第43話 堪えるな
高円寺の朝食はこのゲームに元から備え付けられているペレットであった。紙袋に入ったそれらを全てテーブル上の白い皿に移し、その横に水の入ったペットボトルを置いたところで彼は椅子にのそのそと腰を下ろした。
(これはこれで美味しいんだよな)
高円寺は一粒ペレットを摘むと口に入れた。程よい食感と甘さ、しょっぱさのバランスがちょうどよい。パサついていることもない。
(体に必要なものが全部入っているんだろう。食べた後、すごく調子がよくなる)
彼はただ黙々と皿の上に手を伸ばし、ペレットを口に運んでいる。味が単調なのが欠点と言えば欠点だが、それでも飽きることはなく半分ほどを食べ終えた。そして、指先を布巾で拭った。
(……)
彼はペットボトルの蓋を開けるとゴクゴクと喉を鳴らして水を飲んだ。ペレットに含まれている水気だけでは喉に貼り付いてしまう。
(これだけは仕方がないのかもな……)
高円寺は再びペレットを1粒摘みしげしげと眺めた。
(やっぱりこれのいいところは、外れがないってことだ。こっちが何も言わなきゃ絶対に同じ味だから、同じものが同じ割合で入っているんだろう)
口の中に放り込むとすっかり馴染んだ味が広がる。シリアルのようなパンのような、餅のような大豆肉のような、炭水化物とタンパク質、脂質を適切なバランスで含んでいるような味である。
(普通の食べ物も美味しいけれど、美味しすぎて、このゲームが終わった後が辛くなるよな……。それにこれなら安全だし、多分……)
彼は不意に若いころ立ち寄った田舎駅の前の定食屋を思い出した。生姜焼き定食を注文し、「サービスでご飯大盛りにできますがどうしますか?」と尋ねられ、その好意に甘えた。そこまでは良かった。しかし、品が届き、お冷を飲んでまずは白米を一口、とご飯をほぐしたところで現れたのは、加熱された昆虫の後脚だった。
(あのときは気まずかったな……)
クレームを言う気にもならず、大盛りにしてもらった手前丸々残すのもバツが悪く、結局高円寺は腹痛を装って外に出たのであった。
(生姜焼きもしばらく食べてないな……)
過去の小さな思い出に浸りながら彼はペレットを食べ続けた。そして最後にペットボトルを空にすると「ふいー」と満足げな音を出し、リビングに戻ろうと一歩足を踏み出して、立ち止まった。
「ああ、あれ飲まないと……」
高円寺はため息をつくとシンク近くまで向かった。その下には戸棚が備え付けられている。彼はそこの中段の棚を開けると白い箱を取り出した。
(ここに来てから大分体が楽だ。膝も痛くないし目もかすまない。毎朝疲れが取れている。ニニィが言っていた通りだ)
箱を開けると、そこにはいくつもの錠剤が収められたシートがぎっしりと収められていた。
(だけど、完全に治ったわけじゃないんだ)
高円寺はゴクリと喉を鳴らした。心臓がビクリと跳ねる。
(この薬飲まないと、死ぬことには変わらないんだ、多分)
彼は数種類の錠剤の束を見つめると、一種類ずつ慎重に押し出して半透明の小さなカップに移した。
(……)
カップの中身を再び見つめる。
(どうせなら完全に治してくれればいいのに……)
もしかしたら実は完全に治っているかもしれない、と彼は考えたこともある。しかし試しに薬を飲むのを止めることなどできなかった。
高円寺はペットボトルの蓋を開けてガラスのコップに水を移した。そして、半透明のカップの中にある薬をまとめて勢いよく口に放り込むと、味が広がらないうちに急いで水で流し込んだ。
「ふぅー」
彼は腹を軽く叩いた。水っ腹が「パヨン」と間の抜けた明るい音を出した。
*
枕元で鳴り響くアラーム音に叩き起こされた竹崎は手探りでスマホを探し当て、アラームを切ると薄く目を開けゆっくりと上体を起こし、頭を掻いた。
未だ寝ぼける頭でスマホを手に取って流行りの曲を流す。女性アイドルたちが歌う明るい曲につられるようにテンションを上げながら彼は作業着に手足を通し始めた。
(釣りに行きたい)
前々から思っていたことが改めて彼の頭に浮かんだ。今朝見た夢がまさにそれであった。
竹崎は右手を前方へ雑に振った。腕を釣り竿に見立てているわけでもなく、実際に仕掛けを飛ばすときの手振りをしているわけでもない何とも中途半端な動きである。しかし、彼には部屋の中を走り、壁を突き抜けていく釣り糸の軌跡が見えた。
潮風の香りが、川のぬめった香りが思い出される。カンカン照りの直射日光、木陰の湿った冷たい風、海鳥の鳴き声、ツクツクボウシの声……。竿を垂らしているときに五感に伝わるものが呼び起されていく。
竹崎は右手を見つめた。夢の中で味わった魚が餌を突いた時の振動、針に魚がかかった時の勢いのあるヒキの感触が手のひらに未だに残っている気がする。水面から魚が上がってくるときの期待……予想した種類の魚なのか、どのくらいのサイズなのか、感覚を味わいたくて仕方がない。ちょうどよいところで夢から覚めてしまったことを彼は後悔していた。
(あのヒキは何だったんだろう?)
