第10話 穏やかな日々に、ひびが入る
リリアナ様が蘇生してから数日が経った。
塔の生活は、かつての死の静寂が嘘のように、穏やかな色を取り戻している。セイル様は、リリアナ様の体調を最優先に考え、彼女の魔力回路を安定させるための「癒やしの術式」に没頭していた。
私はといえば、塔の管理人兼、事務員としての日常を送っていた。
セイル様の研究資料を整理し、聖典の知識を動員して外部(聖教会や帝国)の動きを監視する。それが私の役割。……のはずだった。
「……はぁ。ダメだ、集中しなきゃ」
研究室の片隅でバインダーを抱え、私は一人ごちた。
視線の先では、セイル様がリリアナ様の髪を優しく撫で、何かを囁いている。リリアナ様が鈴を転がすような声で笑い、セイル様の肩に頭を預ける。
(尊い。……100点。120点の公式ハッピーエンド。……なのに、なんでこんなに胸の奥がチリチリして、呼吸が浅くなるんだろう)
「……遥。その資料、こちらへ」
不意にセイル様に呼ばれ、私は弾かれたように立ち上がった。
「はい、ただいま」
歩み寄り、資料を渡そうとした瞬間、指先がセイル様の手に触れた。
かつて深夜に二人でデバッグをしていた時の、あの大きな手の熱。
「……あ、失礼しました」
「……いや。お前の手は、いつも少し冷えているな。無理をさせていないか?」
セイル様が、資料を受け取るついでに、私の指先を包み込むようにして覗き込んできた。その銀色の瞳に、かつての刺すような冷徹さはなく、微かな温もりが混じっている。
「……っ、いえ。事務職は、これがデフォルトですから!」
慌てて手を引いた私の視界に、リリアナ様の横顔が入った。
彼女は、微笑んでいた。……けれど、その瞳は笑っていない。
「……セイル、遥様をあまり困らせてはダメよ。彼女は、私たちの命の恩人なのですから」
リリアナ様が、滑らかな動作でセイル様の腕を取り、自分の元へと引き戻す。
その鮮やかな「正妻」の仕草に、私は自分が今、この美しい絵画の「ノイズ」になったような気がして、いたたまれなくなった。
(……。……。……。……それに、今の指先の感触)
私は、引き抜いた自分の指を無意識に握りしめた。
冷たい。……私の指が、ではない。触れたセイル様の肌が、まるで冬の石像のように冷え切っていたのだ。
(……おかしい。リリアナ様の蘇生が成功して、術式は安定しているはずなのに。……なんでセイル様の体温が、こんなに下がっているの?)
私はバインダーをめくり、密かに記録しているセイル様の「魔力残量推計グラフ」に目を落とした。
本来なら、安静にしていれば自然回復するはずの数値が、リリアナ様が目覚めてからというもの、緩やかな、けれど確実な右肩下がりを描いている。まるで、底に小さな穴が開いた水瓶のように。
「セイル、どうかしたの? ……少し顔色が悪いわ」
リリアナ様が心配そうにセイル様の頬に手を添える。その瞬間、セイル様が微かに肩を揺らし、苦しげに瞳を細めたのを、私は見逃さなかった。
「……なんでもない。リリアナ。お前の魔力回路が繋がった影響で、少し気が張っているだけだ」
セイル様は無理に口角を上げ、彼女を安心させるようにその手を握り返す。
けれど、その握った手から、さらに魔力が「吸い込まれて」いるような錯覚を覚えたのは、私の考えすぎだろうか。
(……。……。……。……嫌な予感がする。……聖典の知識にはない、計算外のバグが、もう始まっているのかも)
***
セイル様が、リリアナ様の薬を調合するための特別な触媒を探しに、地下の収蔵庫へ降りていった時のことだった。
「少しの間、リリアナの側についていてやってくれ」
そう頼まれた私は、断れるはずもなく、テラスで日向ぼっこをするリリアナ様の隣に座っていた。
リリアナ様は、湯気の立つカップを両手で包みながら、少しだけ目を細めた。
「……遥様、よろしければ、お隣に」
そう言って、隣の席を静かに示してくださる。
私はバインダーを抱え直し、小さく会釈してその隣に腰を下ろした。
「遥様は、セイルがお好きなのですね」
あまりにも穏やかに言われて、私は思わず瞬きをした。
「……あ、ええと。好き、というか……ファン、というか。壁として見守りたいというか……最初は『なんだこいつ』って思ったんですけど」
そこまで言って、しまった、と思う。
推しの第一印象を公式ヒロインに雑に報告してしまった。
けれどリリアナ様は、少しも気を悪くしたふうではなく、ふっと笑った。
「いえ、分かります。私もそうでした」
「……えっ」
「目つきが悪くて、口も悪くて、可愛げなんてちっともなくて。……あの頃のセイルは、本当に感じの悪い子でした」
懐かしそうに笑ってから、リリアナ様は少し遠くを見るようにまなざしを和らげた。
「私は当時、教会で聖女候補として保護されていました。そう聞こえはいいけれど、実際にはずいぶん窮屈なものでしたわ。祈ることも、食べることも、休むことさえ、全部、聖女らしくあることを求められていて」
やわらかな口調なのに、その息苦しさが滲む。
「セイルは、そんな教会に出入りしていた没落貴族の子息でした。名門の生まれではあったけれど、家はもう傾いていて……奉仕と引き換えに学舎へ置かれていたのです」
私は思わず息を呑んだ。
聖女候補と、没落貴族の少年。
それだけ聞けば、たしかに物語の始まりとしては美しい。けれど――
「でも、最初の印象は最悪でしたのよ」
リリアナ様はくすりと笑う。
「私は腫れ物みたいに扱わない人が来たと思いましたし、あの子はきっと、また面倒な聖女がいるくらいに思っていたのでしょうね」
「……すごく、想像できます」
「でしょう?」
少しだけ二人で笑う。
その笑いのやわらかさが、かえって遠い時間の積み重ねを感じさせた。
「けれど、あの子だけは、私を聖女としてではなく……ちゃんと、ひとりの具合の悪い人間として見てくれました」
その一言で、空気が少し変わる。
「雪の日でした。私は聖女候補としての儀式のあとで熱を出してしまって……ろくに歩くこともできなかった。教会の人たちは皆、祈れば大丈夫としか言わなかったけれど、あの子だけは怒ったんです。祈りで熱は下がらない、と」
リリアナ様の指先が、カップの縁をそっとなぞる。
「……あの子、パンを一枚買うのにも震える手で銅貨を握るような暮らしだったのに、自分の指先を真っ赤にしながら、小さな火を灯し続けてくれました。一晩中、私が冷たくならないように」
私は、息をするのも忘れた。
(……待って。なにそれ)
頭の中で、何冊もの設定資料集が爆ぜた。
そんなの、知らない。
そんなの、聞いてない。
そんなの――最高に決まってる。
あまりにも美しい話だった。
胸がいっぱいになって、少し泣きたくなるくらいに。
けれどその美しさは、同時に、私の知らない時間の重みでもあった。
二人だけがくぐり抜けてきた雪の夜。
二人だけが覚えている火の温もり。
その記憶の前では、今ここにいる私さえ、少し遠い。
尊いと感じる気持ちは本物だった。
でも、その本物の感動に混じって、名前をつけたくない小さな切なさが確かにあった。




