第9話 推しのハッピーエンドを見届けたら、なぜか胸が痛い
蘇生術式の最後の一画が、私の魔力と共に回路へ吸い込まれた。
研究室を満たしていた青白い光が収束し、銀の棺を包み込む。
「……あ、あ……セイル……?」
静寂を破ったのは、ひび割れた琥珀のような、儚くも美しい声。
ゆっくりと、本当にゆっくりと、銀の髪をこぼしながらリリアナ様が身を起こした。
「リリアナ……。リリアナ……!!」
セイル様が、まるで壊れ物を扱うように慎重に、けれど離したくないという執念を込めて彼女を抱きしめる。
リリアナ様もまた、細い腕を彼の首に回し、その胸に顔を埋めた。
(……ッッッ!!! 尊い……!! 100点、いや5兆点……!!)
私の視界は、尊さのあまりホワイトアウト寸前だった。
あの冷徹な天才・セイル様が、あんな……あんな「ただの恋する男」の顔をして笑うなんて。
公式設定資料集の「再会」という二文字では、この破壊力の1ミリも説明できていなかった。
(……あああ、セイル様の目尻が下がってる! リリアナ様の背中に回された手の、あの慈しむような指の動き!! これよ! これが私の見たかった、全人類がひれ伏すべきハッピーエンド……!!)
「……は、遥。見てくれ。……リリアナが、生きている」
セイル様が、彼女を抱きしめたまま、眩しいものを見るような目で私を振り返った。
その瞳には、今この瞬間、世界で一番の幸福が宿っていて——。
「……はい。……本当、に……。おめでとうございます、セイル様」
私は溢れる涙を事務用のハンカチで拭い、満面の笑みで答えた。
……はずだった。
けれど、二人の重なり合う影が、研究室の床にひとつの完璧な形を作っているのを見た瞬間。
胸の奥が、冷たい針で突かれたように、チリ……と音を立てて疼いた。
(……。……。……あれ?)
さっきまで、術式のデバッグで私の手を握っていた、あのセイル様の大きな手。
「お前の理論を私に預けろ」と言って、私を「唯一の共犯者」として認めてくれた、あの熱い眼差し。
そのすべてが、今は当たり前のように、本来の持ち主であるリリアナ様だけに注がれている。
「……遥様。ありがとうございます。セイルを、こんなに支えてくださって」
リリアナ様が、セイル様の腕の中から、聖母のような微笑みを私に向ける。
その微笑みは完璧で、一切の曇りもない。
けれど、その背後でセイル様がリリアナ様の髪を愛おしげに撫でる仕草を見たとき、喉の奥に、苦い何かがこみ上げた。
(……おかしいな。望んでいたはずの光景なのに。……なんで、こんなに「部外者」だって突きつけられた気分になってるのよ、私)
私は、慌てて視線を落とし、手元のバインダーを強く抱きしめた。
「……い、いえ。私はただ、事務的に手続きをしただけですから。……お二人の邪魔にならないよう、私は失礼しますね」
逃げるように踵を返した私の背中に、セイル様の声は届かない。
彼は今、失われた十年間を埋めるのに必死で、私が部屋を出たことさえ気づいていないかもしれない。
(……これでいいの。私はただのファン。二人の幸せを特等席で見られたんだから、これ以上の報酬なんてない。……ない、はずなのに)
研究室の重い扉が閉まる音。
それが、私の「特別な時間」の終わりを告げるようで、少しだけ胸がチクりとした。
***
蘇生術式が成功したその日の夕方、私はなぜか塔の台所にいた。
「……いや、なんで?」
自分で自分に突っ込みながら、棚を開ける。
出てきたのは、乾燥豆、根菜、干し肉、謎の香草、あとやたら上等な塩だった。
生活感があるような、ないようなラインナップである。
たぶん長期保存優先。セイル様、絶対ちゃんと食事に興味ないタイプだ。
私は腕を組んだ。
「よし。スープにしよう」
蘇生したばかりのリリアナ様に、いきなり重いものは駄目だろう。
セイル様だって、どうせずっとまともに食べてない。
それなら、煮ればいい。
煮て、温かくして、胃に優しくして、ついでに人間らしい時間を作る。
事務員時代、私は残業で死にかけた同僚たちにインスタントスープを配るタイプの女だった。
あの時は電子レンジだったけど、今回は鍋である。
スケールアップだ。
「……玉ねぎっぽいな、これ」
見慣れない野菜を切りながら呟く。
台所の窓から差し込む夕暮れの光が、まな板の上を淡く染めていた。
しばらくして、鍋からやわらかな湯気が立ちのぼる。
香草の匂いと、根菜の甘い匂い。
それだけで、冷たかった台所が少しだけ人の住む場所みたいになった。
「……よし」
味見をすると、思ったよりまともだった。
異世界食材、意外といける。
私は深皿を三つ並べて、少しだけ手を止めた。
三つ。
その数を見た瞬間、胸の奥が小さく揺れた。
「……うん。三つで、いいの」
言い聞かせるみたいに呟いて、私は皿にスープをよそった。
***
研究室の扉を足でこつこつ叩くと、中から低い声が返ってきた。
「何だ」
「配膳係です」
「意味が分からん」
「ごはんです」
その一言で、少しだけ間があいた。
やがて扉が開く。
現れたセイル様は、相変わらず顔色が悪くて、でも相変わらず理不尽なくらい綺麗だった。
「……何を持っている」
「スープです」
「見れば分かる」
「じゃあ質問しないでくださいよ」
言いながら中へ入ると、寝台の上で上半身を起こしたリリアナ様が、少し驚いたように目を丸くした。
「まあ……」
「蘇生祝い兼、体力回復メニューです。あと、たぶんセイル様がちゃんと食べてないので、その監査も兼ねています」
「監査、だと?」
「はい」
私は真顔で頷いた。
「本日より、食事面に関しては私がうるさく言います」
「余計なお世話だ」
「余計じゃないです。推しの不摂生は見過ごせません」
「本当に意味が分からん」
でも、リリアナ様はくすりと笑った。
「……ありがとうございます、遥様。とても良い香りです」
その声に、ちょっとだけ救われる。
「口に合うかは分からないですけど」
「きっと大丈夫です」
私は小さな丸机を引き寄せて、皿を並べた。
セイル様は露骨に不本意そうな顔をしている。
「私は必要ない」
「必要あります」
「ない」
「あります」
「……遥」
「何ですか」
「お前、私に対してだけ妙に遠慮がないな」
「気のせいです」
「気のせいではない」
そう言いながらも、リリアナ様が「セイル」とやわらかく呼ぶと、彼は結局黙って椅子に座った。
(座った……!)
