第14話 ぐちゃぐちゃで、完璧じゃなくて、でも。今度こそ、ちゃんと助けなきゃいけない。
ぴしゃりと言い切った瞬間、ホールが一瞬しんと静まり返った。
聖教会の老神官が怒りで顔を真っ赤に染める。
今にも何か言い返しそうだった。けれど、その前に帝国側の女魔導官が片手を上げた。
「……よしなさい」
低く、よく通る声だった。
その一言だけで、後ろに控えていた魔導官たちの殺気がすっと引く。
女魔導官は私を見た。
次に、階段上のセイル様を見た。
最後に、手すりに縋るリリアナ様へ視線を向ける。
その目は、獲物を値踏みする商人の目だった。
「確かに、現時点での強制保護は非効率ね」
「何だと?」
聖教会の老神官が噛みつく。
だが彼女は涼しい顔で続けた。
「術者は不安定。聖女も衰弱している。ここで無理に刺激して、両方とも失うのは得策じゃない」
それから彼女は、私へ視線を戻した。
「あなた、面白いわね。単なる乱入者ではなさそうね」
「ありがとうございます。できれば二度と会いたくない相手ランキング第一位ぐらいの扱いでお願いします」
「褒めていないのだけれど」
女魔導官は、ほんの少しだけ笑った。
その笑みが、逆に怖い。
「今日は退くわ。正式な書式と、正式な権限と、正式な戦力を揃えて、また来ましょう」
その言葉に、背筋がひやりとした。
今日は退く。
でも、それは諦めるという意味じゃない。
むしろ逆だ。
次は本気で取りに来る、という宣言だ。
女魔導官は一礼した。
完璧な宮廷礼式。けれど、その声音は氷みたいに冷たかった。
「それまで、せいぜい大事に抱えていなさい。聖女も、術者も」
帝国の一団が、音もなく身を翻す。
聖教会の老神官はなおも食い下がろうとしたが、セイル様の背後で唸る黒い魔法陣と、帝国側が退いた現実を前にして、さすがに舌打ち混じりに法具を下ろした。
「……異端審問は終わらんぞ、ネクロマンサー」
「貴様らの執念深さは知っている」
セイル様の声は、最後まで冷えきっていた。
やがて聖教会の一団も退き、重い扉が閉まる。
ホールに残ったのは、張りつめすぎて痛いくらいの静寂だけだった。
さっきまで空間を軋ませていた殺気が消えた途端、私はようやく息を吐いた。
「……はあ……っ」
勝った、とはまだ言えない。
でも、とりあえず今日は追い返した。
それだけで十分だった。
――そう、思った次の瞬間。
階段上で、セイル様の膝が、がくりと揺れた。
「……っ、セイル様!」
私の声と、リリアナ様の悲鳴が重なる。
黒い魔法陣が一斉に砕ける。
張りつめていた糸が切れたみたいに、セイル様の身体が傾いた。
私は反射で駆け出していた。
長い階段を二段飛ばしで駆け上がる。
途中で一度足を滑らせそうになりながら、それでも手すりに掴まって踏ん張る。
「セイル様!!」
崩れ落ちる寸前のその身体を、どうにか腕の中へ受け止めた。
重い。
細く見えるくせに、ちゃんと大人の男の重さがある。
けれどそれ以上に、触れた瞬間、ぞっとするほど冷たかった。
「……っ、冷た……!」
頬も、首筋も、指先も。
まるで冬の石像に触れているみたいだ。
セイル様は荒い呼吸の合間に、かすかに眉を寄せた。
「……離せ」
「離すわけないでしょう! 今のタイミングで倒れる人を!?」
「貴様、誰に向かって……」
「口が回るならまだ大丈夫、じゃありません!」
言い返しながら、私は片腕で彼の背中を支え、もう片方の手でその手首に触れた。
脈は速い。
でも弱い。
魔力の流れも、素人の私でもわかるくらい乱れている。
やっぱりだ。
限界まで無理をして、あの場だけ立っていたんだ。
リリアナ様がふらつきながら階段を降りてこようとして、私は思わず叫んだ。
「リリアナ様、動かないで!」
「でも、セイルが……!」
「今来たら、たぶん余計にまずいです!」
自分で言ってから、その言葉の重さに喉がきしむ。
リリアナ様も気づいたのだろう。
階段の途中で立ち止まり、青ざめた顔でセイル様を見つめている。
「……私、なの……?」
その掠れた声が、あまりにも痛かった。
セイル様が、薄く目を開けた。
「違う」
反射みたいな即答だった。
「リリアナ。お前のせいでは……ない」
でも、その声自体がもう掠れている。
説得力より先に、痛々しさが来る。
私は奥歯を噛んだ。
「違わない、とは言いません。でも今それ言い合ってる場合でもないです。まず座る! 呼吸整える! あとセイル様は黙る!」
「……命令するな」
「します! 再ログインした実務担当をなめないでください!」
言いながら、私はどうにかセイル様を階段脇の長椅子まで引きずるように移動させた。
