第八話 篠塚
白線を挟んで、亮と篠塚が向かい合っていた。
目が、合っている。
さっきまでガラス玉のようだったその目に、光があった。瞳孔が動き、亮の顔を捉え、そして──亮の右手を見た。
篠塚の口が、開いた。
「……その球」
声だった。
この試合が始まって以来、その男が発した最初の言葉だった。
「篠塚!」
拓海が白線に駆け寄った。
「篠塚、聞こえるか! 俺だ、甲本だ!」
篠塚の首が、ぎこちなく動いた。
拓海の方へ。
「……甲本、さん」
拓海の顔が、くしゃりと歪んだ。
「そうだ! そうだよ、俺だ! おい、お前、何やってんだよこんなとこで!」
「……俺、」
篠塚が、自分の右手を見た。
肘から先が、細かく震えている。
「……俺の、腕じゃない」
◇
次の瞬間、篠塚の体が跳ねた。
電流を流されたような、不自然な跳ね方だった。両膝が同時に折れかけ、上体が前のめりになり、それを右足だけが不自然な角度で支える。
「あ、ぐ、」
喉から、声にならない音が漏れた。
「篠塚!」
「──来るな、甲本さん」
篠塚は、床に手をついたまま言った。
速い。喋り方が急に速くなっていた。時間がないと分かっている人間の喋り方だった。
「こいつ、俺の中にいる。ずっといた。……小学校の頃から」
「知ってる! 知ってるから、こっちに来い!」
「無理だ」
篠塚は笑おうとした。失敗していた。
「甲本さん。……俺、あんたの球、捕るの好きでした」
「篠塚っ!」
「そっちのプロ野球の人」
焦点が、亮に向いた。
「さっきの球、めちゃくちゃ良かったです」
そして。
彼の背筋が、ぐん、と伸びた。
誰かが後ろから糸で引っ張ったような、人間の起き上がり方ではない起き上がり方だった。
目から、光が消えた。
◇
「──ふざけんな!!」
拓海が白線に踏み込みかけて、亮がその肩を掴んだ。
「甲本さん、線!」
「っ、」
拓海の爪先が、白線の手前で止まった。
あと五センチだった。
天井の四隅で、何かが動いた音がした。銃口の向きが変わる音だ。
拓海は自分の足元を見て、それから、大きく息を吐いた。
「……悪い」
「いえ」
「悪い。ありがとう」
拓海は袖で顔を拭った。それが汗なのか何なのか、亮は見なかったことにした。
◇
篠塚が、ボールを拾った。
そして、亮たちの想像を超えた速さで、投げ始めた。
一投目。拓海の号令。四十九人が半歩ずれる。ボールは通路を狙って抜けたが、通路の位置が変わっていたため、壁に当たって跳ね返った。
二投目。それをXW側が拾って篠塚に返す。間髪入れずに投げる。
三投目。
四投目。
「速い! 投げるのが速い!」
「拾って、投げて、拾って投げてる! 休まねえのかよあいつ!」
拓海の号令が、間に合わなくなってきた。
「右っ! 左! 右ィ!」
声が枯れ始めている。人間の判断速度と発声速度には限界がある。
そして、五投目。
「──左っ!」
拓海の号令の直後、篠塚の腕が振られた。
号令を聞いてから、投げた。
全員が左へ半歩ずれた、その先に。
「XV38、アウト」
「XV12、アウト」
二人が同時に膝を折った。
◇
六投目で、また二人。
七投目は誰にも当たらず、八投目でまた一人。
四十九人が、四十四人になった。
誰も歓声を上げなくなった。誰も悲鳴も上げなかった。ただ、名前も知らない男が床に広がるたびに、列の隙間が少しずつ増えていく。
「甲本さん!」
亮は叫んだ。
「号令が読まれてます!」
「分かってる!」
拓海の顔は真っ青だった。
「俺の声が合図になってる。俺が言った方向と逆に投げてくる。……俺が指揮を執れば執るほど、みんなが死ぬ」
「じゃあ黙るんですか」
「黙ったら、隙間が固定される。もっと死ぬ」
拓海は自分の腿を殴った。
「どっちも死ぬんだよ、くそったれ!」
◇
九投目のボールが、跳ね返って中央へ転がってきた。
亮が拾った。
この試合で二度目の、こちらの攻撃権。
亮は白線の向こうを見た。
篠塚が、両手を軽く広げて立っている。捕る構えだ。逃げる気はまったくない。
(あいつは、俺の球を捕るつもりだ)
拓海の言葉が蘇る。
──あいつのキャッチは日本一だ。俺が投げた球を、笑いながら捕るような奴だった。
「金松、投げるな」
拓海が言った。
「捕られる。あれは捕る構えだ」
「……はい」
だが亮は、投げた。
あの球を。床から五センチを滑る、後ろ回転の球を。
「ズッ」
速い。さっきキツネ顔を仕留めたときより、明らかに速い。
篠塚は動かなかった。
膝を落とし、左手を床すれすれまで下ろし、掌を上に向けて。
「バシィッ」
──掬い上げた。
ボールは篠塚の左手に収まっていた。
亮は、息が止まった。
(捕った)
あの球を。床を這う球を、掬うようにして、片手で。
「……なるほどな」
拓海が呻いた。
「あれが、篠塚のキャッチだ」
◇
だが。
亮は、見ていた。
ボールを掴んだ瞬間、篠塚の左肩が、ありえない方向に沈み込んだのを。
「ゴッ」
という、鈍い音がした。
骨が鳴る音だった。
篠塚は、平然と立ち上がった。表情ひとつ変えない。ボールを右手に持ち替えて、次の投球動作に入る。
その左腕が。
だらりと、垂れ下がっていた。
「──甲本さん」
「見えた」
拓海の声が、震えていた。
「肩、外れてる」
篠塚はそのまま投げた。ボールは通路を抜けて壁に当たり、また拾われ、また投げられた。
外れた左腕が、投球のたびに人形のように揺れる。
彼は一度も、それを気にしなかった。
◇
「痛みを感じてないんだ」
拓海が言った。
「安全装置を外すってのは、そういうことか。……痛みも、限界も、全部無視して動かせる」
「でも」
亮は言った。
「体は、無視できません」
拓海が亮を見た。
「左肩はもう外れてます。あの捕り方を続けたら、次に飛ぶのは投げてる方の右肘です。……そうなったら、あの人は──」
亮は、自分でも思っていなかった言葉を口にした。
「壊れます。試合が終わる前に」
沈黙が落ちた。
白線の向こうで、篠塚がまたボールを受け取っている。左腕をぶら下げたまま。
拓海は、しばらく黙っていた。
それから、亮の方を見ずに言った。
「金松」
「はい」
「勝ち方を変える」
「……え?」
拓海は、自分の大きな手を握ったり開いたりしていた。
「あいつを当てて殺せば、この試合は終わる。俺が投げるより、あんたが投げた方が確実だ。……それが一番早い」
「そうです」
「やらねえ」
拓海は言った。
「篠塚を助けるぞ、金松」
亮は、拓海の横顔を見た。
この男は本気だった。四十四人の命を背負って、一投ごとに誰かが死んでいくこの部屋で、本気で、白線の向こうの男を助けると言っていた。
「……どうやって」
「知らん」
拓海は、初めてまともに笑った。
「今から考える」




