界を全力で「拒絶」し、息を潜めるように『自分という存在そのもの』を完全に押し殺そうとした悲痛な防衛本能だったのだろう。
それが、すべてを凍てつかせる冷たい能力として発症してしまったのだ。
『だから、私は大人しく誰の目にも止まらない、ただの虚構として生きることにしたんだ。他人の期待さえ背負わなければ、これ以上傷つくこともないからね』
祖父は穏やかに笑っていたが、恭子には痛いほどわかっていた。
それが単なる諦めなどではなく、世界から身を守るために「自分」を殺し続けるという、終わりのない自傷行為だったのだということが。
「だから恭子、君は自分らしく生きるんだよ」
そんな祖父の儚い言葉。事実、彼は生涯を通じて自分自身を一度も愛せないまま、孤独な透明の殻に引きこもり……そして、二年前の冬に、静かに息を引き取った。
冷たくなった祖父の手を握りしめながら、恭子は強く、強く願った。
(私は、おじいちゃんに…ただ、おじいちゃんらしく生きてほしい。神様、お願い。おじいちゃんの止まってしまった時間を巻き戻して!)
誰の期待に応えるためでもなく、誰の視線に怯えるためでもない。
彼自身が心から望む「自分」として、堂々と笑って生きる時間を返してあげたい。
その悲痛なまでの祈りと、「絶対に彼を救い出す」という強烈な決意。
それこそが、彼女のアイデンティティとなり、恭子の中に眠っていた個性因子を強制的に目覚めさせたのだ。
――それが彼女の能力『時間超越』。
だが、ただ発現しただけの力で、八十年という途方もない時間を遡ることなど到底不可能だった。
だから恭子は、狂ったように鍛錬を積んだ。
幼い頃から血を吐くような努力を重ね、自分の青春も、未来も、すべてを犠牲にした。
おじいちゃんをあの暗闇の部屋から連れ出す。
ただその一つの目的のためだけに、彼女は『世界に八人しかいないランクS』にまで上り詰めたのだ。
恭子が彼を、自分が生きている「八十年後の未来」へと連れてきたのには、明確な理由があった。
能力が当たり前に存在するこの世界なら、誰も彼の氷を「化け物」とは呼ばない。
そして何より、偉大な両親の幻影や、過去のしがらみから完全に切り離されたこの場所でなら――彼は必ず、新しく「自分らしさ」を定義し直すことができるはずだと信じていたからだ。
才能がなくても不器用に「ヒーロー」を目指すレイや、孤独から身を守るために「漆黒の堕天使」を演じる結衣。
そんな馬鹿で温かい仲間たちと出会い、彼らが必死に信じ抜く「痛くても真っ直ぐなキャラクター」に触れれば、きっとおじいちゃんが自分を殺すために作っていた分厚い氷も溶け出すはずだと。
「私の命なんて、どうなったっていい」
恭子は、時間遡行の代償でどす黒い痣が広がる左腕をギュッと握りしめた。
もうすぐ、和真が学園を闇に沈める正午がやってくる。
あの日、傑聖高校での模擬戦で、彼がレイを守るためにこっそり氷を使った時、恭子は泣きそうになるのを必死に堪えていた。
かつて自分を押し殺し、世界を拒絶するために氷を生み出した少年が、今度は仲間を守るためにその力を使おうとしている。
きっとおじいちゃんは、今日の戦いでもう逃げずに立ち向かうだろう。
透明なモブとしてではなく、「田中結城」という一人の真っ直ぐなヒーローとして。
大好きな彼が、ようやく見つけようとしている「本当の自分」を。
そして、彼を彼らしくいさせてくれる大切な仲間たちを、絶対に奪わせはしない。
「おじいちゃんの時間を、二度と止まらせない……!」
恭子は乱暴に涙を拭うと、決意に満ちた瞳で立ち上がった。
彼が待つ決戦の地へ向かって、少女は自らの残された命を燃やしながら駆け出していった