途中、彼の腕がふっと私の肩に回る。
支えのためだ。分かってる。分かってるけど。
(……重い)
体重のことじゃない。
この人が、こんなふうに私に寄りかかることの意味が、重い。
さっきまで、聖教会も帝国もまとめて黙らせていた人だ。
その人が今、私の肩口でかすかに息を乱している。
(……やっぱり、すごい)
こんな状態でも、あの場を一人で押し切った。
崩れるのは、敵が見えなくなってから。
どこまで格好つけるの、この人。
どこまで私の情緒を壊せば気が済むの。
長椅子に座らせると、セイル様は壁にもたれるようにして目を閉じた。
呼吸が浅い。額には冷たい汗がにじんでいる。
私はしゃがみ込んで、その顔を覗き込んだ。
「……ねえ、ほんとに大丈夫じゃないですよね」
「……うるさい」
「うるさく言いますよ。さっき“達者でいろ”とか言った人が、その数時間後にこれですよ?」
薄く開いた銀の瞳が、私を見た。
焦点が、少しだけ遅れて合う。
「……なぜ、戻った」
低い声だった。
責めているわけでも、怒っているわけでもない。
ただ、ほんとうに分からない、という響き。
私は一瞬だけ息を詰めた。
でも、もう迷わなかった。
「助けるって言ったでしょう」
「……」
「一回帰ったら終わりだなんて、勝手に決めないでください」
セイル様のまつげが、かすかに揺れる。
「第42話、読みました」
「……何?」
「知らない話になってました。あなたは処刑されてなかった。リリアナ様は蘇ってた。でも、その代わりに、二人ともまた別の檻に入れられそうになってた」
セイル様の表情が、目に見えて固まった。
「……そこまで、見えるのか」
「見えます。見たくなくても見えるんです」
私は護符を握った右手を見せた。
「これが熱を持って、繋いでくれました。だから戻ってきたんです。事故じゃなくて、今度は自分で」
沈黙。
セイル様はしばらく何も言わなかった。
ただ、ひどく静かな目で私を見ている。
その視線に耐えきれなくなって、私は少しだけ目を逸らした。
「……来るなって、聞こえましたけど」
「……っ」
「でも無理です。止まれないです。今さら」
そこで、ふっと空気が揺れた。
セイル様の手が、ゆっくりと持ち上がる。
また頬に触れられるのかと思って、無駄に心臓が跳ねた。
でも違った。
その手は、私の髪に一瞬だけ触れて、すぐ力なく落ちる。
「……馬鹿な女だ」
ひどく小さな声だった。
でも、その声音はもう、少しも冷たくなかった。
私はその落ちた手を反射的に掴んだ。
冷たい。やっぱり冷たい。
「知ってます」
「……帰れたはずだろう」
「帰れましたよ。帰って、仕事も行きました。ミスしまくりましたけど」
少しだけ笑う。
でもすぐに喉が詰まる。
「それでも、知っちゃったんです。あなたたちがまた壊れる未来を」
掴んだ手に、少しだけ力を込めた。
「だったら、放っておけるわけないでしょう」
セイル様は目を閉じたまま、長く、ゆっくり息を吐いた。
それは諦めみたいにも、安堵みたいにも聞こえた。
その時、階段の上からリリアナ様のかすれた声が落ちてきた。
「……遥様」
顔を上げると、リリアナ様が手すりに縋ったまま立っていた。
青ざめた顔。揺れる瞳。けれど、その視線はまっすぐセイル様へ向いている。
「ごめんなさい」
その一言に、セイル様がうっすら目を開ける。
「私……やっぱり、あなたの魔力を……」
「違う」
また即答だった。
でも今度は、その声に少しだけ怒気が混じる。
「謝るな」
「でも……!」
「謝るな、リリアナ」
その声に、私は息を呑んだ。
弱っていても。
崩れかけていても。
この人はやっぱり、リリアナ様にはそう言うんだ。
(……ほんと、すごい)
そして、好きだ。
痛いくらい、そう思う。
リリアナ様は唇を震わせたあと、とうとう力が抜けたようにその場に座り込んでしまった。
「きゃっ……!」
「リリアナ様!」
私が立ち上がろうとした瞬間、セイル様の指が、私の袖をかすかに掴んだ。
「……待て」
「え?」
「先に……あいつを」
「でもセイル様が」
「いいから」
こんな時まで、やっぱりそっちが先なんだ。
もう、笑うしかなかった。
「……ほんと、そういうとこですよ」
私はその手をそっと握り返してから、リリアナ様のほうへ駆け寄った。
聖教会と帝国は一旦退いた。
でも、終わったわけじゃない。
むしろここからが本番だ。
魔力を吸われるセイル様。
自分が原因だと気づいてしまったリリアナ様。
そして、もう一度この世界へ戻ってきた私。
ぐちゃぐちゃで、完璧じゃなくて、でも。
今度こそ、ちゃんと助けなきゃいけない。




