第六話 僕が投げようか
「全員、聞け!」
拓海の声が、部屋を裂いた。
仲間が一人溶けた直後だというのに、その声には迷いがなかった。むしろ、さっきまでより明らかに強い。
「陣形は変えない! 立ち位置もそのままだ!」
「なんでだよ!」
後列の誰かが叫んだ。
「隙間、狙われてんだろうが! このままじゃ全員死ぬぞ!」
「だから変えない」
拓海は振り向きもしなかった。
「隙間を埋めたら、避けたボールが味方に当たる。それは絶対にやらせない。……代わりに、隙間を動かす」
◇
「相手は、こっちの隙間を見てから投げてる」
拓海の指示は速かった。
「なら、投げたあとに隙間の位置を変えればいい」
「そんなことできんのかよ」
「できる。半歩でいい」
拓海は、自分の足元を指した。
「俺が号令をかける。『右』と言ったら全員が右へ半歩。『左』なら左へ半歩。それだけだ。走らなくていい。跳ばなくていい。半歩だ」
「タイミングは!?」
「俺が見る」
拓海はようやく振り返った。
「あいつがボールを離す瞬間、俺が声を出す。お前らは考えるな。俺の声だけ聞いてろ」
亮は、思わず息を呑んだ。
人間の投球からボールが着弾するまで、一秒もない。その間に判断して、号令を出して、四十九人を半歩動かす。
それは、球を捕るより難しい仕事だ。
「甲本さん」
亮は言った。
「それ、外したらどうなるんですか」
拓海は少しだけ笑った。この試合で初めて見せた笑いだった。
「俺のせいで誰か死ぬ」
「……」
「だから外さない」
◇
白線の向こうで、篠塚が構えた。
肘が、耳の横まで上がる。
あの角度。人間の肩が本来届かない位置。何度見ても、亮の背筋が粟立つ。
(来る──)
「右ィッ!!」
拓海の号令が飛んだ。
四十九人が、ほとんど同時に右へ半歩ずれた。ぐしゃりと足音が重なる。
ボールは、亮の左二メートルを通過した。
さっきまでそこに隙間があった場所。今は、大柄な柔道選手の背中がある。
ボールはその背中に──当たらなかった。
柔道選手が半歩ずれたぶん、隙間はさらに左へ移動していた。ボールはその新しい通路に吸い込まれ、誰にも触れずに後方の壁へ。
「うおおおっ!」
「動いた! 隙間が動いた!」
XVの列が沸いた。
だが亮は、拓海の顔を見ていた。
拓海は、まったく喜んでいなかった。彼の目は、ボールが跳ね返ってくる軌道を追っている。
「──前列! 拾うな! 俺が行く!」
◇
壁に跳ね返ったボールは、床を高く弾んで、コート中央へ戻ってきていた。
白線を挟んで、両チームの前列が同時に動いた。
ボールが落ちる場所は、白線から一メートルほど、XV側。
拓海が走った。
同時に、白線の向こうからも影が走った。篠塚だ。線を越えることはできない。だが、腕は届く。
二人の手が、同じボールに伸びた。
亮は、そのとき初めて理解した。
(これが、ドッジボールか)
野球で言えば、フライを追う外野手と、フェンス際の観客が同じ球に手を伸ばしているようなものだ。ただしここでは、取り損ねた方が死ぬ。
拓海の手が、先に届いた。
あの、体に釣り合わないほど大きな手が、ボールを上から押さえ込むように包んだ。
「──もらった」
篠塚の指先が、空を切った。
拓海はボールを抱えたまま、二歩下がった。
◇
XVチームが、爆発した。
「うおおおおおおっ!!」
「取った! 取ったぞ!!」
「甲本さん! あんた最高だ!」
拓海は答えなかった。荒い息をひとつ吐いて、それから振り返った。
まっすぐに、亮を見た。
「金松」
「──はい」
「投げられるか」
拓海がボールを差し出した。
亮は、それを受け取った。
◇
軽い。
それが、最初の感想だった。
