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第四話 甲本拓海

 階段は、思っていたよりずっと長かった。


 虹ヶ丘アリーナに地下があるなど、亮は聞いたことがなかった。だが今、五十人の男たちは、コンクリートの打ちっぱなしの階段を、無言で下り続けている。


 三十段ほど下りたあたりで、亮は空気が変わったことに気付いた。埃の匂いがしない。新しい建物の匂いだ。


(……この階段、最近作ったのか)


 最後の踊り場を曲がると、扉があった。


 両開きの、鉄の扉。


 亮は、その表面をじっと見た。


(取っ手が、ない)


 扉は内側からは開かないということだ。


 黒スーツが壁の何かに触れると、扉は音もなく開いた。


          ◇


 窓のない部屋だった。


 広さは学校の体育館ほど。ステージもバスケットゴールも、壁のペンキが剥げた跡さえもない。


 明るい。だが、眩しくはない。天井のどこに照明があるのか、亮には最後まで分からなかった。光が壁そのものから滲み出しているような、奇妙な明るさだった。


 空調がよく効いていて、肌寒いくらいだ。


 そして、床の中央に。


 左右を断ち切るように、一本の白い線が引かれていた。


「……マジかよ」


 誰かが呟いた。


 説明など要らなかった。この部屋が何のために作られたのか、五十人全員が一目で理解した。


 亮はその線を見つめながら、自分の呼吸が浅くなっていくのを感じていた。


(本当に、やるのか。ここで)


