第十話 椅子
(グード)
亮は、心の中で叫んでいた。
(今の、なんだ。あの人、二人に寄生されてるのか)
(違うよ)
グードの声は、硬かった。
(一つの体に入れるのは、一人だけ。それは絶対の決まりなんだ)
(じゃあ、なんで)
(──喰ったんだよ)
亮の背筋が、粟立った。
(あの人の中にいた子は、もういない。篠塚さんの中にいた子が飛び移って、そこにいた子を喰って、椅子を奪ったの)
崩れ落ちた男が立ち上がる。
その動きを見ながら、亮はさっきの光景を思い返していた。
肩に置かれた手。糸の切れた人形のように落ちた体。あれは、寄生者が消された瞬間だった。
(同じ星の仲間だろ)
(うん)
(喰うのか)
(帰れるのは一人だけだから)
◇
その一言に、亮は動きを止めた。
(……なんだって)
(言ってなかったっけ)
グードは、悪びれもしなかった。
(このゲームで生き残って、恩赦をもらえるのは、キデ星人が一人だけ。二百人分の椅子があって、帰りの席は一つ。だから、みんな椅子を選ぶんだよ。少しでも強い椅子を)
亮は、白線の向こうを見た。
肘を耳の横まで上げた男。あの中にいる個体は、篠塚という最高の椅子を捨ててまで、こちらへ乗り換える判断をした。
いや。
捨てたのではない。
壊したのだ。使えなくなるまで使ってから、次に移った。
(グード)
(なに)
(お前、狙われてないか)
◇
沈黙が、長かった。
(……気付いちゃった?)
グードの声が、いつもより幼く聞こえた。
(この部屋で、いま一番いい椅子は、亮くんだよ)
亮は、自分の右手を見た。
(あの球を投げられる体。誰も避けられない、誰も捕れない球。……ここにいる誰よりも欲しい椅子だ)
(じゃあ)
(うん)
グードは、あっさり言った。
(きみが強くなればなるほど、僕は喰われやすくなる)
亮の指先が冷たくなった。
この試合で、亮は四十人近い人間を殺した。そうしなければ味方が死ぬからだ。強くなるしかなかった。そうやって手にした力が、そのまま、頭の中にいるこの少年を殺しに来る。
(お前は逃げられないのか)
(逃げないよ)
即答だった。
(僕、亮くんの中にいたいって言ったでしょ)
◇
「金松!」
拓海の声で、亮は現実に引き戻された。
「篠塚が生きてる!」
亮は白線の向こうを見た。
倒れた篠塚は、うつ伏せのまま、わずかに背中が上下していた。左腕は不自然な角度に投げ出されているが、確かに呼吸している。
「息してる。……生きてるんだ、あいつ」
拓海の声が震えていた。
「助かったんですね」
「ああ。……ああ」
拓海は、拳を握りしめた。
結果としては、彼の望んだとおりになった。篠塚から寄生者は離れ、彼は生きている。
だがそれは、拓海の作戦が実ったからではない。相手が、より良い椅子を見つけただけだ。
「甲本さん、下がってください」
亮は言った。
「相手が投げます」
「──金松」
拓海は白線から目を離さないまま言った。
「あんたの肩、あと何球だ」
「……」
「正直に言え」
「五球です」
◇
乗り換えられた男が、ボールを拾った。
XW7。二十代後半だろうか。分厚い胸板をした、レスリングか何かの選手に見える男だった。
彼は、ゆっくりとボールを持ち上げた。
そして。
「ひさしぶりだねえ」
喋った。
亮は、思わず一歩下がった。
篠塚のときは、一言も発しなかった。焦点の合わない目で、機械のように投げていただけだった。
この個体は、違う。
声には抑揚があり、口の端が持ち上がり、目が──こちらを見ていた。正確には、亮の目を通して、その奥を見ていた。
「久しぶりだ、グード」
亮の頭の中で、グードが息を呑む音がした。
◇
「な……」
亮の喉が鳴った。
「なんで、その名前を」
「おや、聞こえてるのか。……ああ、なるほど。共存型か」
XW7は、心底おかしそうに笑った。
「宿主と喋ってるのか。ずいぶん退屈な暮らしをしてるね」
「金松、何を言われてる」
拓海が小声で聞いた。
「──こいつ、グードを知ってます」
部屋の空気が変わった。
「あの名前は有名だからねえ」
XW7は、ボールを指で回しながら言った。
「処刑名簿から消えた子供。孤児院ごと処理されたはずなのに、一人だけ数が合わなかった。……あれは大騒ぎだったよ。管理局が半年、星中を探した」
亮の心臓が、鈍く鳴った。
(グード)
返事がない。
「なあ、そこの人間」
XW7は、亮に向かって言った。
「あんた、自分の中にいるのが何なのか、知ってるのか?」
「……」
「そいつはね、生きてること自体が罪なんだ」
◇
「──投げるぞ!」
拓海が叫んだ。
「全員構えろ! 右!」
だがXW7は投げなかった。
構えを解いて、両手でボールを持ったまま、亮に語りかけ続けた。
「提案がある」
「聞かない」
「まあ聞けよ。……その子を、こっちに渡せ」
亮の指先が、ボールを握り直した。持っていないのに、握る動作をしていた。
「渡す?」
「そいつを外に出せばいい。宿主が拒めば、寄生者は出ていける。無理やりは無理だが、合意があれば簡単だ。……そうしたら、俺がそいつを喰う。それで終わりだ」
「終わり、って」
「あんたたちは殺さない」
XW7は、当然のことのように言った。
「俺はもうこの体でこの試合を勝ち抜く必要がなくなる。強い椅子はいくらでもある。人間が何人生き残ろうと、俺には関係ない。……悪い取引じゃないだろ? あんたの後ろの四十四人が助かるんだ」
◇
部屋が、静まり返った。
亮は、後ろを見なかった。
見なくても分かる。四十四人が、いま自分の背中を見ている。
彼らには、この会話の半分しか聞こえていない。それでも、雰囲気で分かってしまう程度には、状況を読める人間たちだった。
「金松」
拓海が、静かに言った。
「何を言われた」
亮は答えなかった。
頭の中で、グードが言った。
(──行くよ)
(は?)
(僕が出れば、みんな助かるんでしょ)
声は、驚くほど平坦だった。
(僕、亮くんに十四年もらったから。空き地でずっと壁に投げてた子が、甲子園まで行ったの、僕、全部見てたから。……もう十分だよ)
(待て)
(ありがとう。亮くん)
「──ふざけるな!!」
亮は、声に出して叫んでいた。
四十四人が、びくりと肩を震わせた。
◇
「ふざけるな」
亮は、白線の向こうを睨んだ。
「なんで俺が、お前の言うことを聞かなきゃならない」
「合理的だからだ」
「合理的?」
亮は笑った。自分でも驚くほど、嫌な笑い方だった。
「さっきまで椅子を喰ってた奴が、取引の話をするのか」
「不服か」
「不服も何も」
亮は、拓海に向かって手を出した。
「甲本さん、ボールを」
「金松、五球しかないって──」
「一球でいい」
拓海は数秒だけ迷って、それから、ボールを亮の手に押し込んだ。
亮はそれを握り、白線の向こうを見据えた。
右足を上げる。肩が、悲鳴を上げている。指先の感覚は半分ない。
それでも、十四年やってきた動作は、体が勝手に組み立てた。
「そいつは俺の中にいる」
亮は言った。
「出ていくかどうかは、そいつが決める。お前が決めることじゃない」
腕が、しなった。
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