第54話 頼れ
今月はどこまで行くのか、私にも分かりませんが、できるだけ前に進みたいと思います!
広間から戻った橋爪はメンバーが自分の部屋に集まるのを待った。そこは黒をベースにした家具で統一されており、大きなスピーカーから流行りの曲が流れている。集まる目的は夕食を一緒に食べること、それだけである。
橋爪がリビングのソファに腰を下ろしてギャグマンガをパラパラと捲っていると、特に用事もないメンバーたちが次々に現れて、すぐに全員が揃った。
「じゃ夕飯にしようぜ」
彼はそう言うと「ににぉろふ」に向かって「カレー」と注文した。一瞬のうちにテーブルの上に現れた。
(うっまそぉー)
一目見てルーの中にゴロゴロとした大きな牛肉が入っていると分かる。他の具材は橋爪の好みに合わせて小さく切られている。米とルーの比率もまた橋爪好みだ。スパイスの香りが全力で美味しさを表現しようと橋爪の元に向かっている。
ルーと米の境界線にスプーンを差し込むと、トロリとしたルーが米の間に染み込んで、スプーンから零れた。橋爪は思い切り口に含んだ。
(うまっ、うまい!)
彼好みの辛めの味の中に野菜と牛肉の旨味が溶け込んでおり、米の優しい甘さと見事な調和を見せている。
(やっべ、うっめ)
続いて牛肉を頬張る。柔らかいながらもしっかりと形を残している肉は噛めば噛みほど旨味が溢れ出て、カレーのスパイスと美味く混ざり合う。
橋爪はどんどんスプーンでカレーライスをすくい、口の中に運んで行った。遅れてやってきた刺激的な辛みが無性に食欲をそそる。
(つか今日のってアレじゃね? アレ)
彼はしばらくスプーンですくっては頬張って堪能していたが、ポタリと床に汗が垂れたのをきっかけに一旦スプーンを止めた。
溢れ出る汗を拭った橋爪はふとメンバーの様子を見た。全員、それぞれの夕食を堪能しているところである。三石と竹崎は牛丼、小嶋は豚骨ラーメン、森本はハンバーグ定食とそれぞれ好き好きに選んでいる。会話らしい会話はない。
「……水鳥も大打撃じゃね?」
橋爪はいきなりスプーンを突き出した。
「ん?」
反応したのは小嶋であった。彼は牛丼から箸を離すと短く雑な相槌を打った。
「いや、昨日は北舛、今日は高橋、どっちも水鳥の仲間じゃね? だからあいつもあれじゃね? 2日連続で味方守れなかったじゃん?」
橋爪の顔は輝いている。再び噴き出した汗はもちろんのこと、それ以外が原因で輝いているのは明らかであり、特に目の輝きは今までと比にならないくらいであった。
「ああ、だね」
竹崎もシンプルな相槌を打った。
「流石にあれだろ? そんなになったらあいつの仲間っていっても見放すんじゃね? 自分たちをまともに守れない奴についていくなんてムリだろ。で、後は味方だった人たちからキレられて、全員からも狙われて終わり、的な?」
橋爪は鼻の穴を膨らませ、ニヤリと笑った。
「てことは明日の投票先、水鳥にする?」
竹崎の提案は早かった。橋爪はますます目を輝かせる。
「それいいな! 要は俺ら以外の誰かが1番多く点稼いでくれれば、あとはどうでもいいんだもんな! おっし!」
「……あー、明日の投票先水鳥にするんだけど、何かある?」
橋爪はとりあえず三石に向かって尋ねた。先ほどまでの会話を聞いていたのかいなかったのかはともかく、視線を向けられた三石は犬食いしていた牛丼から口を離し、一言「いいんじゃね?」と言うと再び丼に口を付けた。
「俺も賛成」「僕も」
続けて聞かれる前に小嶋と森本が答えた。
「じゃ、明日の投票先は水鳥で。明後日からはまた基本水野出澤ループで。守るのは、何もなかったら逆あいうえお順の方な感じで」
橋爪がまとめると小嶋が「ん」と短い返事をして、彼らの話し合いはものの数分で終わった。
橋爪は再びカレーに手を付けた。
(やっぱ、うま)
辛みと甘みのバランスがちょうどよい。そこに何かの旨味も混ざっているが彼に分かる由もなかった。ただ、美味い。気持ちの良い汗が止まらない。次の一口を早く食べたい。彼は夢中になって食べていた。