 反対側の壁の扉が開いた。


 入ってきたのは、別の五十人だった。


 彼らもまた体格の異常な男たちで、同じように黒スーツに連れられている。だが、亮たちと決定的に違うところがあった。


 何人かが、笑っていた。


          ◇


「XVチーム、およびXWチーム」


 黒スーツがマイクなしの地声で言った。この部屋は、地声でも隅々まで届く作りらしい。


「第一試合は、この二チームで行う」


 五十対五十。


 亮は白線の向こうを眺めた。人の壁だ。あの中の誰かに当てて、あの中の誰かが自分に当ててくる。


「配布しろ」


 黒スーツたちが、畳まれた布を配り始めた。


 ゼッケンだった。運動部が練習で使うような、薄手のメッシュのやつ。ただし胸と背中に、白い文字がプリントされている。


 亮の手に渡ったそれには、こう書かれていた。


 ──XV1。


「すぐに着替えろ。試合中、これを脱ぐことは認めない」


 亮はシャツの上からゼッケンを着けた。妙に体に馴染むサイズだった。誰かが亮の体格を正確に知っていたということだ。その事実の方が、番号よりも気味が悪かった。


「おい亮、見ろよ」


 雅人が自分の胸を張ってみせる。


 XV44。


「四十四だぜ。死ぬ死ぬ、って読めるよなぁ」


「言うなよ」


「いや、逆に縁起いいかもしれん。死ぬのが二回だから、一回死んでもまだ余裕あるってことだろ」


「余裕なさすぎだろ、それ」


 亮は笑った。笑ってから、自分が笑えたことに驚いた。


 雅人はそういう男だった。


「これより、三十分の作戦時間を与える」


 黒スーツが言った。


「各チーム、別室へ移動しろ」


          ◇


 作戦部屋は、殺風景だった。


 椅子も机もない。壁に時計がひとつ掛かっているだけの、正方形の部屋。五十人が入るには十分すぎる広さがある。


 誰からともなく、みんな床に座った。自然と、二重の円のような形になった。


 沈黙が落ちた。


 三十分。あと三十分で、この中の何人かが死ぬ。


 膝を抱えている男がいた。ずっと同じ場所を見つめたまま瞬きをしない男がいた。逆に、驚くほど落ち着いた顔で腕を組んでいる男もいた。


 そして。


「っしゃあ! まずは自己紹介からいこうぜ!」


 立ち上がったのは、雅人だった。


 五十人分の視線が突き刺さる。何人かは、明らかに苛立っていた。この状況で自己紹介か、と。


 雅人は気にしなかった。


「野上雅人、プロ野球の投手やってます! 知ってる人もいると思うけど!」


 そして、隣に座る亮を指した。


「こいつも投手で、金松亮。俺の中学からの相棒です。よろしく!」


「おい」


 亮は慌てた。勝手に紹介するな、と言いかけて、やめた。


 円の中の空気が、ほんのわずかに動いたのが分かったからだ。名前を名乗る人間がいるだけで、ここは少しだけ人間の集まりに戻る。


 亮は立ち上がった。


「……金松です」


 言葉を探した。


 言うべきことは、たぶんひとつしかなかった。


「勝たなきゃいけない。俺たちは、生き残るために勝たなきゃいけない」


 誰も返事をしなかった。


 だが、円のあちこちで、男たちが唾を飲み込む音がした。


          ◇


 名乗る者が続いた。


 柔道、体操、水泳、七人制ラグビー。名前を聞いても分からない競技もあった。三十人ほどが名乗ったところで、時計は残り二十分を切っていた。


「──作戦、か」


 円の端で、ぼそりと声がした。


 全員が振り向いた。


 そこにいたのは、亮より少し年上に見える男だった。細身で、背は高くない。ここにいる男たちの中では、むしろ小柄な部類に入る。


 だが、亮は気付いた。


 その男の手が、異様に大きい。指が長く、掌が分厚い。体の他の部分と釣り合っていないほどに。


 胸のゼッケンには、XV7と書かれていた。


甲本(こうもと)拓海。一応、職業は……」


 男は少し言い淀んで、それから言った。


「ドッジボール選手だ」


 部屋が静まり返った。


 誰かが、聞き返した。


「……は? ドッジボールって、プロあんの?」


「日本にプロリーグはない。実業団だ」


 拓海はあっさり答えた。


「給料は事務職の分しか出てない。それでも、俺は十二年間ドッジボールしかやってない。日本代表で世界大会にも出た」


 円が、ざわめいた。


 このおかしな部屋に集められてから初めて、亮は空気が上向きに動くのを感じた。


「ちょっと待って、それってつまり」


「この中で、この競技を知ってるのは俺だけってことだ」


 拓海は、そこで初めて全員を見回した。


「だから、頼みがある」


 彼はわずかに慌てたように、両手を上げてみせた。


「偉そうにするつもりはない。ただ──指揮を、俺に取らせてくれないか」


 一瞬の沈黙。


 そして、雅人が叫んだ。


「こりゃあツイてるぜぇ!!」


 部屋が沸いた。


          ◇


「聞いてくれ。時間がないから、一度しか言わない」


 拓海が声を潜めたので、五十人は自然と彼の周りに集まった。


「暑苦しいっての!」


 雅人が文句を言ったが、誰も相手にしなかった。


「まず、大前提を訂正する」


 拓海は言った。


「このゲームは、当てるゲームじゃない」


 全員が、きょとんとした顔をした。


「じゃあ何なんだよ」


「ボールを持ち続けるゲームだ」


 拓海は自分の大きな掌を開いて見せた。


「ボールはひとつしかない。俺たちがボールを持っている間、俺たちは絶対に死なない。逆に相手にボールが渡っている間、俺たちの誰かは必ず死ぬ可能性がある。……つまり、こっちの生存時間は、こっちがボールを触ってる時間そのものだ」


 亮の背中に、ぞくりとしたものが走った。


 理屈が、通っている。


「だから、投げるな」


「え?」


「投げれば、ボールは相手に渡る。当たらなければ、確実に渡る。当てても、相手が拾えば渡る」


 拓海は続けた。


「投げていいのは、当てられる自信がある奴だけだ。それ以外の人間は、絶対に投げるな。回せ。味方にパスして、時間を稼げ」


「時間稼いでどうすんだよ、それじゃ勝てねえだろ」


 誰かが言った。もっともな疑問だった。


「勝つのは、投げる奴の役目だ」


 拓海は亮を見た。


 それから、雅人を見た。


「野球の投手が二人もいる。それも、プロが。……正直、これは大当たりだ」


 亮の心臓が、跳ねた。


          ◇


「次。陣形だ」


 拓海は指を床に走らせた。


「絶対に固まるな。横に広がって、前後に間隔を空けろ。人と人の間に、ボールが抜けていける道を作る」


「なんでだよ、広がったら守りにくくねえか」


「逆だ。密集した状態で誰かが避けたら、そのボールはどこに行く」


 全員が黙った。


 後ろにいる、味方に。


「五十人が固まってれば、一投で二人、三人死ぬこともある。避けた奴のせいで、後ろの奴が死ぬ。……そうやってチームが崩れるのを、俺は世界大会で何度も見た。あれは、負けるより先にチームが壊れる」


 誰も、口を利かなかった。


「だから広がる。避けていい場所を、あらかじめ作っておく」


 拓海は指を三本立てた。


「役割を三つに分ける。ボールを捕れる奴は前。球技経験者と、手のでかい奴だ。捕れない奴は後ろで、避けることだけを考えろ。恥じゃない。避けるのも役目だ。そして投げる奴は──」


 拓海は、亮を見た。


「守られながら、当てにいく」


 亮は、自分の右手を見た。


 何十万球と投げてきた手だ。


 その手が、今から人を殺す道具になる。


「……ひとつ、いいか」


 亮は言った。


「なんだ」


「この作戦、成立させるには何が要る」


 拓海の顔から、初めて表情が消えた。


「全員が、言うことを聞くことだ」


 彼は静かに言った。


「五十人のうち、一人でも勝手に動けば、その後ろの列が丸ごと死ぬ」


 時計を見た。


 残り、二分。


「時間だ」


 扉が開いて、黒スーツが入ってきた。

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