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第十一話 調子いいわ

 球が、浮いた。


 投げた瞬間に分かった。指がかからなかった。


 床から五センチを這うはずのボールは、膝の高さで水平に飛んでいた。


「──残念」


 XW7は、動かなかった。


 その位置に立ったまま、両手を胸の前で軽く開いただけだった。ボールがそこに収まる。ぱん、という軽い音がした。


「肩、終わったな」


 亮は右腕を垂らしたまま、動けなかった。


 熱い。肩の奥に、指を突っ込まれて内側から広げられているような熱がある。二十年つき合ってきた体だ。これが何を意味するかは、痛みの質で分かる。


(──終わった)


「金松!」


 拓海が駆け寄ってくる。


「下がれ、俺の後ろへ!」


「甲本さん、俺」


「分かってる。もう投げるな」


 白線の向こうで、XW7がボールを弄びながら笑っていた。


「さて、と」


          ◇


「勘違いしないでほしいんだが」


 XW7は、四十四人を見回した。


「俺は、あんたを殺せない」


 その言葉は、亮に向けられていた。


「え?」


「あんたが溶けたら、中のグードも一緒に溶ける。宿主が死ねば、寄生者も死ぬ。……そんな椅子の壊し方をしたら、俺が喰うものがなくなる」


 亮は、思わずグードに問いかけた。


(本当か)


(……本当)


 グードの声は小さかった。


(僕たち、宿主の外では長く生きられない。乗り換えるなら、宿主が生きてるうちじゃないと)


「だから、あんたは最後まで生かしておく」


 XW7はボールを肩の高さに上げた。


「その代わり──」


 肘が、耳の横まで上がる。


「あんた以外は、全員殺す」


          ◇


「右ィッ!」


 拓海の号令。


 半歩。ボールが通路を抜けて、壁で跳ねる。


「拾えっ! 二番四番、左前!」


 雅人の声。誰かが飛び込んで確保する。


 だが、返ってきたボールを投げられる人間はもういなかった。


 結局、パスを回して時間を稼ぎ、拾い損ねたところでまた相手に渡る。渡れば投げられる。投げられれば、誰かが死ぬ。


「XV9、アウト」


 四十三人。


 そこからの五分を、亮はよく覚えていない。


 号令。半歩。跳ね返り。確保。また号令。そのサイクルの合間に、天井の声が番号を読み上げる。読み上げられるたびに、列のどこかが欠ける。


 四十二人。四十一人。四十人。


「XV31、アウト」


 三十九人。


 そして、その次の一投で。


 三十八人。


「──ちくしょう!」


 拓海が壁を殴った。


「あいつ、金松を狙ってない! 全部、周りを削りに来てる!」


 亮は、その意味を理解した。


 自分は殺されない。だから、自分の周りにいる人間が、自分の代わりに一人ずつ溶けていく。


 あの個体は、亮を折りにきているのだ。四十四人を一人ずつ削って、最後に一人になった亮に、もう一度あの取引を持ちかけるつもりでいる。


 ──そいつを渡せ。そうすれば終わる。


(グード)


(……うん)


(何も言うなよ)


(言わないよ)


