第66話 リアナ=クラウゼ始動する!
「私は、まだ……」
王都ルメリア。夕暮れの帳が降りる頃、魔術省の一角にて。
リアナ=クラウゼは、机に山積みされた報告書を片付けながら、ふぅと小さく息を吐いた。
疲れた肩を軽く回したその時、穏やかな声がかかった。
「クラウゼさん。今日も遅くまで、お疲れさまです」
声の主はアンドーン。彼女よりも少し年上の魔術省の上級技師で、最近になってよく話すようになった同僚だ。冷静で理知的、少し皮肉屋だが、どこか誠実な雰囲気をまとっている男。
「……アンドーンさんこそ。毎日、残業ですね」
軽く笑い返すと、彼は少しだけ照れたように頬をかいた。
「良ければ、夕食でもどうですか。行きつけの店が近くにあって。君とゆっくり話したいと思ってた」
一瞬、リアナは戸惑った。だが、曖昧に頷いていた。なにより、心にぽっかりと空いた穴を埋めるように――誰かと一緒にいたかったのだ。
◇
レストランは落ち着いた雰囲気の店だった。料理も上品で美味しく、会話も穏やかに弾んでいた。アンドーンは冗談を交えながら、彼女の研究に興味を持ってくれているようだった。
そして、食後のコーヒーが運ばれてきた頃。
アンドーンは、静かに言葉を切り出した。
「リアナさん。僕は……あなたのことが好きです。もしよければ、僕と真剣に付き合ってもらえませんか?」
――その言葉に、一瞬、時が止まったようだった。
リアナは口を開けたまま、何も言えずにいた。
それは確かに好意の告白だった。ずっと自分に向けられた優しさの意味も、ようやく分かった。
だが。
――嬉しくない。
胸が高鳴るどころか、何も感じなかった。ただ、心の奥に冷たい虚無が広がっていく。
「……ごめんなさい」
そう呟くように言ったリアナに、アンドーンはわずかに目を伏せた。
「そうか……いや、無理にとは思ってない。答えてくれてありがとう」
彼は大人だった。責めることも、詰め寄ることもなかった。それが余計に、リアナの心を締めつけた。
「……わたし、まだ……カールが好きなの。諦めたはずだったのに、セリアに勝てないって、思ってたのに……」
リアナの指先が、膝の上で小さく震える。
アンドーンは、少しだけ苦笑しながら口を開いた。
「……そういえば、知ってるかい? カール=キリトが、エミリーゼ=フリューゲン王女殿下と婚約したって話。結婚も、近いうちだそうだ」
「……え?」
耳を疑った。
さらに続いた言葉は、決定的だった。
「それに、セリア=ノルドも、側室として迎える準備が進んでるらしい。カールの許嫁は二人になる……ってね」
その瞬間、リアナの胸に灼けるような嫉妬が込み上げた。
――ずるい。
――セリアがいたから、私は引いたのに。
――私は、誰にもなれなかったのに。
リアナは、ハッと立ち上がった。
「……すみません、用事を思い出しました。今日は、本当にありがとうございました!」
そう言い残すと、彼女はそのまま走り出した。店を出て、夜風を切るように、一直線に。
向かうは――カールの邸宅。
◇
カールの邸宅の前に立ったリアナは、胸の鼓動がうるさいほど高鳴っているのを感じていた。
扉を叩くと、すぐに使用人の女性が出てきた。事情を告げると、ほどなくしてカールが現れた。
「リアナ……? こんな夜に、どうした?」
相変わらずの落ち着いた声音。
けれど、その顔を見た瞬間、感情が溢れ出した。
「カール……私、ずっと黙ってた。あなたがセリアといるのを見るのが、辛かった。でも、あの人がいたから、私は何も言えなかった。でも――今日、分かったの。私、あなたを……本当に好きだったんだって」
涙ぐんだ目で、まっすぐ彼を見上げる。
「だから、お願い。私を……カールの側室にしてください」
カールは驚いたように目を見開いた。だが、すぐに真剣な眼差しに変わり、言った。
「……セリアに、確認させてくれ。お前が傷つくような形には、絶対にしたくない」
◇
翌日、セリア=ノルドと対面したリアナは、ただ頭を下げた。
「勝手なお願いをして……すみません」
だが、セリアは優しく笑って言った。
「リアナさんが来てくれて、私は嬉しい。あの人は……あなたのような人が、そばにいてくれた方がいいと思うの」
――その日から。
リアナは、カール=キリトの側室として、新たな一歩を踏み出すことになった。
胸の痛みも、涙も、すべては――愛してしまった証。
けれど、それでもいい。
ようやく自分の気持ちを、偽らずに生きられるのだから。




