16節 感情の閾値の、小ささは不幸でしょうか
ロシア語全文やってられないのでロシア語のみの会話の場合は普通に日本語で打つことにします。
「ただいまかえりました」
「おかえりなさい、Лиля、еноx様。」
「ただいま、Иванна」
教会の居住区、不自然に物の少ない部屋に、調理された肉の匂いと、スパイスの香りが漂っている。その匂いを嗅ぐと、елизаветаは目を輝かせた。
「ハルチョー!」
「正解よЛиля、あなたのために腕によりをかけて作ったのに、またあんたはお外でボケーッとしてー!」
真っ黒な髪に、シミひとつない白い肌の、人形めいた顔立ちのелизаветаに対してИваннаはブロンドで、そばかすの浮いた、垢抜けない雰囲気のある女性だ。しかし決してелизаветаと比べてИваннаが魅力で劣るという言葉無い、人らしさがどこかそげ落ちたелизаветаに対してИваннаは、親しみやすく、また、どことなく人を安心させる雰囲気をまとっている。
Иваннаは手を伸ばしてелизаветаを抱きしめる。バランスの悪い彼女の体は、Иваннаの腕の中に容易に収まった。
母のような笑みを湛えて、Иваннаはелизаветаの頬をつねる。
「い、いたい……」
「こーんなほっぺ冷やして!いくら最近暖かいって言ってもこんな時間までお外歩いていいなんて言った覚えはないわよ!」
「ごえんなはい……」
Иваннаに両頬を挟まれてグリグリ動かされるелизаветаは、赤い左目でちら、とеноxを見た。
彼はただ、穏やかな笑みでそれを眺めている。そして、Иваннаはそれを見逃さない。
「еноx様も、迎えに行くならもっと早く行っても良かったじゃないですか!」
「10年過ごした麗しの都とのお別れですから、少し長めに時間をとっても良いかと思いまして。」
Иваннаはぎゅう、とелизаветаを抱きしめながらеноxをすねた様子で睨む。それを、まるで年長者の様子でеноxは優しく見つめた。
見た目こそ、Иваннаはелизаветаよりいくらか上で、そのИваннаとеноxはさほど離れている様子はないが。
「еноx様はЛиляを甘やかしすぎです。」
「過保護にかけてはИваннаも負けていませんけれど。」
「そうは言いますけど、どうせすぐ戻ってきますよ。この子は優秀なんですから。」
2人の(というよりはほとんどИваннаの一方的な)言い争いにелизаветаは懸命に無言を貫いた。елизаветаからして、彼らは大人過ぎて、口を挟むつもりにもなれない。
早くハルチョー食べたい。
思うが早いか、くう、とелизаветаの腹が鳴る。思わず、恥ずかしくてИваннаの胸に顔を埋めた。
「ご飯にしましょうか、とりあえず。」
「はい!」
Иваннаは溜息をついてелизаветаの髪を撫でる。『ヨシ』を貰ったелизаветаは、満面の笑みを人形めいたその顔に載せた。
お米とお肉の入った、スパイスたっぷりのスープはелизаветаのお気に入りで、きっとИваннаはそれを承知して作ってくれたのだ。
食卓にИваннаが配膳して、神への感謝の祈りを捧げて、懐かしい、10年前に一時身を寄せた教会の、思い出の味のするスープを口に含んだ。
「Лиля」
「なんですか?」
「改めて、確認です。」
еноxが、елизаветаに、随分と低い、少し怖いような声を向けた。
「もし日本の彼が別人であれば、どうしますか?」
冷たい、冷たい、怖いほどにまっすぐな目、ガラス玉のように透明な瞳を受けても、елизаветаはこてん、と首を傾げるだけだった。
隣で凍りつくИваннаに、気づいてはいない。
「殺してから、ここに戻ります。」
「では、彼なら?」
「殺します。殺して、彼と、あそこにかえります。」
それを言うならば、елизаветаもまた、ガラス玉のように澄んだ目をしている。柘榴石を真珠に填めた、芸術品めいた瞳は感情を見せない。
Иваннаは、視線を空の皿に落とした。
「畏まりました、私は、貴方が満足するまで手助けを続けます。……その後は?」
「わかっています、еноx、あなたとИваннаのお望みのままに」
елизаветаは微笑んだ。幼子が母を慰めようとするような、健気で無垢で、無責任で身勝手な頬笑みを浮かべた。
Иваннаは視線を上げない。
еноxは、安堵したように頷いた。
「その言葉、違えませんように、神への誓い」




