ミモザの城ー王国の御令息・2
飲み水はベッドサイドに用意してあるが、明日の朝に使う洗面用の水がない。
今もらいに行くか、それとも朝にするかを迷いながら廊下を覗いてみる。慣れない城での不自由を滞在客に感じさせないようにか、等間隔で壁掛け燭台に灯りが灯され、足元も心配したほど暗くない。
気にしながら眠るくらいなら、夜のうちに。ルナは水差しを手に、音を立てないようにして部屋を出た。
三階のヘザーの滞在する部屋から、回廊で繋がる別棟にある大きな厨房までは、普通に歩いて十五分ほどかかる。往復すれば、ゆうに三十分は越えるだろう。
小ぶりな城でこれでは、公国の君主様がお住まいのお城のメイドは、いったい一日どれくらい歩くのだろうとルナは勝手に会ったこともないメイドに同情しつつ、水が入って重さの増した水差しを抱え直した。
別棟の大厨房から玄関ホール脇を過ぎ、回廊に差し掛かった時に、何の前触れもなくドアが開いて人が出て来た。
ルナが靴音を鳴らさんばかりに勢いよく止まる。音を立てて水が跳ねた。
「何をやってるんだ!危ないだろ!」
罵声を浴びせられて、とっさに頭を垂れる。
「申し訳ございません」
下げた頭を上げないでいると「なんだメイドか」と呟かれた。その言い方で、顔を上げずとも相手が分かった。侯爵家の次男ロベールだと。
本人からは酒の香りが漂い、ルナはここが談話室の前だと思い当たった。
頭を下げたままでも、じろじろと眺める気配を感じ、嫌な予感がする。まだ夜更けには間があるのに酔い始めている御令息に出くわすとは、面倒なことになったとルナは今さらながらに、水汲みに出たことを後悔した。
今回の訪問前に、王国のメイドの立場について習ったばかりだ。
王国ではメイドの地位が低く、雇用主である貴族にとってメイドは自分達と同じ人ではなく、家畜のようなもので、気分次第で解雇されたり場合によっては打たれたりもするのだと。
雇い主や貴族の気分を害する事があれば、何をされようとも文句は言えない。上手く切り抜けるのがメイドの心得であり、それも技術のうちとされる。
教えてくれたレアード家のメイド頭の苦い顔を思い出す。
公国では、メイドは執事ほどではないにしても、それなりに大切にされている。
「メイドには口も耳もある」きちんと扱わねば、家の評判が落ち他家の嗤い者になる、と言われている。
そうでなくても、ルナが今まで手伝ってきたレアード家はみな優しかったので、困ったことは一度もなかった。
「おい、お前。突っ立ってないで入れ」
水差しを抱える腕を力任せに掴まれ、否応なしに部屋に引きずり込まれる。
覚悟して入った部屋は、本も読めそうなほど明るかった。明るい場所で見るロベールは、シャツの衿元を大きくくつろげて素肌をさらし、ゆったりとしたスラックスをはいていた。
驚いたのは酒瓶の並んだ棚とワゴンの脇に、コルバン家の執事長が立っていたことだ。
ルナを荒々しく扱うロベールに対して、分かりやすく顔をしかめている。
執事長が同席しており、ロベールと二人きりでないなら、そう酷いことにはならないだろう。そうルナは判断して、執事長に目だけで「諾」と伝えた。
執事長は「申し訳ない」と口の動きだけで、謝罪する。
この方が悪い訳ではないのに。ロベールはまだ若いとはいえ侯爵家の次男だ。この城の滞在客の中では、一番家格が高い。
いくら有能な執事長といえども、彼を立てないわけにはいかない。
「座れよ」
乱暴に肩を押されて、ソファーへと腰掛ける。水差しを抱えたままで、どうしたものかと思案しているとルナの背後からそっと手が伸びて、執事長がもらってくれた。
ひとり掛けのソファーに座ったロベールが、肘掛けに尊大な態度で肘を置き、無遠慮な視線を浴びせかける。
ルナは、失礼のないよう視線をローテーブルに落として、平静を装い耐えた。
「なんだ、生意気なメイドか」
赤ワインを飲み干したロベールが、グラスを掲げて執事長に催促しながら、面倒そうに言う。
嫌ならすぐに解放して欲しい。顔を少しだけ上げて様子をうかがう。
ロベールの顔は赤らみ、目も少し充血している。先ほど目にしたワゴンの上のボトルは、ほぼ空に近かった。と思うルナの耳にコルク栓を抜く音が聞こえた。二本目。
「まぁ、いいや。ひとりで飲むよりはマシか」
「いえ、どうぞお一人で」と言いたいけれど、気分を害してはいけないと習ったばかりだ。これも経験。ルナは自分に言い聞かせる。
「こいつにも出してやって」
ロベールが執事長に向かってルナを指さす。
「承知いたしました」
グラスがふたつ置かれると、即座にロベールが半分あおった。
「飲めよ」
傲慢な態度で、ルナのグラスを顎で示す。
食欲がわかず、ルナは夕食を摂らなかった。空腹に飲む酒は、どれくらいの早さで回るのだろう。そう言えば温泉街の酒場でアラン様は「お前はもう呑むな」と言っていたし……。
ためらうルナに、
「勧めてやってんだから、飲めよ」
ロベールがグラスを掴んで、突き出した。




