第七十話 見ている
船は、ゆっくりと近づいてきた。
六日前に亮たちを運んできたのと、同じ白いクルーザーだった。
崖の上から、それがよく見えた。
誰かが、球を落としかけた。
「──拾って!」
亮は叫んだ。
言葉は通じない。だが、その声で三人が走った。
球は、地面に触れる前に拾われた。
◇
「──止めないでください」
亮は、草地の全員に向かって言った。
六人が、それぞれの回線で伝えた。
「船が来ても、続けてください」
彼は言った。
「止めた瞬間に、こちらが何もしていないことになります」
◇
船は、沖で停まった。
ボートが降ろされる。
浜まで、十分ほどだろう。そこから崖の上まで登ってくるのに、さらに二十分。
三十分ある。
(──金松)
カマウが言った。
彼は、島を一周して戻ってきていた。膝に手をついて、荒い息をしている。
(何人集まった)
(十六人です)
(残り八人は)
(来ませんでした)
◇
(俺は、全員に伝えた)
カマウは言った。
(八人は、来ないと決めたんだ)
(そうですね)
(それでいい)
彼は言った。
(走れと言われて、走らない者もいる)
彼は、身を起こした。
(俺の仕事は、伝えることまでだ)
◇
球は、回り続けていた。
五個。
最初はぎこちなかった投球が、三時間で明らかに変わっていた。
誰もが、相手の胸を狙う。
誰もが、投げる前に声をかける。
拾い損ねかけると、周りが走る。
──形になっていた。
◇
「──金松さん」
篠塚が、隣に来た。
左肩は、まだ動かない。
彼は、球に触れていない。三時間、ずっと見ているだけだった。
「これ、何回続いてますか」
「数えてます」
亮は言った。
「二百十四回です」
◇
篠塚が、少し目を見開いた。
「二百十四」
「はい」
「誰も死んでませんね」
「はい」
亮は言った。
「三時間で、二百十四回。……誰も死んでません」
篠塚は、その光景を見ていた。
「甲本さんが見たら」
彼は言った。
「なんて言いますかね」
◇
「何も言わないと思います」
亮は言った。
「そうですか」
「はい」
亮は言った。
「黙って、拾いに走ると思います」
篠塚は、しばらく黙っていた。
それから、少し笑った。
「そうですね」
◇
黒スーツが崖の上に現れたのは、それから三十分後だった。
三人。
彼らは、草地の入口で足を止めた。
そして、そのまま動かなかった。
球が回っている。
十六人が、動いている。
誰も、その三人を見なかった。
◇
「──継続中の競技を確認」
中央の男が言った。
日本語だった。
亮は、その声を聞きながら、球を追い続けた。
ハビエルが投げる。テオドールが胸で受ける。落ちかけた球を、重信が拾う。
「参加人員、十六名」
黒スーツは、端末を見ていた。
「うち、死亡者なし」
◇
「二百二十七回目です」
亮は、そちらを見ずに言った。
「何?」
「球が渡った回数です」
亮は言った。
「三時間半で、二百二十七回。……誰も死んでません」
黒スーツは、端末から目を上げた。
「数えていたのか」
「数えました」
◇
「なぜだ」
「数えろと言われたので」
亮は言った。
黒スーツは、その答えの意味が分からなかったらしい。
だが、追及しなかった。
「期限は経過した」
彼は言った。
「七日目の日没をもって、この会場を閉鎖する」
◇
「生存者は」
亮は聞いた。
「二十四名だ」
黒スーツは言った。
「予定では、この時点で数名になっているはずだった」
彼は、端末を閉じた。
「本戦の生存率としては、記録的な数字だ」
彼は言った。
「そして、恩赦は一名だ」
◇
「二十三名は、どうなりますか」
「処理する」
黒スーツは言った。
「いま、ここでですか」
「日没後だ」
彼は言った。
「準備がある」
亮は、空を見上げた。
日没まで、二時間ほどだった。
◇
「──質問があります」
亮は言った。
「聞こう」
「あなたたちは、なぜ見ているんですか」
黒スーツの動きが、止まった。
「見ている?」
「三十分前から、あなたたちはそこに立っています」
亮は言った。
「止めることもできたはずです。……なぜ、見てるんですか」
◇
黒スーツは、答えなかった。
球が、また渡った。
二百二十九回目。
ゲオルグが、六日間抱えていた球を、初めて投げた。
相手はハビエルだった。胸に当たって、跳ねて、彼の手に収まった。
ゲオルグが、両手を振った。腕が痺れているらしい。
その仕草を見て、何人かが笑った。