竹崎はベッドに寝転んだ。
(キャストする場所は……一応、広間くらいあればいけそうだけど……)
天井をぼーっと見ながら、彼は手を上に伸ばした。
(水、ないし、そもそも魚、いないし。意味、ないし目立つし……)
しかし腕を伸ばしても何かするというわけでもない。腕の力を抜くと少し遅れてバタンと小さな音がした。
(道具もないし……)
今まで手にすることもできなかった高級な釣り具を「ににぉろふ」で取り出すことはできる。しかし、竹崎にはそうしようと思えなかった。一度手にしたら余計に使いたくなってしまう。その点で言えば自宅にあるものを「ににぉろふ」で持ってきても同じである。どちらにしても使いたくなってしまう。
天井に釣りをしている自分の姿が俯瞰的に浮かんだ。針に魚がかかって思い切り引っ張られ、竿がしなり、緩急をつけてリールを巻いている。そこは一見立ち入ることができそうにないが、誰かの小屋の隙間を抜けて岩場を経由していくことで辿り着くことのできる、地元の人だけが知る穴場の堤防であった。
(あの時釣れたのは……俺が今まで釣った中で一番大きかった……50cmオーバーのチヌ……)
魚影が岸に近づき、水面に姿を現す。記憶通りのチヌだ。タモですくいあげた途端に視点が主観に切り替わる。一層魚が大きく見える。
(あのときは嬉しかったな。それに、美味しかったし。やっぱり、釣り、したいなあ……)
準備をするのも使用後のメンテナンスをするのも楽しいし、何ならY○utubeで他人の釣り動画を見るだけでも楽しい。しかしそのどれもが今は手の届きにくいところにある。
休日の雨が続いて釣りに出かけられないこともある。平日であっても、日中晴れていたのに仕事が終わった途端雨ということもある。それでも竹崎はここまで強く抑圧されたことはなかった。
(近くに行くことだけでもできればなあ……)
雨が降ったときでも職場からの帰り道に少し遠回りをすれば水辺の傍の道を通ることができていた。原付で15分程度の道のりであれば多少の雨でも平気だった。そうすれば次の予定を想像することができる。しかし、そもそも、そういう場所がこのゲームには存在しない。
(どうせ、なんか釣れるわけじゃないしな……。そうだよな、何も釣れるわけないしな……)
竹崎はつい先ほどまでの考えを自分の中で微妙に捻じ曲げると、「魚、いないんならな……、そうだよな……」とぶつぶつ呟いて自分に言い聞かせていく。その声は未だに流れるアイドルソングと調和せず、途切れ途切れに伝わり、集中して念じることができていない。結局彼は数分後に諦めてベッドから起き上がった。
(ちょっと早いけど、隼クンのところ行こう……。朝飯食べて、忘れよう)
竹崎は両手を高くしてうんと背伸びをすると腰を軽くひねった。
(今日は海鮮丼にしよう)
そして「カードキー」を開くと行き先に「橋爪隼」を選択した。
*
「ゴミ捨て場にさ、いつまでも残っているゴミあるじゃない? 分別が間違っていますって」
徳田は自分の部屋に同じグループのメンバーの利原、依藤、福本を招き、毎度のお茶会を行っていた。今日のメニューはアッサムのミルクティーとシンプルなマドレーヌであり、絢爛な金縁のティーカップと皿が使われている。彼女たちが一生のうちに何度触れることができるのか分からないくらいの価値のものであるが、当人らは知る由もない。
「あっ、偶にありますね、あれ」
依藤が小さな微笑みとともに応答した。
「でも、そんな出し方する人がわざわざゴミ箱から回収して、分別し直すとは思わなくない?」
徳田は横髪をわざとらしくかき上げる。手元の指輪がキラリと光った。
「いつまでも残り続けていて生ごみは腐って臭うし、だからって代わりにやるほどアタシは馬鹿じゃないし、近所の人も同じでしょ。なんで役所が片付けないの? それが無理でも警察が調べて何とかしなさいよ」
「そうよね」
利原も同じようにさりげなく髪をかき上げた。プラチナのイヤリングが輝く。
「うちの近くだと、普通に分別してあるのにほんの少し別のが混ざっていただけで回収しないなんてこともあるのよ。『傘のビニールが残っています。全部剥がしてください』なんて張り紙があったからそれ、見てみたら、少し残っていたくらいなのよね」
