第52話 担え
広間から自分の部屋に戻った柘植がまず真っ先にしたことは、洗面所に向かうことであった。そこで彼は今日着ていたジャケットやワイシャツを勿体ないと心の中で感じながら脱衣籠に放り込んだ。そして全て脱ぎ終えるとスマホを手に取り、浴室の「お湯」と書かれたボタンを押した。一瞬で浴槽が仄かに湯気の立つ桧の香るお湯で満たされる。
彼は最高級のホテルあるいは温泉にも負けないほどの最高級の浴室で疲れた心を幾何か癒した。
(仕掛けられていた、か……)
柘植が風呂上りに目にしたもの、それは脱衣籠の中に残されていたICレコーダーと黒く扁平な直方体のプラスチックであった。ICレコーダーは彼が持っていたものであるが、後者は身に覚えがない。口の端がピクリと震えた。
(落ち着け。いつも通りに着替えるんだ)
彼は特に何もなかったかのように、勝手に用意されていた先ほどと変わらない服を着始めた。
(今日、私の後ろを通ったのは……松葉本人か。彼自身がしたということも、まだやっていたということも意外ではあったが……、この習慣を止めないで正解だった)
ワイシャツのボタンを留め、スマホをジャケットのポケットに移したところで柘植は息を止めてゆっくりと腕を動かし、銀色の立方体状の箱を手に取った。その蓋をゆっくりと開けると、彼は黒い異物をビニール袋越しにそっと掴み、そのまま銀色の箱の中に入れ、ウレタン製の凹凸の中に収めると蓋を閉めた。
(これでもう聞こえない)
柘植は荒く呼吸を行ってひとまず酸素を補給すると「ふう」と息を吐き、その銀色の箱を洗面台の隅に押し込み、用は済んだとばかりにダイニングへ向かった。
彼がダイニングの椅子にジャケットをかけ、そこに座ろうとしたところでスマホが振動した。「カードキー」の入室申請である。彼が手慣れた操作を行うとすぐ、少し離れたところにやや上気した瑞葉が現れた。
「瑞葉。盗聴器があった」
柘植が短く言うと彼女の顔は不安げにこわばった。
「でももう処理をした後だ。瑞葉の方にはなかったんだね。よかった」
瑞葉は顔を明るくした。風呂上がりの頬に赤みが差す。彼女は自分用の椅子に腰を掛けるとポケットからメモ帳とボールペンを出した。
「あれの処理については一旦あのままにするにして、まずは夕食を食べよう。瑞葉、今日は何が食べたい?」
柘植が尋ねると瑞葉はメモ帳にさらさらとペンを走らせて彼に見せた。
『つげさんと一緒のものが食べたいです』
「そうか、それなら何にしようか……」
少しばかり頭を悩ます彼に瑞葉は再びメモを見せた。
『つげさんが用意したものを食べたいです』
(『他人に飲食物を強要しない』、か……)
柘植には瑞葉がわざわざそう書いた理由が分かった。先ほどの話し合いで決められたことをわざわざ分かりきっているのにあえて伝えたかったのであると。
「瑞葉、苦手な食べ物があったら無理しなくてもいいからね」
彼女はニコニコと嬉しそうな笑みを見せた。柘植が自分の考えを読んで、自分を気遣ってくれるだけで彼女にとっては嬉しいようである。
「今日は豚カツにしよう」
柘植がメニューを決めると瑞葉は大きく頷いた。
「豚カツ定食2人前」
瞬く間に夕食がテーブルの上に現れる。衣が熱を上げている豚カツ、キャベツの千切りとポテトサラダ、ご飯、ナスと玉ねぎのみそ汁とシンプルで家庭的なようで、わざわざソースが小皿に入っているところが定食らしさを見せている。もちろん見た目では判断しきれないくらいに味が優れていることは言うまでもない。
早く椅子に座ってほしいと促す視線に柘植は応え、彼らは手を合わせて箸を取った。
(しかし、格別だ)
分厚い肉とサクサクとした衣の噛み心地がマッチしており、肉汁が溢れ出る。甘めのソースがそこに混ざり合うと旨味が一層に増し、ともすると飲み込むのが惜しいくらいである。米と一緒に食べればさらに旨味が増すことは間違いない。ポテトサラダやキャベツのひんやりとした自然な甘さが箸休めの役割を果たす。
