第14話 捧げろ
(ニニィって、何なんだ?)
山田は夕食の照り焼きチキンピザを食べながらふと考えた。そうやって考え事をすることで、彼は恐怖を頭の隅に追いやろうとしていた。
(モニターやスマホに映っているロボットみたいな見た目が仮の姿なのは分かるよ)
冷たいコーラをストローで吸うと、口の中の脂っこさが刺激と共に胃の中に送られる。彼は「っあぁー」と気持ちよさそうに呻いた。
(でもさあれ、中の人がいるよね。僕たちの質問に機械的に答えているみたいで、何度か感情的に返事していたし)
山田は次の一切れをつまんだ。チーズが薄く伸びていき、トロンと途切れる。彼はその先端をかじると実に幸せそうな顔をした。チーズが鶏肉と調和してマイルドな甘じょっぱさを醸し出し、ふわっとマッシュルームの香りが溶け込む。生地は薄く硬めであるが、それ自体の甘みと弾力が鶏肉のものと交互に続き、飽きがこない。
(VTuberとは違うよね。体動っていうのかな、関係ない場所がぶれて動くことがないし、どっちかって言うと、3Dアニメだよね。それも、中の人の言葉、意思通りにタイムラグなしに動く……)
引き続きピザを食べ進めながら山田は自分の知っている範囲、つまりインターネットで調べて分かることと照らし合わせていく。
(だから、予め何万パターンも用意されているのかな? その場で作画は無理だよね? その割にはシームレスだし……)
早速考えが行き詰まる。モニターに映るニニィは「カードキー」や「ににぉろふ」に比べれば実現可能な存在だと山田は思っていた。それなのに、少し考えだすと諸々が遥かに高い技術で成り立っていると分かってしまった。
(声は、人工音声かな? 抑揚や声量が人の話しているそれそのものだから、最先端の技術だよね。それとも生声? そうなるとCVは女の子、女の人? あのくらいの声は大人でも出せる人は出せるし……)
山田は最近見たアニメの声を思い出す。数々の特徴的な声が決め台詞と共に再生されていく。
(でも、機械で声を加工しているのかもしれないし、そうすると、中の人の性別も年齢も分からない)
考えてみると、ますますニニィの正体がよく分からなくなる。山田はピザの耳を口に放り込むと、一度思考をリセットするために再びコーラを流し込んだ。
(今度はミックスピザにしよう)
山田は次の一切れを口にしながら思った。別に同じ味が続いても格別に美味しいから何ら不満はないのだが、せっかく食べるなら色々なものを食べたいということであった。今の分を捨てて新しく別の味のピザを食べるなど、山田には思いつかなかった。
(そもそもさ、こんなゲームを開くことができるということは最上級国民だよね。それならある程度年を取っているのかな? もしかして、その子供や孫のおもちゃだったりして……)
自分の考えに山田は身震いした。ちょうど普通の子供たちがアリを意味もなく踏み潰すような感覚で、人間を毎日、様々な形で殺していく。目的は恐らく、ただそれを見ていたいから、それだけである。
(もしかしてAI? その実験とか? それならあの見た目も納得かも)
今度はSFチックな想像を働かせる。いずれにしても答えは分からない。
「うーん……」
山田は手を拭くとスマホを取って、「ににぅらぐ」を開いた。画面に「お休み中です。ごめんね」というコメントとニニィのパタパタアニメが表示された。
(やっぱりよく分からないな)
いくら画面を見つめても突然切り替わることなどないのに、と山田は思いながらも何となく目を話すことができずにいた。アラームが鳴って、スマホが振動した。
「うわっ!」
山田はとっさにスマホをテーブルの上に放り投げた。恐る恐る覗くと、そこに映っていたのは山田自身が設定したリマインダーだった。
(ああ、もう笠原先生のところに行く時間だったんだ)
山田は深呼吸をして気を落ち着かせてから「完了」のボタンを押し、もう一度深呼吸をした。
(歯、磨かなきゃ)
口内をさっぱりとさせてから「カードキー」で笠原の部屋を選び、ボタンを押そうとしたところで山田はふと思った。