徳田は顎を高く上げて利原の目を見た。
「そういうのも回収して、次から気を付けるように掲示板に貼っておいて終わりでいいじゃない? だって、誰も回収しないじゃない。普通に分別して出したつもりなのに、ほんの少しのミスで悪人にされて晒し物にされて、そうしたら嫌になって、誰も次から気を付けようなんて思わないし。人に注意するときにやっちゃいけない基本よね。やっぱりちゃんと社会に出ていないと分からないのよね、そういう当たり前の常識」
「そうよね。マネジメントの常識よ」
福本がさらりと口にした。
妙な間ができる。何となく次の言葉を言い辛い空気が流れる。
代わりに彼女たちはマドレーヌに手を伸ばした。ふんわりとした口触りであり、優しいバターと蜂蜜の甘さが口の中に広がる。しっとりとした食感が自然と心を落ち着かせる。ミルクティーの軽快な甘みと隠し味のナツメグによく合っている。どちらもフランスなのかインドなのかはともかく、宮殿のようなところで提供される一流の質である。
「あっ、美味しいわね」
「うんうん、やっぱりこれ」
各々味に関する独り言こそ呟くが、会話を切り出すタイミングを掴めない。しかし、極上の味を一通り堪能すればテーブルの上の菓子は消えていく。
ようやく口を開いたのは福本だった。
「ゴミって言うと、私のところはゴミ袋を漁るおばさんがいて困っているのよね。あっ、うちのマンションは夜ゴミを出してもいいんだけど、そうするとそのおばさんがいつの間にか袋を開いて中を見ているのよ」
「分別に厳しい人ってことですか?」
依藤が首を傾げると、福本はテーブルの陰で手を握りつつ笑顔で答えた。
「それが、そういうことは一度もないのよね。ただ漁って何か持って帰っているみたい」
「それ、もっと気持ち悪いですね……」
「そうなのよ。何食べているのか見られたり、何使っているのか知られたりするかもってだけで気持ち悪いのよ」
顔をやや引きつらせながらも前のめりになった依藤の反応に福本は指にかかった余計な力を抜くと含み笑いをしながら答えた。
「だから私たち、ゴミ収集車が来る一時間くらい前に出すことになったのよ。毎日毎日手間だし、管理会社に言っても何かワケがある人みたいで結局対応されることがないのよ」
徳田が似て非なるニヤつきを浮かべながら会話に入ってきた。
「あと、個人情報が知られるのも危ないわよ。ダイレクトメールとかで住所が知られるのも危ないし、会社とか趣味とか」
追従するように利原も口を開く。
「あれじゃない? もしかして同じところの住人ではないとか?」
「一応そこ、鍵付きなんだけどね」
福本は冷たく返したが、部屋の空気が元に戻りそうになるのを察しすぐさまフォローを付け加えた。
「でも、どこかで手に入れたということもあるのかもしれないわ」
「それはそれで怖くない?」
徳田が目を細める。
「それはそうなんだけど、なるべく会わないようにしているし、それに140㎝あるかないかだから、いざというときも大してね。何かあってもフロントマンも常駐しているし、交番もすぐ裏にあるから平気よ」
福本は落ち着き払ってあしらうとティーカップに指をかけた。
「でも警察の人はその人を捕まえてくれないんでしょ?」
利原が眉をひそめて尋ねると、徳田が素早く口を開いた。
「さすがに傷害事件になったら見て見ぬふりってことはないわよ。向こうも公務員だし、責任問題とか嫌がるでしょ」
依藤が「それで、大丈夫なんですか?」と尋ねた。福本はゆっくりとカップを口元に運んだ。
「結局、個人情報の書かれた紙やレシートは全部シュレッダーにかけて、生ごみと一緒に捨てているの。そうでもしないとね。たまに朝でも現れることがあるのよ。本当に気持ち悪いわ」
彼女はカップに長い間口を付けた。思い出してしまった気持ち悪い感覚を流し込み、香りでその存在をかき消そうとしているようであった。
それから彼女たちは日頃の不満、つまりこのゲームとは関係のない不満を話し続けた。
(こんなこと話している場合なの?)