(本当に美味い。何度食べても慣れることさえできない)
続いて柘植はみそ汁のお椀を口元に運ぶと少し飲んだ。味噌と玉ねぎの甘みが何の抵抗もなく体に染み込んでいく。具のナスにも味がちょうどよく浸透していて、素材本来の味を上手に引き立てている。
(これ以上を望むのは難しいだろう)
カツをご飯の上に乗せてそのまままとめて頬張ると、瑞葉も楽しそうに真似をして食べる。当然2人の体格は違うが、食事の減っている量は大して変わらない。
そうやって2人は充実した夕食を味わった。
食後、柘植は再び「ににぉろふ」を起動すると温かいほうじ茶を2人分出した。
「瑞葉、もしかしたらこれからグループ間の潰し合いから別の流れに変わるかもしれない」
彼はそう言うと一口お茶を飲んだ。これも見ればほうじ茶ということは分かるが、普段どこかで飲むようなものとは格別であると一口で分かるものである。瑞葉も真似をして湯呑を口元に運んでこくりと喉を動かした。
「今までは各グループが互いの自分の勢力を維持しながら、相手の勢力を削いでいた。だが、そろそろそれも終わりだ」
瑞葉は大きく頷いた。
「吉野のグループ、もう本人はいないが、そこの人数が一気に減ったことでバランスが崩れた。対抗勢力が1つなくなった分、一気にできることが増えてしまった」
柘植は目の前の相手の表情を読み取った。
「細かい話は寝室でしよう。組織図を見ながらの方が分かりやすい」
瑞葉は嬉しそうに頷いた。自分の思ったことを柘植が感じ取ったためである。
「しかし、松葉が私に盗聴器を仕掛けるとは……」
柘植はピクリと眉間に皺を寄せた。
「私たち単体として狙われたのか、それともグループに所属していない人物としてランダムに狙われたのか……。どちらにしてもこれから一層警戒しなくてはならない。奴が何を企んでいるのか……」
彼は湯呑を強く握り、ほうじ茶を飲んだ。
「松葉が盗聴器を今日仕掛けたのは偶然ではないだろう。やはりこれまでと流れが変わっているのに反応した、といったところに違いない。瑞葉、とにかく奴には注意していこう。何がきっかけで攻撃が始まるか分からない」
*
「ぶっちゃけた話よぉ、いちいち『これ食うか? これ飲むか?』なんて聞いてられねぇよな!」
中川が周りのメンバーに大声で吠えた。
彼らは昨日までと同様時田の部屋に集まっていた。そこには早速タバコの煙が広がり始めており、定年間際から小学生までの男たちがビール、あるいは烏龍茶の入ったジョッキを傍らに置きながら時田が開始の合図を告げるのを待っていた。
「それにな! もし万が一毒なんか盛ってくれていたらよ、吉野のババアみたいに他の連中から殺されるからな!」
時田はおどけた脅しをかけると「じゃあよ、乾杯!」と叫んだ。
「乾杯!」「乾杯」「乾杯!」
あちこちでジョッキを合わせる音が聞こえる。
「やっぱ美味いねぇ! 汗かいた後はこれだよ!」
「たまんねぇな! おい!」
ジョッキをテーブルに戻すと早速銘々が思い思いに食べたいものをテーブルの上に並べ始めた。和洋中問わずごったに現れるが、一応暗黙の了解としてだろう、一般的な飲み会で出されるようなメニューが用意されている。
田名網は右方の会話が不意に大きく聞こえた。
「いやーやっぱよお、あの北舛っての、初日からヤバかったよな!」
「っすね」
時田と畚野が早速死体蹴りからの悪口を始める。毒殺がもはや他人事となっているばかりか、決められたルールなどすでに眼中にない。
「おい森本! お前もこれ食えよ!」
「あ、あざっす」
砂肝のニンニク炒めを押し付けられた森本の声が聞こえる。
(こういう奴が人を巻き添えにするんだよな)
田名網は中トロにワサビを溶かした醤油をべたりと付けて口に入れた。深みのある味わいに程よい脂身が絡みつき、噛みしめるたびに幸せが溢れ出る。
「ああいうのは常識を知らねえんだよ、結局よぉ!」
