19節 蓋のない瓶を、割ってしまいましたか
それ、を認知した時、自分の腕の中の質量を思わず確かめた。信頼はせずとも、自分に信用を示し始めた少女は、ただその、次元の違う存在を見上げている。
白鷺の翼の、銀の人。
姿形だけならば、адмиралに似通っていた。争いの権能、それその物に等しい被造物。罪に対する罰、それその物。адмиралを裁くために現れた、彼のための救い。
зимаは寸分違わず理解している。それだけでは済まないと。
天に座す神の剣の一振、главниを降した天使。天に座す父の敵を、病的な執拗さで斬り伏せた、己ら古き神の天敵。太陽への印象を凝らせて二つに分けた双眸は、今、адмиралしか見ていない、が、もしも、古い神の腕の中の魔法少女を見れば、それを気に留めたが最後、罰が染野に向かないとは限らない。
むしろзимаに向けた殺意の一端を染野にもむける、と考える方が自然だろう。
それはそれで、甘美な香りの予測ではある。
「桜染ちゃん」
その、あまりに脆い熱源に縋るように、自分に押し付けるように抱きしめる腕に力を込める。
「なんも怖いことないから、大人しゅうしたってな。」
幼子に諭すように、可能な限りのやわらかさで染野に告げる。染野は答えない代わりに、抵抗のひとつも示さない。
それで良い。それであるなら、最悪の事態に陥ろうとも、зимаの権能で以て守り抜ける。
「маршал。まずは褒めよう。お前は私の望みを叶えた。」
かつて響いたよりも、いくらか押さない声色、柔らかく細められた、太陽そのものの印象を宿した瞳。ウリエルはそれを、маршалに向けた。
маршалは、адмиралはもとよりмаршалもまた、地面に立つことなど出来ない。本性を晒す原初の天使への、畏怖と敬意でもって、2人は跪く。
「恐れながら、ウリエル様、意見を申し上げてもよろしいですか。」
平伏して、顔を上げることも許されないмаршалは、そのまま、ウリエルに問いかけた。
「聞こう。」
その一言は、紛れもなく、ウリエルの意にそったмаршалへの報酬だった。きっと顔を上げれば、ウリエルはмаршалを、いくらか穏やかな表情を浮かべて見下ろしているのだろう。
かつてадмиралが、幾度も受けた報奨。
「あなたのお傍に、адмиралを戻しては頂くことは出来ませんか。」
この状況の、なんて惨めなこと。
「未だадмиралは、あなたへの敬意と畏怖を捨ててはいない。」
маршалがひとつ、音を紡ぐ度に惨めさが募る。それが、адмиралを引き裂く。
そんなこと、маршалには分からないだろう、彼は模範的な天使だ。無垢な人格、厳格な性質の、700年たっても変わらない優しい天使。
「貴方のお傍にあればこそ、адмиралとて悔い改めうるのではないでしょうか。」
優しい優しい理想論。が、アドミラールの腹の奥に苛立ちと痛痒を走らせる。
惨めという言葉の意味を、何一つ体感したことの無い、幼い言い分。
「それは、出来ない。」
その言葉だからこそ、ウリエルは聞き入れた上で、答えるのだろう。続きを切り捨てることも無く。それが、どれだけ尊いことか、ウリエルを鋳型とせねばわかるまい。
だからこそ、拒絶がひび割れた心を貫いた。
「最早私は、адмиралを愛することは出来ない。」
無機質な言葉が、その破片をすり潰した。
「最早私に、адмиралを許すつもりは無い。」
静かな、静かな、尊いお方なお言葉。
адмиралは適切に理解していた。彼が自分を、己の手で育てた天使を母のように愛してくれていることを。その中の誰よりも、かつてのадмиралに期待を寄せていてくれたことを。
「何より、700年、父の御前にひれ伏さなかったのだ、許されたいとも思ってはおるまい。」
分かってくださっているのだ、この方は。だからきっと、адмиралの代わりに罰を受けた。少なくとも、адмиралの決断の重さだけは、誰よりたしかにわかってくださっている。
「адмирал」
「……っ、は、い。」
ウリエルは、あろうことかその声で、かつてと同じ、敵意のない声でадмиралを呼んだ。
「問おう、貴様は、天に戻る意思はあるか?」
もし、万1億1、その問が『私の傍に』ならば揺らいだかもしれない。劣等感も、憎悪も、嫉妬も知らない無垢な存在として、ウリエルの傍で、あの、母のような愛だけを見て生きることが出来たならば。
「いいえ……いいえ、御座いません。たとえあの時と同じ地位、同じ愛を与えられようとも、私は再び翼を千切るでしょう。」
いや、例えそうであっても、адмиралの答えは変わらない。
傍らでмаршалが、息を詰めた気配がした。その優しさが、いっそう、адмиралを惨めにする。未だадмиралにむける友愛が痛い。
「その訳を言え、さもなくば、маршалは納得しないらしい。」
ウリエルが手を振り下ろさずとも、刑罰は始まる。адмиралにとって絶対のウリエルが、адмиралにとって最悪の告解を望む。
「貴方様が私を、以前のように愛することが、決してないからでございます。」
「私が失望したのは、маршалに惚れて、あろうことか逃げたお前だ、それだけならば、父の御許で無垢に還れば叶う。」
「いいえ、叶いません。」
ウリエルは、あまりに無垢だ。魂や肉体が同一であるならば、それは同一だとなんの蟠りもなく信じている。
адмиралの反論に答えるように、じわ、と周囲の温度が上がる。……いや、むしろ、熱を持つ。
それを認知したмаршалが、明らかに他に、一瞬、意識を向けた。何に?
