10節 そろそろ、お腹の空く時刻でしょうか。
デートの切りどころが見えない。
鰭足類の給餌が終わっても、染野はアザラシを眺めていた。皮下脂肪のせいででっぷりした印象を受ける割に、優雅な泳ぎだとはзимаも思う。
「桜染ちゃん、ペンギンのお散歩始まってまうで?」
「見たいんですか?」
「いや、桜染ちゃん見たいんとちゃうの?」
「見たいですけど。」
言葉通り、染野はペンギンのプールを避けて大回りで館内に戻ろうとする。ペンギンのお散歩に引っかかると、そこを通れなくなるからだろう。
「ペンギンが歩くのを観察するなら、何も人が多い時に行く必要は無いでしょう。」
「成程、桜染ちゃんらし」
言われてみればその通りで、ペンギンのプールで数分張りつけば歩くペンギンなど簡単に見ることができる。
水田の横、人工の小川の真ん中を素通りして、順路に戻る。
ひとつ、ひとつ、順路に則って工夫を凝らされた水槽を見ていく、зимаはどちらかと言えば、それを見る染野を見ている訳だが。
微動だにせず、視線だけで魚を追う、くるくると眼球が忙しなく、いろんな魚を追う様を眺める。
染野の表情の起伏は小さい。けれどキラキラした鮮やかな青い目は、稚い仕草は、この場所を心底楽しんでいることを示していた。
青、と言うより碧の水中トンネルを抜けて、大水槽を横から見る。暗く演出された大水槽の傍らで、優雅に泳ぐ大きな魚を、染野がじっと見つめる。
水面の反射が、敷き詰められた砂に斑に反射する。白い肌と服が、暗い空間でぼんやり浮かび上がる。
腹が減る。
その空腹の由来が、魚なのか染野なのかはわからない。
続いて、順路に従うと深海の生物のコーナーに入る。その次は大水槽2、先程はサメやエイ、カメなど比較的大型の生き物が多かったが、この水槽はイワシか……群れを為して泳ぐ銀色の、小さな魚が展示されている。染野はあまりその魚群には関心を示さなかった、1度その魚群を確認すると、すぐ先に進んだ。大水槽2の、緩やかに登っていく水中トンネルは、床まで透明なアクリル板という徹底ぶりで、人によっては恐慌を起こすと聞いた気がする。
染野に恐慌の気配はない。
2階は、借景。水族館の近くにはご多分に漏れず海なわけなのだが、水槽の縁から水を外に零す形で水槽の縁を隠し、向こうにある海と視覚的に繋げている。
「次はどっち行く?」
「…………あっち」
染野が指さしたのは、館内にまた続く道。カワウソやラッコ、ビーバーといった生き物を飼育する水槽のある道だ。それから、もう一方は屋根のない屋外で、イルカとシャチのプール。
カワウソは吊るされた寝床でおねむで、ビーバーも巣の中にいた。ラッコはふよふよ浮いて回遊している。染野が一番関心を示したのは、カワウソだった。
「おねむやん、見てて楽しい?」
「生きてるって感じが1番します。」
「成程。」
暫くじっと、すよすよ眠るカワウソを眺めてからまた、歩き出す。
「桜染ちゃん、そろそろ下降りんと、ペンギンの給餌ショーやで」
「えっ、ちょ、もう少し早く教えてください!」
時間を確認してから、染野はショートカットで降りられる階段に早足で向かう、庭園に降りて、また、人ごみの中に入っていく。染野に手を引かれる形になるのが、至極愉快だった。
飼育員が現れて、広いペンギンのプールにバケツの中から生き餌を離す、プールの中を素早く逃げ惑う魚を、ペンギンが水中を滑るように捉えていく。
ペンギンは水の中を「飛ぶ」とは言いえて妙だ。その動きの滑らかさは猛禽の急降下を連想させるし、あのぽてぽてした体つきは、水の抵抗との兼ね合いのとれた、かしこい進化だと言える。
じ、と染野はそれを見つめている、トドの給餌ショーの比ではない熱を込めた視線。
水の中では、まだ魚とペンギンの追いかけっこが続いている。ペンギンが泳いだ後に、小さな気泡が軌跡を描いては消える。
「染野ちゃん、ご飯食べてるの見るの、好きなん?」
「ええ、好き。」
染野の視線は、ペンギンによる捕食、予定された殺戮にのみ向けられて、僅かたりとてзимаを見ない。
「桜染ちゃん、こっち見て」
無視。
「さーくーらーぞーめーちゃーんー」
無視。
「桜染ちゃん、桜染ちゃん」
無視。
呼び掛けながら手を握る力を強めても、まるでзимаに関心を示そうとしない。けれど、зимаに呼ばれてひく、と動く眉に、努めて視線を向けまいとしているのが伺えた。
зимаの右手首の内側で、なにかが蠢いてзимаを苛んだ。
こちらを向いて、桜井染野。