(……)
これが自宅なら迷わずお代わりをしただろう。しかし、橋爪は最後の一口を飲み込むと名残惜し気に皿とスプーンを脇に寄せた。
(時田たちのアレに付き合わなきゃだもんな……)
そしてペットボトルの水をゴクゴクと飲んだ。一息ついた彼はメンバーの方をちらりと見た。
(大希クンのハンバーグも美味そうなんだけどなあ。腹空かせてないとめんどくさいんだよな。バカみたいに食い物押し付けられるし……)
(ま、明日の朝食で食べればいいや)
橋爪は単純に思考を切り替えた。
森本はふと思った。
(仁多見と高橋って水鳥のグループのメンバーなの? それに、颯真クンの説明だと8割ルールとかでグループの数って減らしてかないといけないんじゃなかったっけ? それなら使えない人クビにするのは逆に水鳥たち全員にとって逆にプラスじゃない?)
しかし、わざわざ口に出すことはなかった。
(っても言って機嫌悪くした方が面倒だし……)
彼は残ったハンバーグを箸で掴み、かぶりついた。一度かじったはずなのになおも肉汁が溢れ出てソースと混ざり、牛肉の旨さを爆発的に引き上げる。
(こんなに美味しいものを食べているんだから、口数が減ってもおかしくないよね。いつもなら残している米でもこんなに美味しいんだし)
*
鳥居の部屋には珍しく客人が2人訪れていた。1人は薄緑色の作業着を着ており、もう1人は薄紫色の工場の制服を着ている。須貝と乙黒である。鳥居はオフィスレディースでまとめているため、部屋の主であるにもかかわらず3人の中で少し浮いているように見えた。
部屋の中にはアロマキャンドルの火が静かに光っていた。そこからレモンバーベナの爽やかで甘い香りが部屋の中に広がり、おしゃれな小物の間を潜り抜けている。
「あのね、さっき『7SUP』でも言ったんだけど」
須貝が髪先をいじりながら話し始めた。
「やっぱり自分のことは自分で守らないとで、事前に準備しておくことって大事だと思ったんだけどね。私、あんまり頭よくないから升美ちゃんに教えてもらおうかなって。……お願いできるかな?」
(今更過ぎない? もっと前から考えておくことじゃないの? 究君がそう言っていたよね?)
鳥居は心の中でそう考えるも表に出さず、代わりに「うん、いいわよ」とすぐさま答えた。
「究君も助けてくれると思うけど、究君にばかりに負担をかけるのってよくないし、その代わり私が吊るし上げられたら究君と一緒に助けてね」
「うん」「当たり前だよ」
須貝と乙黒は気前よく合意したが、鳥居はその返事を半分疑っていた。
(でもないよりもマシ、だよね)
「それで、自己アピールなんだけど、究君が今日言っていたみたいに仕事とか特技から言うといいと思うわ。ねえ、千裕ちゃん、そう言うのある?」
「私?」
須貝は目を丸くした。
「えっと、仕事は一応公務員で、技能労務職……現業なんだけど……」
「どんなことをしているの?」
その説明だけでは鳥居に伝わらない。
「えっと今は公園の管理……というか、遊具の修理とか掃除とか、そう言うことをやっているんだけど……」
さらに須貝の説明自体も曖昧である。
「そこ、突っ込まれたら困ると思うよ」
たまらず鳥居はつい声に棘を含めてしまった。須貝がピクリと反応する。
「でも、嘘をついてバレたらもっと大変だと思うし……」
鳥居は深呼吸をすると今度はゆっくりと話し始めた。
「……嘘がバレるのは大変だけど、そうじゃなくて今のやっている仕事でもう少し目立つことってないの?」
「うん、分からないけど、私はそんなにすごいことしていないよ」
須貝の返事は変わらなかった。
「じゃあ、それは後で考えるってことにして、趣味とか特技とか、ある?」
鳥居は目を細めて眼前の人物を見たが、やはり鳥居の予想通りの答えが返ってきた。
「うーん……。趣味はショッピングで、特技……部活とかにも入っていなかったし……」
「難しい?」