「無垢に還り、あなたから頂いたものと、翼をちぎった痛みを亡くしたならば、それは最早私では御座いません。」
貴方達には分からない。そう、叫ぶことすら出来ない。
「それほどまでに、お前はその恋に固執しているのか。」
「ええ……ええ、その通りでございます。翼をちぎる傷みも意に介さぬ程に、あなたに失望を与えることよりも尚重く、私はこの想いに固執しております。」
адмиралは、許可すらなく顔を上げた、その、自分の鋳型たる尊い貌を見上げた。その顔を見たくないと、泣きわめきながら翼をちぎった、失望の表情。
それに、傍らのмаршалが怯えるように翼を震わせた。
何故ウリエルが恋を憎むかを知ればこそ、余計にそれが苦しかった。これに固執する自分は、ウリエルの視界にいるべきではないと、改めて思い知る。
「あなたへの敬愛と親愛、子が親を思う執着と、尊いものを崇める執着。маршалへの思慕と憎しみ。決して並びたてぬものへの嫉妬と憧憬。そして、私を七百年、隠した古き神々への友愛と愛着。
これらが今の私でございます。これらによって定義された私をこそ、私は愛し、望んでおります。」
ひとつ言葉を吐くごとに、千の切っ先がадмиралを貫いた。今この瞬間、泣きわめいて逃げ出したいほどの、痛みと恐怖がадмиралを支配する。
「理解すらせずとも構いません、あなたが憎むもので私は私を定義したのです。」
「そうか。」
静かな声、静かな目。
急激に気温をあげる湿原。
「私はその説明に納得した、満足した。」
それは時間にすれば1秒にも満たない刹那、それでも、それに見蕩れたадмиралからは酷く緩慢に感じられた。
小さな手に集まる、光の粒。それは収束して、細い、長い、鋭い槍に変わる。
「よって今ここで、塵に返す、異論はないな、маршал?」
「…………はい、それが、貴方様の裁定ならば。」
その声は震えている。それに覚えがある。自分の理解の範疇の、遥か遠くの価値基準への恐怖。かつてадмиралが、маршалとの間に感じた隔たりに、маршалは今怯えている。
ウリエルの槍は空中に静止する。その双眸は、真っ直ぐадмиралを見据える。
ウリエルは、その手を持ち上げ、それを、横に払う。
放たれた矢のように、一直線にадмиралへと迫る、裁きの光。
誰が予想しようか。
その槍は、そのさなか、不自然に燃え上がり、燃えおちた。
誰が予想しようか。
それが、こうもあっさりと、燃えおちるなど。
「あまりадмиралを虐めるな、ウリエル。」
いつからそこにいたか、という問は無意味だ。大地に連なる神というのは、ごく自然にそこにあり、ごく自然にそこから去る。
故に、その長身が誰にも認知されずにそこにたちはだかること自体、なんの不自然もない。
「もはやお前の父の子ではない。母上のお子だ。」
「главни」
ウリエルは、その両の目を見開く。大きな瞳いっぱいに、彼を映す。
「今度こそその喉を焼ききらねばならぬらしいな、адмиралは、私を鋳型として作られた、我が父の子だ。」
главниの歓喜と、ウリエルの怒り。адмиралにそれらを刹那、理解させなかったほどの、彼ららしからぬ強烈な感情。
けれどこの場に、адмирал以上に、驚愕をもって状況を見る人物がいた。
「крив、さん……?」
不釣り合いな、高い、可愛らしい声。知っていたадмиралと、無関心なウリエルは別として、маршалが思わず立ち上がり、それを振り返る。
главниは、ゆっくりと、зимаに抱かれた染野を振り返り、優しい声で、親しげに、苦笑を浮かべた。
「ごめんね染野ちゃん、こういう、都合なんだ。」