依藤は徳田の話を聞きながら頭の隅の方でぼんやり考えた。
(死んだら終わりなのに、本当にいいの……?)
しかし、彼女はそれを公にすることはない。話に割って入ることタイミングが乏しいこともあるが、その時が来ても皆と合わせてマドレーヌをかじり、ミルクティーを飲んでいる。
(前にも同じことがあったのに……、あったよね……?)
しかし依藤がそれを思い出すことはなかった。
*
(どうせ、何したって無駄なんだよ……)
田辺はソファの上で体育座りをしてぼーっと何もない空間を見つめていた。焦点がずれてぼやけた壁紙が何かのシルエットのように見えてもよいのだが、彼女の頭にそういった余裕はなかった。
(もう決まってるんだよ……)
では何を考えているのかといえば、ただただ同じようなことを繰り返し考えているのであった。
(どうせ何かやっても、最後の日までに……死んじゃうんだよ……。誰も助けてくれないんだよ……)
(頑張っても、出られないんだよ……。ここで、死ぬんだよ……、どうせ……どうせ……)
田辺は胸に重い敷布団が巻き付けられたような息苦しさを感じながら、わずかに体を動かすばかりで特別何かアクションを起こす様子はない。
(だったらさ、別にもう続けなくていいじゃん)
彼女の頭の隅で誰かが囁いた。その声は自分の声に似ているような気がするも、誰の声か分からない。しかしどこかで聞いたことがあるのは確かである。
田辺はその現象に驚きはしなかった。それが自分の空想であると認識していた。しかしそれは決して彼女の望む言葉ではなかった。
(でも……)
田辺は眉を下げてますます膝を強く抱きしめた。
(だって、いつか投票されて死ぬんでしょ? もうさ、今日、話し合いのときに言えばいいんだよ。『私に投票してください』って。そうすれば楽になれるよ。もう、ずっと怖い思いしなくていいんだよ)
(そ、そうしたら……)
田辺は弱弱しく瞼を閉じた。即答しないのをいいことに空想の声は語りかけてくる。
(だって、どうせ、死ぬんでしょ。だったら後でも先でも変わらないよ)
空想の声は極めて合理的であった。本人がこのゲーム中に死ぬ運命にあると思っていて、それを是としているのだから、おのずと答えは決まっているはずである。
(でも……)
(生きていたっていいことなんてないよ。辛いだけだよ)
(でも……)
(言っちゃおうよ。『殺してください』って。楽になれるよ)
(でも……)
(そうすれば、死ねるよ。解放されるよ)
(……)
(ほら、死ねるよ。早くやっちゃおうよ。簡単だよ)
(でも、怖いよ……。言えないよ……)
田辺はようやく空想の声に抵抗を示すと、鼻をすすって唇を震わせた。
(だったら、自殺しようよ。ほら、ニュースでやっていたよね? 色んなやり方の中で一番苦しくないのは――)
言葉とともにその時のイメージが思い浮かぶ。雨音に交じって聞こえる解説者の声はどこか不気味で、それが余計に印象的で、記憶に残っていたのである。
(で、でも……)
(ニニィに任せたら、痛いかもしれないよ。自殺なら痛くない方法もあるよね?)