鳥居はできるだけ微笑みながら須貝に尋ねた。
「全然私すごくないから……あっ、麻実ちゃん、お手本見せてよ」
いきなり話を振られた乙黒は一瞬ためらいを見せたものの、「んんっ」と咳払いをして、数日前に言った台詞を繰り返した。
「えっとね、私は誰かと協力して作業するのが得意だし、報連相もしっかりとできます。恰好で分かると思うんですけれども、職場でそういうことを毎日やっていたので。それに、やってた仕事にも結構力を使うのがあったので、筋肉も普通の人よりあります。この前はこう言ったよ」
「ごめんね急に」
須貝がそう言うと、乙黒は「ううん、大丈夫だよ」と微笑んだ。
「千裕ちゃんもこんな感じに、具体的に話すより、ここでどうやってみんなの役に立つか話す方がいいかもしれないよ」
「それなら、今の仕事って人と一緒にやる仕事?」
鳥居が微笑を浮かべながら再び尋ねると須貝は頬を掻きながら「数人でやるけど基本、1人か2人、かな」と答えた。
「じゃあ1人でも集中して仕事ができるし、報連相もちゃんとできるってことだよね」
鳥居はうんうんと頷くと傍らのメモ用紙にさらさらと書き込んだ。
今度は須貝の方から問いかける。
「あっ、公務員なことは言った方がいいと思う?」
「私、あんまり公務員にいい印象ないけど、麻実ちゃんは?」
鳥居は素早く答えると乙黒に会話を回した。
「私も、別に千裕ちゃんが嫌いってことじゃないけど、公務員ってことだけだとあんまりよく見えないかな」
「じゃあ、それは言わないようにした方がいいよね」
鳥居がそう言うと須貝は「マイナスになるなら言わなくていいよね」と簡単に諦めた。
「あと、筋力だけど、どう?」
鳥居は再び尋ねた。
「うーん……力持ちじゃないけど、結構外で歩いて仕事をしているから、体力はあるかも」
須貝は自分の話であるにも関わらず首を傾げながら言った。
「じゃあ、今のをまとめると……」
鳥居は再びメモ用紙に書き込み、ペンを止めると髪をかき上げた。
「私は集中して仕事をできるし、それを人に報連相することができます。外で仕事することが多いので体力には自信があります、ってところじゃない? あとは微調整をしてもう少しボリュームを増やせばいい感じにまとまると思うよ」
「升美ちゃんすごい。それで私も安心だよね」
須貝は目を大きく見開いた。
「そうよね。あとはもう少し具体的なことを付け加えたりして、話す量を増やせばもっといいと思うわよ」
鳥居は「ふぅ」と息を吐いた。
「うん、ありがとう」
背伸びをする須貝に代わって今度は乙黒が前のめりになった。
「じゃあ、私のは大丈夫だと思う?」
「麻実ちゃんは一度助かったからもう狙われることはないんじゃない?」
鳥居がそう言うと乙黒は「でも、また狙われるかもしれないし……」と消沈を見せた。
「そうよね、あり得ないって言えないわよね……。でも、後は趣味や特技を足すくらいじゃない? 麻実ちゃんの趣味ってなんだっけ?」
「私の趣味? えっと……」
乙黒は目を閉じると眉間に皺を寄せた。
「なんだろう? Tw○tterとかかな?」
「それなら色々な人と関わることができるとか、必要な情報を見つけるのが得意とか、そういうことを言えばいいんじゃないかな」
鳥居が少し眉を上げると乙黒は「それで大丈夫だと思う?」と身を縮ませた。
「ないよりは絶対いいと思うよ。理沙ちゃんみたいな特技を持っている人は別格だけど、普通、それほどの人って中々いないし」
須貝はブツブツと小さな声で先ほどの台詞を暗唱できるようにしようとしている。乙黒は右手で左の手の甲をなぞった。鳥居は脚を足首のところで組んでいた。
「そう言えば」
呟きを止めた須貝が鳥居の方を向いた。
「升美ちゃんはなんて言うの?」
「私? 私はね……」
鳥居はすぅ、と息を吸った。
「普段イベントプランナーをやっていますので、折衝事に長けています。このゲームは参加者同士の意見がぶつかることがありますが、うまく調整することができます。無用な争いがなければ全員にとって生きやすくなります。また趣味でテニスをやっていますので、腕力も体力も自信があります。って具合かな」