(今思ったことは……言わない方がいいよね。黒幕の正体を予想して当たっていたら、謎の死を遂げるのがテンプレだし、それとゲームをクリアすることは何も関係ないし)
山田はそういうことにするとボタンを押して姿を消した。本当は単に人前で発表するのが怖いだけであるが、どうせやらないのだからもっともな理由を後付けした方が様になるとその事実からも逃げただけである。
しかし、彼の判断は正しかったかもしれない。もし万が一勇気を出していたら、話の仕方次第では有松に殺されていたかもしれなかったからである。
*
白川彩々は水鳥たちとのミーティングを終えて自分の部屋に戻った途端、腰から下に力が入らなくなるのを感じて「あっ」と声を出した。先ほどまでは良くも悪くもメンバーの存在が彼女に緊張をもたらしていたのだが、独りになるや否や安堵と恐怖が堰を切ったように訪れた。下半身の自由が利かないまま、白川はその場にストンと崩れ落ちた。
(ここ、いたら、ダメ……)
白川は言いようのない寒気を覚える。そのまま明るい部屋のやや中央に座り込んでいると、四方八方から自分を狙うような視線を感じてしまう。壁と冷蔵庫の隙間、天井の隅、死角……。どこかとは言えないが、どこかからいくつも……。
(逃げ……なきゃ……)
その姿はまさに小動物であった。目立たない場所、つまり電気の点いていない寝室の、隅の方を目指して白川は這った。足に力が入らないことよりも、その場に居続ける不安の方が強い。
「ハァ、ハァ……、ンッ、ハァ……」
荒い息を飲み込んで呼吸を無理矢理落ち着かせ、セーラー服やスカートに皺を作りながら、白川は必死に進む。落ち着いて動けばすぐにたどり着けるはずの場所が異様に遠い。足に力が入らないことに加えて、四肢がバラバラに動いているせいでちっとも前に進まない。
(イヤ! 死にたくない……)
いつまでも明るいところにいるせいで、白川は誰もいないはずの背後から誰かの狙いすますような視線を感じ、余計にパニックを起こす。目の周りには涙が飛び散っており、顔全体をくしゃくしゃにしながら、もがきにもがいて、白川は何とか寝室に入った。
「ハァ……、ハァ……」
暗がりに入って多少落ち着いたのだろう、白川はそれまでよりも素早く壁沿いに動くと、ベッドの正面に座った。そこは寝室全体に目を配らせることができる場所であった。白川は壁に何とか寄りかかり、ガクガクと震えた。
(明日は、誰になるの……? 私? 私、どうして?)
特段何もないはずの暗闇をキョロキョロと警戒しながら、白川は、自分たちがしているように他の場所で誰かが投票先を決めていると、それが自分なのではないかと想像してしまった。
初日から今日まで、近藤や高橋、草野を含めてもよいかもしれないが、彼らには投票先となり得る要素があった。田川にしても粗暴なところがあったから、白川は無意識のうちに選ばれても仕方がない人物と考えていた。要は、自分とは関係ないと思っていた。
しかし、昨日外崎が犠牲になったとき、白川には全く理由が分からなかった。若い、温和そうな男性が何故選ばれたのか、票が集まったのか、それは、誰かが意図的にそうしたから以外に考えられなかった。
(私、何も悪いことしていないよ……、違うよね……)
だから、自分が何もしていなくても、選ばれるとはっきり分かってしまった。昨日は翌日の犠牲者がほぼ100%決まっていて、自分は助かると知っていたから何とか耐えることができていた分、つい先ほどその考えがまとまって襲って来た。
(だって、あとは、究君の説明だと、あの子のお母さんが……、それなだけで、あとは、だって……)
投票先になりそうな参加者、守りの票が入ってない参加者が白川には分からない。それ以外の、白川も含まれていている集団から選ぶしかないように思えてくる。「誰にしようかなEeny, meeny, miny, moe」、数%の確率で自分に死が降りかかると白川は、今この瞬間に誰かが自分の名前を宣告しているのではないかと恐れ、すぐにできることはなく、ただ震えていた。
実際の話、投票先は適当に決まることはないと言ってもよいだろう。何かしらの理由があるのだが、傍から見たら結局ランダムに決まっているように見えるだけである。
