第二話 二百人
虹ヶ丘アリーナの通路は、思っていたよりも狭かった。
亮は一度だけここに来たことがある。中学のとき、市の連合体育大会の開会式で、このフロアに整列させられた。あのときは天井の高さに感動したものだ。
いま歩かされているのは、そのときとは違う通路だった。関係者以外立入禁止の札を、黒スーツは一瞥もせずに通り過ぎていく。
前を歩く男の背中を見ながら、亮は考えていた。
(逃げるなら、今か)
通路には亮のほかにも人がいた。同じように黒スーツに連れられた男たちが、ばらばらの間隔で、同じ方向へ歩いている。誰も喋らない。靴音だけが硬く反響していた。
全員、体格が異常だった。
肩幅が服の輪郭を壊している男。首が丸太のように太い男。逆に、亮より頭ひとつ小さいのに、歩き方の重心が異様に低い男。素人が見ても分かる。ここにいるのは全員、体を使って飯を食っている人間だ。
(……こんな数を、どうやって集めた)
突き当たりの扉が開いた。
光が溢れて、亮は思わず目を細めた。
◇
メインアリーナの床に、二百人近い男が立っていた。
客席には誰もいない。照明だけが煌々と点いていて、無人のスタンドが黒い断崖のようにそびえている。試合も何もないのに明かりだけが全開になった競技場というのは、これほど不吉なものかと亮は思った。
ざわめきがあった。
「──なんで俺がこんなとこに」
「携帯、繋がんねえぞ」
亮もポケットを探った。折り畳みの携帯を開く。圏外の表示すら出ていない。電源は入っているのに、画面の上のアンテナ表示だけが、最初から存在しなかったかのように消えていた。
「おい、あれ」
誰かの声に、亮は顔を上げた。
視線の先に、テレビで何度も見た顔があった。去年の大晦日、リング上で相手を沈めていた男。今はジャージ姿で、困惑した顔で自分の携帯を睨んでいる。
その隣には、去年のアジア大会に出ていたはずの短距離選手がいた。
その向こうにも、その向こうにも。
(プロ野球、格闘技、陸上、水泳……競技がばらばらだ)
共通点はひとつしかない。全員が、その競技の上位層にいる人間だ。
亮の背中を、じっとりとした汗が伝った。
これは偶然でも事故でもない。誰かが、日本中のトップアスリートだけを、選別して、ここに運んできた。
黒スーツはいつの間にか消えていた。振り返っても、さっきまで前を歩いていた男の姿はどこにもない。
(帰れるのか、俺たちは)
そのときだった。
「──りょう?」
後ろから声をかけられて、亮は跳ね上がりそうになった。
振り返る。
「……雅人?」
そこに立っていたのは、野上雅人だった。
◇
「やっぱりお前かよ!」
雅人は大きな声で笑って、亮の肩を叩いた。
周囲の何人かが、うるさそうにこちらを見る。この空気の中で笑い声を出した人間は、この二百人の中で雅人ひとりだった。
野上雅人。亮と同じ中学の野球部で、ショートを守っていた男。高校で別の県へ野球留学して、三年の夏、甲子園の決勝で亮と投げ合った。そのまま別々の球団に指名されて、今もプロで投げている。
腐れ縁というには少し重い。亮の人生で、いちばん長く隣にいた人間だ。
「なんでお前がここに」
「それはこっちのセリフだっての。俺は今日、練習終わりに黒いのが来てさ、なんか気付いたら車ん中よ。あれ何なんだろな、催眠術?」
「……たぶん、そういう感じの何かだ」
「マジで? ってことは俺、テレビ出れるかもな。ドッキリってやつ」
軽い。相変わらず、腹が立つほど軽い。
だが、亮は気付いてしまった。
雅人の右手が、太ももの横で、小刻みに震えている。
中学のときからそうだった。こいつは怖いときほどよく喋る。ランナー三塁でマウンドに集まったとき、いちばんくだらない冗談を言うのは、いつも雅人だった。
亮は何も言わないことにした。
「なあ亮、お前は何か聞いてるか」
「いや。ただ、あいつが車の中で妙なことを言ってた」
XV1、という言葉を口に出そうとして、亮は喉の奥で止めた。
あの声のことを──頭の中で喋る少年のことを──どう説明すればいいのか、まだ分からない。言った瞬間、雅人が自分を見る目が変わってしまう気がした。
「妙なことって?」
「……いや。あとでいい」
そのとき、天井のスピーカーが鳴った。
◇
『──集められた諸君、注目してほしい』
ざわめきが、一斉に消えた。
アリーナの端、選手入場口にあたる暗がりから、人影が現れる。
黒いスーツ。黒いサングラス。手にはハンドマイク。
その後ろから、同じ格好の男たちが続いた。十人、二十人。数えているうちに、彼らは二百人の周囲をぐるりと囲むように広がっていった。
