-決意-
***
翌日の午前十一時五十五分。
俺は息を切らしながら、傑聖高校の広大な中庭を走っていた。
心のどこかで、本当は嘘ではないのか、そんな気持ちを抱えつつも、昨日の和真の言葉がもし本当であるのなら、この後とんでもないことが起きる。
「和真の奴、本気で学校のシステムを乗っ取る気か……!」
だが、その少しの希望はすぐに消え失せた。
昨夜の出来事が夢ではなかった証拠に、俺のスマホは圏外を示し、校内のホログラム掲示板にはすでにノイズが走り始めていた。
和真は「正午に傑聖高校は闇に沈む」と言った。
残された時間はあとわずかだ。
そんな、俺の焦りを知る由もなく、中庭のベンチには呑気に昼食の弁当を広げているレイ先輩と結衣の姿があった。
「あ、結城くん! 遅いぞー、僕のウインナー一つ食べられちゃったじゃないか」
「フン、我が魔力炉の燃料となったことを光栄に思うのだな」
いつもと変わらない、平和で間抜けな二人のやり取り。
俺はその光景に少しだけ安堵しながらも、声を張り上げた。
「二人とも、今すぐここから逃げろ! 学校の外へ出るんだ!」
「え? どうしたの結城くん、そんなに慌てて」
レイ先輩が首を傾げた、まさにその時だった。
時計の針が、正午を指した。
『――警告。メインシステムに致命的なエラーが発生。全セキュリティプロトコル、停止』
校内放送の無機質な声が、突如として不気味な低音に歪んだ。遅かったか。
直後、空を覆っていた青空の環境シミュレーションがブラックアウトし、学園全体が停電したように薄暗くなる。
「な、なんだ!?」
「キャァァァッ!!」
周囲の生徒たちの悲鳴が上がる。
地面から、壁から、そして生徒たちの足元の影から。
ドロドロとした『漆黒の闇』が間欠泉のように噴き出したのだ。見覚えのある闇だ。
「これは、和真の闇……!」
噴き出した闇は意思を持った蛇のように這い回り、逃げ惑う生徒たちの足に次々と絡みついていく。
闇に触れられた生徒たちは、左手首のステータスリングが激しく明滅し、次々に白目を剥いてその場に崩れ落ちた。
「俺の、俺の力が…抜けていく…!」
「嫌だ! 助けて……私の個性が…!」
彼らのリングの表示が消えていき、才能を奪われたエリートたちが、次々とただの「無能力者」へと引きずり下ろされていく。
まさに、絵に描いたような地獄絵図だった。
この学園という見えない階級社会を支えていた絶対的な構造が、根底から崩壊していく音。
『――傑聖高校の皆さん。どうか、恐れないでください』
校内放送から響いたのは、ノイズ混じりの、ひどく穏やかで優しい声。
黒桐和真の声だった。
『僕はあなたたちから力を奪うのではありません。才能という不平等な呪いから、あなたたちを解放し、救済するのです。もう、誰かと比べて苦しむ必要はありません。……僕の闇の中で、等しく平穏な眠りについてください』
「和真……お前、本気で……!」
「和真くんの声? 一体どうなってるんだよ!」
そんな混乱するレイ先輩と結衣の足元からも、漆黒の闇が這い寄ってきた。
「くっ……! 触るな、深淵の泥ども!!」
結衣がいち早く反応し、左腕から『暗黒星雲』の重力球を放つ。
地面を抉りながら闇を吹き飛ばすが、闇はすぐに自己再生し、無限に湧き出してくる。
「二人とも、俺のそばから離れるな!」
俺は右手を振りかざし、迫り来る闇の津波に対して氷の防壁を展開した。
だが、昨夜と同じだ。
俺の冷気をもってしても、すべてを無に還す和真の闇を完全に防ぎ切ることはできない。
氷の壁はジリジリと溶かされ、後退を余儀なくされる。
「無駄だよ、結城くん」
ふと、氷壁の向こう側の闇が渦を巻き、一人の少年の姿を形作った。
漆黒の制服を纏った、黒桐和真。
彼の瞳は、かつてのチームメイトに向けるものとは思えないほど、冷たく凪いでいた。
「結城くんには、僕の理想の国で生きてほしかったのに。邪魔をするなら、君たちから先に救済するしかないね」
和真が静かに手を上げると、中庭の四方から巨大な闇の濁流が、俺たち三人を押し潰すように迫ってきた。
「結城くん、結衣ちゃん! 僕の後ろに隠れて!」
レイ先輩が両手を広げ、俺たちの前に立ち塞がった。
だがそれは駄目だ。
「ダメだ先輩! 先輩の再生能力でも、あの闇に触れたら因子ごと消滅させられる!」
しかし、先輩はそんな俺の言葉を振り切る。
「いいんだ! ヒーローは……こういう時に、逃げないんだよ!!」
あぁ、そうか、そうだった。
先輩はどんな時でも理想のヒーローなんだ。
そんなレイ先輩の悲痛な叫びと共に、闇の濁流が彼を飲み込んだ。
「が、ああああぁぁぁぁっ!!」
「先輩っ!!」
自己蘇生の能力が機能する前に、個性の根源を直接削り取られる激痛。
先輩の細い体から血が噴き出し、ステータスリングの数値が猛烈な勢いで低下していく。
「レイ先輩から離れろ!! 『漆黒の魔弾』!!」
そんな先輩を見て、結衣が泣き叫びながら魔力を放つが、和真は指先一つ動かさず、足元から立ち上る闇の壁でそれをいとも容易く掻き消した。