野球のボールは百四十五グラム。硬くて、小さくて、指の縫い目に引っかかる。十四年、亮の指が覚えてきたのはあの重さだ。
このゴムボールは、大きくて、軽くて、つかみどころがない。表面はつるつるしていて、汗を吸わない。
だが、そんなことは問題ではなかった。
亮は顔を上げた。
白線の向こうに、五十人の男が立っている。
まだ、一人も欠けていない。
全員、生きている。
一番手前にいるのは、あのキツネ顔の男だった。細い体を丸めて、へらへらと笑いながら、こちらを見ている。
「おらぁ、投げてこいよぉ!」
挑発だった。
亮の腕は、動かなかった。
(──投げたら、死ぬ)
当たれば死ぬ。
自分が投げた球で、あの男の膝から下が溶ける。腰まで溶ける。胸まで溶ける。さっきXV23がそうなったように。
亮は、十四年間ボールを投げてきた。
打者を三振に取った。ヒットを打たれた。デッドボールも投げた。高校のとき、自分の投げた球で相手の左手を骨折させたことがある。あのときは試合後に相手のベンチまで走って謝りに行った。監督に叱られながら、それでも頭を下げた。
人に当たるボールを、亮はずっと恐れてきた。
その恐怖が、今は逆になっている。当てなければならない。当てなければ、こちらが死ぬ。
「金松!」
拓海の声がした。
「早く投げろ! 持ってる時間は限られてる!」
分かっている。
分かっているのに、腕が上がらない。
◇
(──投げられないの?)
頭の中で、声がした。
あの少年の声。開会式のときからずっと黙っていた、グードの声だった。
(当たり前だろ)
亮は心の中で答えた。
(人殺しになれって言うのか)
(うん)
あっさりした答えだった。
(そうしないと、きみが死ぬ)
(……)
(それにね、亮くん)
声は、静かだった。
(きみが投げなくても、あの人たちは死ぬよ。ここにいる二百人のうち、生きて帰るのは、ほんの少しだから)
亮の指が、ボールに食い込んだ。
(僕が投げようか)
息が、止まった。
(え)
(きみの体を、少しだけ借りる。三秒でいい。そうしたら、僕が当てる。狙ったところに、必ず当たる)
亮の視界の端で、篠塚が構えを解かずに立っている。
肘が耳の横まで上がる、あの男。
(それって)
(うん。あそこの彼と、同じやり方)
グードの声には、何の含みもなかった。誘っているのでも、脅しているのでもない。ただ、選択肢を並べているだけの声だった。
(きみは何も感じなくていい。腕が勝手に動いて、球が飛んで、誰かが死ぬ。きみが決めたことにはならない)
──きみが決めたことにはならない。
その一言が、亮の中で妙に引っかかった。
引っかかって、そして、火がついた。
◇
(断る)
亮は言った。
(断る、って)
(俺が投げる)
グードは黙った。
亮は、ボールを握り直した。
軽い。滑る。縫い目もない。十四年やってきた投球とは、まるで違う。
それでも。
(甲子園のマウンドで、俺が投げた百三十二球目)
雅人が言っていた。
あの球さぁ、宇宙人が投げたのか。違うだろ、と。
あれが誰の球だったのかは、まだ分からない。開いた扉が誰のものだったのかも分からない。
だが、これだけは確かだ。
(この球を投げたら、俺は人を殺す)
それを、誰かのせいにするわけにはいかない。
亮は右足を上げた。
誰も、何も言わなかった。四十九人が、白線の手前で息を止めていた。
「──金松!」
拓海が叫んだ。
「足元を狙え! 絶対に上を狙うな!」
亮は頷いた。
腕がしなる。
体重が、前へ移動する。
何十万球。誰も見ていないグラウンドで、暗くなるまで繰り返した動作が、指先まで一本の線になった。