「っすね」
(自分だけは、じゃなくて自分たちだけは大丈夫って言って、人の注意を聞かないんだよな。こういうのは)
続いて田名網は鯛の刺身に箸を伸ばした。軽く醤油をつけて口に入れると程よい粘りの中にあるあっさりとした脂と繊細な旨味が口にふんわりと広がる。
(俺も大概いい加減だけど、身の危険に繋がるとか言われたら対策するよな、普通)
「それでよ、結局苦労したことがないからすぐに逃げ出すんだって」
「あー、分かる感じっす」
田名網は一旦箸を休め、今度はジョッキを手に取り、中のビールを思い切り飲み干した。口の中がさっぱりとした苦みで洗い流され、疲弊した脳にアルコールがぼうっと広がっていく。瞼がトロリと下がる。
(ただなあ、声の大きい奴がやっていないと……俺みたいなのが出しゃばって違うことすると……目の敵にされるんだよな。いい奴ぶっているとか言われて、それでもし助かったら、自分だけ助かってと言われて目の敵にされるんだよな……)
「なんて言ったと思う?」
「アレっすか? 親がどうとかってやつ?」
「そう、お父さんにダメって言われているからって、お前、何歳だよって、なあ! いつまで親が出てくるんだよって、あのときはマジで全員ヒいてヤバかったって!」
再び刺身の入った皿に手を伸ばす。ブリの刺身を箸で取り、ワサビ醤油をべたりと付けてから一口に食べる。とろけるような脂の旨味をワサビと醤油が一層に高める。生臭みは全くと言っていいほどない。
「そういう親も親でいつまでも相談だとか何だとかでべったりなんだよな。ビビったぜ、そいつの親が仕事場に来たときは。それで何とかなると思っていたあいつも、ついてきた親も、もうな」
「ヤベェっすね」
「いや弁護士とかそういう仕事の奴ならわかるけどよ、親だぜ、親。ヤベェよ」
(守らなくていいことと守らなくちゃならないことの区別がついていないんだろうな。それか、人の言うことに歯向かえば偉いと思ってんだろうな。それとも分かっていてムキになってんのか?)
「田名網さん食べないんですか?」
箸を掴んだままぼーっとしている彼に声をかけたのは高邑であった。彼はジョッキを握りながら田名網に純朴な視線を向けている。
「ん? ああ、アルコールが結構キているみたいですわ」
田名網は曖昧な返事を返すと「よかったらどうぞ……は、しない方がよかったんですよね」とわざわざ言った。
「いやいや田名網さんが毒を盛るとは思っていないですよ。でもまあ……」
高邑は少しだけ顔に影を落とした。
「一応止めておきますわ。昨日の今日ですから」
「それが正解ですよね。俺でもそうします」
田名網は苦笑いをして今度はカワハギの刺身に箸を伸ばした。
「森本これ食ってみろよぉ!」
「あざっす。いただきます」
右方から時田たちの会話が聞こえる。
(高邑さんがまともでよかった)
田名網はビールを飲みながら自然に頬を緩ませた。
(押し付けられたら俺、多分断れないからな……)
「お? そろそろ宴会芸の時間じゃねえか」
「っすね。誰からっすか?」
少しの間沈黙があった後、「じゃあ、畚野、お前からだ」と時田の声が聞こえ、ついで椅子を引く音がした。
「おい! みんな、そろそろアレの時間にすっぞ! 今日は畚野からだ!」
期待のこもったざわめきが時田の部屋に響いた。
田名網がやや遅れて台上に目を向けるとすでに畚野はそこにいた。
「じゃあ、腕だけで腕立て伏せやります」
彼はそう宣言すると正座をした。
「何だよそれ!」
ヤジが飛んでくるが畚野はまっすぐステージの床を見るだけで、反応しない。彼は手を床に付くとゆっくり体を持ち上げ、そして、足を床と水平に伸ばしていった。
「そっからかよ!」
中川が突っ込みを入れる。
姿勢が決まると畚野は普通の腕立て伏せのような格好で腕を曲げ伸ばし始めた。ただし、両足が床に触れていない。
「あれ、バランスも筋力もいりますよね」
