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第七十四話 壁

 空き地は、なくなっていた。


 愛知県の、市営住宅の裏手。亮の記憶では、雑草の伸びた土地の隅にコンクリートの壁があった。


 いま、そこには駐車場があった。


 白線で区切られたアスファルトに、軽自動車が三台停まっている。壁は残っていた。だが、その手前に金網が張られていて、近づけなかった。


「……ないな」


 亮は言った。


(ないね)


 グードが言った。


          ◇


 島から戻って、二週間が経っていた。


 何も起きなかった。


 黒スーツは来なかった。連絡もなかった。テレビをつけても、何も言っていなかった。


 亮は、球団に戻った。


 右肩の状態を告げると、球団は精密検査を手配した。結果は、思っていたよりずっと悪かった。


 ──投手としての復帰は難しい。


 医師は、そう言った。


          ◇


 六日間の失踪については、誰も追及しなかった。


 妙な話だった。二百人のアスリートが同時に消えたはずなのに、どこにも記事が出ていない。


 球団の人間は、亮が休養届を出していたことになっていると言った。


 出した覚えはなかった。


「……手回しがいいですね」


 亮は、誰にともなく呟いた。


          ◇


 篠塚から連絡が来たのは、その二日後だった。


 携帯電話に、知らない番号から着信があった。


「──金松さん」


「篠塚さん」


「生きてますか」


「生きてます」


「よかった」


 彼は言った。


「実は、しばらく確かめられなくて」


          ◇


「あなたの番号、知らなかったので」


 篠塚は言った。


「六日間一緒にいたのに、番号を交換してませんでした」


「……そうでしたね」


「野上さんの遺品を、探してました」


 彼は言った。


「そこに、あなたの番号があると思って」


 亮は、言葉に詰まった。


          ◇


「──ありました」


 篠塚は言った。


「携帯電話の、いちばん上に登録されてました」


「……」


「『りょう』って、ひらがなで」


 亮は、電話を持ったまま、しばらく何も言えなかった。


「金松さん」


「……はい」


「泣いていいですよ」


          ◇


 二人が会ったのは、その一週間後だった。


 名古屋の、小さな喫茶店だった。


 篠塚は、左腕を吊っていなかった。手術を受けたという。動くようになるまで一年かかると言われたらしい。


「ドッジは、もう無理です」


 彼は言った。


「実業団は」


「辞めました」


 篠塚は、コーヒーを飲んだ。


「今は、中学校で教えてます」


          ◇


「教える?」


「体育の非常勤です」


 彼は言った。


「ドッジボールの授業、やらされるんですよ」


 亮は、思わず顔を上げた。


「……できるんですか」


「投げません」


 篠塚は言った。


「拾い方だけ、教えてます」


          ◇


 亮は、その言葉に、少し笑った。


「子供たち、どう言ってますか」


「なんで先生は投げないの、って聞かれます」


 篠塚は言った。


「なんて答えてるんですか」


「投げるのは誰でもできるけど、拾うのは練習が要る、と」


 彼は、少し笑った。


「甲本さんが言いそうなことでしょう」


          ◇


 外山からは、年末に葉書が来た。


 競泳の日本選手権で、背泳ぎの二百メートルに出場すると書いてあった。


 結果は、四位だった。代表には届かなかった。


 葉書の最後に、こう書いてあった。


 ──来年また出ます。山室さんのぶんも、まだ走ってないので。


 亮は、その葉書を机の引き出しに入れた。


          ◇


 重信からは、何も来なかった。


 半年後、亮は篠塚から聞いた。


 彼は、実業団を辞めて、実家の漁師を継いだという。


 連絡先は分からなかった。


「探しますか」


 篠塚が聞いた。


「いえ」


 亮は言った。


「あの人、たぶん、そういう人です」


          ◇


 亮は、球団を退団した。


 二年目の秋だった。


 引退会見はなかった。育成契約すら結ばれなかったので、そういうものは行われない。


 最後の日、亮は二軍のグラウンドに行った。


 誰もいない時間だった。


 バックネットに向かって、左手でボールを投げた。


 届かなかった。


          ◇


(──下手だね)


 グードが言った。


(うるさい)


(ねえ、亮くん)


(なんだ)


(右、治す?)


 亮は、しばらく黙っていた。


(お前、力は戻ったのか)


(少しずつ)


 少年は言った。


(あと何年かかかると思う)


          ◇


(じゃあ、ゆっくりでいい)


 亮は言った。


(前も、そう言ってた)


(そうだな)


 亮は、グローブを拾い上げた。


(急ぐ理由が、なくなった)


 彼は言った。


(プロは、辞めた)


          ◇


 亮は、翌年から、中学校でコーチをするようになった。


 篠塚の紹介だった。同じ市内の、別の中学校の野球部。


 週に三日、放課後だけ。給料はほとんど出ない。


 昼間は、スポーツ用品店で働いた。


 ──誰も見ていないところで、何を積み上げたかで、見られたときの一球が決まる。


 中学のときの監督の言葉だった。


 亮は、それを子供たちに言った。


          ◇


 三十歳になった年、亮は結婚した。


 相手は、スポーツ用品店の同僚だった。


 式は挙げなかった。


 新居は、名古屋市の東部にある古い借家だった。庭がついていて、隅にブロック塀があった。


 その塀を見たとき、亮は少し笑った。


(──壁だ)


