第三話 才能
「諸君にはこれから──ドッジボールをしてもらう」
誰かが、笑った。
人が一人溶けた直後だというのに、その単語があまりにも間抜けだったせいだ。亮の斜め前にいた大柄な男が、堪えきれずに鼻から息を漏らして、それが小さな笑い声になった。
笑い声は、伝染しなかった。
男は自分の笑いが誰にも拾われなかったことに気付いて、すぐに黙った。静けさだけが残った。
「ドッジボールだ」
マイクの男が繰り返した。
「小学校の体育でやっただろう。あれと同じだ。ボールを投げ、当てる。当たった者は退場する」
抑揚がない。だからこそ、次の一言だけが異様に響いた。
「ただし、外野はない」
亮は、その意味をすぐには理解できなかった。
外野がない。当たった者が出ていく先がない。ということは、当たった者は、コートの中で──
「当たった者は、死ぬ」
男は、床に広がったままの染みを、初めてちらりと見た。
「そこにいる彼と同じように。全員参加だ。拒否権はない」
◇
今度は、誰も騒がなかった。
さっき叫んだ格闘家も、警察を呼べと言った男も、口を閉じたままだった。人は本当に理不尽なものを見ると、抗議の仕方すら分からなくなるのだと亮は知った。
亮の頭の中を巡っていたのは、もっと具体的なことだった。
(ドッジボール)
当てる。避ける。捕る。
自分は、投げる人間だ。
その事実に安堵しかけた自分に気付いて、亮は吐き気を覚えた。ここにいる二百人の誰かが死ななければ、自分は帰れないのではないか。その計算を、頭が勝手に始めていた。
「さて」
男がマイクを持ち替える。
「なぜ諸君が選ばれたのか。それを説明しよう」
二百人の視線が集まった。
「諸君は全員、現在の日本のスポーツ界において、頂点付近にいる人間だ。プロ野球、格闘技、陸上、水泳、体操──競技はばらばらだが、水準は揃っている」
そんなことは、この場にいる全員がとっくに気付いていた。
「これは、偶然ではない」
男は、少しだけ声の速度を落とした。
「諸君は本来、そこにいるはずのない人間だった」
亮の心臓が、嫌な打ち方をした。
「地球人の肉体は、その能力の半分も使われていない。脳が制限をかけているからだ。筋も骨も靭帯も、本気を出せば自分自身を壊してしまうからな。安全装置だ。悪い設計ではない」
男は淡々と続けた。
「キデ星人は、他の生物に寄生し、その安全装置を外すことができる」
アリーナが、静まり返った。
「諸君が幼い頃に会ったのは、そのために来た我々の同胞だ。あの日、諸君の中で扉が開いた。以後の諸君の肉体は、本来の設計値に近い出力で動いている」
「──待てよ」
誰かの声が震えていた。
「じゃあ、俺の記録は」
「そうだ」
男は即答した。
「諸君が手にした記録、契約、栄誉。そのすべては、我々が与えたものだ」
◇
亮は、自分が息をしていないことに気付いた。
目の前がやけに白かった。
(嘘だ)
中学一年の冬。誰よりも早くグラウンドに出て、暗くなるまで残った。手の皮が剥けて、血が滲んで、テーピングを巻いて、また投げた。
高校一年の夏。県予選の準決勝で打たれて、負けた。あの夜、宿舎のトイレで声を殺して泣いた。次の日から走る距離を倍にした。
甲子園のマウンド。三年の夏。雅人と投げ合った、あの九回。
あれが全部。
あれが全部、六歳のときに空き地で出会った少年が、指先を光らせた結果だとしたら。
(俺は、何をやってたんだ)
膝が落ちそうになった。
隣で雅人が何か言っていた。声は聞こえるのに、言葉として組み立たない。
「──そんなことはないぞ、金松亮」
名前を呼ばれて、亮は顔を上げた。
マイクの男が、こちらを見ていた。二百人の中から、まっすぐに。
「な……」