          ◇


「金松」


 拓海が、亮の肩を掴んだ。


「あんた、あと一球でも投げられるか」


「無理です」


「本当に無理か」


「投げたら」


 亮は言った。


「浮きます。浮いたら、捕られます。捕られたら、また誰か死にます」


 拓海は目を閉じた。


 この男は、たった数秒でそれを飲み込んだ。


「分かった。……策を練る」


「甲本さん」


「三十秒くれ。三十秒で、なんとかする」


 その拓海の背中に、声がかかった。


「はいはい、ちょっといいすか」


          ◇


 雅人だった。


 右手を挙げて、いつもの顔で立っている。


「俺、投げますよ」


「野上」


 拓海が眉を寄せた。


「あんた、拾いの指揮が」


「それはもう仕組みできてるんで。誰がどこ行くか、みんな覚えたと思うんすよ。な?」


 雅人が振り返ると、拾い担当の何人かが、戸惑いながらも頷いた。


「それに、俺も一応プロなんで」


 雅人は自分の胸を叩いた。XV44の文字が揺れる。


「亮ほどの球は投げられないっすけど。……こいつ、化け物なんで」


「野上」


 拓海は、じっと雅人を見た。


「当てたことは」


「ないっす。今日が初めてになります」


「殺すことになる」


「はい」


 雅人は、へらへらしていなかった。


「分かってます」


          ◇


 ボールが雅人の手に渡った。


 亮は、その横顔を見ていた。


 中学のとき、ランナー三塁でマウンドに集まると、こいつはいつも一番くだらない冗談を言った。甲子園の決勝で打席に立ったときも、亮に向かって舌を出していた。


 いまは、何も言わなかった。


 雅人は白線の向こうを見て、狙いを定め、右足を上げた。


(雅人の球は──)


 亮は知っている。この男の球は速い。プロで通用する程度には速い。だが、亮ほどではない。回転も、リリースも、亮のような後ろ回転の低い球は投げられない。


 だから、当たらないだろうと思っていた。


 雅人の腕が振られた。


「ヒュッ」


 ──違う。


 亮の目が、見開かれた。


 速い。


 この試合で亮が投げたどの球より、明らかに、速い。


「ボスッ」


 鈍い音。


 白線の向こうで、男が腹を押さえて崩れた。捕ろうとして、腕ごと押し込まれていた。


「XW14、アウト」


          ◇


「うおおおおっ!」


 XVチームが沸いた。


「野上さんすげえ!」


「もう一本! もう一本いける!」


 雅人は、自分の右手を見ていた。


 それから、亮を見て、にっと笑った。


「なんか俺、今日調子いいわ」


 亮の背中を、氷が滑り落ちた。


(グード)


 返事がない。


(グード!)


(……うん)


 グードの声は、震えていた。


(あの球、雅人くんが投げたんじゃない)


          ◇


(今の球、投げたのは雅人くんの中にいる子だよ)


(乗っ取られてるってことか)


(ううん、そこまでじゃない。……手を貸してるだけ)


 グードの言葉を、亮は必死に噛み砕こうとした。


(雅人くんは自分で投げたつもりでいる。実際、フォームは雅人くんのものだった。でも、リリースの瞬間だけ、中の子が力を足したんだ)


(そんなことができるのか)


(できるよ。……宿主が気付かないくらい、少しずつなら)


 亮は、雅人の背中を見た。


 ボールが返ってくる。雅人がそれを受け取って、また構える。


「よっしゃ、もう一丁!」


 いつもの声だった。いつもの笑い方だった。


「ヒュッ」


「XW29、アウト」


 また当たった。


 二球連続で、一球目より速い球が。


「野上さん、天才かよ!」


「亮! 俺やっぱ才能あったんかもな!」


 雅人が振り返って笑う。


 亮は、笑い返せなかった。


          ◇


(グード。あれを続けたらどうなる)


(……体が保たない)


(篠塚さんみたいに)


(うん。もっと悪いかも)


 グードの声には、はっきりとした恐怖があった。


(篠塚さんは、支配されてた。完全に体を奪われて、痛みを感じない状態にされてた。だから壊れるまで動けたんだ)


(雅人は違うのか)


(雅人くんは、まだ自分で動いてる。痛みも感じてる。……でも、感じてるのに、気付いてない)


(どういう意味だ)


(『調子がいい』って、思い込まされてるってこと)


 亮は、白線の向こうを見た。


 XW7が、腕を組んで立っている。


 その顔は、笑っていた。


「へえ」


 その個体は、感心したように言った。


「そっちにも、器用なのがいるじゃないか」


「──雅人!」


 亮は叫んだ。


「投げるな!」


「はぁ?」


 雅人が振り返る。三球目のモーションに入りかけたまま。


「何言ってんだよ、当たってんだぞ今!」


「いいから投げるな!」


「亮」


 雅人は、少しだけ、傷ついた顔をした。


「俺じゃ頼りねえか」


 その一言で、亮は言葉に詰まった。


 そして、その一瞬の間に。


 雅人の腕が、振られた。

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