第六十八話 四人目の顔
崖の縁に立つ男は、若かった。
二十代の前半に見える。細身で、腕が長い。指の関節が、異様に太かった。
岩を掴み続けてきた手だ、と亮は思った。
(──クライマーか)
(そうだ)
男は言った。
(スポーツクライミングだ。……こういう場所は、俺の庭だ)
彼は、崖の縁に腰かけた。
二十メートルの高さを、まったく気にしていない座り方だった。
◇
(四人目、と言ったな)
亮は言った。
(言った)
(残りの二人は、斜面だ)
(そうだ)
彼は言った。
(俺は、最初から崖を登るつもりだった。……お前が、そこに立った時点でな)
(見てたのか)
(見ていた)
◇
亮は、周囲を見回した。
尾根の上では、篠塚がロイドを押さえたまま倒れている。
右の斜面で、テオドールが誰かと揉み合っている。
左では、ムーサと重信が二人がかりで一人を押さえていた。
そして、崖の縁に、この男がいる。
亮と、二メートルの距離で。
◇
(──なあ)
男が言った。
(お前、名前を聞くらしいな)
(聞く)
(誰から聞いた)
(この島の連中が、そう言っている)
彼は言った。
(名前を聞いてくる日本人がいる、と)
彼は、少し笑った。
(変わってるな)
◇
(あんたの名前は)
(言うと思うか)
(思わない)
亮は言った。
(じゃあ、聞くな)
(聞く)
亮は言った。
(言わないなら、それでいい)
男は、その返事に少し黙った。
◇
(──ヤン)
やがて、彼は言った。
(オセアニア地域だ。ニュージーランドだ)
(金松亮だ)
(知ってる)
ヤンは言った。
(この島の連中は、全員お前の名前を知ってる)
(なんでだ)
(貝の場所を教えたからだ)
◇
亮は、その言葉に眉を寄せた。
(それが、そんなに珍しいか)
(珍しい)
ヤンは言った。
(五日目に食い物を見つけて、敵に教える奴はいない)
彼は言った。
(俺も食った。……昨日の夕方だ)
(そうか)
(うまかった)
◇
(じゃあ、なんで来た)
亮は聞いた。
(帰りたいからだ)
ヤンは、あっさり言った。
(あんたがか)
(俺じゃない)
彼は、自分のこめかみを指した。
(こいつがだ)
◇
(あんたは、どうなんだ)
亮は聞いた。
(俺は、どうでもいい)
ヤンは言った。
(どうでもいい?)
(俺は、二十二だ)
彼は言った。
(十六から、こいつと一緒にいる。……六年だ)
彼は言った。
(六年ずっと、こいつの言うことを聞いてきた)
◇
(喋れるのか)
(喋れる)
ヤンは言った。
(うるさいくらいにな)
亮は、その言葉に、久我の顔を思い出した。
──私のは、よく喋ります。うるさいくらいに。
(あんた、こいつに従うのか)
(従う)
ヤンは言った。
(従わないと、体が動かんからだ)
◇
(──どういう意味だ)
亮は聞いた。
(こいつは、俺の体を握ってる)
ヤンは言った。
(言うことを聞かないと、指が動かなくなる。足が止まる)
彼は、自分の手を見た。
(俺は、クライマーだ。……指が動かない日は、死ぬのと同じだ)
◇
亮は、その言葉に、拳を握った。
(それは、脅迫だ)
(そうだな)
(あんた、それでいいのか)
(よくない)
ヤンは言った。
(だが、六年だ)
彼は言った。
(六年やられると、慣れる)
◇
(ヤン)
亮は言った。
(なんだ)
(あんたの中のやつは、いま聞いてるか)
(聞いてる)
(じゃあ、そいつに言え)
亮は言った。
(お前は、宿主を脅した。それは、いちばん悪いやり方だ)
◇
(──伝えたぞ)
ヤンは言った。
(なんて言ってる)
(笑ってる)
彼は言った。
(そうか)
(あと、こう言ってる)
ヤンは言った。
(「お前の中の子は、宿主に何もさせなかったのか」と)
◇
亮は、その問いに、答えを探した。
グードは、何をしただろうか。
六歳の亮の潜在能力を開いた。それで亮は甲子園に行き、プロになった。
だが、あの子は一度も、亮に何かを強いたことがない。
二回戦で肩を治すときも、亮が頼むまで動かなかった。
(──何もさせなかった)
亮は言った。
◇
(十四年、一度もだ)
亮は言った。
(俺が投げるときも、走るときも、あいつは何もしなかった)
彼は言った。
(一度だけ、体を貸せと言われた。……人を当てるためだ)
彼は言った。
(俺は、断った。それで終わりだ)
◇
ヤンは、しばらく黙っていた。
(──こいつが、黙った)
彼は言った。
(なんでだ)
(分からん)
ヤンは言った。
(だが、六年で初めてだ)
◇
風が吹いた。
崖の下で、波の音がしていた。
ヤンは、崖の縁に座ったまま、動かなかった。
その両手は、岩を掴んでいる。
亮に触れるには、あと二メートル。立ち上がって、一歩踏み出せば届く距離だ。
(──ヤン)
(なんだ)
(あんた、いま動かないのは、なんでだ)
◇
(動けと言われてる)
ヤンは言った。
(でも、動かない)
(動かない)
彼は言った。
(なんでだ)
(分からん)
ヤンは言った。
(指が痛くなってきた。……こいつが、握り始めてる)
◇
亮は、その両手を見た。
岩を掴んだ指が、白くなっている。
力を入れているのではない。
──痙攣している。
(ヤン!)
