↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/75

第八話 篠塚

 白線を挟んで、亮と篠塚が向かい合っていた。


 目が、合っている。


 さっきまでガラス玉のようだったその目に、光があった。瞳孔が動き、亮の顔を捉え、そして──亮の右手を見た。


 篠塚の口が、開いた。


「……その球」


 声だった。


 この試合が始まって以来、その男が発した最初の言葉だった。


「篠塚!」


 拓海が白線に駆け寄った。


「篠塚、聞こえるか! 俺だ、甲本だ!」


 篠塚の首が、ぎこちなく動いた。


 拓海の方へ。


「……甲本、さん」


 拓海の顔が、くしゃりと歪んだ。


「そうだ! そうだよ、俺だ! おい、お前、何やってんだよこんなとこで!」


「……俺、」


 篠塚が、自分の右手を見た。


 肘から先が、細かく震えている。


「……俺の、腕じゃない」


          ◇


 次の瞬間、篠塚の体が跳ねた。


 電流を流されたような、不自然な跳ね方だった。両膝が同時に折れかけ、上体が前のめりになり、それを右足だけが不自然な角度で支える。


「あ、ぐ、」


 喉から、声にならない音が漏れた。


「篠塚!」


「──来るな、甲本さん」


 篠塚は、床に手をついたまま言った。


 速い。喋り方が急に速くなっていた。時間がないと分かっている人間の喋り方だった。


「こいつ、俺の中にいる。ずっといた。……小学校の頃から」


「知ってる! 知ってるから、こっちに来い!」


「無理だ」


 篠塚は笑おうとした。失敗していた。


「甲本さん。……俺、あんたの球、捕るの好きでした」


「篠塚っ!」


「そっちのプロ野球の人」


 焦点が、亮に向いた。


「さっきの球、めちゃくちゃ良かったです」


 そして。


 彼の背筋が、ぐん、と伸びた。


 誰かが後ろから糸で引っ張ったような、人間の起き上がり方ではない起き上がり方だった。


 目から、光が消えた。


          ◇


「──ふざけんな!!」


 拓海が白線に踏み込みかけて、亮がその肩を掴んだ。


「甲本さん、線!」


「っ、」


 拓海の爪先が、白線の手前で止まった。


 あと五センチだった。


 天井の四隅で、何かが動いた音がした。銃口の向きが変わる音だ。


 拓海は自分の足元を見て、それから、大きく息を吐いた。


「……悪い」


「いえ」


「悪い。ありがとう」


 拓海は袖で顔を拭った。それが汗なのか何なのか、亮は見なかったことにした。


          ◇


 篠塚が、ボールを拾った。


 そして、亮たちの想像を超えた速さで、投げ始めた。


 一投目。拓海の号令。四十九人が半歩ずれる。ボールは通路を狙って抜けたが、通路の位置が変わっていたため、壁に当たって跳ね返った。


 二投目。それをXW側が拾って篠塚に返す。間髪入れずに投げる。


 三投目。


 四投目。


「速い! 投げるのが速い!」


「拾って、投げて、拾って投げてる! 休まねえのかよあいつ!」


 拓海の号令が、間に合わなくなってきた。


「右っ! 左! 右ィ!」


 声が枯れ始めている。人間の判断速度と発声速度には限界がある。


 そして、五投目。


「──左っ!」


 拓海の号令の直後、篠塚の腕が振られた。


 号令を聞いてから、投げた。


 全員が左へ半歩ずれた、その先に。


「XV38、アウト」


「XV12、アウト」


 二人が同時に膝を折った。


          ◇


 六投目で、また二人。


 七投目は誰にも当たらず、八投目でまた一人。


 四十九人が、四十四人になった。


 誰も歓声を上げなくなった。誰も悲鳴も上げなかった。ただ、名前も知らない男が床に広がるたびに、列の隙間が少しずつ増えていく。


「甲本さん!」


 亮は叫んだ。


「号令が読まれてます!」


「分かってる!」


 拓海の顔は真っ青だった。


「俺の声が合図になってる。俺が言った方向と逆に投げてくる。……俺が指揮を執れば執るほど、みんなが死ぬ」


「じゃあ黙るんですか」


「黙ったら、隙間が固定される。もっと死ぬ」


 拓海は自分の腿を殴った。


「どっちも死ぬんだよ、くそったれ!」


          ◇


 九投目のボールが、跳ね返って中央へ転がってきた。


 亮が拾った。


 この試合で二度目の、こちらの攻撃権。


 亮は白線の向こうを見た。


 篠塚が、両手を軽く広げて立っている。捕る構えだ。逃げる気はまったくない。


(あいつは、俺の球を捕るつもりだ)


 拓海の言葉が蘇る。


 ──あいつのキャッチは日本一だ。俺が投げた球を、笑いながら捕るような奴だった。


「金松、投げるな」


 拓海が言った。


「捕られる。あれは捕る構えだ」


「……はい」


 だが亮は、投げた。


 あの球を。床から五センチを滑る、後ろ回転の球を。


「ズッ」


 速い。さっきキツネ顔を仕留めたときより、明らかに速い。


 篠塚は動かなかった。


 膝を落とし、左手を床すれすれまで下ろし、掌を上に向けて。


「バシィッ」


 ──掬い上げた。


 ボールは篠塚の左手に収まっていた。


 亮は、息が止まった。


(捕った)


 あの球を。床を這う球を、掬うようにして、片手で。


「……なるほどな」


 拓海が呻いた。


「あれが、篠塚のキャッチだ」


          ◇


 だが。


 亮は、見ていた。


 ボールを掴んだ瞬間、篠塚の左肩が、ありえない方向に沈み込んだのを。


「ゴッ」


 という、鈍い音がした。


 骨が鳴る音だった。


 篠塚は、平然と立ち上がった。表情ひとつ変えない。ボールを右手に持ち替えて、次の投球動作に入る。


 その左腕が。


 だらりと、垂れ下がっていた。


「──甲本さん」


「見えた」


 拓海の声が、震えていた。


「肩、外れてる」


 篠塚はそのまま投げた。ボールは通路を抜けて壁に当たり、また拾われ、また投げられた。


 外れた左腕が、投球のたびに人形のように揺れる。


 彼は一度も、それを気にしなかった。


          ◇


「痛みを感じてないんだ」


 拓海が言った。


「安全装置を外すってのは、そういうことか。……痛みも、限界も、全部無視して動かせる」


「でも」


 亮は言った。


「体は、無視できません」


 拓海が亮を見た。


「左肩はもう外れてます。あの捕り方を続けたら、次に飛ぶのは投げてる方の右肘です。……そうなったら、あの人は──」


 亮は、自分でも思っていなかった言葉を口にした。


「壊れます。試合が終わる前に」


 沈黙が落ちた。


 白線の向こうで、篠塚がまたボールを受け取っている。左腕をぶら下げたまま。


 拓海は、しばらく黙っていた。


 それから、亮の方を見ずに言った。


「金松」


「はい」


「勝ち方を変える」


「……え?」


 拓海は、自分の大きな手を握ったり開いたりしていた。


「あいつを当てて殺せば、この試合は終わる。俺が投げるより、あんたが投げた方が確実だ。……それが一番早い」


「そうです」


「やらねえ」


 拓海は言った。


「篠塚を助けるぞ、金松」


 亮は、拓海の横顔を見た。


 この男は本気だった。四十四人の命を背負って、一投ごとに誰かが死んでいくこの部屋で、本気で、白線の向こうの男を助けると言っていた。


「……どうやって」


「知らん」


 拓海は、初めてまともに笑った。


「今から考える」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。