第16話 聖教会本部、潜っちゃいますか
セイル様の表情が変わる。
私も思わず息を止めた。
リリアナ様は、青ざめたまま、それでもはっきりと続けた。
「この接続を、どうして“切れない”のか」
研究室の空気が、しんと凍りつく。
「……どういう意味だ」
セイル様の声は低かった。
けれどその低さの奥に、今にも砕けそうな緊張があるのが分かる。
リリアナ様は壁に手をついたまま、小さく息を整えた。
「さっき、少しだけ眠って……夢を見たのです」
「夢?」
私が訊き返すと、リリアナ様はゆっくり頷く。
「夢というより、たぶん……死ぬ直前の記憶、なのだと思います」
その一言に、胸の奥がひやりとした。
セイル様の指先が、かすかに強張る。
「リリアナ」
「大丈夫です。……大丈夫、ではないかもしれないけれど、今は言わなければ」
リリアナ様はそう言って、ふらつく足でどうにか椅子に腰を下ろした。
私は慌てて水差しを手渡す。
彼女はほんの少しだけ口をつけてから、細く息を吐いた。
「私が死ぬ前、教会はすでに、私を“聖女”としてではなく、“器”として見始めていました」
静かな声だった。
けれど、その言葉の意味はひどく重い。
「器……?」
「はい。祈りを集めるための器。神意を受けるための器。……そして、死んだあとも、条件さえ揃えば、聖なる回路だけは残ると考えていたのです」
私は思わずスマホと術式を見た。
聖なる回路。
それは、今まさに問題になっている核心だ。
「当時、私は詳しい説明を受けてはいませんでした。けれど……何かの儀式の準備をしていた神官たちが、話しているのを聞いてしまったのです」
リリアナ様の指先が、膝の上でわずかに震える。
「完全に失われる前に、外部から魔力核を繋げば、器だけは保てると」
セイル様が、はっきりと息を呑んだ。
「……外部から、魔力核を」
「はい」
リリアナ様は目を伏せる。
「私は死んだあと、本来なら、もう世界へ馴染み直すはずのない存在でした。……でも、蘇生術式で呼び戻された時、私の中に残っていた“器”の名残が、あなたの魔力核へ噛みついたのだと思います」
沈黙。
私はゆっくりと、机の上の術式を見る。
第三層の補助線、その奥に隠れていた、見覚えのない薄い回路。
あれだ。
「あの、深い補助回路……」
「……教会側の設計思想か」
セイル様が冷たく呟く。
「私の術式だけではない。リリアナの中に残っていた聖女の器が、自律的に噛み込んだ」
その声に、怒りが混じっていた。
教会への怒り。自分への怒り。世界への怒り。
全部が一緒くたになった、凍てつくような怒り。
けれど、私はそこにもう一つの気配を感じていた。
「……つまり」
喉が乾く。
「つまり、接続を切るってことは」
リリアナ様が、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳は揺れていた。
でも、もう半分くらい、答えを知ってしまっている人の顔だった。
「私の中で、聖女の器として残っている部分ごと、ほどくということです」
セイル様の顔から、音もなく血の気が引いた。
「やめろ」
ほとんど反射だった。
リリアナ様は小さく首を振る。
「まだ“そうする”と言ったわけではありません」
「その先を口にするな」
「セイル」
「口にするな」
低い声が、研究室を切り裂いた。
怒鳴ったわけじゃない。
でも、今まで聞いたどんな声より、切迫していた。
リリアナ様は唇を閉じた。
私は、その二人のあいだに流れる沈黙の重さに、息をするのも苦しかった。
でも。
でも、ここで黙っているわけにはいかない。
「……まだ、決まってません」
二人が同時に私を見る。
私は自分でも分かるくらい、強く拳を握っていた。
「器をほどいたら終わりなのか、その過程で固定できる方法があるのか、別の魔力核に移せるのか、そもそも接続を一方向に絞れるのか――まだ、何も潰し切れてないです」
セイル様の瞳が、わずかに揺れる。
リリアナ様は、静かに私を見つめていた。
「だから、まだ結論を出さないでください」
私は机に散らばる資料へ視線を落とす。
「今ので、少なくとも原因は見えた。なら次は、そこから逆算できます」
「……逆算、だと」
セイル様が、かすかに眉を寄せる。
「はい」
私は一歩、術式へ近づいた。
