第七十一話 三百回目
「──投げるんですか」
亮は聞いた。
「投げる」
イリヤは、草地に座ったまま言った。
「あなた、当てられないって言ってましたよね」
「言った」
彼は言った。
「腕が真っ直ぐじゃないと」
「言った」
イリヤは、自分の右手を見た。
「今日、一日見ていた」
◇
「あれは、当てるゲームじゃない」
彼は言った。
「拾わせるゲームだと、お前は言った」
「はい」
「なら、俺にもできる」
イリヤは、立ち上がろうとして、よろけた。
亮が、左手で支えた。
「三日、寝てました」
「知っている」
彼は言った。
「体が、忘れている」
◇
二百九十七回目。
球が、ムーサからテオドールへ渡った。
二百九十八回目。
テオドールから、名前も知らない男へ。
二百九十九回目。
その男から、ハビエルへ。
ハビエルが、球を持ったまま、こちらを見た。
◇
(──三百回目だ)
彼は言った。
(誰に渡す)
(そこの人にください)
亮は、イリヤを示した。
(射撃の人か)
(はい)
(あの人、一度も投げてないぞ)
(今から投げます)
◇
ハビエルが、球を放った。
ゆるい球だった。胸の高さへ、まっすぐ。
イリヤは、それを両手で受け止めた。
受け止めて、しばらく動かなかった。
球を、両手で持ったまま、じっと見ている。
「──イリヤさん」
「重いな」
彼は言った。
◇
「銃より重い」
イリヤは言った。
「そうですか」
「銃は、四キロある」
彼は言った。
「だが、構えれば、体が支える。……これは、腕だけで飛ばす」
彼は、球を持ち直した。
「四十年、俺は道具に頼ってきた」
◇
「イリヤさん」
「なんだ」
「誰に投げますか」
イリヤは、草地を見回した。
十六人が、動いている。
誰もが、拾う準備をしている。
「……お前だ」
彼は言った。
「金松亮」
◇
亮は、その言葉に、少し驚いた。
「俺ですか」
「お前は、右腕が使えん」
イリヤは言った。
「拾うのが、いちばん下手だ」
彼は言った。
「いちばん下手な奴に拾わせる球が投げられたら、俺は投げられたことになる」
◇
亮は、その理屈に、頷いた。
「分かりました」
「構えろ」
「はい」
亮は、左腕を体の前に出した。
右腕は、下がったままだ。
片腕で、この球を受けて、落とさずに保持する。
──やったことがない。
◇
「イリヤさん」
「なんだ」
「胸に来るなら、俺は受けられます」
亮は言った。
「でも、外れたら、俺は拾えません」
「知っている」
「落ちたら、俺が死にます」
「知っている」
イリヤは言った。
「だから、外さん」
◇
彼は、左足を引いた。
その構えを見て、亮は少し違和感を覚えた。
投球フォームではなかった。
両足を開いて、腰を落として、体幹を固めている。
──射撃の姿勢だった。
立射だ。
◇
「──それで投げるんですか」
亮は聞いた。
「投げる」
イリヤは言った。
「腕は、真っ直ぐじゃない」
彼は言った。
「だが、体は真っ直ぐにできる」
彼は、球を持った右腕を、肩の高さに上げた。
「四十年、それだけをやってきた」
◇
彼は、動かなかった。
しばらく、そのまま静止していた。
周囲の球が、回り続けている。
誰かが叫び、誰かが走り、誰かが笑った。
その中で、一人だけが、動いていなかった。
(──止まってる)
亮は思った。
(あの人、呼吸を止めてる)
◇
射撃の選手は、撃つ瞬間に呼吸を止める。
心臓の音が、照準を揺らすからだ。
久我が言っていた。
──自分の心臓の音が邪魔になるんですよ。引き金を引く瞬間、体の中で動いているものは全部、敵です。
イリヤの体が、完全に静止していた。
◇
そして、腕が動いた。
小さな動きだった。
肩から先だけが、前へ出た。体は、まったくぶれない。
球が、離れた。
速くない。
だが、真っ直ぐだった。
◇
亮の目に、その軌道が見えた。
揺れない。
回転が均一で、高さが変わらない。
久我の球と、同じだった。
狙って投げている人間の球だ。
球は、亮の胸に、吸い込まれるように入ってきた。
◇
亮は、左腕を体に引きつけた。
球が、腕と胸の間に入る。
右腕は使えない。片腕だけで、それを押さえ込む。
ずしり、と重さが来た。
落ちない。
抱えた。
「──三百回目」
亮は言った。
◇
草地が、静かになった。
誰かが、球を止めた。
一人が止まると、二人が止まった。
