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第五話 第一投

 白線の手前に、五十人が広がった。


 拓海の指示どおりだった。横に長く、薄く。前列に捕球担当の十二人、中列に亮を含む投げ手、後列に避けることだけを役目とする者たち。


 人と人の間には、大人が二人並んで通れるほどの隙間が空いている。


(スカスカだな……)


 亮は正直、不安だった。野球で言えば、極端な外野の守備シフトを敷いているような心細さがある。


 だが拓海は落ち着いていた。


「隣との距離を覚えろ。試合が始まったら、自分の立ち位置から一歩以上動くな。一歩で足りるように並んでる」


 その声には、練習を仕切り慣れた人間特有の通りの良さがあった。この男が十二年、体育館で何をしてきたのかが分かる声だった。


 反対側の扉が開いた。


          ◇


 XWチームが入ってくる。


 ざっざっ、と足音が揃っていた。それが白線の五メートル手前でぴたりと止まる。


 亮は顔を上げて、それから眉をひそめた。


 彼らは、笑っていた。


 全員ではない。だが、少なくない数の男が、口の端を持ち上げてこちらを見ている。この状況で。人が一人溶けるところを、同じように見てきたはずなのに。


(なんだ、こいつら)


 XWの列から、一人の男が前に出た。


 小柄で、細い。吊り上がった目に、尖った顎。ゼッケンにはXW50と書かれている。


(……キツネみたいな顔だな)


 男は両手を腰に当て、これ以上ないほど得意げに胸を反らした。


「XVチームぅ! よぉ~く聞けへぇ!!」


 最後で声が裏返った。


 だが、彼は気にしなかった。


「XWチームにはなぁ! 現役のプロドッジボールプレイヤーが、いるんだぞぉっ!!」


          ◇


 沈黙が落ちた。


 亮たちXVの側に流れたのは、恐怖ではなかった。もっと気まずい、なんとも言えない空気だった。


「…………へぇ~」


 誰かが、間の抜けた相槌を打った。


「マジかよ! やっべえよ!!」


 雅人だけが本気で悔しがっていたが、それも周囲の反応の薄さに気付いて、すぐ「……あれ?」という顔になった。


 キツネ顔の男は、明らかに動揺していた。想定していた反応と違ったのだろう。


「な、なんだよその反応は! プロだぞ!? お前ら、ドッジボールにプロがいるって知らねぇだろ!?」


「いや」


 列の中から、一人が前に出た。


 小柄で、細身で、手だけが異様に大きい男。


「知ってる」


 甲本拓海が言った。


「日本に、そんな奴は二十人もいない」


 キツネ顔の口が、半開きになった。


「……は?」


「甲本拓海だ。二〇〇五年の世界大会に出た」


 その瞬間。


 XWチームの後方で、誰かが小さく息を呑んだのが、亮の位置からでも分かった。


          ◇


篠塚(しのづか)


 拓海が、白線の向こうへ呼びかけた。


「いるんだろ。出てこい」


 XWの人垣が、ゆっくりと割れた。


 現れたのは、上背のある男だった。百八十半ば。無駄のない、しなやかな体つき。ゼッケンにはXW3。


 拓海の表情が、ほんのわずかに緩んだ。


「篠塚。……お前もかよ」


 男は答えなかった。


「おい、篠塚。俺だ」


 答えない。


 亮は、その男の顔をじっと見ていた。


 目が、拓海を見ていない。


 いや、正確には、拓海の方を向いてはいる。だが焦点が合っていなかった。まるでガラス越しに景色を見ているような、あるいは、拓海という人間がそこにいることを知りながら、それに何の意味も感じていないような目だった。


