第七十五話 また始まったか
二〇七四年の、夏だった。
金松亮は、八十七歳になっていた。
妻は、六年前に死んだ。息子は東京にいて、年に二回帰ってくる。孫が二人いる。上の子は大学生で、下の子は高校生だった。
亮は、名古屋市東部の借家に、一人で住んでいた。
庭のブロック塀は、まだそこにあった。
◇
右腕は、もう上がらない。
左手も、震える。
朝、新聞を持つのに両手が要るようになったのは、去年からだった。
テレビは、一日中つけっぱなしにしている。音を消していることも多い。
その日も、そうだった。
◇
午後三時過ぎ。
亮は、縁側で茶を飲んでいた。
テレビの画面が、切り替わった。
速報の帯が出ていた。音は消えている。
文字だけが読めた。
──アスリート、相次いで消息不明。
◇
亮は、湯呑みを置いた。
リモコンを探すのに、少し時間がかかった。
音を出した。
『──現在までに、確認されているだけで四十七名です』
女性のアナウンサーが言っていた。
『いずれも国内トップレベルの競技者で、昨夜から今朝にかけて、それぞれの練習場所や自宅から姿を消しています』
◇
『競技はばらばらで、共通点は見つかっていません』
画面が、切り替わった。
顔写真が並んでいる。
若い男たち。若い女たちもいた。亮の時代とは違う。
『いずれも、二十代から三十代の選手です』
亮は、その顔を見ていた。
全員、体格が異常だった。
◇
『警察は、事件と事故の両面から捜査を進めていますが、いまのところ手がかりは──』
亮は、テレビを消した。
庭が、静かだった。
蝉が鳴いている。
亮は、しばらくそのまま座っていた。
◇
「──また始まったか」
声に出して、そう言った。
誰も、聞いていなかった。
湯呑みの茶は、冷めていた。
亮は、それを飲み干した。
◇
(──亮くん)
頭の中で、声がした。
(起きてたのか)
(起きてた)
グードは言った。
その声は、ずいぶん薄くなっていた。ここ数年、返事が返ってこない日の方が多い。
(見たか)
(見た)
◇
(四十七人だってさ)
亮は言った。
(二百人じゃないんだね)
(そうだな)
亮は言った。
(減ったのか、増えるのか)
(分かんない)
グードは言った。
(でも、たぶん、まだ集めてる途中だと思う)
◇
亮は、縁側から立ち上がった。
時間がかかった。膝が、思うように伸びない。
物置まで歩いて、扉を開けた。
埃の匂いがした。
棚の奥に、古いグローブがあった。
その隣に、ボールがあった。
◇
白い糸が、ほとんど擦り切れている。
五十年以上、この庭で使ってきたボールだった。
亮は、それを左手で取った。
庭に出た。
夏の日差しが、強かった。
ブロック塀まで、五メートル。
◇
亮は、その前に立った。
右腕は上がらない。
左手で、ボールを握った。
構えてみた。
──投げられなかった。
腕が、動かない。
◇
(無理だよ)
グードが言った。
(そうだな)
(八十七だもん)
(そうだな)
亮は言った。
それでも、その場に立っていた。
ボールを握ったまま、塀を見ていた。
◇
(グード)
(うん)
(あいつら、地球にいるのか)
(いるよ)
少年は言った。
(前より、少ないけど)
(何人だ)
(分かんない。でも、たまに感じる)
◇
(六年前かな)
グードは言った。
(近くを通った子がいた)
(そのとき、何か言ってきたか)
(ううん)
少年は言った。
(通り過ぎただけ)
(そうか)
(僕、たぶん、もう気付かれないと思う)
◇
(弱ってるからか)
(うん)
グードは言った。
(それに、亮くん、八十七だから)
彼は言った。
(誰も、こんな椅子は欲しがらないよ)
亮は、その言葉に、少し笑った。
(悪かったな)
(謝ってないよ)
少年は言った。
(褒めてるんだ)
◇
亮は、ボールを持ったまま、縁側に戻った。
座るのに、また時間がかかった。
庭を見ていた。
塀の手前に、雑草が伸びている。今年は、まだ一度も抜いていない。
息子が来たら、頼もうと思った。
◇
(──亮くん)
(なんだ)
(ひとつ、聞いていい?)
(なんだ)
(あの島でさ)
グードは言った。
(僕が喰われそうになったとき、亮くん、なんで断ったの)
◇
亮は、その質問に、しばらく答えなかった。
(お前が、俺の名前を呼んだからだ)
(それ、前も言ってた)
(言ったな)
(他には?)
亮は、少し考えた。
◇
(他は、ない)
彼は言った。
(それだけ?)
(それだけだ)
亮は言った。
(六歳のとき、俺は誰とも喋らなかった)
彼は言った。
(父も母もいなくて、友達もいなくて、壁に向かって投げてた)
◇
(あの日、お前が名前を呼んだ)
亮は言った。
(それで、俺は返事をした)
彼は言った。
(それだけだ)
(……うん)
グードは言った。
(僕も、それだけだよ)
◇
(お前も?)
(うん)
少年は言った。
(僕、あの艇に乗るとき、グロウに言われたんだ。名前を聞けって)
(聞いたな)
(聞いた)
彼は言った。
(でも、僕、本当は怖かった)
◇
(怖い?)