◇
「──記録している」
黒スーツが言った。
「え?」
「我々の仕事は、記録することだ」
彼は言った。
「何人が集まり、何回球が渡り、何人が死んだか。……全て記録する」
彼は言った。
「止めるかどうかは、我々が決めることではない」
◇
亮は、その言葉に顔を上げた。
「誰が決めるんですか」
「本国だ」
黒スーツは、あっさり言った。
「本国というのは」
「Ω地区だ」
亮の背筋に、何かが走った。
◇
「──王のいる地区ですね」
黒スーツが、初めて亮の顔を見た。
「なぜ、それを知っている」
「聞きました」
「誰から」
「俺の中にいるやつからです」
亮は言った。
「二十年前に、キデ星の孤児院にいた子です」
◇
黒スーツは、しばらく亮を見ていた。
「……その個体は、記録上、存在しない」
「知ってます」
「知っているのか」
「名簿に線が引いてあるんでしょう」
亮は言った。
「四十年分の名簿が、D地区の北に積んであるそうです」
◇
黒スーツの表情は、変わらなかった。
だが、その手が、端末を握り直した。
「……誰から聞いた」
「見に行った人がいます」
亮は言った。
「一年半かけて探して、見つけて、名簿を読んだ人です」
彼は言った。
「その人は、いま、この島にいます」
◇
黒スーツは、答えなかった。
球が、また渡った。
二百三十三回目。
亮は、その数を数えながら、言った。
「あなたたちは、記録するのが仕事だと言いました」
「そうだ」
「じゃあ、これも記録してください」
亮は言った。
「二十四人が、七日間で、四人しか死ななかったと」
◇
「記録している」
「その記録は、誰が読みますか」
「本国の担当者だ」
「担当者は、何人ですか」
「知らん」
黒スーツは言った。
「我々は、送るだけだ」
亮は、その答えに、少し笑った。
「あなたたちも、線を引く側じゃないんですね」
◇
黒スーツは、その言葉に反応しなかった。
代わりに、彼は言った。
「日没まで、あと一時間半だ」
彼は言った。
「それまで、続けるのか」
「続けます」
「意味はないぞ」
「あります」
亮は言った。
◇
「あなたたちが、記録するからです」
亮は言った。
「その記録は、Ω地区に送られます」
彼は言った。
「四十年分の名簿の隣に、今日の記録が並びます」
彼は、球を追いながら言った。
「線が引かれた名前の隣に、引かれなかった回数が並ぶ」
◇
「──二百三十七回」
亮は言った。
「日没までに、三百回いきます」
彼は言った。
「三百回、誰も死ななかったと、記録に残ります」
黒スーツは、しばらく黙っていた。
そして、端末を開いた。
「……記録する」
◇
三人の黒スーツは、草地の入口に立ったまま、動かなかった。
球が回り続ける。
二百五十回。
二百七十回。
誰かが拾い損ねかけるたびに、三人が走った。
日が、傾いていく。
◇
二百九十六回目のときだった。
(──金松さん)
ヴィナの声がした。
イリヤの体で、彼は草地の端に座っている。
朝から、一度も動いていなかった。
(なんだ)
(見てた)
彼は言った。
(丸一日か)
(見てたよ)
◇
(それで、どうだ)
亮は聞いた。
(この人が、決めた)
ヴィナは言った。
(イリヤが?)
(そうだ)
彼は言った。
(さっき、こう言われた)
◇
(──「返せ」と)
亮は、その言葉に、息を呑んだ。
(返すのか)
(返す)
ヴィナは言った。
(俺は、そこは守る)
彼は言った。
(そう言ったろ)
◇
(ヴィナ)
(なんだ)
(お前は、どうする)
(分からん)
彼は、あっさり言った。
(この人から出たら、俺は三日で消える)
彼は言った。
(だが、それでいい)
◇
(グード)
ヴィナは言った。
(うん)
(お前、あの艇に乗ったとき、何を思った)
少年は、少し黙った。
(……怖かった)
彼は言った。
(あと)
(あと?)
(みんなに、ごめんって言えなかった)
◇
(言わなくていい)
ヴィナは言った。
(俺たちは、お前が乗るのを見てた)
彼は言った。
(あのとき、誰も文句を言わなかっただろ)
(……うん)
(あれが、答えだ)
◇
イリヤの体が、その場に崩れた。
亮は駆け寄った。
小柄な男が、草地の上で目を開けている。
焦点が、合っていた。
「──イリヤさん」
亮は言った。
男は、しばらく空を見ていた。
それから、掠れた声で言った。
「……三百回目は、俺が投げる」