「……何やってんだよ、お前」


 拓海の声が、少し掠れた。


「実業団の後輩だ」


 拓海は、亮にだけ聞こえる声で言った。


「代表でも一緒だった。あいつのキャッチは日本一だ。俺が投げた球を、笑いながら捕るような奴だった」


「今は?」


「……分からん」


          ◇


「試合を開始する」


 黒スーツの声が、部屋に落ちた。


 天井のどこかから、金属音がした。


 チャリーン。


 コインが落ちたような、間の抜けた音だった。この状況にはまるで似合わない、駄菓子屋のレジみたいな音。


「コイントスの結果──先攻、XWチーム」


 天井から、ボールが落ちてきた。


 赤いゴムボール。バレーボールほどの大きさの、どこにでもある、あの安っぽいやつ。


 それが白線の向こう側、篠塚の手に、吸い込まれるように収まった。


 誰も、走らなかった。彼はただ、落ちてくる場所に立っていただけだった。


「──全員、構えろ!」


 拓海が叫んだ。


「前列、手を出せ! 後列、足を止めるな! 一歩だ、一歩でいい!」


 亮は膝を落とした。


 心臓が、耳の奥で鳴っている。マウンドに上がるときとは全く違う種類の音だった。


 篠塚が、腕を上げた。


          ◇


 その瞬間、亮は違和感を覚えた。


 投球フォームというものを、亮は誰よりも見てきた。プロの投手も、高校生も、リトルリーグの子供も。人間が物を投げるときの体の動き方には、必ず型がある。


 篠塚の腕は、その型から外れていた。


 肘が、上がりすぎている。肩の上、耳の横。あの角度まで上げた腕は、普通は前に振れない。肩の関節がそういう作りになっていないからだ。


 なのに、振れた。


「ヒュッ」


 音がした。


 風を切る音ですらなかった。空気が押し潰されたような、短い音。


 ボールが、消えた。


 亮の視界から本当に一瞬消えて、次に見えたときには、五メートル後方の壁に当たって跳ね返っていた。


「……っ」


 誰も、声を出せなかった。


 ボールは、亮の右側を通り抜けていた。


 拓海の作った「通路」を。人と人の間の、あの隙間を。


 誰にも当たらなかった。


          ◇


「──当たってねえ!」


 誰かが叫んだ。


「作戦が効いてる! 当たってねえぞ!!」


 XVの列が、一斉に沸いた。


「うおおお、すげえ! 甲本さんすげえよ!」


「マジで人と人の間、抜けてったぞ今!」


 雅人が亮の肩を叩いた。


「亮! いけるぞこれ!」


 亮も頷きかけた。


 だが、拓海の顔を見て、その動きが止まった。


 拓海は、笑っていなかった。


 大きく跳ね返ったボールを敵陣の一人が拾い、篠塚の手に戻る。そのやり取りを、彼は瞬きもせずに見つめていた。


「甲本さん?」


「……喜ぶな」


 拓海が言った。


「え?」


「今の一球、あいつは俺の陣形を見てから投げた」


 亮の背中が冷えた。


「隙間に、通した」


          ◇


 二投目。


 篠塚の腕が、また不自然な角度まで上がる。


 今度は、亮にも見えた。


 ボールは同じ場所へ飛んだ。人と人の間の、同じ通路へ。


 そこには誰もいない。誰にも当たらない。


 ──はずだった。


 通路の出口、後列の位置に、一人の男が立っていた。


 その男は、一歩、右に動いた。


 なぜ動いたのか。たぶん、前の一球が自分のすぐ横を通り抜けたのが怖かったのだ。もう少し離れたところに立ちたかった。それだけの、ごく人間的な判断だった。


 拓海が叫んだ。


「動くなァ!!」


 遅かった。


 鈍い音がした。


 男の膝が、内側に折れた。


「あ、」


 彼は自分の脚を見て、それから拓海の方を見た。何か言おうとして、口を開けた。


「──XV23、アウト」


 天井の声が言った。


 男の体が、輪郭を失っていく。膝から腿へ、腰へ。彼は最後まで拓海を見ていた。


 助けを求める目ではなかった。


 すみません、という目だった。


          ◇


 誰も動けなかった。


 五十人が、四十九人になった。


 床に広がったものは、湯気ひとつ立てない。


 亮は、自分の指先が震えているのを、他人事のように眺めていた。


 白線の向こうで、キツネ顔の男が高い声で笑っていた。


「ぎゃはは! やっぱ動くよなぁ!? 人間ってのはよぉ、目の前を球が通ったら、動いちゃうんだよなぁ!」


 拓海は、その男を見ていなかった。


 篠塚を見ていた。


 跳ね返ってきたボールを受け取った篠塚は、表情ひとつ変えていない。喜んでもいない。悼んでもいない。ただ、次の投球のために足の位置を直しただけだった。


 拓海の唇が、わずかに動いた。


「……なあ、金松」


「はい」


「あいつは、篠塚じゃない」


 亮は、拓海の横顔を見た。


「篠塚は、あんな投げ方はしない」


 拓海の目は、白線の向こうに釘付けだった。


「あいつの肩は、あそこまで上がらない。……上がったら、壊れるんだ」

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