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第九話 渡さない

「一度も渡さない」


 拓海はそう言った。


 跳ね返ったボールが味方の手に収まり、こちらの攻撃権になっている、その数十秒の間の会議だった。四十四人が、白線から下がったところで顔を寄せている。


「渡さないって、何をですか」


「ボールをだ」


 拓海は、掌の中の赤いゴムを掲げた。


「最初に言っただろ。このゲームは、当てるゲームじゃない。ボールを持ち続けるゲームだ」


 亮は、息を呑んだ。


「こっちがボールを持ってる間、俺たちは絶対に死なない。あいつがどれだけ化け物でも、投げるものがなければただ立ってるだけの人間だ」


「でも、投げたら渡ります」


「当てれば渡らない」


 拓海は亮を見た。


「あんたの球は、当たれば床に落ちる。落ちたボールを先に拾うのは、こっちの前列だ。……つまり、あんたが外さない限り、あいつは一生ボールに触れない」


          ◇


「無茶苦茶だ」


 誰かが言った。


「五十人全員、一人で外さずに当て続けろってことか? 人間にできることじゃねえ」


「できないなら死ぬ」


 拓海は言い切った。


「今のままなら、俺の号令が読まれて、順番にみんな死ぬ。それよりはマシだ」


 誰も反論しなかった。


「役割を組み直す。投げるのは金松だけだ」


 拓海は指を立てた。


「前列は捕るのをやめろ。拾え。当たったあとに床に落ちるボール、外れて壁に跳ね返るボール、それを白線を越えられる前に確保する。それが最優先だ」


「拾うのに失敗したら?」


「そのときは相手の攻撃だ。号令は俺が出す。……当てられる覚悟だけはしといてくれ」


 拓海は、そこで少し声を落とした。


「そして、拾いの指揮を執る人間が要る。四十四人がどこに散るか、誰がどの方向へ動くか。俺は号令で手一杯だ」


 そのとき、手が挙がった。


「はい!」


 雅人だった。


          ◇


「あんた、投手だろ」


 拓海が眉をひそめた。


「投げる方に回った方がいい」


「いや、俺、中学までショートだったんすよ」


 雅人はへらっと笑った。


「んで、うちの中学の監督が守備にうるさい人でさ。打球が上がった瞬間に『誰が行くか』を全員で声出して決めるんだ。カットマンは誰、バックアップは誰、って。あれ、めちゃくちゃ怒られながら三年間やらされたんで」


 拓海が、じっと雅人を見た。


「跳ね返りの落下点、読めるか」


「壁の跳ね返りなら、たぶん。フェンス直撃した打球と一緒でしょ」


「……」


 拓海は数秒黙ってから、言った。


「頼む」


「うぇーい」


 雅人は右手を上げた。誰もそれに応じなかったので、彼は少し寂しそうに手を下ろした。


 亮は、その背中を見ていた。


(こいつ、ずっと震えてたくせに)


          ◇


 配置が終わるまで、二分もかからなかった。


 亮は、ボールを握り直しながら、心の中で問いかけた。


(グード)


(なに?)


(ひとつ聞きたい)


 白線の向こうで、篠塚が左腕をぶら下げたまま立っている。


(お前らが宿主から離れたら、その人間はどうなる)


 少しの間があった。


(……扉が閉まるだけだよ)


 グードは答えた。


(潜在能力の蓋が、元通りに閉まる。それだけ。死んだりはしない。ちょっと、体が重く感じるかもしれないけど)


(じゃあ、あいつから離れさせれば)


(うん。あの人は助かる)


(どうすればいい)


(──「この宿主には価値がない」って、思わせること)


 グードの声には、初めて、はっきりした感情の色があった。


 嫌悪だった。


(あの手の子はね、宿主を椅子だと思ってるんだ。壊れたら、次の椅子に座り替えればいい。だから、座る価値がなくなればすぐ立つよ)


(……お前は違うのか)


(僕は)


 グードは、そこで言葉を切った。


(僕は、亮くんの中にいたいよ)


