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8節 あいびき、を致しましょうか

 朝9時、зима(ズィーマ)は染野の家のインターホンを押した。数十秒のち、扉が開く。


 「おはようございます……」


 「……っ、おは、よう、桜染ちゃん」


 思わず悲鳴をあげそうになる、それほどまでに、そこにいた染野が可憐であった。

 白い、肩と足を大胆に露出したシフォンワンピース。あまり体のラインを強調しない形のせいか、それは清楚の範囲に収まっている。長い髪は、何度か見かけたポニーテールでは無い、そのまま背中に流された髪がふわふわと柔らかそうな流れを作っている。

 つまり、可愛い。可愛いなどという言葉を口に出してはそれが貶められるのではないかと言うほど可愛い。

 花吹雪の舞う大きな瞳は、じぃ、と警戒心を隠さずзимаを見上げている。


 「ほな、いこか」


 зимаは左手で、染野の右手を掴む、俗に言う恋人つなぎ、なんてものをしたかったが互いの手の大きさからやりにくくて諦めた。なんて小さくて柔らかい手だろうか、可愛い、可愛い、と自分の手でそれを包む。


 「っ、あの」


 「これ以上せぇひんから、な?」


 「……」


 зимаに触れられることにまだ怯える様子を見せる染野を、最大限の優しさを込めて宥める。肩を強ばらせてはいるが、それにとどまっているのは幸いなのだろう。

 自分がしでかしたことを思えば。

 ふと、敵意や殺気の類の視線を感じて目をあげると、マリンブルーの目がзима(ズィーマ)を睨んでいた。金色の髪の、あの顔の造形は、ミカエル型か。

 量産型が。

 掴んだ染野の手を引いて、彼女の体を外に出し、扉を閉じる。


 「桜染ちゃん、どこ行きたい?」


 「どこでもいいです。」


 「それは困る、桜染ちゃんの行きたいとこ俺は知りたいねん。」


 「……」


 軽い会話を交わしながら、染野の手を引いて歩く、染野の歩く速度が遅く感じるが、それは歩幅の差からだろうか。女の子には歩調を合わせるように、と耳がきぃんとするほど言ってきたのは母だった。


 「では、水族館。」

 

 「Важи(りょーかい)!」


 染野の歩調は遅い、視線は数メートル先の地面を見ていて、染野を見ているзимаを見ようともしない。それを急かそうとは思わない。あの目で見られたいな、とは思う。

 怯えと警戒でいっぱいの、鮮やかな青が暗く淀んだ瞳も、背すじをなぞられるように美しいに決まっているし、その瞳を濁らせたのがзимаなのだという事実の恍惚も、その濁った瞳に見つめられる法悦も、欲しくて仕方がない。

 見たい、みたい。

 思わず、右手を染野に伸ばそうとしてしまった。


 「いっった!?」


 「えっ、何!?」


 右首の内側で、何か、生き物が暴れ回るような痛みに思わず叫んだ。


 「気にせんといて、右手ぶつけただけやねん。」


 「そう。いい気味。」


 手をおろせば、ゆっくり痛みは引いていく。己自身で誓約したのだ、『これ以上は何もしない』と。

 左手首で、зимаの右手首で、黒い蛇の模様がゆらゆら動いた。右手を揺すって、その感覚を遠ざける。

 もし、自分の欲望でもって染野に触れようものなら、右手が落ちる。

 涼やかにзима(ズィーマ)を罵倒するその声がいとおしい。嘲笑うように笑った唇、柔らかげな頬がいとおしい。


 水族館までの道すがら、電車でもバスでも染野が座れるように配慮した。染野が人にはいぶつからないように配慮した。傍目にはзимаは、染野の過保護な恋人に見えただろうか?

 傍目には染野は、зимаの無愛想な恋人に見えるのだろうか?

 とかく、そのようにしてたどり着いた水族館は、県内で1番大きい場所だった。日曜日ということもあり、思いの外人が多い。


 「染野ちゃん」


 「なんですか?」


 「お金払う時1回だけ手ぇ離すけど、どっか行こうとか考えたらあかんよ?」


 「失明、してしまいますか?」


 「俺から逃げ切ったら、そうなってまうかも知れん。」


 「……」


 じろ、と染野がзимаを睨む、恨めしそうな眼差し。悔しそうに引き結ばれた、薄い色の口紅の乗った唇。

 キスがしたくなった。

 けれどそんなことをしようものなら、右手の蛇は問答無用でзимаの心臓を締め上げ、引きちぎるのも目に見えていた。


 「安心し、絶対逃がさへんから。」


 「……」


 「桜染ちゃんの感触も、匂いも、体温も、味も、ぜぇんぶちゃんと覚えとるから。」


 染野が、1歩後ずさる、花吹雪の舞う瞳が、怯えるように揺れる。

 腹が減る。


 「逃げてもすぐ見つけたるから、鬼ごっこがしたなったらいつでも逃げてええよ。」


 「そんな不毛なこと、しませんよ。」


 「いい子、桜染ちゃんの賢いところもだぁい好き。そう、その賢さがあったからそう言えば惚れたんやった。」


 思い出すだけで身震いする、透明に澄んだ、己の体が吹き飛ぶことも意に介さない真っ直ぐな瞳。あれに射抜かれてしまった、ただそれだけで、これほどまでにこの、取るに足らない脆弱な少女が愛おしくなったのだ。

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