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第七話 地を這う球

 亮の指から、ボールが離れた。


 音は、遅れて聞こえた。


「ヒュッ──」


 白線の向こうで、キツネ顔の男が、笑ったままの表情で固まった。


 反応していない。できていない。挑発するために体を丸めた、あの前傾姿勢のまま、彼の目だけが動いた。


 亮のボールは、彼の足元へ吸い込まれていく。


 拓海の指示どおり、足元を狙った。上を狙えば捕られる。下を狙えば捕りにくい。それが野球の投手としての亮にも分かる理屈だった。


「──ッ!」


 キツネ顔が、後ろへ跳んだ。


 考えて跳んだのではない。体が勝手に逃げただけの、無様な跳び方だった。


 ボールは、彼の爪先の三十センチ手前で床に触れた。


 バウンドした。


 跳ね上がったボールは、彼の膝のあたりを掠めて、そのまま後方へ抜けていった。


「──今の、無効!」


 拓海が叫んだ。


「バウンドした球は無効だ! 当たってもアウトにならない!」


 亮は、呆然と自分の右手を見た。


          ◇


「ぎゃ、ぎゃはははは!!」


 キツネ顔が、腰を抜かしかけたまま笑い出した。


「あっぶねぇ! 今の速かったぞ! プロ野球選手さんよぉ!」


 膝が笑っているのが、亮の位置からでも見えた。強がっているのは明らかだった。


 だが、それでも彼は生きている。


 ボールは、XW側の後方へ転がっていく。


「金松、悪い」


 拓海が言った。


「言い忘れてた。俺のミスだ」


「……いえ」


「このゲームの基本は、足元だ。ただし、バウンドさせたら意味がない。バックステップ一回で終わりだ」


 亮は、指先の感触を思い返していた。


 速さは出た。この部屋にいる誰よりも速い球を、自分は投げられる。それは分かった。


 だが、速いだけでは当たらない。


(じゃあ、どうすればいい)


 考える時間は、与えられなかった。


          ◇


 XW側の男が拾ったボールが、篠塚の手に渡っていた。


「──構えろ!」


 拓海が叫んだ。


 篠塚は、いつもの位置には立たなかった。


 白線ぎりぎりまで前に出て、そこで初めて、亮の方を見た。


 焦点の合わない目が、亮を通り過ぎるように向いている。


(俺を、狙ってる)


 当然だった。相手にとって、亮はこのチームで最も危険な人間だ。投げれば誰よりも速い球が来る。それが分かった以上、真っ先に潰すべき相手になる。


「金松! 下がれ!」


「──いや」


 亮は動かなかった。


 下がれば、後ろの誰かが亮の代わりに立つことになる。捕れない人間が、あの球の前に。


 篠塚の肘が、耳の横まで上がった。


「右ィッ!!」


 拓海の号令。


 四十九人が半歩ずれる。


 だが。


 篠塚の腕が、止まった。


 号令のあと、四十九人が動き終えてから、ゆっくりと。


「──しまっ」


 拓海の顔が歪んだ。


 ボールが放たれた。


 全員が半歩ずれた「あと」の位置を、正確に狙って。


          ◇


 時間が、伸びた。


 亮の目に、ボールがはっきりと見えていた。赤いゴムの表面。回転の筋。床から十センチほどの高さを、水平に滑ってくる。


 バウンドしていない。


(──這ってる)