「悲しいね。君たちはどうして、そこまで自分を苦しめるものに執着するんだ」
和真は同情するように目を伏せた。
「才能がなくて苦しんでいた久遠先輩。孤独から逃げるために嘘の自分を作っていた西城さん。君たちのその『キャラクター』は、世界から身を守るためのただの防衛本能だ。本当の君たちじゃない」
和真の言葉は、残酷なまでに彼らの急所を突いていた。
「能力を捨てれば、もう無理して誰かを演じる必要はない。戦う必要もないんだよ」
和真の放った闇の槍が、結衣の腹部を容赦なく打ち据える。
「きゃあっ…!」
結衣は吹き飛ばされ、地面を転がった。眼帯が外れ、ステータスリングの光が完全に失われる。
「結衣、先輩…」
俺は絶望的な光景に、足をすくませていた。
和真の言う通りかもしれない。
能力なんてものがあるから、人間は不条理な階級という現実に直面し、傷つくのだ。
俺だって、才能のせいで親の期待に応えられず、逃げ出した人間じゃないか。
和真の創る、能力のない平等な世界。
それに甘んじてしまえば、もう誰の目にも怯えずに済む。
(……諦めろ。俺はモブなんだ。ヒーローなんかじゃない)
そう、心の中の臆病な自分が囁いた。
和真が、地面に倒れ伏す二人に歩み寄り、最後の一撃を振り下ろそうとした。
「おやすみ。無理をして笑う君たちを、僕はもう見たくないんだ」
だが。
「……笑わせる、な」
血まみれになったレイ先輩が、震える腕で和真の足首を掴んだのだ。
「まだ動けるのか。君の回復能力はもう消え去ったはずなのに」
「能力が、消えたごときで…僕の『キャラ』がブレると思うなよ…」
レイ先輩は、歯を食いしばり、顔をボロボロに腫らしながらも、和真を見上げて笑った。
初めて会った、あの旧校舎の裏と同じ。
どんなに絶望的な状況でも、自分の在り方を決して曲げない、愚かで眩しい笑顔。
「僕が、僕を信じている限り……僕は、ヒーローなんだよ……!」
離れた場所で倒れている結衣も、震える手で地面を掴み、必死に顔を上げた。
「そ、そうだ……。我は漆黒の堕天使、こんな泥遊びで私の羽は折れない……っ」
能力を失っても。
力がなくても。
彼らは「なりたい自分」を、決して手放そうとしなかった。
その姿を見た瞬間、俺の胸の奥で、分厚い氷に覆われていた『何か』が、熱を持ってドロドロと溶け出すのを感じた。
ああ、そうか。
能力があるから苦しいんじゃない。
他人の期待が怖いんじゃない。
俺はただ、彼らのように「自分を信じ抜く覚悟」がなかっただけなんだ。
「……邪魔だ、久遠先輩」
和真が冷たく言い放ち、先輩の頭部に向けて闇の刃を振り下ろした。
(もう……逃げない)
俺は、ポケットに突っ込んでいた両手を引き抜き、和真に向けて強く踏み込んだ。
カァァァン……!!!
その音は、世界に、甲高く澄んだ音が鳴り響いた。
和真の振り下ろした闇の刃が、先輩の額まであと一ミリの空中で、ピタリと静止した。
風も、悲鳴も、舞い上がる砂塵も。
中庭のすべての時間が、絶対零度の冷気によって完全に『凍結』されたのだ。
「……結城、くん」
モノクロームに染まった静止世界の中で、和真だけがゆっくりと振り返った。
俺は、凍りついた空間を歩き、先輩と結衣の前に立った。
「……お前さ、頭いいのに馬鹿だよな。和真」
俺は、自分の左手首にはめられたステータスリングに右手を添えた。
「こいつらは、無理して自分を演じてるんじゃない。その『痛いキャラクター』ごと、今の自分を本気で愛してるんだよ。それを否定する権利は、お前にも、この狂った世界にもない」
「結城くん……君は、まだわからないのか。能力というものがある限り、悲劇は繰り返される。君だって、才能の幻影に潰されて、誰にも本当の自分を見てもらえなかったじゃないか!君が一番理解できるはずだろ?」
和真の叫びに、俺は静かに首を振った。
「ああ、そうだったな。過去では俺は抑圧されて、この世界でこそと思い、誰の目にも止まらないモブになりたかった」
社会が押し付けた見えない階級。消費されるだけの記号としての役割。
そんな構造的な檻を、俺は自らの手で破壊する。
俺は、右手にギュッと力を込め、Eランクに偽装されたステータスリングを――自らの手で、粉々に破壊した。
パァァァンッ!!
偽装のシステムが吹き飛び、俺の体から、これまで抑え込んでいた膨大なオーラが、眩いほどの蒼い光となって天を衝いた。
「……でも、今は違う。俺は、こいつらに恥じない『自分』になりたいんだよ」
静止した世界に、俺の真のステータスを告げるシステムのアナウンスが響き渡った。
『――再測定完了。田中結城。ヒーローランク【A+】……特異点クラス、始祖の力【氷】の完全解放を確認』
「本気で僕と殺し合う気なんだね。結城くん」
和真の足元から、中庭を覆い尽くすほどの漆黒の闇が膨れ上がる。
俺は両手に、極限まで圧縮された蒼い氷の刃を創り出した。
「殺し合いじゃない。俺はお前を、その孤独な闇から『助け出す―――』」
すべてを無に還す【闇】と、すべての事象を停止させる【氷】。
世界の理を外れた二つの始祖の力が、ついに激突しようとしていたのだ。