(でも…………)
「でも……死にたくないよぉ……」
田辺はついに嗚咽とともに自分が聞きたくない言葉を漏らした。
傍から見ればただ拗ねているだけであったが、彼女はどうしようもない矛盾を抱えていた。どうせ死ぬと諦めようとしても、諦めきれない。生きたい。だから何とかしたいと思っているけれども、どうやっても気力が湧かない、近づくのが怖い。どうせやっても無駄である。だったらどうせ死ぬのだから――。
どうしようもなく生きたいからこそ、死にたいと考えていた。
*
広間に流れる重い空気の中で参加者は神経をピリつかせている。昨日、突然乙黒が名指しされた。今日の話し合いも同じように進むかもしれない。全体の空気がそうなっているように思える。止めようとする者はいない。
鰐部はあまりにも重い空気に背を丸めて膝に手を置き、じっとしていたが、耳だけは活発に機能していた。
(大丈夫だよ麻実ちゃん、また狙われてもウチらが守るから)
(おい、あいつの顔見てみろよ。今日もヤベェ)
(こっち、空いてるよ)
ふっと雑談が途切れる。皆、それが始まる時間が体に染みついている。予想どおり、少し経つと照明が落ちて天井近くにモニターが複数現れた。
「22日目の『透明な殺人鬼ゲーム』を始めます。今日の参加者は全員で、投票は10分後に行われます」
ニニィが昨日に引き続きクールを装って――しかし伊達メガネはかけていなかったが――開始を告げるとモニターとともに姿を消した。
「そうですね。誰か不要な人物の心当たりはありますか?」
昨日に引き続き最初に言葉を発したのは松葉だった。
「そうだねぇ」
しわがれた声が広間に投げられる。吉野が口元を歪めながらググッと前屈みになって立ち上がった。
「そう言えば……広間にいるときに睨まれたって声をよく聞いてね、それが誰かというと――」
広間の空気がピンと張り詰める。次に出てくる名前がメンバーのものかもしれない、それ以前に自分かもしれない。意図的に伏せられた情報に勘づく者は少ない。口にするものはいない。
「佐野サン。あんたなんだよね」
吉野は頭を逸らし、冷たい細目で名指しした人物を見つめた。
「それでは佐野さん。ご自身が残るべき理由を説明してください」
すぐに薄い笑いを貼り付けた松葉が件の人物に問いかけた。しかし、佐野は硬直している。
「佐野さん?」
突然スイッチの入った彼は勢いよく立ち上がった。
「お、俺は、定年まで豊本重工に勤めていたんだぞ!」
初めに口から出た言葉はそれだった。
どこか離れたところから鰐部の耳にぼそぼそと小声が聞こえる。
「知ってる?」
「全然。地元でちょっと有名くらいじゃない?」
「つまり今は無職ということですね。それで?」
松葉が冷たく話を進める。
「それ、それで……。だから、力仕事だって」
佐野は顔を赤くしてしどろもどろになりながらなんとか自分の価値を説明しようとするが……幾多の視線を前にして上手く言葉を発することができない。
「なるほど」
松葉が他の意見を求めるように両目で参加者の顔をなぞっていき、一点で止まった。徳田が口をニンマリと開いた。
「それってその会社だけの話でしょ? 部長とかになったんじゃないのに?」
徳田の意地の悪い質問は的を射ていた。その証拠に佐野は唇を真一文字に結んで震わせるだけで何もできなかった。万年ヒラ社員で、定年の2年前にお情けでサブリーダー補佐という何とも言えない肩書がついただけであった。
「それに、俺はもう70過ぎてるんだ! 色々……」
佐野は上手く声量の調節ができていなかった。大声で話し始めたが、それが一層好奇の視線を呼ぶことに気付くと今度はボソボソと聞き取りづらい声で話した。
「年齢は関係ありませんよね」
「何か他の人にできないことができたりしますか?」
「何にしても人を怯えさせていることには変わらないだろう?」
佐野の1つの不完全な主張に対して、3つの反対意見が飛んでくる。それも高威力のものであり、反撃の難しいものである。
「俺、俺は……お、あ……」
彼の舌はいつも以上に上手く回らない。視線も定まらない。
「誰か彼を庇いたいかい?」
いつの間にか腰を下ろした吉野が手の甲を撫でながらせせら笑った。
1秒、2秒……誰かの咳払いがして、立ち上がった。――松葉だ。
「まだ時間はありますし、佐野さんも自分の能力を思い出すかもしれません。それに、誰かが教えてくれるかもしれませんね。目下急ぐ話もありませんし、待ちましょう」
彼は言い終わるとすぐに腰を下ろし、それから手を組んでじっと佐野を観察し始めた。
