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18節 愛しさで苛む1人の檻を、彼は恋と呼びました。

 がさ、がさ、と人が草を踏み分ける音がする、先程遠目に、大きな猛禽の翼を見た。重い足音は、彼ではないな、と思う。

 案の定、夜のより暗い木陰から現れたのは、少女を抱いた黒髪の男。男は湿地に複雑に張り巡らされた木道に、ぴょん、と軽く飛び乗った。

 腕の中の少女は、адмирал(アドミラール)と目を合わせて、ふい、と視線を逸らす。少女の理想系、可憐の典型にほかならない顔は、この暗さの中では目を細めなければ確認できない。美しくて善良な、それだけの少女。

 学校の制服のまま、大人しく古き神(зима)の腕の中に収まっている状況は、魔法少女への転換措置を行われていない証明にほかならない。

 安堵した。

 天の主に認められた繋がりなど、見せられたくはない。

 想定に反して、彼女は驚きを示さない。


 「お久しぶりです、染野ちゃん、いつぞはありがとうございます。」


 「お久しぶりです、いつぞやは、どうも。」


 恭しく、優しく、微笑みかけて見せればзима(ズィーマ)の腕に抱かれた少女は儀礼的に返答する。彼女自身よりむしろ、зимаの方がадмиралに警戒するように染野を抱きしめる。

 ばさ、ばさ、と強い羽音。舞い散る薄茶の猛禽の羽、その大きさと色彩は、ミカエルを鋳型として作られたもの特有の。


 「маршал(マルシャール)……」


 「адмирал(アドミラール)。」


 雲に拡散された、脆い光すら孕む繊細な金の髪、海の色その物の瞳が、複雑な感情を押し殺した表情でадмиралを見下ろした。

 ゆっくり、ゆっくり、争いの権能を分け与えられた天使が下降する。адмиралが自ら引きちぎった翼を見せつけるように。


 「……存外、変わらないな。」


 「翼を落とせども、父の被造物という事実は変わりませんので。」


 「そうだな。」


 歯切れの悪いもの言い、言葉を選びかねているような。


 「маршал、私はただ、私が消えるのをあなたに見てほしいだけです。」


 だから、адмиралは笑う。どんな言葉も受け取るつもりは無い。маршалがадмиралを裁くというのなら、それを聞き入れるのは良いかもしれないが。そうでないならば、親愛と友愛の篭もった説得なら、聞き入れるつもりは無い。


 「消える必要はない。お前であれば、まだ、許される可能性はある。」


 だと言うのに、愚かで優しい、鈍感な男はそれをадмирал(アドミラール)に投げてよこすのだ。


 「誰に?」


 「は?」


 「誰に許しを乞うて、誰に許されることが出来ると?」


 その切り返しを、まるで考えていなかったとでも言いたげな、間抜けな顔をмаршалが浮べる。すこし、その顔を見て胸のつかえが取れる。


 「偉大なる父に?伏して希い、魂諸共洗われて、無垢に還れと?」


 天使としてあらまほしい人格を移したような、神に似たるもの(ミカエル)を鋳型とした男は、まるで、адмиралの心理を慮らない。


 「そのつもりがあるなら、700年前にそうしておりますよ。」


 「そも、俺はお前が堕天した理由すら理解出来ていない。それ程までに、ウリエル様の怒りが恐ろしいか。」


 「ええ、恐ろしい。」


 そんなことも、この男は理解できないのだ。ウリエルの寵を得なかったことの、なんと羨ましいこと。


 「許しを乞うて、無垢に還るなど出来ない。天に帰るなど、それだけは出来ない。」


 「俺の願いすら、聞けないほどにか。」


 「思い上がるな、маршал(マルシャール)


 адмирал(アドミラール)は、視線をмаршалから、それより遠く、зима(ズィーマ)の腕に抱かれた染野に移す。染野は、その花吹雪の舞う瞳で、気遣わしげにмаршалを見つめていた。зимаの腕の中で、彼を意識の外に捨て去って。

 見るからに、か弱い少女だ。

 そのくせ妙に、表面を武装した少女。それが、адмиралの受けた染野の印象だった。

 美しく、善良なだけの、可哀想な乙女はきっと、маршалの庇護欲をさぞ刺激したことだろう。маршалの劣等感を、優しく宥めてくれたことだろう。


 「私は恋ばかりで己を定義したわけでもなし、私の愛はただ貴方の願いを叶えるものでもない。」


 маршалにとってはきっと、そうなのだろう。相手の望みを叶えて、緩んだ顔を見ることが、маршалの愛であるのだろう。

 それによってмаршалを定義した少女は、この世で最も安全な檻の中で今この瞬間守られている。

 たった今湧いた憎しみによってадмиралが彼女の命を刈り取ろうなどとすれば、зимаは培った友愛を捨ててадмиралという存在ごと塵に返すことだろう。たとえ相手がглавни(グラヴニー)やウリエルであろうとも、確実に染野は守られる。

 己で逃げられない代わりに、決して脅かされることの無い檻。永遠にそこにいればいいのに。二度と、маршалの腕に戻らなければいいのに。


 「私はね、маршал(マルシャール)。天上での、あの、綺羅のような日々を消されたくはないのですよ。」


 父に形作られた瞬間も、ウリエルに抱き上げられ、その膝の上で全てを教えられたことも、長じて彼の元で槍を取ったことも、その中でмаршалに出会ったことも。劣等感と憧憬が、恋に変わったことも。

 羽をちぎる前に、親愛を装って重ねた唇も、何ひとつとして損なわれたくはないのだ。

 маршалの碧の目と、адмиралの金の目に、白鷺の羽根が舞うのが映った。


 「адмирал(アドミラール)


 見上げた先の、細い手足と、銀の髪。адмиралに似通った、美しい造形の顔の、男とも女ともつかない子供。

 身の丈の二倍を優に超える白い翼が、月よりも眩い。


 「私がわかるか」


 「ウリエル様……」


 その子供は、地上に降りない。адмиралを見下ろす、金色の瞳。

 嫌悪も憎悪も、親愛も慈愛もない、静かな静かな金色。


 「ウリエルさま」


 もはや失望ら通り過ぎた、ウリエルが、罪人を見つめる時の、無関心な敵意。

 その顔が、見たくなくて、翼をちぎってまで逃げ出した。

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