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13節 息をついても、よろしゅうございます

 「ただいま」


 染野の耳の内側で、警鐘のようにわんわん耳鳴りが響く。それに吐き気がする。

 まだ右手に、生き物の温もりを感じることが余計に気持ち悪い。

 ぽて、ぽて、とお手玉の状態のмаршал(マルシャール)が跳ねてよってくる、膝をついて手を伸べるとぺん、と飛び乗ってきた。

 重量をほとんど感じないそれを持ち上げて視線を合わせる。


 「おかえり、何事もないか。」


 「ええ、何事も。手を握られ続けたのが気持ち悪かったくらいです。」


 「……そうか。」


 маршалが視線を逸らす。何に由来するのか、マリンブルーの目の色が翳っていた。


 「そういえば、行先は水族館でした。」


 「そうか」


 「ええ、あなたは行っていないと思うのですけれど、この辺りで1番大きいところで、大水槽が二つあります。」


 「そうか」


 маршалの視線が、染野の足元まで落ちる。無理に覗くことを躊躇われるような、そういう不快感を彼は見せている。

 

 「水中を斜めに登れる方の大水槽で、イワシの群れが見られるんです。」


 「そうか」


 群体を確認して、すぐ、イワシへの興味はなくなったのだが、あの、青緑色はとても美しかったし、人工的に削られた、自然物を摸した岩の黒さが恐ろしかった。


 「貴方の目は、海の色なのだと思ったんです。今。」


 「……は?」


 маршалは思わず目を真ん丸に見開いて染野を見上げる、見開いて、光を受ける割合の増えた瞳は、やはり、日の透けた海の浅瀬の色によく似ている。


 「イワシの水槽の緑色とか、あれは少し人工的にそう見えるようにはされていますが、今日見た水の色に、貴方の目は似ている。」


 「そうか」


 また、маршалは視線を逸らした、視線どころか、逃げ出すように染野の手から飛び降りる。


 「風呂は沸かしてあるし、食事も作っておいた、今日は疲れただろうしだらけていいぞ。」


 「助かります。」


 ぽて、ぽて、とお手玉はリビングへ逃げていく。ツンデレ、というものだろうか、務めて厳しく振舞っている節のある同居人の、気遣いは有難く受け取ることにする。

 ふと、自分の右手を見た。

 そこに残っている感触も、温もりも、今だあの、金の目の男のもので、あのお手玉が乗った感触も温もりも、ほとんど既に意識の外にある。


 それが気持ち悪くて仕方がなかった。


 手を握られた感触よりも、掴まれた感触よりも。

 撫でた髪の柔らかさとか、頭部の丸い形とか、陽に晒された髪の温度とか、そんなものが右手に残っていた。

 それが気持ち悪くて仕方がない。


 けれどあの、子供のような、親の愛を乞う子供のようなことを言う、稚い目と、削げ落ちた表情が。

 いっそ切実なほど感情のない声が、染野の足を止めて体を動かした。

 かわいそうだと思ってしまった。

 嬉しそうに緩んだ表情に、心底安堵してしまったのだ。


 カチャ、と金属の擦れる音がした。

 いつまでも玄関に立ち尽くして動かない染野を心配してか、маршал(マルシャール)がこちらを伺っている。


 「意外と、疲れてたみたいでぼーっとしてました、お風呂、入ります。」


 「のぼせる前に上がれよ。」


 「……1時間しても上がってこなかったら救出に来てください。」


 「ふざけるな」


 冗談めかして言ってはみたし、маршалもふざけるなと切り捨てるけれど、実際、もし染野が一時間上がってこなければ血相変えて回収に来るのだろうな、と思うと愉快で仕方が無い。

 маршалと話すと、耳鳴りがたまに止む。

 面白そうだから、一時間入浴してみようかと一瞬魔が差したが、のぼせた時のあの目眩や吐き気を考えると、勘定が合わずに断念する。

 脱衣所を覗くと、タオルや着替えも用意されていて、本当に染野をだらけさせる体制に入っていたのが余計面白かった。

 実際本当にやらかした時のために、浴室のカギはかけずに置く。

 そう言えば、маршалが用意してくれるようになるまでは基本的にシャワーで済ませて、入浴なんて、本当に余裕がある時しかしていなかった。

 食事が億劫でそのまま寝ることもあった気がする。


 これはきっと、良い変化なのだろう。


 頭にこびりつく金色の目の残像と、右手に残る人間の体温を務めて頭から追い出すために、染野はそんなことを考えていた。

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