「すごいっ、私もそれくらいうまく言えたらなあ」
須貝が羨望の眼差しを向けると鳥居は自慢げに笑みを浮かべた。
「千裕ちゃんのアピールもちょっと付け足せばもっとなると思うよ」
「ホント? 後何かあったかなぁ……」
天井を見上げる須貝の前で鳥居は笑顔を崩さぬまま心の中で毒づいた。
(あなたと違ってこっちは色んな場面をくぐってきているんだから、当たり前じゃない)
*
笹川は寝室のデスクの上にタブレットとキーボードを用意して何かを書いている途中であった。それは、彼が執筆しているライトノベルの続きであった。しかし、彼はタブレットを目の前にして唸り声を上げそうになっていた。
(ネタが……ネタがない……)
大まかな展開はすでに決まっている。しかしその流れに沿って前後2つを繋ぐサイドストーリーを彼はどうしようもなく思いつかないのである。
笹川は立ち上がるとデスクのすぐ後ろの何もないところをうろうろとし始めた。
(何か……何かないかな……)
これまで彼はそうやることで大抵アイディアを閃くことができていた。しかし、今はすっからかんである。何も思い浮かばない。正確に言えば1、2行で終わるようなものはいくつか頭に浮かんでいるのだが、それらを膨らませることができていなかった。
足を動かしても思いつかない。見える景色を変えても思いつかない。
(……)
笹川は本棚に入れていた既刊の自作の背表紙をちらりと見た。これまでの話の流れは頭に入っているが、細かい描写は所々あやふやである。自宅にあるのと同じ設定資料もデスクの隅に置かれているが、既に頭の中に入っているものを見直しても意味はない、と彼は思った。
少しの間、そのままうろうろとしていた笹川であったが、やがて足を止めるとベッドに飛び移った。そして、ゴロリと寝返りを打って仰向けになると天井を見上げた。
(何か……、何か……。森に危険な魔獣がいたことにして……でもそれだと依頼額に見合わないことになるし……。何か……繋がらないかな……)
(超高級なキノコを見つけたことにして……、ダメだ。往来の多い道にそんなのがあったら他の冒険者が先に見つけるに決まっている。探索スキル持ちのモブを出したから……普通に彼が先に見つけているはずだし……)
天井の壁紙の模様を目で追いかけながら彼はとりあえず浮かんだものを品定めしていく。
(そこから異界に飛ばされるってのは……ない。あり得ない。後は……サブキャラ出し過ぎると怒られるし……)
(いっそ、スキップするのは? ……ページ数が足りなくなるからダメだ。そのタイミングで話を入れないとしばらく余裕はないし……)
模様は所々途切れ途切れになっている。彼は行き止まりに差し掛かるたびに元の場所まで戻っていた。
(今から話の大枠はいじれないし……。やっぱりこの場面で何かが起こって、それを入れないとダメだ……)
(いっそサブキャラメインの話に少しだけメインキャラが絡むのは……。どんなキャラ出していたっけ……)
笹川は1巻から順にこれまで登場させていたサブキャラを思い出していった。
(まず、獣人族の奴隷ミア……、シスターのフラウス……、ギルドの受付……は外に出ていないし……あとは……鍛冶屋の弟子のイスズ……、ウッド、オル、キーフォンは……別の町に行っているし……戻ってきたことにすると、次の戦いに参加していないのがおかしくなるし……。参加させたら主人公の覚醒イベントがめちゃくちゃになるし……)
(…………出てこない。ダメだ……。全然出てこない)
どれだけ頭に血を巡らせてもアイディアが浮かばない。
(なんでこんなに出てこないんだ……? 何か、何か、アイディア……)
うんうんと頭を捻っても何も出てこない。白紙に文字の一筆目を入れようにもどこから何を入れればいいのか見当もつかない。