衣擦れの音、ひそひそ声、関節の鳴る音……誰もはっきりと声を出さない。
その中で佐野は顔をまだらに染めて背を丸め、小さく口を開けて荒い呼吸を繰り返し、度々伸ばしかけた手を下ろし、左を向いて、右を向いて、また正面を向いて俯き……。
(何、これ……)
鰐部は自分の鼓動の音がはっきりと聞こえていた。つばを飲み込もうとするも上手くできず、変に喉を鳴らしてしまう。
目の前で起きていることを認識できても、理解できない。
独りの老人を囲んで四方八方から追い詰めている。誰も止めない。手助けもしない。何故なら――。
(あの人はどこのグループにも入っていないから……誰も、庇わない)
無言の圧力の中で佐野は何かをしようとして淀み、何かを言おうとして淀み、体を揺すっていたが、やがて、力強く顔を上げた。
「俺は、今まで一生、懸命、やって……」
ようやく動き出した彼にできたことは吉野を睨みつけることであった。ぎゅっと拳を握って、今までの人生を込めて主張した。
「昔の話をされてもねぇ」
当然ながら全く効果はない。
佐野は大きく目を見開くと唇をブルブルと震わせた。万策尽きた。つまり、彼の一番大事な人も同じく死ぬ、ということであった。
「……の、このぉ!」
佐野はやおら足を上げるとダンッと音を立てて一歩前進した。その先には吉野がいる。硬く握った拳に力を込め、再び足を持ち上げたところで――。
「注目。投票の時間となりました」
ニニィの合図で面々は闇の中に孤立させられて、そこでそれぞれの判断、つまり誰を死なせて誰を守るのかを決めていった。佐野にどちらかの票を入れるのか、それとも全く関係のない投票を行うのか、決して明かされない。全員の投票が終われば元の広間に戻るだけである。
「今日の犠牲者は佐野将史さんに決まりました」
*
(……)
鰐部は頬を緩ませながらゆがませた。自分が助かった喜びが体中を駆け巡るが、今しがた目の前で起きていたことを易々と受け入れることができない。
しかし、やっていたことは今までと変わらない。一人の参加者を集団で囲み、自分が生き残るために犠牲にする。このゲームだけの話ではない。ただ目の前でわかりやすく起こっただけのことである。
「では、始めます」
ニニィが手に持っている指し棒でコツンと後ろのボードを叩いた。
佐野はケースの中央に俯いたまま震えていたが、だんだん息が荒くなり、上着を脱ぎ捨てるとシャツが肌に汗でぴったりと貼りついていて、髪の毛が濡れてへたり、薄い禿が一層露になって、シャツを何とか脱いで、ベルトに手をかけるが指が震え、滑り、足の力が抜けて尻もちをついて、そのまま大の字に倒れ、弛んだ胸部が不規則に上下し、口がパクパクとわずかに動き、肌が、瞳が、唇が、白濁していった。
「それでは明日、また会いましょう」
最後にニニィが指し棒をクルンと回すと、モニターとともに姿を消した。同時に、透明なケースは沈んでいった。
(臭いが伝わらなくてよかったけど……)
鰐部は透明なケースの音と臭いを伝えない性質に安堵せざるを得なかった。鶏肉を、豚骨を、牛の内臓を茹でるときの、鍋の蓋を開けたときの独特の匂いの何十倍もの強烈な臭いがするであろうことが想像できた。まして、それは人間のものである。
(考えたくもないわ……)
しかし別の臭気が鼻先に漂ってきた。耐性のない参加者たちが床に向かって吐いている。鰐部は一瞬顔をしかめたが、すぐに周囲を見渡して、泣きながら嘔吐している渡辺のことを遠目で見て、小さく喉を鳴らし一歩踏み出したが、俯くと立ち止まり、スマホをポケットから出して「カードキー」を開き、自分の部屋行きのボタンをタップした。
今日の犠牲者 佐野将史
一番大事な人 妻
ニニィがアブったときは近所の公園を散歩しているところだった。一昔前は年上というだけで後輩がかまってくれていたが、定年退職した後は無用の産物である。人とまともにコミュニケーションをとることができず、かといってそれを帳消しにするほど突出した能力を持っていたわけでもない。そのくせファミレスやコンビニの定員には「おい!」と声をかける。子供は2人いるが遠くに住んでいるため滅多に会うことはない。というか子供たちはそれ目当てで遠くに住んでいる。最近の悩みは自分の葬式に誰も来てくれないのではないかというもの。大丈夫、きっと、子供や近所の人は奥さんのついでで来てくれるよ。
ブクマ登録評価感想のどれか1つでもいただけますと本当に励みになります。助かります。
よろしくお願いします! ( ゜ー゜)/゜*゛:¨*;.・';゛:..・☆