(大丈夫だ)
彼は言った。
(クライマーの指は、痛いのに慣れてる)
◇
(──金松)
その声は、別のものだった。
低く、粘つくような声。
ヤンの中のものだった。
(お前、この体に何をした)
(何もしてない)
(では、なぜ動かん)
声は言った。
(六年、こいつは一度も逆らわなかった)
◇
(あんた、こいつの名前を知ってるか)
亮は言った。
(名前だと?)
(ヤンだ)
亮は言った。
(ニュージーランドの、クライマーだ)
(それがどうした)
(あんたは、いま初めて聞いただろ)
◇
声は、答えなかった。
(六年一緒にいて、名前を知らなかった)
亮は言った。
(俺の中のやつは、十四年前に俺の名前を聞いた)
彼は言った。
(それが、違いだ)
◇
(──くだらん)
声は言った。
(名前など、記号だ)
(そうだな)
亮は言った。
(この島じゃ、番号でも呼ばれる)
彼は言った。
(でも、あんたは番号すら知らないだろ)
◇
その瞬間、ヤンの体が跳ねた。
自分の意思ではない動きだった。
崖の縁から、立ち上がる。
両手が、岩を離れた。
そして、亮に向かって、一歩踏み出した。
「──金松さん!」
篠塚の声が飛んだ。
◇
だが、その一歩で、ヤンの膝が折れた。
崩れるように、その場に膝をついた。
(──なぜ動かん)
声が言った。
(動け)
ヤンの体は、動かなかった。
両手が、地面を掴んでいる。
指が、震えていた。
◇
(──ヤン)
亮は言った。
(あんた、抵抗してるのか)
返事はなかった。
だが、その体は動かなかった。
膝をついたまま、両手で地面を掴んで、二メートル先の亮に届かないままでいた。
(……なんでだ)
亮は言った。
◇
(──貝が、うまかった)
ヤンの声が言った。
掠れていた。
(あ?)
(昨日の夕方だ)
彼は言った。
(五日ぶりに、何か食った)
彼は言った。
(あんたが教えたんだろ)
◇
(それだけか)
亮は聞いた。
(それだけだ)
ヤンは言った。
(六年、こいつの言うことを聞いてきた)
彼は言った。
(だが、飯をくれたのは、こいつじゃない)
◇
亮は、その言葉に、しばらく何も言えなかった。
貝を教えたのは、計算だった。
教えなければ、飢えた人間が襲いに来ると思ったからだ。
善意ではなかった。
それでも。
(──ヤン)
(なんだ)
(ありがとう)
◇
(礼を言うな)
ヤンは言った。
(俺は、まだ動くかもしれん)
彼は言った。
(こいつは、諦めてない。……そのうち、俺の指を潰しにかかる)
(そうしたら)
(動く)
彼は、あっさり言った。
(俺は、指を失いたくない)
◇
(正直だな)
(正直だ)
ヤンは言った。
(だから、いまのうちに逃げろ)
彼は言った。
(俺が動く前に、遠くへ行け)
亮は、その言葉を聞いて、周囲を見回した。
尾根に、篠塚とロイド。
斜面に、四人と二人。
◇
(──逃げない)
亮は言った。
(なぜだ)
(ここには、七人いる)
亮は言った。
(俺が逃げたら、この七人が残る)
(そうだな)
(じゃあ、逃げない)
◇
(──馬鹿だな)
ヤンは言った。
(そうかもな)
亮は言った。
(あんたが動いたら、俺は投げる)
彼は言った。
(あんたの足元にだ)
◇
(足元?)
(あんたはクライマーだ)
亮は言った。
(足の置き場を、必ず見る。……それが体に染みついてる)
彼は言った。
(足元に球が転がったら、あんたは一瞬、下を見る)
彼は言った。
(その一瞬で、俺は下がる)
◇
ヤンは、しばらく黙っていた。
それから、少し笑った。
(──お前)
(なんだ)
(俺の癖を、いつ見た)
(さっきだ)
亮は言った。
(崖に座ったとき、あんたは自分の足元を三回見た)
◇
(見てたのか)
(俺は、投手だ)
亮は言った。
(相手の足を見るのは、仕事だ)
ヤンは、膝をついたまま、亮を見上げた。
その顔に、初めて別の表情が浮かんだ。
(──なあ、金松)
(なんだ)
(お前、七日目までに何がしたい)
◇
(誰も死なせたくない)
亮は言った。
(無理だ)
(無理だ)
亮は認めた。
(それでも、やるのか)
(やる)
亮は言った。
(あと二日だ)
◇
ヤンは、両手で地面を掴んだまま、しばらく亮を見ていた。
そして、言った。
(──一日でいい)
(あ?)
(俺は、一日だけ持たせる)
彼は言った。
(こいつを、一日押さえておく)
彼は言った。
(そのあとは、知らん)
◇
(ヤン)
(一日だ)
彼は言った。
(一日ぶん、俺が稼ぐ。……その間に、他を何とかしろ)
彼は、崖の縁の方へ、後ずさった。
膝をついたまま、両手で地面を掴んで、少しずつ下がっていく。
自分の意思で動く方向に、動いている。
◇
(──なんで、そこまでする)
亮は聞いた。
ヤンは、崖の縁で止まった。
そして、言った。
(誰かに礼を言われたのは、六年ぶりだ)
彼は、そのまま崖の下へ姿を消した。
クライマーの手が、岩を掴む音がした。