彼は諦めた。そして、足だけをベッドの外に出すと両足を器用に使って靴を脱いだ。
(やっぱり楽しいけれど大変だよね、ラノベ書くのって)
笹川は眉間に皺を寄せた。
(あと、売れればやっぱり嬉しいよね。努力した分が返ってくるんだから……)
彼は上を向いたまま頬を緩ませたが、すぐにしかめっ面になった。
(でも、これだけ大変だとやっぱり……海賊版とか違法アップロードとかって絶対に許せない悪だよね……。こっちの努力とかそういうもの、全部否定して、入ってくるはずの収入も来なくなって……。これだけ頭を悩ませた結晶が数秒で否定されるんだから……。あと、考察系も……)
(自分のコンテンツじゃないのに当たり前みたいにY○utubeとかに考察や要約とかして、それで再生回数稼いでいるし……。それも、何人も……。再生数って要は収入だよね……。泥棒と変わらないじゃない)
口角がピクリと反応する。
(苦労して生み出したのに……作者のこと、何だと思っているんだろう?)
(そんな、何億円も稼いでいる作者なら少しくらいはファンの自由とか、宣伝になるとかいうかもしれないけれど、僕みたいなやっとで出している人だと、発行部数が減るのって、廃業に繋がるんだよね。本当に)
笹川はゆっくりと目を閉じて、開いた。
(わかっててやっているんだよね。自分が儲かるために。当たり前みたいに盗んで。応援とか本当にただ好きでやってくれている人と区別がつきにくいから余計に困るんだよね。変に刺激するとネガキャンされるし……。本当に……寄生虫みたいに……)
彼はため息をつくと、キッと天井を睨んだ。
(楽しいけど、本当に大変なのに。そう言うのを分かっていないからああいうことをするんだよね。本当に、さもしい。それを分かってて見ている人も心が腐っているとしか思えないよ。大手なら訴えたりできるけれど、僕みたいなのだと泣き寝入りするしかないんだよね)
(裁判にかかる費用とか時間とか全部まとめると損するから、どうすることもできないんだ。そもそも検索しても引っかからないようにしてあったりするから、いちいち相手をしていられないんだよね……。業界全体で何とかしてくれないかな……?)
彼はしばらく天井を眺めながらその手の手合いに対する愚痴を頭の中で繰り広げていた。しかしそれは、少なくともこの時は、作品の進行に一切役に立たなかった。
(今思いついて続きが書けても、元の生活に戻ったときにデータを持っていけるわけじゃないし、完全に覚えているわけじゃないし……)
笹川はだんだん考えが暗くなっていった。つい、考えるのが馬鹿馬鹿しくなっていた。本人もそのことに気づき、寝返りを打ち、再びデスクに向かって気持ちを切り替えようと上体を持ち上げかけたが、一度ベッドに沈んだ体は容易に動くことはなかった。結局彼はそのまま掛布団を捲り、本能に任せてその中へ入っていった。
*
(覚えなきゃ……覚えなきゃ……)
夜遅く、別宮はソファに座り、ブツブツと呟きながらスマホの画面をじっと見つめていた。そこには単語やアルファベットがずらずらと書かれており、ともに書かれている矢印によってある程度の規則性を持っていた。
(笠原先生が何か発言をしたら、周りにいる小中学生の反応を見る。もし身を縮めていたり、変な方向を向いたり、あと……えっと……)
彼女の瞳がくすむ。
(あっ、あと、俯いたりしたら、思いつきじゃなくてあらかじめ計画していたことの可能性が高いから二瓶さんをよく見て、それから――)
いくつもの条件に分かれたフローチャートは複雑に絡み合っている。覚えるだけでも大変なのに、それは暗号めいたもので書かれており、さらに覚えたとして、それをリアルタイムで観察しながら判断し、記憶する必要があるのである。
(あと、いくつ分岐があるんだっけ……。全部、全部覚えないと……)
(柳原さんか渡辺さん、あと、栗林さんが反応していた場合、水鳥さんの動きに注意して、日高君か有松君が反応していたら時田さんと中川さんの動きに注意して……。でも、日高君と有松君はあんまり変なリアクションを取ることはないんだよね……。それから――)