(お腹……空いた……)
暗闇に隠れ続けて落ち着いたのか、部屋の中に広がるベルガモットの香りがリラックスさせたのか、しばらくして白川は足に力が戻っていることに気が付いた。
彼女はよたよたと立ち上がり、キッチンに行って戸棚から水とペレットを取り出した。
(……うん、大丈夫。明るくても、怖くない)
そうやって自分を勇気づけて、白川は椅子に腰かけるとペレットの袋を開けた。1粒食べるごとに体が温かくなり、1袋食べ終えるころには気持ちが前向きになっていた。
「落ち着くピアノの曲」
腹の膨れた白川が「ににぉろふ」に向かって言うと、曲名こそ分からないが白川の求めていた通りの曲が部屋全体にゆっくりと優しく流れ始めた。
「薄暗くして」
白川はリビングのソファに深く座り込むと目を閉じて、これからのことをなるべく自分から遠いところに置いて考えた。そうしなければ現実に押し潰される。
(大丈夫。究君がみんなを守ってくれる。私、ちゃんと仕事できている。だから、選ばれない。選ばれないでください。お願いします……、お願いします……)
白川の目から涙がこめかみに向かって一筋流れた。
彼女の願望は理想の上では間違っていない。リーダーが上手く舵を取れば、犠牲者はグループ外から選ばれることになる。無能でなければ、グループが飽和したときに足切りの対象となることもない。ただ、たとえ水鳥がどんなに優れていても、他の参加者すべてを相手にしては優秀な味方を完全に守りきることはできない。
*
小嶋祐司は激怒していた。野口たちと一緒に夕食を食べて、大人の宴会に混ざって騒いでいる間は感じなかったものが、自分の部屋に帰ってから込み上げてきた。床にはカラフルなボタンが取り付けられた学ランが落ちている。彼は着ていたそれを先ほど放り投げたのだが、それでも気が治まることはなかったのであった。
「何でだよっ!」
小嶋は大きく足音を立てて歩き、乱暴に洗面所のドアを開けた。それから歯ブラシを手に取り、雑に歯磨き粉を乗せて口の中に入れた。彼の怒りの源は今日の投票結果と多少なりとも関係することであった。
(子供は両親がいるからできるだろっ! 育てるのも両親だろっ! 全部がそうじゃないけどさぁ……、なんかまあ……)
小嶋は眉を吊り上げて目に変な力を入れながらも、セルフツッコミで自分の勢いを削いでいく。傍から見たらふざけているようだが、本人はこれで真剣である。
(だから、両親の時間や金や愛情や、そういうの使うんだから、父親にも同じ理由で……うーん…… 母親の体のことだし、負担がすごいとか、やっぱり、まあ……、おかしいんだけど……)
ラジカルな考えだと小嶋は自分自身でもよく分かっている。そして、難しい話題でもやもやするものが残ることも知っている。だからこそ、誰に説明するわけでもないのに言葉尻を濁しているのである。男性が経済的理由により子育てが不可能であっても、子供が生まれれば父親として扶養義務が生じる。
(それが自分の子供じゃなかったら)
小嶋の歯磨きは加速している。手元だけではなく首を大きく動かして、磨いている。小嶋は間接的ではあるが身を以て知っている。その子供と血縁上の父子関係がなく、法律上の父子関係だけの場合、さらにそのことを出生前に知らされていない場合、一層事態は複雑になること、1年経過した後に判明したならば、もう、事を穏やかに終わらせることはできないことを。
(こどもの権利条約とか、どうなってるんだよっ! DNA鑑定、しろよっ! まあ色々あると思うけどさぁ……)
小嶋はつい先日授業で習ったばかりのことを思い出した。第7条に、子供は生まれたときに自分の出自を知る権利があると書かれているのだから、99%以上確実なDNA鑑定をすれば、事情があれば先に知っているはずだから、ここではっきりすれば、誰も不幸になることはない、不貞を働いた男女を除いて、と小嶋は考えた。
(あれ? どこかで聞いた?)
どこで聞いたのか。その答えは、授業中に同じことを考えたのにただ忘れているだけ、であるが、小嶋は特に気にしないことにした。
(何でだよっ!)