「見た目は意外とできそうでも、絶対無理ですわ」
高邑は目を輝かせて台上を眺めている。田名網もニコニコと笑顔をこぼしながら畚野の技に感心した。
ある程度腕立てを終えたところで畚野が「よし、終わり」と切り上げると部屋に拍手が飛び交った。
「じゃあ次は……出澤さん!」
「私ですかあ、はいはい、行きます」
時田に指名された出澤が酔いの回った千鳥足でステージ上に向かった。
*
酒瀬川はリビングの床に胡坐を掻きながらスマホ大の木材に彫刻刀を入れていた。それはすでに何かの形を大まかにとっていたが、人型と言われなければ分からないくらいであった。彼は仏像を彫っていた。
(まだ……足りない)
すでにリビングの一方には大小のばらつきはあれど荒削りの地蔵菩薩像が数体並んでいる。酒瀬川はそれらを一瞥してすぐ作業に戻った。
(もっとたくさん作らないと……)
黙々と記憶の中の仏像を木材の中から彫りだそうと刃を動かしていく。刃を通すたびに最高級の木曾桧が爽やかで清らかな香りを発していく。
彼はまだ大きく切り出す段階であったが、刃を慎重に入れていた。まるで本当に中に仏様がいるように木材を扱っている。
(今日で26日目だ。死んだのは32人だ。これからあと18人も死ぬんだ。俺にできることは死んだ人の冥福を祈るくらいだ)
今度は小さな箒を手に取って削りカスを丁寧に払い落とす。彼にはどうにも息を吹きかけるのが失礼に思えていた。
(死んだ後の世界があるのかどうか分からないが、何もしないせいで苦しませっ放しにするのも無理な話だ)
(俺にできることはこれくらいだ)
酒瀬川は手を止めると彫刻刀をケースにしまい、目を瞑った。そして、自分が作りだそうとする仏像の姿を思い起こした。彼が長く暮らしていた町のひっそりとしたところにある小さなお堂、そしてその中にある地蔵菩薩の姿こそ、彼が今思い出しているものであり、部屋に並べられている物のモチーフとなった存在であった。
(たくさんあればもっとたくさんの犠牲者を救うことができる、よな……)
昔どこぞの寺で見た死後を描いた絵は大人になっても恐ろしいものであることに変わりはない。これまでの犠牲者がそこで苦しんでいると思うと酒瀬川は手早く作成しようと焦り気味になってしまうのである。
(ここ、もう少し丸みがあったような……)
記憶は朧気でありながら、その仏像だけは妙に鮮明であり、それでも直接実物を目にしているわけではないから、酒瀬川は思い出すたびに微妙に形が変わっているような妙な感じを覚えていた。
彼は再び彫刻刀を握ると思い出した形を頼りに刃を進めた。傷を入れないように慎重に、しかしある程度の力を入れて、不要な部分を削っていく。
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……」
つい静かさに負けそうになった時には念仏を唱えながら、彼は作業を進めていく。仏教にそう詳しくない彼にはこれが精いっぱいだった。
いつの間にか、広げられた新聞紙の上にはそれなりの削りカスがたまっていた。酒瀬川はそれがある程度のところまで来ると、彫刻刀と作りかけの仏像を作業台の上に置いて、それから紙の両端を取ってゴミ箱の中にカスを流し入れた。それだけ手を動かしたという実績のようなものであり、その瞬間彼はひとまず小さな達成感を感じるのであった。
*
猪鹿倉は寝室の机に向かって座りながらタブレットに目を通していた。そこにはこれまで分かっているニニィに関する情報が整理されていた。
『ニニィ――モニター内に少女型のロボットらしきものとして現れる存在。ゲームの進行を行うための号令やシステムを一手に引き受ける。そのため嘘をつくことはないと考えられている』
(嘘をついたらゲームの意味が薄れてしまうけれども、10日目のことは……)
猪鹿倉はわずかに目を細めた。
『またスマホのアプリ、『ににぉろふ』、『ににぅらぐ』に自分の名前を冠している。ニニィというのは個体の名称か、あるいは集団の名称か不明』
