第一話 開会式
窓のない部屋だった。
広さは学校の体育館ほど。だが、ステージもバスケットゴールも、壁のペンキが剥げた跡さえもない。あるのは、床を左右に断ち切る一本の白い線だけだ。
空調はよく効いていて、肌寒いくらいに涼しい。それなのに、そこに立つ男たちは全員が汗をかいていた。
ボールが飛んだ。
バレーボールほどの大きさの、どこにでもある赤いゴムボール。小学校の体育倉庫に転がっていそうな、あの安っぽい手触りのやつだ。
それが、床を舐めるように滑ってきて、逃げ遅れた男の右膝を打った。
乾いた音が、天井の高い部屋に響く。
「──アウト」
どこからともなく、抑揚のない声が降ってきた。
男は膝を押さえてうずくまり、それから、自分の膝を見た。見て、目を見開いた。
ズボンの布地の下で、膝が輪郭を失っていた。
真夏のアスファルトに落としたアイスクリームのように、それはゆっくりと、しかし確実に形を崩していく。太腿へ、腰へ。悲鳴は途中で液体に呑まれて途切れた。
白線の向こう側でも、こちら側でも、数十人の男たちが凍りついている。
誰かが漏らした。
「なんだよ……これ……」
これは、ドッジボールである。
ただし、外野はない。
当たった者は、外に出るのではなく、死ぬ。
──『デス・ドッジ』。
◇
三時間前。
金松亮は、誰もいないグラウンドで、ひとりボールを投げていた。
バックネットに向かって、腕をしならせる。指先からボールが離れる瞬間の、あの一瞬だけ体が軽くなる感覚。何十万球と繰り返してきた動作だ。金網が鳴る。跳ね返ってきたボールを拾って、また投げる。
二軍のグラウンドは、六月の夕方の光を斜めに浴びて、白く乾いていた。
高卒二年目。ドラフト上位で入団して、スポーツ紙には二年目の飛躍と書かれた。今年は開幕を一軍で迎えたし、四月にはプロ初勝利も挙げた。だが五月の中旬に打ち込まれてから、亮はずっとここにいる。
誰も見ていない。だから投げる。見ていないときに何を積み上げたかで、見られたときの一球が決まる。中学のときの監督がそう言っていた。亮はその言葉を、たぶん、必要以上に信じている。
両親を早くに亡くして、祖父母に育てられた。ろくに口も利かない陰気な子供だったと、祖母は今でも笑いながら言う。
「あんた、あの日を境に人が変わったみたいに明るくなってねえ」
あの日。
小学校に上がる前、空き地でひとり、コンクリートの壁にボールをぶつけていた日。
亮の記憶は、そこだけ、ぽっかりと白く抜け落ちている。
──かん、と金網が鳴った。
跳ね返ってきたボールを拾おうとして、亮は手を止めた。
誰かが立っている。
三塁側のフェンスの切れ目、夕日を背にして。黒いスーツ。黒いサングラス。六月の、汗ばむ夕方に。
球団の関係者ではない。あんな趣味の悪い格好をした人間は、この球団にはひとりもいない。
「……何か用ですか」
男は答えなかった。革靴で土を踏みながら、まっすぐ歩いてくる。土のグラウンドを、まったく汚れを気にしない歩き方で。
三メートルほどの距離で立ち止まると、男はサングラスの奥から亮を見た。
「──XV1だな」
「は?」
「XV1で間違いないな、と聞いている」
意味のわからない言葉だった。
だから亮は、笑い飛ばそうとした。人違いですよ、と言おうとした。
なのに、口が動かなかった。
頭の中が、白い。
さっきまで確かにあったはずのもの──今日の練習メニュー、夜の食事、明日の朝の集合時間。それらが端から順番に、誰かの手で丁寧に片付けられていくような感覚。
代わりに、ひとつの確信だけが残った。
(行かなきゃいけない)
なぜ、という問いが浮かばない。浮かばないこと自体が異常なのに、それを異常だと思う機能が働かない。
「……行かなきゃ、いけない気がする」
自分の声が、他人のもののように聞こえた。
「よし。来い」
男が背を向ける。
亮の足は、勝手に動き出していた。
グローブとボールが、土の上に転がったままになった。
◇
気がつくと、車の中だった。
国産の黒いセダン。後部座席。隣には、あの男が座っている。
窓の外を高速道路の照明が流れていく。日はほとんど落ちていた。カーラジオもかかっていない。エンジンの音と、タイヤがアスファルトを噛む音だけがある。
白かった頭の中に、少しずつ色が戻ってきた。
「……俺、なんでここにいるんだ」
「まだ知る必要はない」
「XV1って、何なんだよ」