口の中が痛くないのかと心配になるくらいに強く、小嶋は歯ブラシを動かしている。彼の考えは始めのものから逸れているのだが、彼にとっては順序良く進んでいる。つまり、洗面所に入ってから考えていたことは彼の父の弟、要は叔父に起こったことであった。
(……)
結局、小嶋の叔父は、自分の将来が死んだことに発狂して息子の生物学的な両親、つまり妻とその不貞相手を刺殺し、自分も喉元を割いて自殺した。葬式の日に初めて見た一応従弟の、幼いながらにもすでに濁っていた目を小嶋は忘れることができなかった。と同時に、叔父を死に追いやったその子供に激しい憎悪を覚えたこともであった。何も悪くないと分かっていても、両親の面影を持っているというだけで十分な理由だった。
小嶋はようやく感情の起伏をなだからにすると、口をゆすぎ、鏡の中の自分にぼやいた。
「子供がかわいそうってのと、嘘ついて関係ない人に押し付けていいってのは、別だよな……」
そもそもの話、子供をその状況に置いたのは他でもない血縁上の父母であり、諸々の帰する先はそこでなければ不自然である。知らない子供を渡されて、育てないと社会的に殺すと言われたら、「って、何で俺が?」となる人がいるのはおかしいことではない。血のつながった子供を持ちたいと思うのは生物として当然の権利だ。そう思わない人たちはそう思わない人たちだけで回っていればいい。他人に押し付けることではない。
「いや色々あっていいんだよ」
小嶋は、多様な家族の在り方自体を否定しているわけではない。ただ、父親の同意なく、父親が血のつながった子供を持てないまま、血縁上の子を偽った背乗り行為で財を奪われることを疑問に思っているだけである。
「はぁー……」
だからと言って彼に世の中を動かすことは今も、これからも、できない。できることは、自分がそうならないように自衛することだけである。
(つーかさ、やっぱり男は男とつき合わないとだよなっ! 早く都会に行って、いいアニキに出会いたいぜっ!)
小嶋は気分を無理矢理持ち上げると浴槽に湯を張った。それから、壁に吊るしてある色とりどりのエクステを順に指で指していった。
「で、明日は……赤!」
うんうんと何かに納得して頷くと小嶋は洗濯籠に衣類を放り込み、スマホを手に取って風呂場の扉を開けた。浴室内にはすでに湯気が籠っており、その温度も小嶋の好み通り、少し熱めになっていた。
「叔父さん……」
小嶋の口から自然にこぼれた。その熱気は今日起こったたくさんの出来事と共に、亡き叔父とよくサウナにいったことを思い出させた。筋肉質な姿に似合わず繊細で、詩的な語り口で知らないことをたくさん話してくれた叔父との思い出を小嶋は一つも忘れていない。
小嶋は曇った鏡を何の気なしに手で拭った。そのぼやけた向こう側には一瞬、叔父の優しい眼差しがあった。
「叔父さ……」
それは同じ血が流れていることを証明する、他でもない小嶋自身のものだった。
「胸毛の量が全然違う! 間違い探しかっ!」
小嶋はよく分からないツッコミを入れると、何故か満足した顔を浮かべて湯船に沈んでいった。
*
(『襤褸を纏えど心は錦』とは言うが……)
暗い部屋の中、田渕は寝室の床に座ってベッドによりかかりながら考えた。白髪交じりの頭を動かすたびにシーツに細かなしわができる。
(それは、自分の心の持ちようか、少数の優れた人の話だ)
(服装は、見た目は、人が人を判断するときの大きな基準だ。それなのにこのゲーム中は同じ服しか着ることができない)
田渕は、ホームレス生活を送り始めてまだ数年も経っていないが、そのことをよく理解していた。昔は道を尋ねれば丁寧に教えてもらえたのだが、今は話さえ聞いてもらえないからである。困っている老人から怪しい不審者に自分を変えたのは他でもない服装であった。
(このゲームは、そこが恐ろしい。生活に必要なことやある程度の娯楽は保障されている。だから、食べ物を確保して、敵から自分たちを守る必要がない。生物として生き残る実力、見た目に左右されない実力は評価されない)
実際のところこのゲームを生き残るための能力は、グループの中では評価されている。見た目による判断はその手前、グループを作る段階でなされたのだが。
(小学生は、その家の経済状況が露骨に身なりに反映されている。森本と柳原以外、服が古くて丈に合っていない。学生服やスーツは恰好が決まっている分、清潔に見える。作業着姿は普段街中で見ない分、悪目立ちしている。汚れがついていれば余計に悪い)