 亮は答えなかった。


 答えられなかった。


          ◇


「金松、行けるか」


「行きます」


 亮は右足を上げた。


 白線の向こう、篠塚の隣に立つ男。ゼッケンにはXW21。両手を広げて捕る構えを取っている。素人の構えだ。


 腰より下でリリース。後ろ回転。


「ズッ」


 球が床を這った。


 XW21は膝を落として腕を伸ばしたが、指先が空を切った。


 鈍い音。


「XW21、アウト」


 ボールが床に落ちる。


「行けェ!」


 雅人が叫んだ。


「三番と七番! 右前! 拓海さんの後ろに落ちる!」


 前列の二人が飛び出した。白線を越えないぎりぎりの位置で、一人が滑り込み、ボールを両手で抱え込む。


 XW側の男が伸ばした手は、二十センチ届かなかった。


「──確保ォ!!」


 XVチームが沸いた。


          ◇


 そこからは、作業だった。


 亮が投げる。当たる。落ちる。雅人が指示を出す。誰かが拾う。ボールが亮に戻る。亮が投げる。


 一分に、およそ二人。


 篠塚は、一度も捕りに来なかった。


 来られなかった、というのが正しい。左腕はぶら下がったままで、あの掬い上げるキャッチは両足を踏ん張って初めて成立する技だ。片腕で亮の球に触れれば、今度は残った肩が飛ぶ。


 だから彼は、味方が溶けていくのを、ただ立って見ていた。


 XW側の男たちは、最初こそ避けようとしていた。だが、床を這う球は跳ばなければ避けられず、跳んだ先を狙われれば終わりだ。そのうち何人かは、走り回るのをやめた。


「あ、あの」


 ひとりの男が、白線越しに叫んだ。


「降参とか、ないんですか! 俺、もうやりたくないんですけど!」


 誰も答えなかった。天井の声も、黒スーツも。


 亮は投げた。


「XW34、アウト」


 その男の膝が折れて、床に広がった。


 亮は、その顔を見ていた。


 見ると決めたからだ。


 自分が殺した人間の顔を、一人残らず覚えておく。それが、この球を投げると決めたことの代金だと思っていた。


 三十人を超えたあたりから、顔が思い出せなくなった。


          ◇


「金松」


 拓海の声で、亮は我に返った。


「肩、どうだ」


「……」


 亮は右肩を回した。


 鈍い。熱い。指先が痺れている。


 いま、亮は何球投げたのか。


(四十……いや、もう少しいってる)


 プロの登板なら、三イニングにも満たない球数だ。数字だけ見れば、どうということはない。


 だが、その全部が全力だった。一球も外せない球だった。外せば誰かが死ぬから、亮は一度も加減をしていない。


 肩を作る時間も、イニングの合間の三分間も、ここにはなかった。


「まだ投げられます」


「嘘をつくな」


「……五十球までは大丈夫です」


 拓海は舌打ちした。


「そのあとは」


「まず肩が張ります。その次に、肘に来ます。そうなると、球が浮きます」


「浮いたらどうなる」


「捕られます」


 亮は言った。


「あの人に」


 白線の向こうで、篠塚は一度も動いていなかった。


 味方が次々に溶けていく中で、ただ立って、亮を見ている。


          ◇


 XW側は、十二人になっていた。


 その頃には、もう誰も声を上げていなかった。


 拓海が小声で言った。


「残り十一人。あと十一球で、あいつ一人になる」


「一人になったら」


「詰みだ」


 拓海の声には、確信があった。


「壁の跳ね返りを一人で拾いに行って、その間にこっちが陣形を整えて、また投げる。あいつはボールに一度も触れないまま、逃げ続けるしかない。……そうなったら、あいつの中の奴も分かるはずだ。この体では勝てないってことが」


「離れる、と」


「離れさせる」


 拓海は白線の向こうを見た。


「そのために四十四人が動いてる」


 亮は頷いて、右足を上げた。


 残り十一。


 三球目を投げたときだった。


          ◇


 篠塚が、動いた。


 この試合で初めて、彼は自分から前へ出た。


 そして、すぐ隣にいた味方の肩に、右手を置いた。


「──え?」


 置かれた男は、きょとんとした顔をした。


 次の瞬間、その男の体が、糸の切れた人形のように崩れ落ちた。


「な、」


 同時に、篠塚も膝をついた。


 外れた左腕が床に叩きつけられ、ぐしゃりと嫌な音を立てる。彼は、そのまま前のめりに倒れた。


「篠塚!?」


 拓海が叫んだ。


 亮は、動けなかった。


 倒れた篠塚ではなく、その隣を見ていたからだ。


 さっきまで人形のように崩れ落ちていた男が。


 ゆっくりと、立ち上がっていた。


 その男の肘が。


 耳の横まで、上がった。

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