私は表情に出ないよう全力で堪える。
推しが。
食卓に。
いる。
しかもリリアナ様と向かい合って、同じ湯気の立つ皿を前にしている。
なにこれ。
ご褒美?
それとも幻覚?
「遥様も、お座りになって」
リリアナ様に促され、私はそっと最後の席に着いた。
三人分のスープ。
三つのスプーン。
窓の外は夕暮れで、研究室の青白い灯りよりずっとやさしい色をしている。
こんなの、原作にあった?
ない。
少なくとも私は知らない。
「では」
リリアナ様が、少しだけ嬉しそうに微笑んだ。
「いただきましょうか」
その一言で、静かな食卓が始まった。
最初にスプーンを取ったのはリリアナ様だった。
次に、私。
最後に、いちばん渋々なのが丸わかりな動きで、セイル様が手を伸ばす。
ひとくち飲んで、私はこっそり二人の顔を見る。
リリアナ様は、ほっとしたように目を細めた。
「……あたたかい」
その声だけで、作ってよかったと思えた。
「お口に合いました?」
「ええ、とても」
やわらかく微笑まれて、胸の奥がきゅっとする。
綺麗だな、と素直に思う。
この人が生き返ってくれて、本当に良かった。
そっと視線をずらすと、セイル様は無言でスープを飲んでいた。
「……どうです?」
「普通だ」
「それ褒めてます?」
「まずくはない」
「じゃあ褒めてますね」
「勝手に解釈するな」
不機嫌そうなのに、ちゃんともう二口目に入っている。
私は思わず笑ってしまった。
その笑い声に、リリアナ様もくすりと笑う。
「セイルは昔から、食事の感想が下手なのです」
「必要ないだろう、そんな能力は」
「必要ありますよ」
私がすかさず言うと、セイル様がじろりと睨んでくる。
「お前、さっきから妙に張り切っているな」
「当然です。推しと公式ヒロインが同じ食卓についてるんですよ? 張り切らないわけがないでしょう」
「また分からない単語が増えた」
「説明すると長いので省略します」
リリアナ様は私たちのやり取りを見て、少しだけ肩を震わせた。
「……なんだか、不思議です」
「何がですか?」
「こんなふうに、誰かと一緒に食事をするのが」
その一言で、場の空気が少しだけ静かになる。
リリアナ様はスプーンを置いて、湯気の向こうに目をやった。
「教会では、食事も祈りの一部でした。正しい姿勢で、正しい量を、正しい手順で。……でも、こういう温かさは、なかった気がします」
私は言葉を失った。
セイル様も、何も言わない。
けれどその沈黙は、冷たいものではなかった。
「だから、嬉しいです」
リリアナ様が微笑む。
「とても」
その笑顔が、綺麗すぎて少し泣きそうになる。
(ああ)
こういうのだ。
私はきっと、こういう景色を見たかった。
処刑台じゃなくて。
絶望の独白じゃなくて。
こんなふうに、温かい湯気の向こうで、ちゃんと人として笑っている推しが見たかった。
そう思うのに。
胸の奥では、別の痛みも小さく脈打っていた。
セイル様が、リリアナ様の皿を見て言う。
「無理に全部食べるな」
「でも、せっかく遥様が作ってくださったのに」
「後でまた温めればいい」
言いながら、ごく自然に自分の手元へ皿を寄せる。
その仕草があまりにも当たり前で、長い時間を共にした人のものだった。
私は笑顔のまま、スプーンを持つ手に少し力を入れた。
(……うん)
分かってる。
それでいい。
それが正しい。
私はただ、二人のハッピーエンドを見に来た観客だ。
そのはずなのに。
「遥様?」
リリアナ様に呼ばれて、私ははっと顔を上げた。
「え、あ、はい」
「お疲れではありませんか?」
「だ、大丈夫です。ちょっと尊さで致命傷を負ってただけなので」
「だから何なんだ、その“とうとさ”というのは」
セイル様が本気で怪訝そうに言う。
私は吹き出しそうになった。
「最高ってことです」
「雑だな」
「でも本音です」
すると、ほんの一瞬だけ。
ほんの一瞬だけ、セイル様の口元が緩んだ。
それを見た瞬間、胸の奥がまたどくんと鳴る。
だめだ。
こんなの。
ずるいに決まってる。
でも、たぶんこの時間は長く続かない。
そういう予感も、もうどこかにあった。
だから私は、その湯気の向こうの景色を、しっかり目に焼きつけた。
セイル様がいる。
リリアナ様がいる。
同じテーブルにスープがあって、窓の外には夕焼けが残っている。
こんな、ささやかな幸福を。
私はたぶん、ずっと忘れない。