「教会は器を保つ方法を考えていた。ってことは、器だけ残して人格が消えるパターンも、器ごと固定するパターンも、たぶん研究対象になってたはずです」
「……」
「なら、資料がある。記録がある。禁書か、教会の秘匿文書か、少なくとも何かしら痕跡は残ってる」
私はリリアナ様を見た。
「思い出したこと、他にもありますか」
リリアナ様は少し考えて、それから小さく頷いた。
「断片的に、ですが……地下の祈祷庫の話を聞きました。そこに、聖女候補に関する失敗例が保管されていると」
「失敗例」
嫌な単語だ。
でも、今の私たちには必要な嫌悪だった。
「場所は?」
セイル様の声が鋭くなる。
「聖教会本部の地下……たしか、第二祈祷庫のさらに奥。立ち入りは高位司祭と封印監査官だけ、と」
私ははっと顔を上げた。
「それ、前に来てた使節団の権限じゃ入れない場所ですよね?」
「……おそらく」
リリアナ様が答える。
セイル様はゆっくりと目を閉じ、長く息を吐いた。
「なるほど」
「え?」
「だから、あの場の書類では足りなかったのか」
セイル様の口元が、冷たく歪む。
「奴らは回収する気ではいたが、真相までは掴んでいなかった。リリアナの器の情報に辿り着くには、さらに上の権限が要る」
私は一気に背筋がぞくっとした。
「じゃあ今のうちなら、まだ先に取れる」
「取れればな」
「取ります」
即答すると、セイル様が一瞬だけ私を見た。
「簡単に言うな」
「簡単じゃないのは知ってます。でも、時間がないのも本当です」
私はスマホを握りしめた。
「聖教会も帝国も、次は本気で来る。だったら、その前にこっちが先に答えを取りにいくしかない」
研究室の空気が、ぴんと張る。
ここまでは“探す”だった。
でも今、少しだけ形が見えた。
答えは、たぶん教会の中にある。
セイル様が、ゆっくりと椅子の背にもたれた。
「……聖教会本部か」
「行くしかないです」
「正気か?」
「正気じゃないと思います。でも、推しとその最愛を助けるためなら、わりと前から正気じゃないので」
そう言うと、セイル様がほんの少しだけ目を細めた。
疲れの色は濃い。けれど、その奥で、あの天才の頭がもう動き始めているのが分かる。
リリアナ様が、静かに口を開いた。
「……私も、行きます」
「駄目です」
「駄目だ」
私とセイル様の声が綺麗に重なった。
一瞬だけ、変な間が落ちる。
リリアナ様が、少しだけ目を見開いた。
私はなぜか無駄に恥ずかしくなって、咳払いした。
「……とにかく、リリアナ様は駄目です。今の状態で動いたら、たぶん余計に接続が深くなる」
「だが、私だけで聖教会へ入り込むのも現実的ではない」
セイル様が低く言う。
「敵地だ。しかも今の私は、長期戦に耐えられん」
「だから作戦を立てるんです」
私はすぐに言った。
「正面突破じゃなくて、潜る方法を。書類で入るか、祭礼に紛れるか、監査権限を偽装するか――」
「偽装を前提にするな」
「現実的な選択肢です」
セイル様の口元が、ほんのわずかに動く。
笑いそうになって、でも笑う余裕はない、そんな顔。
私は机の上のバインダーを閉じた。
「……まず、もう少し情報を詰めます。祈祷庫の位置、高位司祭の動線、封印監査の形式、第二祈祷庫への鍵」
そして、二人を見た。
「まだ終わってません」
リリアナ様の瞳に、かすかな光が戻る。
セイル様はしばらく無言で私を見ていたが、やがて低く、短く言った。
「……やってくれるのか」
その声は、命令ではなかった。
初めて、自分一人では届かない場所へ、手を伸ばすような響きだった。
胸の奥が、ぎゅっと熱くなる。
「はい」
私は、はっきり頷いた。
「だから、二人とも勝手に終わろうとしないでください」
沈黙のあと、セイル様が静かに息を吐く。
「……分かった」
それだけで十分だった。
私はもう一度、術式を見上げる。
第三層、その奥に潜む“器”の回路。
壊れかけた物語の中心にある、細くて残酷な糸。
切るだけでは駄目。
繋いだままでも駄目。
なら、別のやり方を見つけるしかない。
聖教会の地下。
第二祈祷庫のさらに奥。
高位司祭と封印監査官しか入れない失敗例の保管庫。
そこに、たぶん答えがある。
私はゆっくりと息を吸った。
「……聖教会本部、潜りますか」
そう言った瞬間、研究室の空気が、ほんの少しだけ変わった。
絶望の濃度が、わずかに薄れた。
代わりに、やるべきことの輪郭が、はじめて形を持ったのだ。