(壁だね)


 グードが言った。


          ◇


 三十四歳のとき、右肩が動いた。


 朝、目が覚めて、何気なく腕を上げたら、頭の上まで上がった。


 亮は、しばらくその腕を見ていた。


(グード)


(……できたよ)


 少年は言った。


(十四年かかった)


(かかったな)


(僕、遅いんだ)


          ◇


(急がなくていいって、言ったのはお前だ)


 亮は言った。


(そうだった)


 グードは言った。


(亮くん、投げてみたら)


 亮は、庭に出た。


 冬の朝だった。息が白かった。


 物置から、古いグローブとボールを出した。


 ブロック塀まで、五メートル。


          ◇


 右足を上げる。


 腕がしなる。


 体重が、前へ移動する。


 ──投げた。


 ボールは、塀の中央に当たって、跳ね返ってきた。


 乾いた音がした。


 亮は、それを左手で受け止めた。


          ◇


 速くはなかった。


 三十四歳の、十四年ブランクのある体だ。当たり前だった。


 だが、指にかかった。


(──かかったな)


(かかったね)


 グードが言った。


 亮は、もう一球投げた。


 妻が、縁側から見ていた。


「何やってるの」


「壁当て」


「寒くないの」


「寒い」


          ◇


 その日から、亮は毎朝投げた。


 三十球。それ以上は投げない。医者に止められている。


 子供が生まれてからは、二十球になった。


 子供が歩けるようになると、庭に出てきて、転がっていくボールを拾うようになった。


 拾って、亮のところへ持ってくる。


 それを、何度も繰り返した。


          ◇


(──亮くん)


 あるとき、グードが言った。


(なんだ)


(この子、拾うの上手いね)


(そうか)


(うん)


 少年は言った。


(甲本さんみたいだ)


 亮は、投げる手を止めた。


          ◇


(グード)


(うん)


(お前、覚えてるか)


(覚えてるよ)


 少年は、即答した。


(全部覚えてる)


 彼は言った。


(甲本拓海さん。野上雅人さん。滝本健吾さん。山室亘さん。真柴さん。大貫健さん。久我さん)


          ◇


(それから、鷲尾さん)


 グードは続けた。


(水泳の人。柔道の人。名前を聞けなかった人たち)


 彼は言った。


(僕、全部覚えてる)


(そうか)


 亮は言った。


(俺も、覚えてる)


          ◇


 時々、亮は数を数えた。


 三百対一。


 あの日の記録だ。


 Ω地区に送られたはずのその数字を、誰かが読んだのかどうかは、分からない。


 保留は、続いていた。


 何も起きないまま、年が過ぎていった。


          ◇


 篠塚とは、年に一度会った。


 彼は五十歳を過ぎても、中学校で体育を教えていた。


 左腕は、完全には戻らなかった。だが、拾えるようになったという。


「金松さん」


 六十歳になった年、篠塚が言った。


「俺、そろそろ定年です」


「早いですね」


「早いですよ」


 彼は言った。


「あっという間でした」


          ◇


「あの島から、何年ですか」


 亮は、指を折った。


「……四十年です」


「四十年」


 篠塚は、コーヒーを飲んだ。


「甲本さんが死んでから、四十年です」


「はい」


「あの人、いくつでしたっけ」


「二十七だったと思います」


          ◇


「俺、あの人の倍以上生きました」


 篠塚は言った。


「はい」


「変な感じです」


 彼は言った。


「あの人が、いまでも俺より年上な気がしてて」


 亮は、その言葉に頷いた。


「分かります」


          ◇


 篠塚が死んだのは、その七年後だった。


 六十七歳だった。


 葬儀に、亮は行った。


 参列者の中に、教え子だという中年の男が何人もいた。


 その一人が、亮に話しかけてきた。


「篠塚先生、ドッジボールの授業で、変なこと教えてくれたんですよ」


          ◇


「投げるのは誰でもできるけど、拾うのは練習が要る、って」


 男は言った。


「俺、それ、いまでも覚えてます」


「そうですか」


「あれ、誰の言葉なんですかね」


 亮は、少し考えてから答えた。


「甲本拓海さんという人です」


「──どなたですか」


「篠塚さんの、先輩です」


          ◇


 その三年後、亮は七十歳になった。


 右肩は、また動かなくなっていた。


 今度は、年齢のせいだった。


 庭に出る回数が減った。壁当ては、月に何回かになった。


 それでも、グローブは物置に置いてあった。


          ◇


(──亮くん)


(なんだ)


(僕、そろそろかも)


 グードが言った。


 亮は、縁側に座ったまま、庭を見ていた。


(そろそろって、なんだ)


(僕ら、宿主より長くは生きられないから)


 少年は言った。


 その声は、五十年前と少しも変わっていなかった。


          ◇


(お前、まだ子供の声だな)


 亮は言った。


(僕、子供のままだよ)


 グードは言った。


(六歳で、あの艇に乗ったから)


(そうか)


(うん)


 少年は言った。


(それから、ずっと六歳)

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