誰も走っていないのに、包囲が完成するまで十秒とかからなかった。
「これより、説明会および開会式を行う」
落ち着いた声だった。市役所の職員が、住民説明会の冒頭で言いそうな抑揚だった。それがかえって、亮の首の後ろを冷たくした。
「ふざけんな!」
誰かが叫んだ。
人垣が割れる。前に出たのは、有名な格闘家だった。テレビで見るより、実物ははるかに大きい。
「こんなとこに閉じ込めて、何のつもりだ! 説明するならさっさとしろ! 俺は明日、記者会見があんだよ!」
もっともな話だった。亮も、心のどこかでその男を頼もしく思った。
誰かが言ってくれてよかった、と。
マイクの男は、慌てなかった。
「今から説明をする。命が惜しければ、静かにしていることだ」
「あぁ?」
男が一歩踏み出した。
その瞬間、包囲していた黒スーツのうちの一人が、懐から何かを抜いた。
銃だった。
二百人が息を呑む音が、ひとつの音になった。
「……っ、」
格闘家が止まる。拳を握ったまま、動けない。銃口は、彼の胸のあたりを正確に指していた。
「二度目はないぞ」
マイクの男が言った。
格闘家は、たっぷり五秒ほど黒スーツを睨んでから、舌打ちをして下がった。
「……チッ」
亮の隣で、雅人がひそひそと言った。
「おーこわ。あの人、テレビじゃもっと強そうだったのにな」
「雅人」
「わーってるよ。黙る」
(頼むから黙っててくれ)
マイクの男が、軽く咳払いをした。
「では、始めよう」
◇
「まず、諸君に確認したいことがある」
男はマイクを持ち替えた。
「幼い頃、奇妙なものに会った記憶がある者は、手を挙げてほしい」
誰も動かなかった。
何を言っているんだ、という空気が広がる。当然だ。いい大人が二百人集められて、最初にされる質問がそれか。
だが。
亮の腕が、上がっていた。
自分でも驚いた。上げようと思ったわけではない。ただ、あの空き地の記憶が──五センチの箱と、そこから出てきた一メートルの少年の記憶が──昨日のことのように鮮明で、否定のしようがなかった。
そして、亮の腕だけではなかった。
ぱらぱらと、あちこちで手が挙がっていく。
十人。三十人。五十人。
最終的に、二百人のほとんど全員の手が、天井に向かって伸びていた。
挙げていない者は、ただ、思い出せていないだけなのだと亮には分かった。車の中の自分がそうだったように。
亮は隣を見た。
雅人の腕も、挙がっていた。
その顔から、いつもの軽さが、すっかり抜け落ちていた。
「結構」
男は満足そうに頷いた。
「では、答え合わせをしよう。諸君が幼い頃に会ったのは、宇宙人だ。我々の星の名を、キデ星という」
沈黙は、一秒だけだった。
次の瞬間、アリーナが爆発したように騒がしくなった。
「はぁ!?」
「何言ってんだこいつ」
「おい、警察呼べよ誰か!」
当然の反応だった。亮も、あの車に乗る前にこれを聞かされていたら、同じように笑い飛ばしていただろう。
だが亮は笑えなかった。
頭の中で、少年の声が、静かに言ったからだ。
(──僕のことだよ)
「静かに」
マイクの男の声が、ざわめきの上に落ちた。
誰も従わなかった。
「静かに、と言った」
二度目も、誰も従わなかった。
男は、ため息をつくような間を置いてから、片手を軽く上げた。
乾いた音がした。
「──ぐ、」
最前列にいた男が、胸を押さえて膝をついた。
さっきの格闘家ではない。亮の知らない、大柄な、まだ若い男だった。声を上げていた気もするし、上げていなかった気もする。
悲鳴が上がった。
亮も走り出しかけた。人が撃たれたのだ。救急車を、と誰かが叫んだ。
だが、誰も男に触れることはできなかった。
男の胸が、輪郭を失っていた。
撃たれた場所から外側へ向かって、彼の体は、真夏のアイスクリームのように崩れていく。骨も、服も、区別なく。
床に広がったそれは、湯気ひとつ立てなかった。
「──この銃は特殊でな」
マイクの男が、事務的に言った。
「撃たれた箇所から順に、溶ける。血は出ない。掃除も楽だ」
誰も、何も言わなかった。
さっき警察を呼べと叫んだ男も、口を開けたまま固まっていた。
亮は、自分の膝が笑っているのを感じていた。立っているのが不思議なくらいだった。
(……今の、人だったよな)
頭の中の声は、答えなかった。
「では、本題に入ろう」
黒スーツの男は、床の染みを一度も見ないまま、マイクを口元に戻した。
「諸君にはこれから──ドッジボールをしてもらう」