(自分の名前を物に付けるのは意外とあることで、意味も通っているけれども、自己顕示欲の強い人物なのだろうか? それとも――)
部屋の中は静かである。外を走る救急車の音もヘリコプターの音も聞こえない。
『24時間いつでも『ににぅらぐ』の質問に反応しているようである。従って個人ではなく複数の存在がニニィを動かしていると考えられる』
(常識的に考えてそう考えるのが普通。この26日間、ずっと寝ないでいることなど無理だし、質問の度に起きたとしても正常でいられるはずはない。レスポンスも早いし)
極めて合理的に彼女は考えていた。
『それに10日目の件について、無知、あるいは無知を装っている。関口さんと影山さんが亡くなったあの件について、こんなことをできるほどの人物が知らないわけがない。すべて演技の可能性もある。しかしそれでは嘘をついていることになり、ゲームの意味が薄れていく、と矛盾している』
猪鹿倉は2人を思い出すと胸が痛んだ。知らない間に彼らに絆らしいものを感じていた。
『また、ニニィは日本語以外に英語、ドイツ語、フランス語、スペイン語、アラビア語を話すことができる。あらかじめ用意された原稿なのか、ニニィを操作する人物が変わったからなのか、不明。ただし明瞭な発音で、どの言語の声も同一であった。声の調子もリズムも人間同様のばらつきがある』
(少なくとも日本語、英語、ドイツ語はネイティブの話し方だ。六ヶ国語を十分に話すことができる人間は少ない。やはり複数人が背後にいると考えるのが妥当なのだろうか)
『ニニィは何者なのだろうか? このほどの施設や科学技術を世間に隠していることはもちろん、豊富な人材もあるのだろう……。日本全国から一気に人を拉致してくることなど1人にできることではない。ほかにも――』
猪鹿倉は目を通しながら頭の中が変に揺れるような感覚を覚えた。自分で書いた文章なのに読めば読むほど分からなくなってくる。
(……)
彼女は急に隠れていた疲れが吹き上がったような気がした。松葉たちとのミーティングは骨の折れるものであった。したがって彼女はスマホを机の上から取るとそのままベッドに座り、スリッパを脱いだ。
(ニニィが何であってもこのゲームを終わらせれば、生きてここから出られる。そのためには――)
*
深夜にもかかわらず松葉の部屋のリビングは明るかった。部屋の主は大きな机の上に置かれたいくつものタブレットの方を向いている。そこには音に合わせて上下するオーディオスペクトラムが映し出されていた。
『どうしたの、夏里サン? ねえ、夏里サ――って元木サンも!』
『御法川さんもよ! ねえ、江守さん! 何が起こったの!」
画面からパニック状態の江守と鰐部の声が流れている。
松葉は薄っぺらい笑いを顔に貼り付けたまま昨日起こった事件の様子を聞いていた。つまり彼は夏里の部屋にも盗聴器を仕掛けていた、が、夏里の死と同時にそれは何も送信しなくなっていた。
『とにかく、誰か、広間に行って!』
『うん、後はお願いね!』
バタバタと何かがぶつかる音に混ざって『夏里さん! 御法川さん! 元木さん!』と江守の呼び掛ける声が入っている。
松葉は彼女が混乱しきって知人を呼ぶ声を聞きながら棚からノートを取り出し、あるページを開いた。その目が素早く動く。
「やはり修正は難しいですね」
彼は独り言を呟いた。
他の画面に波形が見え始めると彼はそのタブレットの音量を上げ、同時に先ほどの録音したものを流している方に触れて一時停止した。
『由香里ちゃん、いらっしゃいませっ』
『彩々ちゃん、お邪魔します』
嬉しさの混ざる緊張をした白川の声とカナリアのような岩倉の可愛く美しい声が流れる。
『ねえ、今日は何にする?』
『それじゃあ――』