(主婦たちや、俺を入れた老人たちも経済状況が身なりに反映されている。他の同年代が身ぎれいにしている分、分かりやすくみすぼらしい。逆に、突出して高価な服を着ている人もいるのだろうが、その手のものに詳しくなければ分からない)
田渕は軽く膝を叩いた。痛みが走ることはない。ここに来て、気づいたときにはもう治っていた。いっそピリリと痛んだ方が良いのにと田渕は思った。そうすればこのゲームが終わっていると分かるからだ。
(ただ、貧乏な恰好の人ばかりだったら、スーツ姿の方が浮いていただろう)
その点、参加者たちの恰好は程よくばらついており、バランスが取れている。
(座る場所も体を表している)
田渕は片膝を伸ばすともう片方の膝を曲げた。軽い痺れと共に血液の流れが変わるのを彼は感じた。
(歪な円状に並べられたブロックの中心に近い場所に腰を掛けるのは自信があるから、集団の中にいたいから)
彼は路上生活をしながら、数多くの行き交う人々を観察していた。そのうち、他人の振る舞いを基に性格を予想するようになっていた。当たっていたのかどうかは分からない。何故ならば一度通り過ぎれば二度と出会わないことが普通だからだ。それでもおおまかなパターンの中に落とし込むことはできている、と彼は思っている。
(離れた場所に座るのは目立ちたくないから、犠牲者の末路からなるべく離れていたいから、全体を観察していたいから、くらいか)
(直線形に並んだ場所に座っているのは単独行動が苦手、わざわざ高いところに座るのは目立ちたいから、あるいは積極的な馬鹿だ)
田渕は何の気なしに頬から顎までを撫でた。無精ひげさえも生えていない。剃りたてのままである。
(それから、『ににぉろふ』で取り出した椅子を使っているのは、集団から外れてでも快適に過ごしたいからだろう。もう1週間も経つから皆、半ば決まった場所に座っている。入れ替わるのは、裏で手を引いている連中の間だ)
田渕は寝る前に水を一口飲もうと立ち上がった。不意に闇が怖くなった。彼は「ににぉろふ」に向かって「電気」と一声かけて部屋を明るくすると、台所へ向かった。
(それにしても……最悪の状況は避けられた……)
田渕は幸運にも、何とか小ぎれいに見える服をつい先日から着ていた。その前の姿であったら真っ先に選ばれていただろう。彼はこうやって、仮定の凶事を逃れた安堵で心を落ち着けることで何とか気を保っていた。ただし、どんな服を着ていても、彼の淀んだ瞳と下がりきった目元や頬は隠しきれないものであった。
冷たい水を飲むと、田渕は体の余計な熱や恐怖が流れていくのを感じた。そして冷静になるとそもそもの点を思い出してしまった。
(このゲームに巻き込まれたことがそもそも最悪そのものだが)
田渕は暗い気持ちになると残りの水を冷蔵庫にしまおうとして、考え直した。放っておいても補充されるのだから、飲みさしのものを保存する必要はないからだ。代わりに田渕はペットボトルをシンクに置いて、寝室に戻った。
田渕は電気を点けたままにしてベッドに入ると、すぐに鼾をかいて眠り始めた。明日、誰が死ぬのか分からない、自分かもしれないという恐怖があっても、そのベッドに入れば嫌でも深い眠りに誘われるからである。最上級の素材に何もかもが自分にぴったりと合った寝具は、その使用者を溶かすように全身の余計な力を取り除き、全てを心地よくするのである。
*
鈴木は影山たちとのミーティングを終えた後、自分の部屋で独り、熱燗をちびちびと飲んでいた。何日かに一度、こうやって仕事の疲れを取るのが彼の専らの小さな楽しみである。このゲームは短期戦ではない。だからこそ、鈴木は平時と変わらない方法でリラックスをすることで明日以降に備えていた。
(100人目の母親は……全員の話をまとめると……、話し合いの時の反応、何よりも……)
それでも全く違うことばかりを思い浮かべるわけではなかった。アルコールの効果で難しいことを考えられなくても、先ほどまでに分かったことをゆっくりと思い出して復習することはできる。鈴木はそうやって寝るまでの時間を過ごしていた。
(他から回ってきた情報というのはどこまで信用できるのか……。まあ、それを元にしてある程度絞ることになったわけだ。後の数日で誰なのかは明らかになる)
例の件に関してはもはや、誰かが誰かに偽の情報を伝える明確な利点はない。何十人もを敵に回すことになるだけである。自分たちのグループに隠れていたのならば、道連れにされる前に黙って切り離すことが適当だ。
(乳牛が……)