(名前を聞いて、嫌がられたらどうしようって)
グードは言った。
(僕、行くところがなかったから)
彼は言った。
(嫌がられたら、出ていかなきゃいけない。……出ていったら、消える)
◇
(それでも聞いたのか)
(聞いた)
少年は言った。
(そしたら、亮くん、笑ったんだ)
(笑ったか)
(うん)
グードは言った。
(六歳の亮くん、僕を見て、笑った)
◇
亮は、その記憶を探した。
八十年以上前のことだった。
五センチの箱が開いて、少年が出てきて、名前を呼ばれて。
自分がどんな顔をしたのかは、覚えていない。
(俺、笑ったのか)
(笑ったよ)
グードは言った。
(僕、それで決めたんだ)
◇
風が吹いた。
庭の雑草が、揺れた。
蝉の声が、少し遠くなった。
亮は、ボールを膝の上に置いた。
(グード)
(うん)
(ありがとうな)
◇
(……こっちのセリフだよ)
少年は言った。
(そうか)
(うん)
彼は言った。
(亮くん)
(なんだ)
(僕、そろそろ寝る)
◇
(起きるか)
(分かんない)
グードは言った。
(起きたら、また名前呼ぶよ)
(ああ)
(何回でも呼ぶ)
彼は言った。
(亮くんが返事するまで)
◇
(返事するさ)
亮は言った。
(うん)
少年は言った。
それきり、その夏は返事がなかった。
◇
亮は、縁側に座っていた。
膝の上に、擦り切れたボールがあった。
庭の向こうに、ブロック塀があった。
テレビは、消したままだった。
どこかで、まだ人が集められている。
どこかで、また誰かが最初の一球を投げる。
◇
そして、その中の誰かが。
当たった球が落ちるより先に、走るだろう。
誰かが誰かの名前を呼んで、返事をするだろう。
──そういうものだ。
亮は、そう思った。
◇
夕方になった。
日が傾いて、塀の影が庭に伸びた。
亮は、ボールを握り直した。
右腕は上がらない。左腕も、震える。
それでも、握れた。
◇
その手を、亮は塀の方へ差し出した。
投げるのではなかった。
ただ、腕を伸ばしただけだった。
誰かが、そこにいる気がした。
──拾ってくれる誰かが。
◇
「──なあ」
亮は、誰にともなく言った。
「まだ、落ちてないぞ」
◇
蝉が鳴いていた。
夏の夕方だった。
◇
秋が来た。
十月の終わりに、亮は寝込んだ。
息子が東京から戻ってきて、しばらく泊まった。医者が二日に一度来た。
痛みはなかった。ただ、体が少しずつ動かなくなっていった。
三日目の夜、亮は目を覚ました。
部屋は暗かった。息子は、隣の部屋で眠っている。
◇
(──グード)
亮は、心の中で呼んだ。
返事はなかった。
(グード)
(……ん)
薄い声がした。
(起きたか)
(呼んだでしょ)
少年は言った。
(呼んだら、起きるって言ったもん)
◇
(そうだったな)
亮は言った。
(亮くん)
(なんだ)
(僕、分かるよ)
グードは言った。
(そろそろだよね)
(そうだな)
◇
(グード)
(うん)
(出ていけ)
少しの沈黙があった。
(やだ)
(出ていけ)
亮は言った。
(やだよ)
少年は言った。
(僕、亮くんの中にいたいって、ずっと言ってた)
◇
(知ってる)
亮は言った。
(じゃあ)
(俺が死んだら、お前も死ぬ)
(うん)
(それは、駄目だ)
亮は言った。
(なんで)
(お前は、名簿から消えた子だ)
◇
(線が引いてあるんだろ)
亮は言った。
(うん)
(あの線を、間違いにできるのは、お前だけだ)
彼は言った。
(お前が生きてる限り、あの名簿は間違ってる)
(……)
(だから、出ていけ)
◇
長い沈黙があった。
(……何日もたないよ)
グードは言った。
(三日くらいで消える)
(知ってる)
(誰も、僕を入れてくれないかもしれない)
(そうだな)
亮は言った。
(でも、聞くんだろ)
◇
(名前を、聞くんだろ)
亮は言った。
(……うん)
(嫌がられたら)
(出ていく)
少年は言った。
(そうだ)
亮は言った。
(それが、お前だ)
◇
(亮くん)
(なんだ)
(僕、六歳のとき、あの空き地に落ちた)
グードは言った。
(うん)
(すごく怖かった)
彼は言った。
(でも、亮くんが笑ったから)
◇
(八十一年、ありがとう)
亮は、暗い天井を見ていた。
言葉を探した。
見つからなかった。
だから、二十年前に一度だけ聞いた言葉を、そのまま使った。
◇
(──先に行ってろ)
◇
返事はなかった。
だが、胸のあたりが、少しだけ軽くなった気がした。
亮は、目を閉じた。
◇
その二日後、金松亮は死んだ。
八十七歳だった。
葬儀は、家族だけで行われた。
◇
告別式の日、息子は物置を開けた。
古いグローブが出てきた。
その中に、ボールが入っていた。
白い糸が、ほとんど擦り切れている。
息子は、それを捨てなかった。
自分の息子に渡した。
◇
高校生だった。
彼は、そのボールを受け取って、しばらく見ていた。
「これ、じいちゃんの?」
「そうだ」
「ボロボロだけど」
「大事にしてたらしい」
◇
彼は、それを持って、庭に出た。
ブロック塀が、そこにあった。
五メートル。
彼は、ボールを右手に握った。
◇
そして、そのとき。
頭の中で、声がした。
(──そう驚かなくていいよ)
少年の声だった。
◇
彼は、周囲を見回した。
誰もいなかった。
庭には、彼一人だった。
◇
(名前を、聞いてもいい?)
◇
彼は、しばらくその場に立っていた。
それから、笑った。
第五部「終章」 完