(あと、高校生たちは4人中4人が同じ反応をしたら――)
笠原のグループに見られるであろう反応は多岐にわたる。
(1人だけ違う反応をしていた場合、それが袴田さんだったら――)
しかし、その全てを覚えていなければ……どこかで死にかねない。
(でもそのとき――)
さらにそれらの条件は毎日書き換えられており、択にないものはアドリブで判断し、その結果を覚えなければならない。それを読み誤ったら……死ぬ。グループから切り離されれば死ぬし、自分たちを守り切るための決め手を見逃せば死ぬ。
(笹川君と山田君の2人だけが普段と違う反応を見せていたら、片方だけでも怪しそうなら、その時は仁木さんと藤田さんをチェックして――)
そこには同じグループのメンバーでさえもチェックの対象として含まれていた。
別宮の目の前には優しく温かい香りを放つホットココアの入ったマグカップがある。未だに温かいとはいえ、「ににぉろふ」で取り出した時に比べれば大分温度は下がっている。しかし、その量は取り出された時と何ら変わらないままであった。
(後、二瓶さんが笠原先生の話に反応したとき、明らかに知っているようだったら注意して見なくてもよくて、知らない感じだったら笠原先生も見ながら小中学生を見て――)
分岐する選択肢が途中で元の位置に戻り複雑に絡み合っている。いつの間にか別宮は浅く早い呼吸をしていた。
(あとは……、他のグループの小中学生の反応も見ないとで、えっと、スパイをやっている人がいるかもしれなくて、……水鳥君のグループの未成年が普段と違う反応をしたら、それが1人の時は――)
笠原の発言1つで他のグループの様子まで注目しなければならない。しかも、そうしていると気取られないようにしなくてはならないのである。
(大人1人が反応していてそれが二瓶さんの反応したのと同じだったら……2人は繋がっている可能性があるから――)
観察対象が近くに座っているならばそれはそれでよいのだが、そう都合よくなっているわけがない。従って彼女はさりげなく素早く目だけを動かして観察していた。
(野口君のグループの誰かが反応したとき、それが1人だけだったらその人を良く観察……じゃなくて、少し前に変わったんだよね、ここは――)
(後は西堀さんと柘植さんの反応も見ないといけないんだよね。……2人ともリアクションが薄いからよく分からないんだけど……)
別宮たちの立てたチャートは子供を見逃さない。
(でも、誰が何をしているのか分からないから……)
ある程度まで読み込んでもなお終わることはない。彼女は身を縮ませた。
(私だけチェックすることが多い気もするけど……、気のせいだよね……。それだけ笠原先生に注意しているってことだよね、多分……)
答えは返ってこない。別宮はマグカップに手を伸ばしたが中のココアがすでに冷め切っていると分かると手を引っ込めた。彼女がスマホの画面の方に意識を移すと、その一瞬のうちにマグカップはテーブルの上から消えた。
**
聖域
最たる例は学校だろう。何故か窃盗が起きても、暴行が起きても、いじめが起きても殺人が起きても、教員が音頭を取って警察は入らない。この教員という役職が神に等しい何かなのかと言えばそうではなく、知性や人間性がダントツなのかと言えばそうでもない。まあ犯罪を揉み消したり名前が報道されなかったりと特典はあるけれども。そんな人間が教育に携わることができるのだから、まあおかしな国になるってもので、まともな人間が教育に携わらなければまともな国はできないのに……って話はまた今度にして、とにかく、洗脳のコツは隔離して、判断をさせず……って何の話だったっけ?
いつも読んでくださってありがとうございます。
ブクマ登録評価感想のどれか1つでもいただけますと本当に助かります。
(ノ・ω・)ノよろしくお願いします!ヾ(・ω・ヾ)