 自分が投げた球はバウンドした。この球はしていない。同じ低さなのに。


 亮は膝を落とし、両腕を体の前で組んだ。捕るしかない。避ければ、後ろにいるのは避けることしかできない男たちだ。


 衝撃が来た。


「──ぐっ!!」


 腹と腕の間に、ボールがめり込んだ。


 息が全部押し出された。膝が床につく。腕が痺れて、指の感覚がない。


 だが。


 ボールは、亮の腕の中にあった。


「金松!」


「取ったァ!! 金松が取ったぞ!!」


 XVの列が沸く。


 亮は、咳き込みながら顔を上げた。


 白線の向こうで、篠塚が──


 ほんの少しだけ、首を傾げていた。


          ◇


「甲本さん」


 亮は、ボールを抱えたまま言った。


 声がかすれている。まだ息が戻っていない。


「今の球、バウンドしませんでした」


「ああ」


「同じ低さです。俺のはバウンドした。あいつのはしなかった」


 拓海の目が、鋭くなった。


「気付いたか」


「教えてください」


「──回転だ」


 拓海は、自分の手首を返す仕草をした。


「順回転をかけると、ボールは床に触れた瞬間に前へ食い込んで跳ねる。逆だ。後ろ回転をかけろ。床に触れても跳ねずに、滑る。前に食い込む力が、上じゃなくて前に向く」


「リリースは」


「低く。腰より下だ。上から叩くな、下から通せ」


 亮は、ボールを握り直した。


 バックスピン。低いリリースポイント。


 ──知っている。


 十四年、そればかりやってきた。


 スライダーは横回転。カーブは斜めの回転。フォークは無回転。指のどこにどれだけ引っ掛けるか、リリースの瞬間に手首をどう固定するか。回転数がひとつ違えば球は別物になる。それを毎日、暗くなるまで確かめてきた。


 ボールの大きさが違う。重さも違う。縫い目もない。


 だが、原理は同じだ。


「甲本さん」


 亮は立ち上がった。


「投げます」


          ◇


 キツネ顔の男は、まだ笑っていた。


 さっき亮の球を避けたことで、すっかり調子を取り戻したらしい。両手を広げて、大げさに挑発してみせる。


「来いよ来いよぉ! さっきみたいなの、何回でも避けてやるからよぉ!」


 亮は、その男を見た。


 顔を、はっきりと見た。


 目を逸らさなかった。


(俺は、この人を殺す)


 その事実から逃げないと決めたのだ。


 右足が上がる。


 腕がしなる。


 腰が回り、体重が前に移動し、リリースの瞬間、亮は手首を固定したまま指先でボールの下側を強く弾いた。


 ──後ろ回転。


 ──リリースは、腰より下。


「ズッ」


 ボールは、床すれすれを滑った。


 床から、五センチ。


 バウンドしない。跳ねない。ただ、床の上を舐めるようにして、まっすぐ加速していく。


「──は?」


 キツネ顔の笑いが、消えた。


 跳ぶには低すぎた。避けるには速すぎた。捕るには、彼の技術が足りなかった。


 鈍い音がした。


 ボールは、彼の左の踝を打った。


「XW50、アウト」


 天井の声が言った。


          ◇


 男は、自分の足を見た。


 それから、顔を上げて、亮を見た。


 その顔は、もう笑っていなかった。ただの、二十代半ばの、どこにでもいる若い男の顔だった。


「……あ、」


 彼の足首が、輪郭を失い始める。


 膝へ。腿へ。


「あ、あ、待って、待っ──」


 声は、そこで終わった。


 床に、湯気ひとつ立てないものが広がった。


          ◇


 亮は膝をついた。


 四つん這いになって、床に手をついた。


 胃の中のものが、喉までせり上がってくる。今日は昼から何も食べていない。だから何も出ないはずなのに、体が勝手に痙攣していた。


「亮!」


 雅人が駆け寄って、背中に手を置いた。


「大丈夫か、おい」


「……」


 声が出ない。


 さっきまで笑っていた人間が、いま床に広がっている。それをやったのは自分の右手だ。


 拓海は、何も言わなかった。


 慰めもせず、褒めもせず、ただ亮の横にしゃがんで、跳ね返ってきたボールを拾い上げた。


「金松」


「……はい」


「今の球に、名前はあるか」


 亮は顔を上げた。


「え?」


「俺たちの競技では、ああいうのを撃ち抜く球って呼ぶ奴もいる」


 拓海はボールを見つめていた。


「だが、実物を見たのは初めてだ。世界大会でも見たことがない。……あんた、今日初めてこの競技をやったんだよな」


 亮は、答えられなかった。


 その代わり、頭の中の声が答えた。


(──今のは、僕じゃないよ)


 グードの声だった。


(僕は何もしてない。扉も開けてない。今のは全部、きみの手だ)


 亮は、自分の右手を見た。


 まだ震えていた。


          ◇


 白線の向こうで、動きがあった。


 篠塚が、一歩前に出ていた。


 亮は顔を上げて、そして気付いた。


 あの男の目の焦点が。


 初めて、合っていた。


 まっすぐに、亮を見ていた。

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