「お前の中にいるキデ星人の、識別番号だ」
あまりにも平然と言われたので、亮は一瞬、聞き流しそうになった。
「……は? なんて?」
「知る必要はない」
さっき知る必要のあることを言ったばかりだろう、と怒鳴りたくなる。頭は混乱しているのに、腹の底の方から苛立ちだけが鮮明に立ち上がってきた。
「ふざけんな。降ろせよ」
カチャ、と乾いた音がした。
亮の額に、黒い円筒が向けられていた。
銃だ。テレビでしか見たことのない形をした、しかしどうしようもなく本物の質量を持ったものが、三十センチ先にある。
息が止まった。指一本、動かせない。
──そのときだった。
(言うとおりにしてくれないかな。でないと、僕も困るんだよ)
声が、した。
耳からではない。頭の内側から、直接。
柔らかい、少年のような声だった。
「そういうことだ」
男が銃を懐に戻し、口の端だけで笑った。
「……そういうことって、なんだよ」
誰に向かって言ったのか、亮自身にもわからなかった。
(僕がXV1だ)
声が続ける。
(きみが忘れているだけで、僕たちはずいぶん長い付き合いなんだよ、亮くん。……閉じた蓋を、開けてあげる)
こめかみの奥に、針で軽く突かれたような痛みが走った。
「痛っ……」
そして、白かった場所に、映像が流れ込んできた。
◇
一九九三年。愛知県。夏の空き地。
六歳の亮は、ひとりでコンクリートの壁にボールを投げていた。
友達はいなかった。父も母もいない子、と誰かが言っているのを聞いてから、亮は誰にも近づかなくなった。壁は何も言わない。投げれば返してくれる。それでよかった。
──ふと、背中に気配を感じて振り返る。
誰もいない。
いや、いた。
草の間に、銀色の何かが落ちている。五センチほどの、玩具のような、細長いもの。
それが、開いた。
中から、少年が出てきた。
身長は一メートルほど。亮と同じくらいの背丈。五センチの箱から一メートルの人間が出てくるという事実を、六歳の亮の頭は処理できなかった。
少年は、埃を払うような仕草をしてから、にっこりと笑った。
「そう驚かなくていいよ、亮くん」
名前を、呼ばれた。
「僕の名前はグード。キデ星から来たんだ。きみたちの言葉で言うと──宇宙人だよ」
そう言って、少年は亮に指を向けた。
その指先が、白く光って。
──そこで映像は途切れる。
◇
「……グード」
亮の口から、十四年ぶりにその名前がこぼれた。
(思い出した?)
頭の中の声が、うれしそうに弾んだ。
あの日から、亮は変わった。祖父母が戸惑うほど明るくなり、人懐っこくなり、笑うようになった。近所の子供たちの輪に自分から入っていき、リトルリーグの門を叩き、中学でも高校でも名門と呼ばれる場所で、甲子園の土を二度踏んだ。
性格が変わったからだ、と亮はずっと思っていた。
性格が、変わっただけだと。
(もうすぐ着くよ)
窓の外で、街の光が近づいてくる。名古屋の東部。見覚えのある高架。
車が降りたのは、名前だけなら誰でも知っている大きな体育館──虹ヶ丘アリーナのランプだった。コンサートやプロレスの興行で使われる、この街で一番有名な箱のひとつだ。
こんな時間に、こんな場所に、いったい何の用があるのか。
だが、駐車場に入った瞬間、亮はその疑問を忘れた。
黒いセダンが、並んでいた。
同じ車種。同じ色。同じナンバープレートの体裁。整然と、寸分違わぬ間隔で。
数えようとして、途中でやめた。
二十や三十ではきかない。
そのすべての後部座席から、亮と同じように、ぼんやりとした顔をした男たちが降りてきていた。若い男もいれば、テレビで見たことのある顔もあった。体格だけが、みな一様に、常人のそれではなかった。
黒スーツが、亮の側のドアを開ける。
「降りろ」
「……なあ」
亮は動かなかった。動けなかった、というほうが正しい。
「これから、何が始まるんだ」
男は、初めて笑った。
サングラスの下で、口元だけが三日月の形になる。
「開会式だ」
あまりにも平凡なその単語を、亮はうまく飲み込めなかった。
開会式。何かが始まるという意味だ。試合か、大会か──とにかく、誰かと誰かが競うための、何かが。
「何の、開会式だよ」
「まだ知る必要はない」
男はドアを大きく開けた。
「すぐにわかる」
その言葉に、嘘はなかった。
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