9節 逢い引きを致しましょう
極彩色の珊瑚に、照明で青く彩られた水槽。わざとらしいほど鮮やかな魚が、他と比べたらいくらも小さな水槽の中で泳いでいる。それをしゃがみこんで側面からじっと見つめる染野の、白い肌がほの青く照らされている。
зимаからすればそれは、きっと彼らの住む海においてはあれくらいの方が擬態しやすいのだろうな、という感慨しかなく、それを見つめる染野の真剣な眼差しに、焼き殺したいような嫉妬を覚えるとか、青く照らされて余計に白さの際立つ染野の肌が、瑣末なことで損なわれるような危うさを感じるとか、そんな程度の感情しか持てない。
突き詰めるとつまらない。真剣に魚を見る染野は可愛いけれど。
「桜染ちゃん」
「なんですか?」
「あそこ、今日やるイベントの時刻表とパンフあるで、確認しに行かん?」
「……そうですね。」
軽く染野の手を引くと、染野はフイッシュボーンのスカートの裾を捌いて立ち上がる。黒い掲示板に、白文字で書かれたイベントの時刻。
「鰭足類の解説とペンギンの給餌ショーの時間が……両方見れるでしょうか……」
「今からやったらイルカショー諦めたら1回目の解説間に合うんやない?」
掲示板に書かれた時刻を見て、ちら、とスマホで時間を確認する。1回目の解説まで10分ほど余裕がある、とかく広いが、屋外に出てペンギンのプールを素通りすれば10分間に合う時間だろう。
染野がペンギンの誘惑に勝てるなら、だが。
「その後そのままペンギンのお散歩見たらええよ。」
「……そうしましょうか。」
渋々、と言うふうに染野は頷く、зимаの提案に頷くのすら不快だと、それを隠しもしない。もしそれが、зимаへのささやかな反撃だと考えているのならば、なんて愚かで可愛らしい考えなのだろうか。
まだ、人の尺度でзимаを測っているのか。
染野はзимаに手を掴まれたままであることを気にしていないかのように歩き出す。少し早足なのは、それほどまでに鰭足類の解説に心動かされているということなのだろう。解説のメインはトドなのだが。なんかすごく恐竜みたいな鳴き声が聴けるくらいではなかったか。
トドの隣のアシカは、ショーの時に解説するのでほとんど給餌だけのはずなのだが。
水族館のくせに、やたら凝った庭園、というか公園、というか、地域の野生の植物と、水田やため池、沼などを再現した庭園を抜けて、ペンギンのプールを横を素通りすれば、鰭足類、トドやアシカや、アザラシのプール、そこは1階と2階で別れていて、1階では鰭足類が泳いでいる姿を、2階では岩の上にいる姿を観察できる。用事があるのは2階だ。
時計を改めて確認する、3分前、案の定人が多いが、人波をかき分けて染野が見やすいように手摺のすぐ側の場所を確保する。
「怖いことせんから、我慢したってな。」
「……は?」
手摺に染野を押し付け、背後からその両脇に手を伸ばして、半ば抱きしめるようにして染野の場所を確保する。怖いことをしない、とзимаが宣言してもなお、染野は肩を強ばらせる。
ただそれでも、зима以外が染野に易々と触れることは好ましくない。
程なく給餌が始まる。すると染野は完全に意識をそちらに移したらしく、緊張を解いた。どんな顔をしているのか、いくら背丈の差があれども後ろにいるзимаには見えない。
解説しながら一尾ずつ飼育員が魚を与えていたが、突然大量の魚を飼育員が掴んでトドの上に持ち上げる。
ぐぱ、とトドが大口を開ける。表面の柔らかそうな茶色の毛皮と、見開いた目の黒と白、それから少しの血管の赤。口の内側の、白と黒とピンク。
総じてзимаにはわざわざ見たがるような魅力は感じない。むしろ、人間はああいう手合いを、グロテスクと言って忌避する傾向が強かったのではなかろうか。
飼育員が手を離すと、それを全て一口で飲み込む、700キロの巨体。飼育員の合図で、およそ人の声帯では表せない咆哮を上げて、飛び込み台の形をした岩の上からプールに飛び込む生き物。それに感じるべきは興味や愛情ではなく、恐怖であるべきではないのだろうか。
生臭い潮の匂いがする。
トドの解説が終わり、給餌はアシカとアザラシに移るようだ。
「あの……私も向こうを見たいのだけれど」
染野が控えめに振り返り、зимаをちらりと見てから視線を隣のプールにむける。
「あ、悪り、忘れとった。染野ちゃん閉じ込めるの楽しくって」
「茹でますよ変温動物」
「やっだ怖ぁい。そんなに俺を喜ばせたらあかんよ、このまま連れ帰りたなってまう。」
嫌悪と軽蔑の視線と、低い罵倒に背すじを撫でられる。
染野をзима自身の腕で作った檻から解放し、また、その右手を捉える。染野は一瞬それに眉をひそめたが、それだけですぐ、意識を給餌に移した。
飼育員が投げた餌を、勢いよく飛び込んでアシカが食いつく。先程と比べたらいくらか見やすいのかもしれないし、これが可愛いとかいう感性はまぁ、まだ理解の範疇だ。解説があまりない分、人は少ないから、染野の隣で、それを見つめる染野を見つめることが叶う。
関心から見開かれた目は、多分、今日1番鮮やかな色をしているし、花吹雪の色も柔らかく見える。おそらくチークではない、頬の血色。
無知である、と思う。
桜井染野という人物について。
彼女は何を好み、何を嫌い、何に喜び、何を厭うのか。どのような価値基準で行動し、どのような感性でものを見るのか。
それを、知りたい。
染野の肌の柔らかさは知っている、限りなく完全に再現されたからだの、臓腑の温もりと色を知っている。染野の体温を知っている、匂いを知っている。声を知っていて、足音を知っている。しかし、解剖しようのない内面については何一つ知らないのが、酷く腹立たしい。ひとつも余すところなく、ちょうど、先程丸呑みにされた魚のように、桜井染野という人物を構成する全てを、зимаを構成する一部に変えてしまいたい。
一欠片も残さず、桜井染野という人間を知りたい




