第8話 推しと恋人繋ぎは術式のためです
カシムの叫びが消えた後の研究室は、まるで時間が止まったように静かだった。
足元に残った魔法陣の残光が、セイル様の横顔を淡く照らしている。
「……終わったな」
セイル様がぽつりと呟く。その声は、復讐を遂げた高揚感よりも、十年来の「唯一」を失った、ひりつくような虚無感に満ちていた。
私は黙って、一歩下がった位置で彼を見守る。
「……遥。改めて、聞かせろ。お前は、私から何を奪いに来た。……これほどの知恵を貸しておいて、無償などという非論理的なことは言わせない」
セイル様がゆっくりと私に向き直る。その瞳は、もう「狂女」を見るものではなかった。一人の、得体の知れない、けれど無視できない存在への強い興味。
「……奪いに来たんじゃなくて、守りに来たんです。言ったじゃないですか、半分埋めるって」
私は努めて事務的に、けれど推しへの愛を込めて微笑んだ。
「報酬なら、すでにいただいています。……さっきの演技の後の、その『ちょっと申し訳なさそうな顔』。それで今月分のお給料、お釣りが出ます」
「……やはり、理解不能だ」
セイル様は呆れたように息を吐き、けれど今度は視線を逸らさなかった。
その銀色の瞳が、射抜くように私を凝視する。
「……だが、一つだけ聞かせろ。お前、なぜあんなことができた。なぜ私の手元にあるはずの手紙の内容や、教会の密約、私の『欠陥』を……一度も触れずに言い当てられた。お前は何者だ」
セイル様が、一歩、私との距離を詰める。その切実な問いに、私は深呼吸をして、あっちの世界の言葉をそのままぶつけた。
「セイル様。……私、あなたの世界のすべてが記された『公式設定資料集』を、それこそ紙が擦り切れるまで読み込んで、検証論文まで出してるんです」
「……コウシキ、セッテ……? 何だ、その呪文は。古代語か?」
セイル様が、見たこともないほど困惑した顔で首を傾げる。天才の脳内辞書にない単語をぶつけられた時の、そのポカンとした表情……。
(……!! 待って、いまの「えっ?」て顔、可愛すぎて全財産お布施したい!!)
「……あー、すみません。つまり……この世界の成り立ちや、あなたの魔力の特性まで記された、唯一無二の『聖典』のことです。私はそれを誰よりも深く読み解いている解読者なんです」
「……聖典……。世界の理を記した、原典だと……?」
セイル様が、その言葉を重々しく反芻する。その瞳に、驚愕を通り越した「知的な歓喜」が宿るのを私は見た。
「……面白い。神が定めた『聖典』の不備を指摘し、この私を校閲しようというのか。……いいだろう、遥。お前のその理論、私にすべて預けろ。……これは、共犯者の契約だ」
セイル様は、そのまま部屋の奥に置かれた、ひときわ重厚な銀の棺へと歩み寄る。
「……カシムを排除した。次は、私の悲願を果たす。……彼女を、蘇らせる」
棺の中には、眠るように美しい婚約者の姿。
それを見た瞬間、私のオタク脳が「推しの最愛の人だ、尊い!」と叫ぶのと同時に――なぜか、胸の奥が少しだけ、チクリとした。
「セイル様。……その術式、私に『添削』させてください。絶対に、完璧な形で彼女を連れ戻しましょう」
セイル様は頷き、迷いのない動作で指先を宙に滑らせた。
「……魂を定着させるための『器』……肉体の維持に、わずかな綻びがある」
複雑な幾何学模様が、青白い光を放ちながら空中に展開される。
それが、私が初めて目にする、セイル・ノヴァリスの心臓部——蘇生術式だった。一箇所でも計算が狂えば、すべてが崩壊するほど繊細で、あまりにも悲しいほどに緻密な「愛の証明」。
(……。……。……美しい。こんなにボロボロになってまで、彼女一人を連れ戻そうとしてる。これよ、これこそが私の愛したセイル・ノヴァリスの真髄……!)
私は込み上げるオタ心を抑え、プロの事務職として一歩踏み出した。浮かび上がる数式の海に、私の「聖典」の記憶を重ね合わせる。
「セイル様、ここです。その第3層の接続部分。……魔力の供給過多による『熱暴走』が起きてます。もっと、こう……優しく包み込むような安定感が必要です」
「……。……ほう、そこか」
セイル様が私の指摘に目を細め、横に並んだ。
近っ!!
ふわりと、彼が纏う古びた紙の匂いと、冷たい雪のような香りが鼻をくすぐる。
「では、ここをこう書き換えるか。……遥、お前の手を貸せ」
「……えっ!? 私の手、ですか?」
「お前の魔力は、私のような攻撃的な性質ではない。……異界の者ゆえか、ひどく穏やかで、静かだ。これを触媒にして、術式の角を削る」
セイル様が、迷いなく私の右手を掴んだ。
長い、白く透き通るような指が、私の指の間に滑り込む。
(……!! 待って、これ……恋人繋ぎ!? いえ、違います、これは『術式の同期』! 落ち着け私、これは推しによるデバイス接続だ……!!)
「……熱いな。お前の体温か?」
セイル様が、至近距離で私を見つめる。
彼の銀色の瞳が、魔法陣の光を反射して、吸い込まれそうなほど美しく輝いている。
「い、いや、これは……処理能力が限界を超えて、オーバーヒートしてるだけです……!」
「そうか。ならば、私が冷やしてやろう」
(ぎゃあああああああああああああああ!!!!)
冷えるどころか、心拍数が限界突破して爆発四散しそうだ。
彼は、自分がどれほど「メロい」ことをしているか、全く自覚がない。ただ純粋に、術式の安定のために「変数(私)」を冷却調整しているだけなのだ。
「……。……。……遥。お前は、本当に奇妙な女だ」
セイル様が、視線を魔導式に戻しながら、ぽつりと呟いた。
「私の命を救い、カシムの裏切りを暴き……そして今、私の悲願に手を貸している。……私に救われる彼女は、お前という『他人』に、多大なる恩を売ることになるな」
「恩なんていいんです。……私が、この目で二人のハッピーエンドを見たいだけなんですから」
私は、頬を赤くしながらも、必死に事務的なトーンを保った。
(そう、私は二人の結婚式で『受付』を担当するのが夢なのよ! 自分の幸せなんて二の次、三の次!!)
「……。……ハッピーエンド、か」
セイル様が、繋いだ手に少しだけ力を込める。
「……そうだな。お前がそう言うのなら、……そうなるのかもしれない」
彼が微かに浮かべた微笑みは、今まで見たどんな演技よりも柔らかく、私の心臓に致命的なバグを植え付けていった。