松葉はそのタブレットを見ていたが、不意にノートをパラパラと捲った。そして、そこに書かれていることをなぞるように目を動かしていたが、再び他のタブレットに波形が見えるとその音量を上げて、これまで聞こえていた画面に触れて音を絞った。
『今日の笠原先生、あれは……私たちを助けてくれたんだと思いますか?』
『うん。そうだと思うよ。だって、わざわざ話したってことはそうなんじゃないかな?』
今度も流れたのは少女たちの会話であった。ただし話者は違う。栗林と袴田だ。
『できれば……もっと分かる感じに助けてほしいです……』
『私もそう思う……。あまり安心できないよね……』
松葉の視線がノートの上をなぞっていく。
『前はあんな先生じゃなかったのに……』
『だよね。考えていることが分からなくて怖いよね』
2人とも声の勢いは弱いが盗聴器ははっきりと音を捉えている。
『うん……怖い……』
『私たちには何もできないよ……』
松葉はその会話をしばらく聞いていたが、またしても別のモニターに波形が映ると先ほどと同じようにして切り替えた。
『つか、明日の投票先誰だっけ?』
『明日だろ? 出澤じゃね? で、守る方はあいうえお順』
橋爪と小嶋だ。ドン、とソファに座る音が響いた。
出澤の名前が出るとすぐ、松葉はボールペンを手に取った。
『ああ、そうだ出澤の方だった。なんか似てね? あの2人』
『え? ちびデブとガリだろ』
ド忘れを誤魔化すためか、本当にそう思っているのかは分からないが、どちらにしても橋爪の感性は小嶋と異なっていた。
『いや、なんか名前の感じがさ。見た目は完全にあれ、別の生物だろ』
『だよな。水野は筋肉のあるガリだよな』
『筋肉って言えば、畚野さんの筋肉、すげえよな。あれが仕事だけで鍛えたってのがまずすげえよ』
『いいよな、筋肉』
小嶋の声には憧れが籠っている。
『ああ、羨ましいって』
橋爪もまたあからさまに羨望が込められている。
『今日のあれもすごかったもんな』
『つかどうやったらあんなに筋肉付けられるん?』
『部活で筋トレしててもあんなに付かないぜ、普通』
筋肉の話が続く。松葉はボールペンから手を離し、音量を操作して別のモニターに目を向けた。
『これ、美味しいっ、すごい……』
中津の声だ。食器同士が触れ合う小さな音が混ざっている。
『こんなの食べたことないし……』
『究君、私のこと見てくれるかな……』
返事をする者はいない。物音も1人分だけである。つまり中津は独り言を呟いていた。
『あっ、こっちの明日も食べようかな……』
松葉は再び操作して別のモニターから音が出るようにした。
『どうして死んじゃったの……夏里サン……御法川サン……。吉野サンはどうしてあの2人に……誰でもよかったのに……』
江守がブツブツと呟いている。
『どうせならもっと役に立たない人でやってくれれば……そうすれば殺される前に吉野サンの方が死んじゃうから……よかったのに……』
しばらくの間、松葉の部屋には誰かの声が入れ代わり立ち代わり聞こえていた。その度に松葉は何かをノートに記入したり、書いてあることを目でなぞったりしていた。何一つ変わらない表情のまま動いていた。
**
シャーキング
ダラダラ延々と絡んでくる。何故かというと、そうすることで得をするから。対策は簡単。無視をすること。何か批判ぶったことが書かれていても、へえ。まる。おわり。にして、一切相手にしないこと。本当に意味のある言葉なら受け手は自然と納得するし、本当に伝えたいなら話し手は真正面から言ってくる。そうでないものは全部ノータイムで無視、削除。ひどくなったら一々自分で対処しない。弁護士&開示請求。
ただ、何でもかんでもやりすぎると自分に心地よい言葉しか受け入れられなくなってしまうから、その辺りの閾値管理が大事。ブロッキングではなくフィルタリングをしよう。
いつも読んでくださってありがとうございます。
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