考えていただけだ。声には出していない。
「諸君の努力を否定してはいない」
男は言った。
その口調は、慰めているようにも聞こえた。実際、周囲の何人かは、わずかに救われたような顔をした。
「開いた能力を、使いこなすには時間がかかる。走り込み、投げ込み、反復。あれは有効だった。極めて有効だ。諸君の努力がなければ、この水準までは仕上がらなかった」
「……仕上がる」
亮の口から、掠れた声が出た。
「そうだ。仕上がった。実に順調だった」
男は、満足そうに頷いた。
「だから今日、回収に来た」
◇
その瞬間に、亮の中で何かが完全に折れた。
努力は無駄ではなかった、と言われたのだ。
だがそれは、慰めではなかった。刃物を丁寧に研いだ職人に向かって、よく研げていると褒めたのと同じだった。研いだ甲斐がある、これなら切れる、と。
十四年。
あの空き地の日から、自分がグラウンドに置いてきた十四年は、道具の調整期間だった。
「亮! おい、亮っ!」
肩を掴まれて、亮はようやく雅人の顔を認識した。
「しっかりしろって、顔色やばいぞ」
「……雅人」
「な、亮」
雅人は、笑おうとして、失敗していた。口の端だけが不格好に持ち上がっている。
「俺さぁ、あんまり頭よくないから、難しい話は分かんねえんだけど」
その手も、声も、震えていた。
「甲子園の決勝、覚えてるか」
「……ああ」
「九回裏、二死満塁。お前の百三十二球目」
覚えている。忘れるはずがない。
あの一球で、亮は雅人のチームを抑えた。試合が終わった瞬間、マウンドで膝をついて、そのあと雅人が真っ先に駆け寄ってきて、汗まみれの頭を抱えられた。
「あんとき俺、打席で思ったんだよ。ああ、こいつには勝てねえわ、って」
雅人は、亮の肩を掴んだままだった。
「あの球さぁ、宇宙人が投げたのか?」
亮は、答えられなかった。
「違うだろ」
雅人が言った。
「投げたのはお前だろ、金松」
◇
頭の中で、声がした。
(──ごめん)
初めて聞く声色だった。車の中でも、記憶を開いたときも、この少年はどこか楽しげだった。
(僕は、きみに嘘をついたことはないよ。……ただ、言わなかった)
(何をした)
亮は、心の中で問うた。
(お前は、俺に何をした)
返事はなかった。
「では、諸君を四つに分ける」
マイクの男の声が、思考を断ち切った。
「コードネームXT、XU、XV、XW。番号は既に割り振ってある。呼ばれた者から前へ」
黒スーツたちが動き出す。
亮は、自分の中の熱が、奇妙な形で戻ってくるのを感じていた。
怒りとも違う。悔しさとも少し違う。ただ、この状況の中で唯一はっきりしていることが、ひとつだけあった。
この二百人の誰かが死ぬ。そして自分は、投げる人間だ。
「なあ、雅人」
「ん?」
「俺、XV1らしい」
雅人の顔が、ぱっと明るくなった。
「マジか! 俺XVだぞ! XV44!」
自分の胸のあたりを叩いてみせる。番号など書かれていないのに。
「……四十四って不吉な」
「言うなよ。俺も今それ思ったとこだから」
雅人は肩をすくめて、それから、いつもの調子で亮の背中を叩いた。
「絶対、生き残ろうな」
「ああ」
亮は頷いた。
そのとき、頭の中で、少年の声が小さく言った。
(──雅人くんの中にいるのは、僕とは違う)
「え?」
声に出してしまった。
雅人が振り返る。
「なんだよ」
「……いや」
亮は首を振った。
黒スーツに促されて、五十人の列が動き始める。亮は雅人の背中を目で追いながら、頭の中の少年に問いかけた。
(どういう意味だ)
答えは、返ってこなかった。
「XVチーム、移動する」
黒スーツが、通路の奥を指した。
その先には、下りの階段があった。
「これより、地下へ降りてもらう」