やがて、十六人全員が動きを止めていた。
全員が、亮を見ていた。
亮は、球を抱えたまま、立っていた。
◇
「──三百回です」
亮は言った。
「三百回、誰も死ななかった」
六人が、それぞれの回線で伝えた。
言葉が、十六人に届いた。
誰も、歓声を上げなかった。
だが、何人かが、その場に座り込んだ。
外山が、両手で顔を覆った。
◇
「──記録した」
黒スーツの声がした。
草地の入口に、三人がまだ立っていた。
「三百回。死亡者、なし」
彼は、端末を閉じた。
「日没まで、あと二十分だ」
亮は、空を見上げた。
太陽が、水平線に近づいていた。
◇
「──金松さん」
篠塚が、隣に来た。
「終わりますね」
「はい」
「二十分後に、二十三人が処理されます」
「はい」
「どうしますか」
亮は、球を抱えたまま、しばらく黙っていた。
◇
「──篠塚さん」
「はい」
「甲本さんは、最後に何をしましたか」
篠塚は、その質問に、少し目を見開いた。
「……番号を、脱ぎました」
「そうです」
亮は言った。
「あの人は、規則を読んで、その隙間を突きました」
彼は言った。
「規則は、まだ全部読んでません」
◇
亮は、黒スーツの方へ歩いた。
「──一つ、確認させてください」
「なんだ」
「恩赦は、一名ですね」
「そうだ」
「その一名は、誰が選びますか」
黒スーツは、端末を開いた。
「最終生存者だ」
◇
「生存者は、二十四人います」
「日没時点で複数いる場合は、処理する」
黒スーツは言った。
「処理後、最後に残った一名が対象となる」
「じゃあ、処理の順番は」
亮は聞いた。
「順番があるはずです」
黒スーツの動きが、止まった。
◇
「……順番は、番号順だ」
彼は言った。
「識別番号の若い順に処理し、最後の一名を残す」
「つまり」
亮は言った。
「いちばん番号が大きい人間が、残るということですか」
「そうなる」
黒スーツは言った。
「だが、意味はない」
◇
「なぜですか」
「恩赦を受けるのは、宿主ではない」
黒スーツは言った。
「その体に入っている個体だ」
彼は言った。
「宿主は、地球に残される。……身体は生きたまま、記憶は処理される」
「記憶を」
「そうだ」
◇
亮は、その言葉に、拳を握った。
「全部ですか」
「全部だ」
黒スーツは言った。
「七日間のことも、この島のことも、集められたことも。……全て消える」
彼は言った。
「元の生活に戻る。……何も知らないままだ」
◇
亮は、その場に立ち尽くしていた。
──記憶が、消える。
甲本拓海のことも。
野上雅人のことも。
滝本健吾も、山室亘も、真柴も、大貫健も、久我も。
全部、消える。
「──ふざけるな」
亮は言った。
◇
「規則だ」
「規則の話をしてません」
亮は言った。
「俺は、名前を覚えると決めました」
彼は言った。
「顔は覚えられませんでした。……名前だけは、覚えると決めたんです」
彼は、黒スーツを見た。
「それを消されたら、あの人たちは二回死にます」
◇
黒スーツは、答えなかった。
日が、傾いていく。
あと、十五分ほどだった。
(──亮くん)
頭の中で、声がした。
グードだった。
(なんだ)
(ひとつ、思いついたことがあるんだけど)
◇
(言ってみろ)
(記憶を消すのは、宿主でしょ)
少年は言った。
(そうだな)
(じゃあ、僕は消されないよね)
亮の呼吸が、止まった。
(僕、恩赦をもらう子じゃないけど)
グードは言った。
(僕の記憶は、僕のものだから)
◇
(グード)
(うん)
(お前、何をする気だ)
(覚えとく)
少年は言った。
(亮くんが忘れても、僕が覚えてる)
彼は言った。
(甲本さんも、雅人さんも、全部)
◇
(お前、それを俺に伝えられるのか)
(伝えられないよ)
グードは言った。
(僕が覚えてても、亮くんは思い出せない)
彼は言った。
(でも、僕が言えばいい)
(言う?)
(うん)
◇
(また、名前を呼ぶ)
少年は言った。
(十四年前に、僕、亮くんの名前を呼んだでしょ)
(呼んだ)
(あのとき、亮くんは僕のこと知らなかった)
彼は言った。
(でも、名前を呼んだら、返事してくれた)
◇
(だから、また呼ぶ)
グードは言った。
(何回でも呼ぶよ)
彼は言った。
(亮くんが思い出すまで)
亮は、目を閉じた。
水平線に、太陽が触れようとしていた。