鈴木は今日の投票結果を酔いの回った頭で考える。
(乳牛が、摂取した栄養を使う順番は……まず卵巣機能の回復が最後、その前に体脂肪。他を十分にして、余裕ができてから次の子供を作る)
鈴木は口を閉じたまま深く深呼吸をした。日本酒のさわやかな甘みが鼻を通っていった。
(その前は、産乳、次に成長)
お猪口を口元で少し傾けて、それから飲み込むと、食道をじんわりとした熱が流れていく。
(だから、子供が生まれていても自分の成長を優先する。……人間は、人間の成長は何も身体的な話だけではないから、ものに依るのだろう)
鈴木は娘たちがまだ幼かった時のことを思い出した。彼の妻は仕事で帰りが遅くなりがちな鈴木の分まで育児に労力を割いていた。良妻賢母だ、自分にはもったいないくらいのできた人だ、と鈴木はいつも思っている。
(……)
そして、家族のことを思い出すと、鈴木は寂しさと同時に何があっても死ぬわけにはいかないと感じた。それはもちろん自分にとって一番大事な人、妻の命がかかっているからだけではなく、父母が揃っていなくなった後の子供たちの生活や心を案じてでもあった。
お猪口は空になっている。鈴木が徳利を傾けて熱燗を注ぐと、熱を持った柔らかい香りがふわりと広がった。
(その前が、妊娠しているなら胎仔の発育、最後に一番大事なこと、自分の生体の維持……。それは、何も乳牛が自分で決めてそうしているわけではない)
また一口飲むと、その分体が暖まって肌に赤みが差す。
(生物として、生理学的にそうできているからだ。人間は……、一概には言えないが、動物として、本能的にそうプログラミングされているのだろうか。だから今日、母親の誰かが100人目を諦めたことも、生物として正しい行動だったのかもしれない)
自分が生き残るためには、他の誰かを、例え我が子であっても犠牲にする。他の哺乳類を見ればそれが合理的に映ることがある。種によってバリエーションはあるが、少なくともいくらかは事実である。ハツカネズミは腹が減れば我が子を食う。インパラはチーターに襲われれば子供を置いていく。
(美談は、偶にだから美談になる。あるいは人間の場合、社会的立場や刷り込みもあって、そうするのだろうか。どちらが正しい?)
鈴木は答えのない問いに対してぼんやりと考えた。1つ、確かに答えられることがあった。
(私が極限の選択を迫られたとき、家族のために自分を犠牲にすることは訳もない)
他人がどう思おうが、自分はそうする。それが答えだった。
(だが、もし……)
日本酒を口に含む。飲み込まずとも頬や舌に溶けていくような滑らかさのあるそれは、酒が飲める人なら決して勢いだけで飲んでよい代物ではないと分かるものであった。
(もし、誰か1人だけしか助けられないとしたら……。私の中には、僅差だと思うが、大切な人たちの優先順位があった。その時は、恨まれてもいい。全員死ぬのに比べれば……。妻は自分の事よりも娘たちを優先してと頼むに違いない……)
鈴木は妻の性格をよく理解しているし、その意思を尊重しようと考えている。それでも選択肢が残ってしまうことを彼はとっくに知っている。
「まあ、そうならないようにすることが第一ですね」
鈴木は自分に説明するように呟くと、徳利とお猪口を流しに持って行こうとして、その手は空を掴んだ。知らないうちにテーブルの上はきれいに片付いていた。
「便利なんですけどね……」
何だか物足りないと鈴木は感じた。代わりに鈴木はスマホを手に取ると「ににぉろふ」で酔い覚ましを取り出して飲んだ。早くも頭が冴えてくるのを感じながら、まだ酔いが残っているうちに眠ろうと、鈴木は簡単に服を脱いでベッドに潜り込んだ。
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地下&洞窟探検部!
主人公、海原恭輔が高校入学初日の帰り道、突然地面から現れた謎の先輩、冷泉桐子(実は宇宙人だが本筋と全く関係がない)と出会い、半ば強制的に「地下&洞窟探検部!」に入部して、都市の地下空間や天然の洞窟を探検する青春もののライトノベル。いわゆるハーレム要素もあり、冷泉の他にも百発零中の自称霊感少女樹河ざくろ、地下帝国建国の野望を真面目に抱く刀根山奈々、幼馴染のドスコイ田沢、極貧サバイバル生活が日常の飯野恵那ら部員と共にあちこちを冒険し遊び、高校生活を謳歌する姿が描かれている。最新刊では隠し財宝を探したり、生焼けのマムシに当たったり、老人ホームでボランティアをしたり……。ニニィは洞窟好きかも。




